会津の思い出(磐越西線)


溷(せせなぎ)川。
磐越自動車道の会津若松インターチェンジが出来る前は、あの周辺は一面の田んぼだった。
会津若松を発車した列車は、郡山方面行きの線路と新潟行きの線路が約700メートル併走し国道の陸橋をくぐった先で左右に別れる。
1974年当時その陸橋から北側を望むと一面に田んぼが広がっていて、その中を一直線に新潟方面行きの磐越西線が伸びていた。
その磐越西線に、1日3往復ほどC11形蒸気機関車が牽く列車が残っていた。(下記参照)
会津若松 5時09分発、日中線行き混合621レ(磐越西線の下り1番列車)
会津若松 8時24分着、喜多方発客244レ(621レの返しC11がバック運転で客車を4両牽いていた、時々DD51が後補機に付く)
会津若松15時04分発、単623レ(午後の日中線への回送単機、バック運転で喜多方行きの貨物を良く牽いていた)
会津若松18時49分発、野沢行き客237レ(スユニ60と客車を6両も牽引していた)
会津若松20時34分着、喜多方発回送客626レ(午後の日中線客レの回送列車)
会津若松21時09分着、郡山行き234レ(DD51)の後補機でC11が回送されていた。(237レの返しの回送C11)
夏場の日が長い頃は4列車、短い冬場は2列車(244レと623レ)の撮影が可能だった。

私は会津若松-堂島間のほぼ中央を流れるせせなぎ川の風景が好きだった。
せせなぎ川の思い出を紹介する。


せせなぎ川は小川だったが、広い河岸段丘があり雑林もあったので平坦なこの区間では絵になる所だった。
私は後年出来た白い会津慈母観音がどうしても好きになれないのは、
この美しい磐梯山の風景が目に焼き付いているからなのだろう。
会津若松-堂島間 623レ C11366 1973年4月5日



熱塩行きの1番列車がやってきた。
会津若松-堂島間 621レ C11312 1973年5月20日



夕闇の迫る頃、野沢行きの237レが走り去っていった。
会津若松-堂島間 C11312 1973年5月26日





野沢行き237レは、日の長い5月末から7月下旬までのわずかな期間だけ撮影出来た列車だった
またこの列車はスユニ60の後ろに、オハ61系やスハ32系など雑多な客車を6両も付けて走っていた。
会津若松-堂島間 C11312  1974.6.1




せせなぎ川の河岸段丘の下から237レを撮影した。(ネオパンSSSを+1増感)
会津若松-堂島間
 C11192  1974.7.19



この回送単機は、バック運転のC11にしてはすごい速度でいつも走っていた。
会津若松-堂島間 623レ  C11289  1974.6.16



私は磐梯山がある風景を好のんで撮影した。(左は中前田の集落)
堂島-会津若松間 244レ C1180  1973.7.20



朝霧の中を、日中線に向かう1番列車がやって来た。
会津若松-堂島間 621レ C1180  1973年8月12日



この写真がせせなぎ川での最後の写真になった。
堂島-会津若松間 臨客9624レ C1180 1974年11月9日


今のせせなぎ川は、護岸整備で河岸段丘は埋め立てられ。
その上を道路が高架になって通っているため、当時を偲ぶのは小さな鉄橋だけになってしまった。


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