連載(2)『動き出したJVA』

(1)ある抗議〜それでもJVA丸は船出した〜
 もう一つの発足前交流会

 前号でふれたように、JVA[日本映像ネットワーク]は、1991年7月15日、正式に発足した。その年の秋11月には1回目の「全国交流会」を長野県坂北村で開催した。あえて選んだ信州の山村に全国から100人を越すビデオファンが集まった。NHK長野放送局も来賓として出席するとともに、「テレビと映像」について講演した。このJVA発足、信州坂北の交流会に弾みをつける集いが、1991年2月に京都市で開催されたことは前号で書いた。
 実は、JVA発足前に「もう一つの交流会」があった。1990年10月、長野県軽井沢町で開催された「ビデオ愛好者交流会」である。その模様を記録した「ビデオコム」誌((財)AVCC)によれば、主催はNHK長野ビデオクラブ、軽井沢ビデオクラブ、佐久ビデオクラブとある。関東、静岡などから50数人が集まった会のエネルギーが、そのまま翌年の「第1回全国交流会」に引き継がれた。この時のリーダーのひとりが今回実行委員長をしている千葉操さん(JVA副会長)である。これまでJVAの歩みを語る時に抜けがちなイベントであったが、この稿を借りてきちんと記録しておきたい。

ある抗議
 さて、スタートしたJVA映像ネットワークに予期せぬトラブルが持ち込まれた。それはJVA結成に深く関わる松本豊美さんを意識した上での、「NHK経済情報番組/ビデオランド係」(ビデオ放送の担当)あてに送られた「抗議の投書」であった。
 そこには、JVA映像ネットワークの結成とその性格、方針に疑問を投げつけた上で、会費徴収には納得できない、放送は会員が優先される、JVAとNHKとの関わり方などについて書かれてあった。しかしどこからも援助を受けていない独立した組織である以上、会費なしでは運営できないし、特定の人の作品を選んで放送しているわけでもなかった。

 会則に照らせば投書の内容が正確ではないことは理解できるが、NHKはこの投書を配慮して、JVAの扱い方を見直さざるをえないと松本豊美さんに通達した。誤解を解くように抗議をすると同時に、投書の主との話し合いも考えたが、長引くと発足に影響が出てしまう。追求することは諦めた。

2)盛り上がるJVA全国交流会
 信州坂北→東京上野→千葉松戸

 1991年11月の信州坂北村の全国交流会は、大きな盛り上がりを見せた。「白く光る北アルプスの山並」と「食べ放題のマツタケ夕食」が語り草に残るユニークな大会であった。
 続く1992年の「全国交流会・東京上野大会」ではビデオ講習を目玉イベントにした。学研「ビデオキャパ」編集部デスクの石田立雄さんの講演『1992秋・新AV機器を見て』、プロダクション「ナイス」の効果マン小畑芳樹さんの『ビデオと音響効果』、そしてNHK映像取材部チーフカメラマン浅井裕さんを講師に『ビデオ作品試写会』と、内容の濃い交流会となった。また、この大会からJVA会長を東西2人制とすることとし、大田光男さん(茨城県つくば市)と木村田忠郎さん(京都市)が就任した。

感銘を与えた松田輝雄さん
 1993年の全国交流会は、会場を千葉県松戸市の「松戸市/森のホール21」に移して開催された。スタジオや編集室、試写室などAVルームを持つホールで3つの分科会方式を取り入れて研修会を進めた。全大会ではNHKアナウンサーの松田輝雄さんが『ことばと表現』をテーマに講演。ビデオマンに、映像を撮るだけに目を奪われず音声を取って欲しい、とビデオ作品の中での音声の重要さを語って大きな感銘を与えた。松戸交流会では近くに適当な宿がないことから、1時間離れた「健康ランド」(埼玉県草加市)に“仮泊”することとなった。翌日の札家会場は、「矢切の渡し」と「柴又帝釈天」。江戸川を渡る手こぎの船を追ってカモメが舞う光景が印象的だった。

3)「作品集」作りに取り組む、そして
 独自の作品集を作る

 発足以来、JVAの会員たちは、いろんな分野で活動を始めた。テレビのビデオ番組では会員たちの活躍が続いていた。新たに加わってくる会員はテレビ番組以外の分野で活躍する人も多かった。
 こうした中でJVA日本映像ネットワークでは、全国ネットらしく会員が映像作品で参加するビデオ作りを始める。1人1分間の新春メッセージを集めた『JVAビデオ年賀』、3分間作品の競作になった『JVAビデオ日本列島の春1993』、自信の作品を集めた『人と自然は輝いて[第1集、第2集]』、そして『日本映像作品集』と続いた。JVA5周年を記念して企画された『ハウツービデオ[撮影編]』は、新郷ビデオサークルの制作協力で完成、さらに『ハウツービデオ[編集編]』へと発展していった。これからは課題になっている。『ハウツービデオ[上級編]』の早期完成であろう。

市民ビデオマンソフト発表の場を
 また、これより先(JVA正式結成前から)制作が始まっていたのが『NHKVOOK:地域映像作家シリーズ』(NHKエンタープライズ/担当プロデューサー松本豊美さん)だった。「市民ビデオマンに広く作品を発表する場を」と企画されたものである。『魅力の佐渡』(新潟県:松本順一さん)、『曼荼羅の里・信州坂北』(長野県:柳沢忠さん)、『榛名山麓・四季の詩』(群馬県小菅和夫さん)、『ロマンあふれる信州塩尻』(長野県:寺西定雄さん)、『バッハ先生とこどもたち』(千葉県堀切澄江さん)、『秩父路・長瀞紀行』(埼玉県:町田宏さん)、それに『サバンナの動物たち』(岩手県:阿部昭三郎さん)であった。
 アマチュアである市民ビデオマンがビデオソフトを作り、販売ルートに乗せる、この試みは必ずしも成功したと言えないが、挑戦するに値するテーマであろう。この経験を次のチャンスにどう生かして、これからの道を切り開くことができるか、課題として残っている。

木村忠郎会長逝く
 1993年5月13日、わがJVA日本映像ネットワークは、大きな衝撃を受けた。二人会長制をしいた東京上野の大会で会長[西日本]に就任した木村忠郎さん(京都市)がリンパ腫(ガン)で亡くなった。発足からわずか2年、西日本でのネットワーク強化の期待を背負っていた木村さんだったが、その夢が実現できないままの旅立ちとなった。木村さんは入院中に「闘病記」を書き、それを公表するという気丈な意志の持ち主であり、JVAが生まれる前に盛大な「京都の集い」をリーダーとして開催したように、優れたオルガナイザーであった。葬儀は関西の仲間たちが献身的に担い、そして別れを惜しんだ。
※以下次号に続く