- (1)「全国交流会の灯り」を消さない
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全国のビデオ愛好家の交流、そして技能と情報交換をはかるべく始めた全国交流会は、JVA日本映像ネットワークの基本活動の一つとなった。日頃は顔を合わせることのない仲間が年に一度、全国から集まって語り合うことこそ、全国ネットワークJVAならではの魅力だと言う人も生まれた。
1994年10月、JVA全国交流会は開催地を静岡県富士宮市にして開催された。この年の交流会は当初、開催地を御殿場市としていたが、事情により直前になって富士宮市に変更、地元静岡県の会員と本部事務局が一体となって中断することなく、開催にこぎつけた。翌1995年11月は埼玉県川越市で開催。この頃からその年の全国交流会の特色をどう出すか苦労するようになった。
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感動を呼んだ北海道大会
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そうした模索の中から首都圏を離れて開催してみてはどうか、と提案されたのが1996年6月の本会同大会(東川町)であった。参加者は95名。初日の全大会、2日目の大雪山&美瑛撮影会のほかに、プラス2日間の特別撮影会を設け、知床半島まで足を伸ばす感動的な旅となった。この北海道大会では、初日の全体会で、STV札幌手テレビの廣田泰悠さんの基調報告「ビデオジャーナリストの現状」があった。東京の民放キー局とは違う地方テレビ局とは違う地方テレビ局とビデオマンの関わり方、私たちの役割を知ることができた。「10年小史」の1回目で触れたように、JVAはどのテレビ局にも従属しない自主的な団体です。発足前にあった「NHKよりのビデオ愛好者全国ネットを作りたい」という道を捨てての選択であった。その基本方針はその後も引き継がれ、市民ビデオ(一般的にいう尼っユアビデオ)に理解を示すテレビ局とはどこでも良い関係でありたいなと思っている。また地域のビデオクラブ(NHK地方局や地方民放局のビデオクラブを含めて)にも良好な関係で共にビデオ活動を進めたい、というのがJVAの考えである。
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神奈川大会の年、ふたつの全国組織時代へ
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1997年2月は開催地を神奈川県(江ノ島)に戻しての開催であった。テレビ神奈川の百村洋治さん、宮澤麻理子さん、NHK映像取材部の志村茂樹さん、学研「ビデオキャパ」の豊田美喜さんらも出席し、にぎやかな会となった。全国交流会としても充実とは別に会場「かながわ女性センター」側にいろんな制約規定があり、参加者に窮屈な思いをさせたことが検討事項として残った。
実は私たちが全国交流会を開催しているその時に、第2の市民ビデオマン全国組織「アマチュア映像作家連盟」が旗揚げした。会員の中には「どうしようか?」というためらいを持つ人もあった。
ここで他の団体(全国あるいは広域)との関係について述べておきたい。
JVAは、他の組織にくらべ劣っているとは考えていない。それだからこそ、制約もいっさい設けていない。どのような会に所属しようと自由である。むしろ、私たちは、いろんな団体のビデオマンと交流を広げるチャンスだと思っている。
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特色を出した宮崎、広島そして群馬
1998年10月10日、JVA全国交流会は初の九州・宮崎大会を実現した。亜熱帯植物の繁る青島、そして日向灘を目の前にした会場は熱気を帯びていた。全体会では、映像作家の大道信平さん(宮崎県西都市/JVA会員)の『私はここで暮らしたい』上映に続いて大町さんのビデオ作品論を聞くことができた。もう一つの目玉は子孫繁栄を願う船引神楽、地方開催ならではの土産となった。2日目は日南海岸の撮影、その後のプラス日程での撮影とビデオ資料を増やす旅となった。
翌1999年11月は広島大会。会場は宮島と瀬戸内海を目の前にした宮浜温泉。初の試みとして全体会は、午後5時閉会、映像作家・河田茂さん(広島市)の『老いなずむ』と『破れ障子の人生アルバム』を鑑賞、そのあと河田さん本人の講演を聞くことができた。初日を午後開始にしたのは、太陽のある昼間は撮影に当てようという狙いであった。世界遺産の広島と宮島に続いて瀬戸内海クルージング、しまなみ海道、尾道と被写体には困らないビデオの旅となった。なお、広島大会は地元のJVA会員が一人(平田豊和さん)という条件の中で開催にこぎつけたという意味で画期的な大会となった。
2,000年代に初年、JVA群馬大会が開催された。今後は地元実行委員会による手作りの全国交流会になり、さわやかな大会であった。こういう良さもJVAが失っては心であろうし、それも含めてさまざまなタイプのイベントを実行できるJVAもまた魅力的である。
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2)事務局体制、徐々に確立
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JVA日本映像ネットワークは、発足に合わせて太田光男会長(茨城県つくば市)←→小菅和男事務局長(群馬県前橋市)←→松本豊美顧問の体制で活動を始めた。生まれて間もない頃の事務局活動はけっして順調ではなかった。なにしろ、「事務局」とはいえ、それは個人宅で会員自身が時間のある時に事務作業をしているだけ。しかし、「事務局」と名がついているせいか、JVAには専従の「事務員」がいるかのような電話もある頃だった。こうした時代に役員を引き受けていた皆さんに、本当にご苦労さま。
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事務局体制確立へ
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JVAは1993年の千葉大会(松戸)頃から少しずつ事務局体制を整備してきた。田村富雄さん(埼玉県川口市)が事務局長に就任。関太郎さん(茨城県日立市)が事務局次長として「JVA会報」の発送を一手に引き受け、きめ細かい心配りで田村事務局長を支えた。さらに山中静夫さん(神奈川県厚木市)が会計担当としてJVA財政は整備されてきた。これは会長が太田光男さんから松下弘雄さん(北海道旭川市)に引き継がれたあとも継承されるところとなった。
こうした田村事務局長を中心とした事務局体制の整備は、JVAの「影」のような印象を与えていた松本豊美さん(埼玉県川口市)の役割もすっきりさせ、「世話人」あるいは「顧問」としてJVA活動を支えるという現在の形へと変わっていった。JVAの場合「顧問」という言葉は「事務局員」を兼ねた活動ポストとなっている。
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1999年新春
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1999年1月1日付けで山中静夫事務局次長(会計)がJVAを脱退(会計辞任)することになった。後任選びに難航し、しばらくの間は会計処理が混乱した。「JVA会報No.73」で知らせしたが、会員のみなさんにはご迷惑をかけたことと思う。その後、浮田久子さん(埼玉県)に会計を引き受けていただき混乱は収まった。
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3)新しい10年へ、いざ
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年配者の多いJVAはこの10年間に多くの仲間を失った。木村忠郎会長に続いて2000年1月には事務局次長の本田覚さん(埼玉県草加市)が亡くなった。高齢化社会、これから先も去って逝く人が続くだろう。それが現実であろう。といって、私たちは老木がただ朽ち果てるかのごとく人生を終えるのではなく、ビデオという趣味を生かして豊かに生きたいと思う。
10周年イベントに区切りをつけたら、次は新しい仲間を獲得したい。ハード(AV機器)は猛スピードで進んでいく。パソコンの活用がビデオ活動を後押しする時代。私たちは「もうトシだから」とあきらめることはしない。新しいマンパワーの刺激を受け、IT革命下、可能な限りAV関連機器の進歩をそれぞれに活用へと結びつけ、ビデオという暮らしを楽しむ手段を確固たるものにしたい。「JVA10周年/軽井沢の集い」がそれを確認する場であって欲しいと思う。
(完)
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