BOOK REVIEW☆読書ノート   



| No.1 「人生は回る輪のように」エリザベス・キューブラー・ロス 上野圭一訳(角川書店)

| No.2「ねじまき鳥クロニクル」村上春樹  文庫

| No.3「DOS/Vブルース」 鮎川誠 幻冬舎文庫

| No.4 「伝説の雀鬼、桜井章一伝」 柳史一郎 幻冬舎アウトロー文庫

| No.5 「おもろい韓国人」 高信太郎  光文社文庫

| No.6 「もう一人の力道山」 李 淳イル(馬へんに日という漢字)

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BOOK REVIEW☆読書ノート2(from 98/06/06) updated 98/08/03
| No.7 「タイムクエイク」 カート・ヴォネガット 浅倉久志 訳
| No.8「爆笑問題の日本原論」爆笑問題
| No.9 「<自己責任>とは何か」 桜井哲夫 講談社現代新書
| No.10 「笑う山崎」 花村萬月  祥伝社文庫 

全てが尻切れトンボに終わる可能性が高い。 updated 98/05/02


No.1     1998年2月8日(日)
「人生は回る輪のように」
エリザベス・キューブラー・ロス 上野圭一訳(角川書店)

 THE WHEEL OF LIFE : Elizabeth Kubler Ross


 御存じ、死後の世界肯定派の重鎮、キュブラー・ロスおばさんの新作。というより、オバサン自身の生涯を貫いてきたメインテーマである「死」とその周辺。これは、遂に自らの死を目前に意識して書かれた自伝であり、これで絶筆と、御本人の宣言がついている。ロスおばさんは、この自伝執筆時、脳幹卒中で身体麻痺のまま臥しており、自分の人生に必要な最後の学びを否応なく行っている模様。

 凡人と偉人を敢然と画する、あの疲れを知らぬ活動力と汲めども尽きせぬエネルギー、どんな困難にも不動の信念を持って砕氷船のように進んで行くパワーの体現者であったロスおばさん。人生の締めくくりに於いて、我慢ということを学んでいる。                                    

 この学びが私に必要なのだ、とエリザベスは書く。かつては、不可能などなきことのように自らを自在に行動させることのできたスーパーオバサンの不撓の魂は、臥して動かぬ身体の中で、そのような状況において唯一可能なこととも思われる実践的学習をしていらっしゃる。すなわち、辛抱だ。こんなふうに、自らが構築してきた世界観と文字通り添い寝し、心中してしまおうとしているのだから、凄い。そうでもないか。ケストラーの自発的安楽死を少しばかり想起させる。ケストラーおじさんは、嫁さんまで巻き込んで無理心中しちゃったけどね。  

 ポイントは2つ。

死後の世界の重鎮 ロスおばさん


死後の世界肯定派とオカルティスムとの関わり

 死後の世界派と言ってもあくまでユニバーサルなもので、宗教ブランドに与せず、御本人はお医者さんであるだけに、「科学的な」死後の世界だ。我が国の同派の重鎮といえば、丹波の哲郎がすぐに思い浮かぶが、ロスおばさんと丹哲では、出自が違う、学問が違う。しかし、日の丸ブランドにもとりえがない訳ではない。丹哲氏の圧倒的なメリットはその「うさんくささ」にある。死後の世界のごときテーマに、科学的解析、検証を持ち込むこと事体、人間の認識的知性にクサビを打ち込み ,それを叩き割ろうとする愚行に違いない、とおれは常々考えているので、丹哲氏がそのわざとらしい言説に纏わせているいかがわしさこそが、この人類普遍のテーマに本当は相応しい。

 そして。西欧的知性の世界がそのオーソドキシイを疑うことなどなきに思われる由緒正しい医学博士であるロスおばさんは、ついに、というか当然のごとくというべきか、自らの実体験としての幽体離脱や死者との遭遇を語ることにおいて、聖なるいかがわしさに軽々と到達してしまった。ばんざい。

 このような人が、本気で語ることによって、死後の世界は信憑性を増すのだろうか。ついでまでに言っておくと、私は、死後の世界ファンである。できれば信じてしまいたい(そのほうが楽に生きられる、と思っている)。現在までの私の知見を総合すると、このようなもっとも本質的な事象の当否を判断、確定することは、この世界に棲息する人間の知性の構造的限界を超えている、というところまでが、証明されているように思われる。しかし私はファンであるから、ついに立花隆が、「臨死体験」に取り組んだ時、大いに期待したものだった。結局、立花さんはあくまでクールで最後の一線を超えてはくれなかった。当然とは言え残念だった。立花さんには、その高い生産性を誇るを頭脳に自らハンマーの一撃を加え、一度死の淵まで行って帰ってきていただき、体験ルポをものして欲しかった。
 今からでも遅くはないぞ、立花さん。                              

 というようなことで、ロスおばさんの本書は、著者の業績と名声、そのオーソリティによって、そして、幼少期から一貫している自他の死との係わりの深さが書中で語り明かされていることによって、死後の世界啓蒙の、類を圧する一書となったのであります。



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No.2

「ねじまき鳥クロニクル」村上春樹  文庫

 春樹さんは我が仇敵、または憎き師匠か。そのようなコンプレックス持ちなので、ノルウェイの森でベストセラー作家になってからは、ハードカバーで新作を買うのはやめてしまった。これは文庫化されるまでが、2年ほどと、割りに早く、上梓時の話題と批評の記憶がさほど薄れぬうちに読むことができた。評判は概して低調だったような気がするが。

 新刊当時の書評で、いくつもの謎が投げ出されたまま解決をみないで終わっているという主旨の苦言が呈されていた記憶がある。が、読んでみるとそんなものはこの小説の瑕ではない、とはっきり言える。長く読み継がれてきた多くの長篇小説がそうであるように、多種多様な解釈が可能であり、多くの隘路には思いがけぬ愉悦と思索が潜んでいる、そのような存在であることによって、意義を得ようとしている巨大で複雑な構築物。この小説はそのような楽しみ多き構築物に成りおおせていて、春樹さんの目論みは、8割方成功しているのではないか。

 ここで春樹さんの提示しようとした主たるテーマは「人間の悪」というものではなかろうか。この作者の得意わざである、「僕(ぼく)」による一人称小説。処女作「風の歌を聴け」以来、この「僕」はあまり年老いることができない。そして、この「僕」はいつまでたっても春樹的モラルの体現者である。春樹的モラルとは、例えば、                 

  1. 窮地に陥っても、いつも気の利いたセリフを言う。                  
  2. 健康な性欲の持ち主だが、お金で女性をを買ったりはしない。(私もそうだ)              
  3. 保守的で、何故かすでに出来上がっている自分の価値観(それが春樹的モラルだ)から一歩も出ない。       
  4. その守るべき自己(価値観)を脅かす外敵(それが一つの悪であろう)とは、決然と戦う。              
  5. いつもスパゲティは自分で茹でる。(私もそうだ)           

 などが、思い付くままに挙げられる。村上春樹は昔ながらの私小説の書き手ではない、と信じられているから、「僕」が現実の春樹氏とシンクロして年令を増していく必要などないが、それにしても、永遠に青春小説を書くのはつらいから、ついにノンフィクションに手を染めたのか、なんて憎まれ口はさておき、ねじまき鳥と「アンダーグラウンド」(まだ読んでないので何も言えませぬが)では、人間性のもたらし得る悪を、まともに表側から、もちろん春樹式レトリックによって(それ意外に何ができる)描こうとした。この人はもともと、生々しいものや、どろどろしたもの、重苦しいもの等について、それらに直接触れることを好まず、その痕跡や、それがかつてそこにあったことを伝える余韻のみを、言わば、本体が抜け出たあとの窪みを、スマートに描いて見せることで際立った小説家であったのだ。でもこれからは、どぎつく描いちゃうんだもんね。例えば、小説の末尾近くになって、「皮剥ぎボリス」という綽名が示される赤軍少佐。私は、このロシア人が日本軍間諜の生皮を剥ぐシーンを都営地下鉄三田線の車中で読んで、以後一週間ほど、飯も喉を通らず、夜はうなされて眠れなかった。文字通り悪魔の化身。悪魔の化身の悪魔ぶりがくっきりと描かれた。なんじゃこりゃあ。村上春樹の本を読んでこんな思いをするとは。何と生々しい表現の力。ただし、この「悪」は「ぼく」の身じかにあったわけではなく、その悪の化身によって踏み付けにされ、人生の中身を奪い取られてしまったような経歴をもつ老人の回想として小説中で示されるに過ぎない。すでに存在感の希薄な老人の語る「悪」に圧倒的な存在感が付与されているのは何故なのか。一方、「僕」に具体的な困難を及ぼした張本人とされるワタヤノボルとその悪は、あくまで抽象的、また遠隔的なものだ。        
 それにしても、今さら何ゆえ「悪」などに着眼したのか。

 未完、続く。 




No.3

「DOS/Vブルース」 鮎川誠 幻冬舎文庫

 九州弁のチョットインテリロッカー鮎川誠氏の実録パソコン奮闘記(のようなものと推測する。実のところまだ読んでないので)。これ親本が出たのが去年の夏頃ではなかったか、文庫化はやいね。鮎川さんのこの本とペア出版のような形ででていた、山川健一の「マッキントッシュ・ハイ」を去年買って読んでいて、Mac派の山川氏とドスブイ派の鮎川氏が、それぞれのパソコンへの入れ込みぶりとマシンへの愛を語るという企画もの、悪くないな思っていた。

 ハハハ、読みました。読みました。鮎川さんという人は、セクシーなシーナさんを奥さん兼ボーカルに据えて、家族ロックで、好きなことやって食っていって羨ましいな、と思っていましたが、なんとsheena@rokkets.comというメールアドレスを取ってしまう、という快挙をここで披露していて、またまた、羨ましい。ところで、2、3週間前に、来日したSTONES の記者会見の様子をテレビで見たが、ミックもキースも(ドラムのチャーリーワッツもいたのだろうか)魔法使いの爺さんのような見事に気味の悪いジジイになっていた。もともと事あるごとに悪魔を標榜していた連中だから、目論みとおりの年のとりかたなのだろうか。それにしても。鮎川さんもどんな年の取り方をしているのか、素顔を拝見してみたい。でも、いつもサングラスだったね。
 ロックというものは、若さと反体制のシンボル、というのがかつての図式だったはずだが、成功したロッカーは大金持ちになってしまうので、否応なく体制側に組み込まれて本来的な表現パワーを喪失するという、困ったパラドックスからは何ぴとたりとも逃れ得ないと思っていたが、何と、何と、魔女、魔男になってしまう、という凄い手があったのですね。でも、こいつ等死んだら本当に地獄に行くぞ。それとも、もともと魔界の生き物なのかな。それで鮎川氏のこの本だが、なんとも微笑ましくも健気なパソコンへの熱中ぶりは、悪魔的ということとは対極的な小市民のものではないか。

 未完、続く、、、、

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No.4

「伝説の雀鬼、桜井章一伝」 柳史一郎 幻冬舎アウトロー文庫

 この作者の名も、表題に掲げられた「雀鬼」氏のそれも小生には未知のものであった。それにもかかわらず、文庫ということもあるが、600円ほどを購ったのは、この「幻冬舎アウトロー文庫で、真剣師-小池重明もの、とも称すべき三冊がでていて、けっこう堪能させていただいた経緯があるからで、小池重明とは、伝説の賭け将棋指しである。それで、ここに取上げるのは、麻雀ものだ。ページには、牌譜と呼ばれる麻雀牌の図柄が踊っている。こういうのを読むのは阿佐田哲也の麻雀小説群にはまっていた時以来だ。そしてこれは小説ではなく実録ということである。

 未完、続く、、、、


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 No.5

「おもろい韓国人」 高信太郎  光文社文庫

 高信太郎という人は、その本業のマンガが一向に面白くないのに、何故か名をなしてしまったということで、はらたいらと双璧をなす。高もはらも、結局マンガ以外のところで、顔と名前を大いに売ることになった。マンガよりもはるかに世渡りの才に長けているのだろう。高のマンガは、基本的には駄ジャレ落ちしかなく、それも全て、あっと驚くほど下らない。そのあまりの下らなさと、面白くなさを、ことさらに面白がり愛好する変な連中が少しはいたようだが。
 ついでに、はらたいらのことも言っておくと、この人は往年の人気テレビ番組、「巨泉のクイズダービー」のレギュラー回答者として、異様な正答率の高さを誇り、それゆえ、摩訶不思議なる頭脳の閃きを持つ才人というような評価が定着し、まあハンサムな容貌もあって、人気を博したのであった。
 はらが、そのクイズダービーのレギュラーを降りてから、何年かたっていた頃と思う。テレビ構成作家から小説家に転じた景山民夫が、実名こそださないが、読めば誰でもモデルが頭に浮かぶようなクイズ番組と、そのレギュラー回答者が登場する小説を書いた。大手テレビ局内のもめ事処理屋の活躍(?)を、お手のもののテレビ業界の内幕をちりばめながら、新手の現代捕り物帳風に仕立て上げた傑作「トラブルバスター」シリーズ中の一篇である。その回答者、本業は漫画家で、しかも、そのクイズでの正答率の高さ故人気者となっていく。そして、その正答率の高さは番組演出上の「やらせ」である事が明かされる。漫画家の回答者は事前に答を知らされているのである。いくら小説とは言え、景山さんこんなことまで書いていいのかな、と思ったのは、景山は「クイズダービー」と言う番組の製作に、企画の段階から深く関わったスタッフの一人であった、とみずからエッセイなどで語っていたからである。それに、登場人物全てが戯画化されているエンターテインメント小説ではあるが、はらに擬せられた人物の描かれ方には明らかに悪意が感じ取れた。で、はらさんの話しはこれで終わり。
 それで高信太郎に戻るが、最近は韓国通というふれこみであっちこっちに顔を出すようになっていて、これは、その活動にそった、漫画家の手になる面白くて分かりやすい日韓比較文論、韓国文化論、韓国人論といった類いの本です。楽しく読めてためになります。オススメです。あなたも、韓国(人、語、文化)にもっと関心を持ちましょう、親しくなりましょう、偏見を捨てて理解しましょう、というメッセージが貫かれていて、このような主張を高のような学者でも評論家でもジャーナリストでもない人物が広めていく、という図式は基本的には素晴らしくいいことだ。マンガによるハングル入門なども出した高は、これではっきりと、日韓親善友好推進文化人という自らのポジションを固めたように思える。もう面白がる人も少ない駄ジャレ漫画など描かずとも、このラインで食っていける、と思っているのではないだろうか。私は、職業 がら、文庫、新書等で気軽に読める韓国(人、文化)論のたぐいは本屋で目につくと買って読んでいるので、高の披瀝する体験、見聞、観察、分析にとりわけ目新しく思えるものはなかった。が、だからといって、高のこの本の啓蒙書としての価値が減ずる訳ではない。言わば軟派系文化人としての高の存在、スタンスに対応する読者層が想定されてしかるべきである。韓国クラブ遊びが嵩じて、韓国語の勉強にのめり込み、さらには韓国文化全般への関心を深めていったと、とも言われる高の韓国マニアぶりをどう捉えるか。

未完、続く、、、、

madajaa


No.6 「もう一人の力道山」李淳イル(馬へんに日という漢字)小学館文庫

 充分堪能させていただきました。まずは、著者の李氏に、感謝と敬意を捧げたい。私はリアルタイム(もちろんon theTVではあるが)で力道山の活躍を見ていたが、この著者はそうではない。力道の没年は1963年、この著者は61年生まれ。彼にとって力道山は過ぎさった、そして悲しい歴史であったのだろう。
 一時代を画した巨大なヒーロー力道山だが、その本格的な活躍の期間は10年にも満たない短いものであった。彼が韓国籍であることは、比較的良く知られていたし、力道死後も、日本のプロスポーツの世界では多くの韓国籍と言われる選手たちが活躍しビッグネームとなった者も少なくない。それは特異な現象ではなかった。そして、テレビで力道山の語り口を聴いたことのあるものは、彼の日本語が生来のものであることを疑いはしかった、と思う。しかし、彼は15の歳に、日本で相撲取りになるために単身渡来してきた男であった。
 「もう一人の・・」と言う表題が示すとおり、ここでは、力道山の、一般に知られることのなかった出自から始まる言わば裏面史がテーマとなっている。このテーマを取材調査し、語ることは1910年以降の韓国・朝鮮、そして韓日関係の最も暗い部分、その中の一つの襞を明るみに出す作業でもあった。著者は在日コリアン三世ということで、日本人には持ち得ぬ強固な思い入れをもって、困難な取材を成し遂げ、多くの新事実を掴みとった。そして、祖国の分裂が、屈強な肉体と無双の膂力を誇示し日本の英雄となった者の身と心を文字どおり引き裂いていく壮絶、悲愴な物語りを見事に浮かび上がらせた。 
 ヒーローとは、時代を自己に引き寄せ、それを変貌させるほどの強烈な磁場を発生させ得る者であるとすれば、力道山は、まさにそのような存在であったわけだが、それでもなお、時代の真の勝者とはなりえず、さらに大きな時代、歴史のうねりに翻弄された犠牲者でしかなかった。このノンフィクションは、後半、そのような「物語り」として収束しようとする内的な力に引き摺られ、感傷に流れがちな叙述がやや気になったりもするのだが、対象を語り尽くそうとすることによって、ついには最もよく自己を語ってしまう、という、ノンフィクションの精華に迫るものがあり、少なくとも私にとっては近来の傑作たるを失わない。