- (1)それは代々木の花見に始まった
- 1990年4月1日(日)、東京・代々木公園の桜は例年よりも早く満開になった。好天に恵まれた公園は花見客で賑わっていた。その一角にビデオカメラを持つ一団があった。春を撮り、弁当を食べながら、彼らは映像の話に花を咲かせていた。
その前日3月31日(土)、東京・NHK放送センター4F支社ルーム。全国各地から60人余が顔を揃えた。NHKTV「にっぽん列島朝いちばん」→「モーニングワイド」(現在の「おはよう日本」)に映像投稿してきたビデオ大好き人間たち。テレビ放送の画面で互いに名前は知っていたが、顔を合わせるのはこの日が初めて。この中に松下弘雄さん(北海道)、太田光男さん(茨城県)、町田 宏さん(埼玉県)、谷口健次さん(静岡県)、木村忠郎さん(京都市/故人)、岡崎美晴さん(山口県)、百市睦男さん(宮崎県)らの顔があった。後にJVA顧問となる松本豊美さん(NHKディレクター)がビデオ仲間と初めて顔を合わせたのもこのときだった。
代々木の花見の後、このまま全国に散ったのではもったいない、なんとか互いをつなぐ方法はないものか、という声が自然発生的に起こった。
- (2)燃え上がる『全国ネットワークを作りたい』の声
- 「ビデオマンとして地域を越えて交流したい」、一度燃え上がった炎は消えない。翌年1991年1月には京都で2回目の自主的全国交流会が開催された。参加者は100人を越し、NHK東京からも朝の番組のCP(小林健一郎チーフプロデューサー)と窓口担当の井沢しのぶさん、そして松本豊美さん(この年の夏NHKエンタープライズに出向)が出席した。この京都の集いは、1日目が研修会、2日目が太秦の映画村撮影会があり、あらためて全国の仲間が交流することの楽しさを味わった。
京都の集いを経て、「全国のビデオマンの連絡組織を作りたい」の声はさらに大きくなり、加速していった。春には「日本映像ネットワーク」の会則原案が発起人グループ事務局から示された。
じつは、その頃、会の基本的な性格をめぐっては二つの方向が議論されていた。一つは、NHKテレビへのビデオ投稿が多いことから、NHK寄りの会とし、例えば「NHK全国ビデオカメラマンの会」のような名前にできないかという意見であり、実際にも多かった。これに対して、松本豊美さんは、NHKを含めてどのテレビ局からも独立した、あくまでも自主自立の会にすることが望ましいと主張した。
結局、各地のNHK放送局には「NHK○○ビデオクラブ」があり、ビデオ投稿の基本をこちらにおいていることもあって、日本映像ネットワークは、独立した会として動き出すこととなった。
- JVA日本映像ネットワーク生まれる
- 1991年7月15日、JVA日本映像ネットワークは生まれた。
ここで略称のJVAについて、「日本映像ネットワーク」の略称ならJVNではないかと言われることがある。確かに「日本=ジャパン=J」、「映像=VIDEO」であり、「ネットワーク=N」になる。しかし、英語と日本語を逆転させる略称なら「日本→ジャパン=J」、「映像→VIDEO=V」とくれば、「ネット→網=A」となり「JVA」となる。そんな屁理屈のような発想から略称が生まれた。使ってみれば「JVN」よりも「JVA」のほうがゴロが良いようにも思えてくる。
- ※次回は1991年11月の全国交流会から中盤のJVAの動きについて紹介します。
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