会津の今昔-1

布団の中にうずくまる。
「ボヴォッ、ボヴォッ、ボヴォッ」と駅で入換作業をするC58のドラフト音を聞きながら「明日はどこで撮ろうか」と考えながら眠りにつく。

多くの蒸気ファンから見れば、私は大変に贅沢な環境の中で、現役蒸気の晩年を会津若松ですごした。
1973年当時。会津線、只見線、日中線、磐西線を合わせると毎日10往復もの蒸気機関車が牽く貨物列車、旅客列車、混合列車が走っていた。
客車は今では旧客と呼ばれる茶色の客車ばかりだった、会津若松の貨物ヤードに行けばC58が入換の作業をしていた。
機関庫に行けばいつでも蒸気機関車がいっぱいいた。

同じ場所でも、納得いく写真が撮れるまで何度も通った。
「煙が白い、明日またこよう」
「夕日が奇麗だ、機関庫にいって見よう」
こんな贅沢な環境の中で、私は蒸気機関車の写真を撮りはじめたのだった。
週末が楽しみだった、今週はあそこに行ってみよう、そんな感じで駅の周辺から少しずつ足を伸ばしていった。
会津線、只見線の山合い、鉄橋を渡るC11を毎週のように通い撮影した。
高校生の頃になると、冬休み、春休み、夏休みには鉄な友人と東北遠征へ、そして北海道遠征とSLを追いかけてどんどん足を伸ばしていった。
こんな楽しい鉄道少年時代も長くは続かなかった。
動力の近代化の波に、蒸気機関車たちは各地で終焉をむかえていた。
高2の秋には、故郷の汽車たちも消えていった。
翌年には、私も故郷を後にしていた。


あれから25年の歳月をへて、故郷に蒸気機関車のけむりが復活した。
故郷の風景は驚くほど変わっていた、まるで違う街のようだった。
また故郷のけむりを追いかけていた。


 
会津若松周辺の今昔から紹介します。


1974年8月 会津若松駅貨物ヤード  
日中線行きの下り1番列車がC11牽引で発車(右)、中央は郡山行きのED77重連の貨物列車。
左は入換機のDD15と、大変にぎやかな貨物ヤード風景だったのだが・・・


1999年7月 会津若松駅貨物ヤード
貨物ヤードには雑草が生えていた、その横を「SLばんえつ物語号」のC57180号が発車していった。
2000年7月この貨物ヤード自体が整地されなくなってしまい、今ではホームセンターとその駐車場になっている。
まったく変わってしまい、当時をしのぶ事も出来なくなった。




1973年4月 国道49号線の陸橋付近
会津若松駅を発車した列車は、郡山行と新津行の線路が700mほど併走し国道49の陸橋下(右端)で別れる。
日中線の返し244レを牽いたC1119が、後補機にDD5114を従えて会津若松へ向かって力走していった。



2001年4月 国道49号線の陸橋付近
線路沿いに新しい道路が作られていた以外は、ここの風景はあまり変わっていなかった。
キハ110がディーゼルエンジンをうならせながら、会津若松へ向かい走って行った。




1974年11月 下荒久田村東側の墓所
国道49号線の陸橋をすぎた「日中線さよならSL列車」は、白煙をなびかせて熱塩に向かって走りさっていった。
C1163+オハフ61×6+逆後補機C1180 左は中前田の集落。



2001年4月 下荒久田村東側の墓所には磐越道が通っていた。
この場所を探すのに大変苦労した、磐越道が出来たため風景が一変していたからだ。
又、新しい墓石が古い墓石を動かしてしまっていた、左端の古い墓石で撮影位置がなんとか確定出来た。
わずかに見えた線路をクロハ455(右端)が、喜多方に向かって走っていった。


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