BOOK REVIEW☆読書ノート2     


updated 98/09/07(be going to be updated)


| No.7 「タイムクエイク」 カート・ヴォネガット 浅倉久志 訳98/09/07加筆)

| No.8「爆笑問題の日本原論」爆笑問題 宝島社  971円+税

| No.9 「<自己責任>とは何か」 桜井哲夫 講談社現代新書

| No.10「笑う山崎」花村萬月 祥伝社 文庫 590円+税98/09/07NEW)

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全てが尻切れトンボに終わる可能性が、相変わらず、高い。 


| No.7  「タイムクエイク」 カート・ヴォネガット 浅倉久志 訳


 何年ぶりになるだろう。ヴォネガットの新作。恥ずかしい話だが、最初の2ページも読み進まないうちに、懐かしくて大きなヴォネガットの世界に包まれて、キューンとしてしまった。ヘミングウェイを文字通りサカナにした、出だしのページは素晴らしい。一体何だろう、この語り口は。この比喩は。この切れ切れの断章は。それでも不実で愉快な尻取りゲームのように連綿と繋がっていく。

 こんな風に書き進めることで小説を作っていけるのなら、このやり口ならオレにもできそうだ。20年あまり昔の私は、愚かにもそう考えた。そして、もう一人、もう少し真剣にそう考えた人間がいた、と私は信じている。その男は、大学を出て、就職せずにジャズ喫茶を経営していた。村上春樹だ。私も大学を出て就職しなかったが、ジャズ喫茶も作らなかったし、結局小説も書かなかった。エライ違いだね。

 春樹さんの処女作はヴォネガットに、とりわけ、「スローターハウス5」に実に多くのものを負っている、と私は今も信じている。

 文学作品の持ち得る力、効用、と信じられているものの一つに、読むものを勇気づけ生きる力を与える、ということがある。ヴォネガットの作品は春樹さんに何をもたらしオレにはなにをくれたのだろうか。

 実を言うと、まだ読み終わってない(98/06/06現在)。一気に読んでしまうのがもったいない、という気持ちもあるし、それにこの「タイムクエイク」には、展開を引っ張っていくストーリー性など、薬にするほどもない。悪くいえば冗漫に、切れ切れの断章が尻取り式に連なっていく。一気呵成に読了するというようなものではない。じっくりと読み込んで欲しい、という著者のメッセージが、その全体のなりたちに込められている、とでもいうかのように。

 これは著者によると、最後の作品となるべきものなのだそうだ。もう書かない。絶筆宣言つきだ。カートおじさんは1922年生まれだから、私の父とほぼ同じ世代。ご苦労様、といってもいいが、というか、そう言うべきだが、これで終わりかよ、ちょっともの足りねえな、とも言ってしまいたい。かのアメリカ現代文学の旗手、そのカクカクたる業績の掉尾を飾る傑作とは言えないのではないか。

 さて、めでたく読了いたしました(98/06/06現在)。ヴォネガットの小説は、昔からメッセージ性が強いのが特徴の一つだが、この「タイムクエイク」は、ことさらにメッセージだらけである。彼の主張は一貫している。立派なことだ。殺し合い、憎しみ合うことを止めない人類。自己の利益のために他者を踏み付けにし、貪り、涼しい顔をしている人たち。何とかならんのか。やっぱりどうにもならんようだ。じゃあどうする。諦めるしかないか。というようなことで、「心優しきニヒリスト」というのが彼に擬せられた、最も有名な評言である。カートおじさんは、政治家にも、社会運動家にも、宗教家にもならず、そのかわり、多大な数の読者を魅了する小説を書き続けて、このメッセージを世界に広めた。

 作家はオールマイティである。この忌むべき人類社会、地球、宇宙を滅亡させてしまうことは、一行でことたりる。しかし、カートおじさんは優しいから、「タイムクエイク」と言う、一種の宇宙のしゃっくり現象を起こすに止めた。2001年2月13日の宇宙は、突如1991年2月17日に逆戻りしてしまう。

 ちょっとインタールードを。
 わが敬愛するギャグコンビ、爆笑問題(この次に、ここで「爆笑問題の日本原論」を取り上げようと思っていて、既に
No.8としてタイトルは書き込んでいた)の太田光が、このヴォネガットの新作「タイムクエイク」にはまっている、と言うテロップが、月曜深夜テレビの彼等の番組「号外爆笑問題」(面白い、超オススメ)のエンディングでチョロッと流されたのを見て、私は椅子から30センチ以上飛び上がり、天井で頭を打ち血を流した。なにしろ私は、片目でこの「号外爆笑問題」を見ながら、もう一方の目でパソコン画面を相手に、この「タイムクエイク」の感想文を書いているところだったのである。

 

 嗚呼!季節よ!城よ!時は流れる、人は怠ける。この上のパラグラフまで書いてから、もう2週間(この間に日本はアルゼンチンにもクロアチアにも負けたのだよ)が過ぎ去ってしまった。やはり書評のマネゴトなどやってみても、人目にさらそうとするものなど、書こうとしても、しんどいやね。ダメダコリャ!年はとりたくないもので、時間が経てば経つほど、読んだ内容はどんどんと、記憶からこぼれ落ちていきますよ。てなわけで、アッシがこのチョンの間に言いたかったことは、御存じユング大先生の「シンクロニシティ」。そのおこぼれにあずかったような気がしたよ。ということでやんす。ありがとう、かむさむにだ、太田君、カートおじさん。分からん人は分からんし、分かる人も分からんかも試練。そういうものだ。

 さて、「タイムクエイク」にもどりましょうね。2001年から、突然1991年に戻された人類は、一度辿った憶えのある道を寸分違わず再体験することになる。自由意志というものはない。語るべき言葉も、為すべき行為もすべていつかきた道をくり返すのみ。壮大なるデジャ・ヴュとリプレイの人生が展開する。以前の記憶はあるのだが、違ったふうに行動することはできない。わかっちゃいるけど、やめられねえ。ということのようです。
 このような事態の有り様に関して、何度か比喩的に語られるのは、舞台の上の俳優たちについてです。約束された時の果てるまで、彼等はあらかじめ定められた言葉をしゃべり、事を為し、恐るべき災難が身に降り掛かることになっていても、それを避けることも許されず運命を甘受します。そう、1991年から2001年までをくり返すはめになった人類は、舞台上の役者のようでもある、というのです。人生を舞台になぞらえる言説は別に珍しくもない。運命論の最終的、本質的な真贋は、それは、人類には知り得ない仕掛けになっている、と私は知らされた。カートおじさんは、そのとりわけアレゴリカルなセンスによって、運命論や決定論で人生を裁断するのは小賢しい、とは言え、我々の人生が全的な自由意志によって乗り越えられる、などと標榜するのは、なおさらに傲慢ではないのか、結局、そのどちらでもなく、どちらでもある、というような本質的な曖昧さを表現したんだね。
 このタイムクエイク、人生再演のアイデアなのだが、そのなかで生起する様々な出来ごとの顛末が、あのヴォネガットメッセージを基調低音に、抱腹絶倒のエピソードをちりばめながら、彼一流のレトリックで語られていく、というヴォネガットファンが期待する事態は、この本のなかでは起こらない。冒頭で作者は、この「タイムクエク」、一度全面的に書き直したことを自ら告げている。その改稿前の「タイムクエク」にこそ、我らが待ち望んでいた以前のヴォネガットがいたのかも知れない。しかし、作家は変わらねばならない。ここで前面に表れるのは、年老いて、少し自信を失い、気難しく、なおさら内省的になったカート・ヴォネガットだ。この小説の中身、10%は警句集で、10%はジョーク集。ここまでは昔と同じだけど、さらに15%はエッセイで、もう20%は自伝ですらある。まだまだ。

(ちょっと加筆98/0907)

 書き残し、思い残したこと幾つか。なんと言ってもキルゴア・トラウト氏のこと。この「タイムクエイク」にはキルゴア・トラウト氏、かなり出ずっぱりに近く出てきます。それも世界を救うことになるキーパースンとして。その生涯にわたる不遇も最後には報われるかのように。とは言え、私がここで言っておきたいことは、この「架空のSF作家」というアイデアについてです。またまた春樹氏の話しになって恐縮ですが、春樹氏は、処女作のなかで、「架空のSF作家」のアイデアを見事にパクっています。「風の歌を聴け」では、デレク・ハートフィールドという不遇のまま自殺を遂げるSF作家が、この一人称小説の語り手「僕」に多大な影響を与え、その影響のもとにこの小説は書かれている、という設定が作られています。さらには、群像新人賞受賞後の単行本あと書きでは、著者のデレク・ハートフィールド墓参り紀行が報告されています。そのおかげで、私も、しばらくの間デレク・ハートフィールド氏の実在を信じてしまいました。残念ながら、その後の村上春樹作品にはハートフィールド氏一回も登場しませんが。このように春樹氏の冗談のスケールに参ってしまったわけですが、本家トラウト氏はさらにスケールでかく、「架空のSF作家」のくせに、その著作が現実に出版され、邦訳までもが、早川文庫で出てしまった。「貝殻の上のヴィーナス」という本私買ってもってます。ということで、私は、デレク・ハートフィールド著(できれば浅倉久志訳がベスト)のSF小説が早川書房から出版されることを待ち望んできましたし、これからも待っています。

 もう一つ「拡大家族」について。

 これは、人類の本質的悲惨さからの救済をめざして構想されたヴォネガットアイテムの一つ。くわしくは傑作「スラップ・スティック」に。私もほとんど忘れかけていたのですが、この「タイムクエイク」では何度か言及されます。本感想文を書くにあたってヴォネガット関連サイトを探索したのですが、その時見つけた「カート・ヴォネガット非公式ページ」で、私はこの「拡大家族」のアイデアと再会しました。有難う。下に見えますはは、そのオフィシャル(?)ステッカーです。よろしく。

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| No.8「日本原論」爆笑問題

 

 この上の「タイムクエイク」については、まだ書き足りないのですが、怠けていると時がたつ。「日本原論」と表題だけ書いてからもう2ヶ月くらい過ぎたような気もする。その間に、爆笑問題の「ピープル」という本も出ました。それも買って読みました。などなどで、とにかく何とか書き始めよう。 

 これ正しくは「爆笑問題の日本原論」という題名のようですね。買って読んだのはもう既に去年であったか。内容は、30代向け総合誌というふれこみの今はなき月刊誌「宝島30」に見開き連載されていた、いわば、誌上漫才ですね。ちなみに、私が定期講読している月刊誌は、Mac買ってから毎月のように衝動買い?してしまういくつかのMac雑誌(付録のCDが貯まりすぎて困ってます)を除けば、「本の雑誌」、「噂の真相」、「宝島30」の3冊だったのですが、宝島滅亡の後は、「本」と「噂」の2冊だけ、淋しい。まあそれで、月刊誌に自分たちの漫才ネタを連載しちゃう、というのは、ケッコウ度胸あるな、というか、自信のあらわれでもあるのでしょう。活字にして出してしまうと、もうそのネタ使えないんじゃないか。 実際、ここに書かれたネタをテレビで彼等が使ったのは見ていない。
 基本的にホットな時局ネタ(94年の細川首相辞意表明から96年のO-157大流行あたりまで、20数題)を料理するという趣向なので、毎月、話題は尽きることはないわけですが、太田は、その触れるもの全てを黄金に変えてしまうマイダス大王のごとく、政治、社会、芸能など、どんな題材であれ、それをいとも容易くギャグに転化してしまう希有の才能の持ち主であることをここで証明している。 そのギャグ生成の秘密を私もなんとか掴み取りたいと願っているのだが、私ごときの杜撰な分析力の解剖を許すようなやわなものではないのかも知れない。それに、ギャグの成り立ちを、額に縦皺寄せて必死で分析するというのは、しゃれにもギャグにもならない。でも、いつかやってみたい。
 とりあえず、一つだけ、私が試みに「ズラシ」と名付ける技法について指摘しておこう。技法というよりも、人間は何故笑うのか、という本質に連なる大きなシステムといったほうがいいかもしれない。この「ズラシ」とは、ごく簡単に定義すると、その場のテーマとなっている言葉(場合によっては話題)から、論理的、理性的進行によらず、音や意味などの連想により、一気に別の言葉(話題)を登場させることである。この突如登場させられる言葉(話題)は、その意味内容、外延が元の言葉のそれから大きく隔たっているほど、言わば、意表を突き、突拍子もなく感じられる度合いが強いほど、大きな笑いを呼ぶ、と考えられる。「日本原論」から例をひろってみよう。

 ---「北朝鮮IAEI脱退」の巻---より

 田中----(略)しかし金日正って人は、核査察はまともにやらせないわ、IAEAは脱退するわ、このままいけば核拡散防止条約からも完全に脱退するかもしれないっていうんだから。そんなことになったら、この先どうなるのか・・・。

 太田----まさに、”金ちゃんの、どこまでやるの?”って感じだね。

 田中----そんなノンキなこと言ってる場合じゃないだろ。

 太田----略して”金どこ”

 田中----略さなくていいよ別に!

 ここにあるのは、「ズラシ」の一番原初的な形、同音(類似音)異義語の提出によるギャグ、そう、ダジャレの一種ですね。しかし太田は通常ダジャレネタは好まず、従ってここでも「金日成」のキンから欽ちゃんを召喚したダジャレ要素よりも、金日正の無軌道ぶりと欽ちゃんの”どこまでやるの”の見事な意味的対応が、このギャグの要であることは、見てのとおりである。つまり二重のズラシで効果をあげている。さらにこの先・・・

 田中----いいよ、もう!しかしまた、あの息子もすごいよな。

 太田----見栄晴君でしょう?

 田中----違うよ!金正日だよ!(略)

 最初のズラシから、さらなるズラシを派生させ、ここまでで三段階落ちとなっている。つまり、「金日成--無軌道な言動--息子、金正日」と「欽ちゃん--どこまでやるの(きんどこ)--見栄晴君」において、前者と後者の3要素がそれぞれ対応している。そして、この連打。最初の笑いの消えぬうちに次から次ぎへと叩き込むこの重畳法も現代漫才では多用される技法だが、これがこの展開的ズラシとマッチした時の破壊力は凄まじい。

・・・・・・(・・・・・このテクストに添った太田ギャグの検討分析は、(私に余力があれば)もっと続けてみたい。ただし、この読書欄でやるのは無理が有るので、本ホームページの別の場所に移してやってみよう、かと思っていますが・・・)・・・・

 「読むお笑い」、ということで、私が何度も何度も読み返してきた本(想いぞ屈した折などに、何とか笑いたくて繙く、いわば特効薬として)というのはいくつかあるが、今すぐに、この「日本原論」とのある種の類似において思い浮かぶのは、「SF作家おもしろ放談集」?(正確な表題は失念した)、それにアート・バックウオルドのコラム集(5冊くらい翻訳でていた)のふたつくらいかな。「SF作家おもしろ放談集」のほうは、単行本がでたのが20数年前、その内容の雑誌初出は30年前になろうかという、もう時代ものだが、今はなき星新一、それに小松左京、筒井康隆の日本SF3巨頭を中核に、時に、豊田有恒、大伴昌司などが折り混ざって展開される、バカばなし集大成である。小松の博識、筒井の茶化し、そしてバカばなし大王星新一の想像を絶するズラシのセンスが、森羅万象をサカナに縦横無尽に炸裂し、読んでいるのが楽しくてたまらない、別天地であった。近年、本の雑誌一派の椎名、目黒、沢野、木村で、これに似た試みの座談会をシリーズ化して続けていて、それはそれで面白くはあるが、投入される知識の質量、発想の突拍子のなさかげん、ギャグの破壊力などいずれをとっても数等スケールダウンしている。それからバックウオルド。これはもう世界に冠たる時事コラムの帝王、面白いのは当たり前。「読むお笑い」の名人芸だろう。まあ、この二つの巨大な先行する芸と比しても特筆すべきは、太田のギャグには、批評精神が皆無である、という恐るべきアナーキーなお笑い至上主義である。 
 この本、30万も40万も売れたらしいが、喜ばしいことである。
「読むお笑い」ということの可能性と、太田の知性的ではあるがブラック系ではない独自のギャグセンスが受け入れられる素地の拡大は、とにかくいいことなのである。
 この爆笑問題太田、田中ともに日芸中退のコンビ、7、8年前から注目していましたが、1年ほどまえから本格的にブレイク!したようですね。やれやれ嬉しい。今はテレビのレギュラー週10本はあるんじゃないか。
テレビの出過ぎで疲弊しないことを祈るや切。 (98/08/03)

 関連サイト:いくつか見て回りましたが、私がもっと気に入ったところは;

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| No.9 「<自己責任>とは何か」 桜井哲夫 講談社現代新書

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| No.10「笑う山崎」花村萬月 祥伝社 文庫 590円+税

 8月6日読了。感想多々。
 う〜ん。これはまた。

 花村萬月氏はつい先日めでたく芥川賞を受賞したところ。ここ数年でぐんぐんと知名度と世評を高めつつある、まあ言わば旬の作家だ。この「笑う山崎」、単行本の初出は94年で、今回の受賞に合わせて急遽文庫化というところか。萬月氏の数年来の諸作については、「本の雑誌」に拠る書評者たちによって力量ある異色作家として好意的に紹介されることが多く、まだ読んではいないが気になる作家の一人であった。この「笑う山崎」についても、何年か前の同誌での評がかすかに頭に残っていた。で、何となく、予測するイメージがあったのだが、ここで描かれるやくざ山崎は、全く違っていた。驚くべきアンチヒーローでアンチスーパーマン。20代の若さで、京都の街を制圧してしまったという恐るべき実績を有する天下無敵不敗のスーパーやくざ。それが山崎だ。「笑う」のも当たり前か。
 著者あと書きによると、全編の表題ともなっている冒頭40頁ほどの一篇「笑う山崎」を、それだけで完結した純然たる短編小説として構想し書き上げたが、編集者の要請で、この短編をテーマとしてシリーズ長篇に引き延ばすことになり、その引き延ばし作業には大いに苦心したそうである。インスピレーションをもとに、山崎という怪物を創造し、その尋常の人道からの逸脱ぶりをイメージ豊かに描ききった短編であったわけだ。この主人公の属性、その背景、前歴出自、また現状と性格などは、連作長篇化のために、あとから肉付けされたことになる。その悪辣、残虐、極悪非道ぶり、庶民の日常的経験に基づく想像力の枠をはるかに超えている暴力、残虐シーンの描写は、確かにある種の読書のカタルシスに繋がるもので、このような場面をいくつでも構想してやすやすと叙述してしまう萬月氏の作家的手腕は凡百のものではない。
 この10年ほど、極道系出身とも言える作家、文筆家たちが輩出している。安部譲治、浅田次郎、それに中場利一もこの系列と言えそうだし、百瀬博教という人もかつて週間文春にエッセイの連載をもっていた。そして花村萬月も、その前歴の詳細は謎のままであるが、かつてかなりの無頼に位置していたと推測されている。私の想像だが、ここで描かれる山崎は、著者萬月氏が自らも属していたことのある極道世界での、ある種の理想的人物像として造形されたのではないだろうか。駆け出しヤクザが想い描く理想のヤクザ像。

 この作家に貼り付けられた最も安易で流布しているレッテルは、「愛と暴力を描く」または「セックスと暴力を描く」である。なるほど、この「山崎」においても、もっとも濃密に書き込まれている二つの要素を敢えて名指せばそれは暴力と愛ということになるだろう。その構成員たちを手足のごとく動かす、巨大な組織の長である山崎は、眉毛一つ動かすだけで、狙い定めた人物に対して、過剰な暴力を行使できる。何なのだろうか。その効用性を遥かに超越してしまった過剰な暴力の罪も、別の対象に振り向けられるこれまた過剰に濃密な愛情によって免罪される、とでも信じる根拠がこの世のどこかにあるのだろうか。その、あるかなきかの危う気な根拠にこそ、この才筆がおよぼされることを、私は願う。芥川賞の選評でもアンチモラルという言葉が目を引いた。刺激の強い読書体験とでもいうべきものに対応するエンターテインメント小説を、この作者は容易く作り上げてしまうようだが、その尋常ならざる作話の能力が、著者の人間的諸力の本源的過剰性によっているのであれば、かつて中上健次がそうであったように、人間存在の根元的な闇を探索することを自らの業とせざるを得ない、いわばもっとも困難で厄介な小説家としての未来が彼を待っているのではないか。

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