幼き日の思い出-2 (登場機関車の紹介)

当時国鉄では1975年末のSL全廃に向け、蒸気機関車(SL)が4年ごとに行う全般検査(全検)をやめていました。
経費削減が目的ですが、おかげで検査切れのSLは、どんなに調子が良いSLでも即廃車の運命が待っておりました。また逆にDL化(電化)のため余剰になったSLでも、全検が残っていれば廃車にならずに他の地方で検査期限まで走る事が出来、おかげで門デフ装備の九州のSLが、東北や北海道を走る事になったのでした。
会津若松運転区(会津区)のSLは国鉄郡山工場で全検を受けていましたが、同工場では70年を最後にSLの全検を終了していたので、その弊害が会津区のSL達にもかかってきました。
1972年当時会津区にはC11だけでも、64、235、236、244、248、256、289、312、313、323、351、366号機の12両ほどが在籍していましたが、その過半数、C1164(72.8梅小路区へ動態保存のため転出) 236、256、313、323、351(72.10仙台市で保存)の6両が全検切れで廃車になる運命でした。特に323号機は1946年3月に会津区に新製配置されて以来1972年7月に廃車になるまで26年間にわたり会津を離れることなく、会津の山野を走りました。この323号機の特長としては前後共シールドビーム装備で、後部の炭庫が金属板で40センチほどかさ上げされており後灯が後部炭庫の上に埋め込み式になっている事です。この改造はローカル線としては長い只見線を石炭の補給なして走りきるための改造で、写真を見るとわかるように精巧に加工されておりました。323号機は会津に配置されたC11形のべ38両の中で唯一の会津ぽのC11形機関車でした。
同年、関西地区のDL化により余剰になり、まだ全検が残っていた178、179、199、315、345号機の5両が代替機として会津区に転入してまいりました。
1973年には178、179、244、248、315、345、366号機の7両が全検切れをむかへ。同年、長岡区より19、津山区より80、奈良区より252、九州地区から192、197、254の6両が転入してきました。
会津のSL最後の年、1974年には、19、199、252、289号機の4両が全検切れをむかへ。米沢区より204、同年3月末DL化なった小牛田区からC1163、215、240号機が転入してきて会津で有終の美を飾ったのでした。
1974年10月末の会津区DL化時には、63(75.1喜多方市に保存)、80(75.1津山市に保存)、192、197、204、240(75.1赤穂市で保存)、254(75.1田島町で保存)、312(75.1松阪市で保存)の8両が在籍していました。
この写真集に登場する、1973年以降に会津で活躍した、C11形21両の履歴、特徴を紹介します。

1932年8月 日立製作所笠戸工場製造
新製配置区は不明ですが、1955年には酒田区で働いていました。1964年には長岡区に在籍し旧只見線(小出〜大白川間)で働きました。1971年5月には63号機と双頭列車でさよなら列車を牽く栄誉を得ました。以後、長岡区で予備機として一休車になっておりました。
73年3月末に会津区に移動、同4月郡山工で中B検査を受けて、74年6月検査切れで二休車になるまで、主に会津線、日中線で活躍しました。同年8月郡山工場で廃車解体されました。
蒸気溜が前にあるのが特徴的な一次型(1〜23)の最後の機関車で、会津区転入後にシールドビームを前後に装備されました。


1935年3月 川崎重工兵庫工場製造
新製配置区は盛岡区ですが、1955〜64年の間会
津区に在籍していました。66年10月長岡区→67年
11月直江津区→71年11月新津区→1973年5月
小牛田区に移動し石巻線で活躍しました、同線DL化
後の74年5月に会津区に帰って来ました。
会津地区のDL化までの半年間でしたが会津線や日
中線で活躍しました。
74年11月10日の「日中線さよならSL」を牽く栄誉を
受け75年1月廃車、現在は喜多方市にある「日中線
記念緑道公園」で保存されています。
C11の2次形(24〜140)で弟機の64号機と同じく
蒸気の排出官が煙突の前にあるのが特徴です。
良く整備された美しい機関車でした。


1935年3月 日立製作所笠戸工場製造
新製配置区は四国の松山区、1944年4月に三次区に移
動し、48年7月から24年間津山区に在籍していました。
津山区時代の62年10月には岡山国体でお召し列車を
牽く栄誉を受けました、71年3月津山線の「さよならSL」
列車を牽くなど津山の人々に愛されたカマで、73年4月
会津区に転入、74年10月末の会津区DL化まで休むこと
無く会津で走りきりました。74年11月10日の「日中線さ
よならSL」を牽き引退、75年1月廃車後、津山市の強い
要望で里帰りし、津山市立南小学校に現在も大事に保存
されています。
標準的な2次形のC11で、会津区転入後にシールドビー
ムを前後に装備されました。お召し機らしく各部に真鋳製
の飾りが付いており金ピカに光っていた、サイドラインの
白線と共にとても美しい機関車でした。


1940年8月 川崎重工兵庫工場製造 
新製配置区は大阪局です、戦後の1946年1月には姫路第一機関区に配置され兵庫県の播但線等で働いていました。72年3月の播但線DL化後に会津区に転入、73年7月全検切れのため二休車、同年8月三菱製鋼広田工場で解体されました。
C11の3次形(141〜246)に属する機関車で、3次形は貨物列車牽引に対応して軸重増加を図るため、両サイドの水槽タンク容量を増大したため、側水槽の下端が運転室床面より低くなった。また背部炭庫の上辺が水平となり給炭量も多くなっています。
178号機はサイドタンクの横揺れ防止のために、ボイラをまたぎ上からサイドタンクを押さえるアームが付いている。またシールドビームは関西時代から装備しており、良く整備された調子の良い機関車でした。
1940年8月 川崎重工兵庫工場製造 
新製配置区は名古屋局です、戦後の1946年1月に姫路第一機関区に配置され兵庫県の播但線等で働いていた。72年3月の播但線DL化後に178号機と共に会津区に移動しました。73年4月全検切れのため二休車、同年7月郡山工場で解体された。
179号機は新製配置区こそ違うが戦後はずっと178号機と共に働き、最後の1年は共に会津で働きました。
装備等も兄弟機らしく同じで、良く整備された調子の良い機関車でした。


1940年9月 川崎重工兵庫工場製造
新製配置区は仙台局です、移動時期は不明ですが1955年には西九州の早岐区で働いていました。
192号機は九州時代の1965年10月〜68年9月末までの3年間、長崎〜佐世保間で特急「さくら」を牽引する栄誉を得ました。
71年9月末、松浦線DL化後は全検が残っていたので一休車となりしばらく庫外に留置されておりました。73年4月会津区に移動して来た時には全身錆だらけの非常に痛んだ状態でしたが、同年6月郡山工で中B検査を受け復帰、74年10月末の会津区DL化まで休むこと無く会津で走りきりました。75年1月郡山工場で解体されました。
会津区転入後にシールドビームを前後に装備されました。また後部の炭庫に風抜きの通風孔がありました。


1940年10月 川崎重工兵庫工場製造
新製配置区は門司局です、九州時代は筑豊で働いていました。73年6月行橋区で一休車の時、会津区に移動し郡山工で中B検査を受け復帰、74年10月末の会津区DL化まで会津で走りました。75年1月郡山工場で解体されました。
197号機の特徴として煙突横に煤煙濃度を目視で測るリンゲルマン煙濃度計が装備されていました。
会津区転入後にシールドビームを前後に装備されました。また後部の炭庫に風抜きの通風孔がありました。


1940年10月 川崎重工兵庫工場製造
新製配置区は門司局です、移動時期は不明ですが1955年には南九州の志布志区で働いていました。
58年2月姫路一区→61年4月竜華区→64年12月加古川管理区→72年3月会津区に移動し74年6月末に検査切れになるまで会津で走りました。74年7月郡山工場で解体されました。
シールドビームは関西時代から装備しており、良く整備された調子の良い機関車でした。
199号機の特徴としては、ナンバープレートが普通の砲金製より錫成分が多い配合のようで、いつも銀色に輝いておりました。


1941年10月 日立製作所笠戸工場製造
新製配置区は秋田区です、71年10月に米沢区に移動し73年3月末米沢区DL化後もDE15の予備機として待機しておりました。73年11月土崎工で最後のSL整備機として中A検査を受け、74年1月会津区へ移動しました。
74年10月末の会津区DL化までの8ヶ月間だけでしたが休むこと無く会津で走りきりました。75年2月郡山工場で解体されました。
米沢時代はシールドビーム2灯でしたが、会津区では1灯で走りました。


1941年7月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は不明ですが1947年には名古屋区で働いておりました。58年8月吹田一区→62年9月津山区→70年3月大湊管理区→73年小牛田区と移動し石巻線DL化後の74年4月に会津区へまいりましたが、同年6月末検査切れのため二休車、同年8月郡山工場で解体されました。
会津で走ったのは最後の年の3ヶ月だけでした。


1943年5月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は大館区です、戦後は秋田区で働いておりました。1971年米沢区→73年10月弘前区に移動し、74年3月末の阿仁合線DL化後、74年6月に会津区に転入しました。74年10月末の会津区DL化までの5ヶ月間だけでしたが休むこと無く会津で走りきりました。
同年11月二休車、75年1月兵庫県赤穂市の赤穂海浜公園に保存されました。
1998年6月腐食がひどく解体処分されたという。
米沢時代よりシールドビームが2灯で、会津区でもそのままで走りました。


1943年5月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は大館区です、戦後は秋田区で働いておりました。1968年8月に青森区へ移動、会津区へは69年6月に転入しました。73年8・9月一休車、10月には復帰したのですが73年12月検査切れで二休車、74年4月会津柳津駅にて保存されました。
前灯のみシールドビーム装備。機関車自体はあまり調子の良い機関車ではありませんでした。


1943年9月 日立製作所笠戸工場製造
新製配置区は不明ですが、戦後は仙台区で働いておりました。会津区には1965年に入りました。73年5月検査切れで二休車、同年8月郡山工場で解体されました。
248号機は4次形(247〜381)に属する機関車です。
248号機の特徴としては、ナンバープレートの8の字が20度ほど右に傾いている事と、前灯のみシールドビーム装備で後灯が後部炭庫の上に埋め込み式になっている事です。


1944年1月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は不明ですが、戦後は名古屋区で働いておりました。1956年12月紀伊田辺区→60年3月新見区→60年10月岩国区→67年6月姫路一区→72年5月会津区と移動しました。会津では73年3月まで一休車、73年4月郡山工で中A検査を受け復帰、74年3月一休車、4月に復帰したのですが、73年5月検査切れで二休車、同年8月郡山工場で解体されました。
252号機の特徴ですがシールドビームは関西時代から装備しており、サイドに白線が引いてありました。機関車自体はあまり調子の良い機関車ではありませんでした。


1944年1月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は福知山機関区→1944年4月早岐区→45年3月佐々区→70年10月早岐区、72年の松浦線DL化により仕事を失い、佐々機関区の庫外で1年間一休車状態で留置されていましたが、幸いな事に70年小倉工で全般検査を受けていたため、73年4月はるばる会津区に移動してまいりました。会津区では唯一の門デフ装備のため遠目からも判別出来ました、また後部の炭庫に風抜きの通風孔がありました。
73年5月郡山工で中B検査を受け復帰、74年10月末の会津区DL化まで会津で走りました。
75年8月田島小学校で保存、現在は会津鉄道会津田島駅前で静態保存されております。


1945年1月 日本車輌名古屋工場製造  
新製配置区は不明ですが、1955年には茅ヶ崎区で働いておりました。会津区には1958年7月に転入しております。
特徴としては戦時形の角コブをそのまま装備しておりました。「ボイラC11290」の小さなプレートが運転席の下、区名板の左下に付いておりました。
C11290号機は1966年8月浜川崎区で廃車になっておりますから、ボイラだけ289号機に移植されたと思われます。
1970年5月に郡山工で最後の全検を受け、1974年5月末に全検切れのため二休車、同年7月末郡山工場で解体されました。


1946年1月 日本車輌名古屋工場製造 
新製配置区は仙台区、会津区には1956年9月転入しております。以後74年10月末の会津区DL化まで会津地区で走りました。
特徴としては、前灯のみシールドビーム装備で、とても良く整備された調子の良い機関車でした。
75年1月廃車、同年12月、三重県松阪市にあるドライブイン「あら竹」に売却されました。同所で大事に保存されておりましたが、大井川鉄道の強い要望にこたえ1987年10月同鉄道に譲渡されました。1988年から大井川鉄道で元気に走りましたが、2007年9月8日のサヨナラ運転を最後に第二の人生を終えました。
現在は大井川鉄道で静態保存されております。


1946年1月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は大阪局です、1946年10月には米子区に移動、55年8月福知山区→56年11月新宮区→60年2月新見区→62年3月津山区→70年3月奈良区と移動し72年5月会津区に転入、73年5月全検切れのため二休車、同年8月三菱製鋼広田工場で解体されました。
特徴としては戦時形の角コブをそのまま装備しておりました、またデフは戦時形の木製デフの鉄枠をそのまま流用し鉄板を張ったため、デフの上部に内側への折り曲げがありません。シールドビームは関西時代から装備しておりました。


1946年7月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は大阪局の山田区(多気駅)です。1955年8月には紀伊長島区に移動、62年3月伊勢区→64年4月竜華区→67年3月奈良区→69年9月姫路一区→72年3月米沢区と移動し、72年5月に会津区に転入してきました。
73年5月全検切れのため二休車、同年8月三菱製鋼広田工場で解体されました。
特徴としてはシールドビームは関西時代から装備しておりました。


1946年12月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は仙台局、小牛田区で働いておりましたが69年会津区に転入しております。
73年5月全検切れのため二休車、同年8月三菱製鋼広田工場で解体されました。
特徴としては、前灯のみシールドビーム装備で、とても良く整備された調子の良い機関車でした。


1947年1月 日本車輌名古屋工場製造
新製配置区は仙台局小牛田区。55年に会津区に所属していた時期があるがすぐ小牛田区に戻っています。69年9月米沢区→73年3月弘前区に移動し74年6月廃車、北秋田市花園町の児童公園に静態保存されました。
会津区には73年8月〜9月にかけて、会津区のC11が不足したため弘前区から一時借用し50日間だけスケットとして会津地区で運転されました。
特徴としては米沢時代よりシールドビームが2灯で、会津区でもそのままで走りました。


会津区のC58形を紹介します。会津若松駅の北側に大きな貨物ヤードがあり、磐越西線に平行して引き上げ線がありました。磐越西線、只見線、会津線から集まった貨物を行き先別に分ける所ですがが、そこで働いていた機関車がC58形蒸気機関車でした。1968年までは8620形機関車が入換をしておりましたが、大船渡線の無煙化で余剰になったC58形機関車の中から306、307号機が一関区から会津区に移動し8620形と交代したのが入換機C58形の始まりです。307号機が70年2月全検切れで廃車になり、交代に346号機が宮古区から転入、346号機が70年11月に全検切れで廃車になると三次区から92号機が転入。306号機が71年3月全検切れで廃車、代替機として6号機が高崎一区から転入。92号機が71年10月全検切れで廃車、代替機として252号機が敦賀一区から転入、同機が72年8月全検切れで廃車になると16号機が小郡区から転入。6号機が72年6月全検切れになると代替機として354号機が竜華区から転入、同機が73年12月に全検切れになると代替機として231号機が小牛田区から転入、231号機が74年4月に全検切れになると代替機として328号機が小牛田区から転入というように全国各地から全検の残っているC58形が会津区で終焉をむかえるために集まってまいりました。下記に73年以降に会津区で働いたC58形4両を紹介します。

1938年9月 川崎重工兵庫工場製造。
新製配置区は札幌局北見区。40年10月釧路区→43年
4月岩見沢区→44年9月宮古区→45年11月和歌山区
→46年4月紀伊田辺区→53年12月王子区→60年8月
奈良区→62年5月亀山区→67年3月小郡区→72年10
月に会津区転入と全国を走り回りました。
前灯がシールドビーム、75年1月廃車。会津若松市大町
公園に保存するため機関庫の4番線に3年間留置されて
いましたが結局会津での保存が出来ず、宮城県南三陸町
の「松原公園」に保存されております。


1940年5月 川崎重工兵庫工場製造。
新製配置区は大阪局の竜華区。41年4月紀伊田辺区→
72年10月小牛田区→73年10月会津区に転入しました。
31年間南紀で走ったSLで、晩年に陸羽東線、最後の
4ヶ月は会津区で入換作業をしました。
前灯がシールドビーム2灯、蒸気溜の後に重油タンクが
装備されていましたが会津区では使用されなかった。
74年6月廃車。山形県上山市の「河崎市民公園」に保存
されております。


1942年5月 汽車会社大阪工場製造。
新製配置区は大阪局の竜華区。44年10月和歌山区→
72年3月小牛田区→74年4月会津区に転入しました。
28年間南紀で走ったSLで、晩年に陸羽東線、最後の
2ヶ月は会津区で入換作業をしました。
前灯がシールドビーム、蒸気溜の後に重油タンク設置跡
があるため蒸気溜のカバーがけずられていました。
75年1月廃車。福島県三春町の「緑地公園」に保存され
ております。


1943年12月 川崎重工兵庫工場製造。
新製配置区は不明です、45年8月には和歌山区に配属
されていました。
61年4月奈良区→69年竜華区→72年3月会津区に転
入しました。
関西のSLで最後の2年間を会津区で入換作業をしまし
た。大変良く整備された機関車でデフの切り抜きは引戸
式になっておりました。
73年12月二休車、74年5月廃車。宮城県利府町「森郷
児童遊園鉄道公園」に保存されております。



トップページへ  目次へ  会津の今昔へ