5 愛の諸機械

 耳を澄ますことは、一見螺旋機械の傍らに、残置される余分なもの、かすかな匂いで、意味作用的な連鎖の回復であり、機械の機能を解体するように、少なくとも機能の低下を促すように思われる。しかし、岸辺で佇み、完全な受容体で、耳を澄ますことは、おのれ自身の廃棄で、強度としての音として、螺旋機械に繋がることである。ただその繋がるときの微細な触手のようなものの移動=歌がある。 耳を澄ますことが機械の効果であることは、結果として理解するものではなく、機械の内容をなして、機械を現実化するものなのである。

 歩みつつ、‥‥‥佇む‥‥‥。砂の響きに、‥‥‥ 耳を澄まし、木の名を訊ねて、‥‥‥心をささえる。 幾度も来、佇み、‥‥‥。
「逆巻く水の上を行くように」

 佇み耳を澄ますところは、‥‥‥不思議な滞留の場所であり、夏のほこりが周囲一面舞い立っている場所である。そこから逃走線がはじまっている。(少しはみだしていって、離れるのです。)木の名を訊ねたり、ひかりの丘を訪ねる。石の臼、異貌の神、河の女神が逃走の線なのである。

 「戻られる、場所があって、そこが、宇宙と言ってい いですね。」 

 もうひとつの機械、多様体の限界として示され、その頭上に、輝く中心を非中心化することで現れる。すなわち、たどりつけなくてもよいと言うことで。 

 機械は、切断すると同時に流れている種々の(流れ−切断)である。したがって、その切断は、千の黒点であり、数千の小さな接続、離接、連接である。これら表象からの逃走、あるいは脱土地化は、再土地化を経由しながら、「器官なき身体」に達する。器官なき身体は、有機体に対立して、「ひとつの全体として、しかし種々の部分の傍らにあるひとつの全体として生み出される‥‥‥つまり、強度ゼロとしての質料から出発して空間の中に実在するものを生み出してゆく種々なる強度の割合、あるいは強度的な諸部分である」。器官なき身体の上に諸機械が生起し、そこから林檎、石の匂い、異貌の神、河の女神といった系列の離島を生産し、器官なき身体の上に登録するのである。

 こうして逃走の線は、島=再土地化によって逆にその力を明示する。そしてそれらが交差する点に不思議の力学がある

 

 (ゆっくり)
 旋舞し、旋回し。(‥‥‥)
 (裸の山、明るい山、黒曜石の、‥‥‥)
 
 振り返ると、背が、‥‥‥幽かにみえた

 島の、‥‥‥後影、
 不思議なことだ。
 「隠岐は僕の盲目の時間の下にある」

 

 螺旋機械が自らの旋回によって、その表面を陥没させ、不思議な滞留の場所を開く。レンツが、目と口を大きく開け、すべてを自分の中に取り入れ、同時に自分と自分の身体を部品として滑り込ませるように、吉増は島を生産する過程、あるいは島が吉増を生産する過程、つまり、機械を相互に連結する過程だけがある。「人間と自然とが二元的に区別される以前、あるいはこの区別を条件とし根拠とする一切の座標軸の以前に身をおいたのだ」と述べられる始源的な輝く中心の反転した複数的な中心、あるいは螺旋機械は、この器官なき身体において作動始めるのである。

 自らを自然の部品として滑り込ませること、接岸、途上にあるもの、これらによって示されるのは、他者と他者を、機械と機械とを連結する不思議さ、すなわち愛が語られる。「四分の一マイルほど下流に下るとアルテミスの神殿に行き着くのだが」と語りながら、その言葉の前に佇んでしまう。女神の姿がおぼろに浮かぶ、その後影、島の後影に佇み、耳を傾ける。「愛は、脱土地化と再土地化の複合体である」。言葉と物は強度として反響する。

 

        がーが、がーが‥‥‥、
                   やがて、その 声も聞こえないようになり、わたしの孤独は、故郷に 戻って行く。行く、ただ、(もう、‥‥‥)、行く、 だけだ。
「夏のほこりが周囲一面(しずかに)舞い立っていた」

 

 光景が崩れ、強度としての音になり、再び光景が現れ、といった脱土地化と再土地化の反復を反復するものが愛の機械なのである。この愛の機械は、不思議な滞留の場所、脱土地化を裏に張り付けている島=再土地化をくぐり、宇宙言語、器官なき身体に達する。

 「螺旋歌」では誕生という「取り返しのつかぬ決定的な自然との分離」の自覚といった、いわば、男根的で有機体的な認識ではなく、宇宙のはじめから存在していて、種々の〈流れ−分裂〉、n乗化された性が登記される反生産的な器官なき身体が現実化されているのだ。明らかに「未来は死人です」という死者、不在の絶対性は激しく分裂しているのである。「螺旋歌」では、絶対性にかわって愛の機械、反復的な愛の回復に耳を澄ますのである。

 「ツェランの詩の試みは、このような堂々めぐりの繰り返しのうちにも、なんとか死者ならぬ生ある他者への夢からさめたときのような現実の愛を回復することではなかったか」

 死者への愛が、原記号的な手段を用いて、象徴的で父性的な他者とのつながりの回復とするなら、生ある他者への夢からさめたときのような現実の愛は、無数に存在している他者のうちから選びとられたひとりに対する愛であり、その道筋はおのずと錯綜し、生ある他者=島への融合と離別の反復である。非領域化した音楽的な音、ことばを欠いた叫び声といった過剰な存在、分裂症者の歩行と、その夢から目覚めとして見いだされる他者との複合体が夢からさめたときのような現実の愛であり、愛の諸機械なのである。夢から夢への逃走の途上で出会う島=再土地化は、新しい機械を生産する。強度としての音が不思議な滞留の場所に入って行って生産をするのである。愛の諸機械は島への微細な触手のようなものの移動と現実への接岸である。