***独身者とは古い律法を備えた書記機械
 
 Kや眠り王子といった独身者は、テキストを読むなかで姿をみせる人物であり、判じ絵 に対するように忘れ去られた意味や象形文字に似てくる謎めいた記号であり、これを巡っ て展開する遊戯(ミクロコスモス)の不可解で根源的な規則といえるだろう。ドゥルーズ が書くように独身者(独身機械)とは、拷問、暗い謎、古い《律法》を備えている一方で、 強度量の生産を行い、次々に変貌してゆく一連の流れである。それ自身で多様性を実現し ている機械なのである。Kや眠り王子といった独身者もさまざまな形象への変化という強 度を生産する機械であるが、いまだパラノイヤ性が残っていて、暗い謎や古い律法による 支配を周囲にも及ぼしている。そうした論理が、読むなかに混入することは避けることは できない。阿部日奈子の詩はこの独身者との駆け引きであったり、誘惑が引き起こす想像 力の跳躍であったりするのであるが、独身者を遊戯の規則と重ねることで、パラノイヤ性 を差し引いている。辺境的なものや「パラドクサ」を並列するバロック的な知に近似して いるだろう。実際、阿部日奈子の詩篇での独身者は差し引かれるようにして希薄化を強め る。そして、「私」もしくは語りは、激しい運動に巻き込まれる。脱中心化によって、多 様性が軽やかなステップを踏むわけで、独身者はパラノイヤ性をそぎ落とされて、純粋な 強度の生産に反転されるのである。

 『典雅ないきどおり』では、古い律法の独身者から、ナルシス的な眠る独身者、恋のシ ーニュにたけた独身者、天使のような遊戯を生きる独身者とさまざまな振幅を見せている が、独身者は憂鬱さと秘密主義といった、この世を腐朽と衰亡の相において見る世紀末的 な思想だけでなく、器官の不能よっても特徴づけられる。差し引かれる独身者は、器官の 不能を意味していて、Kの徐々に明らかになる無力さや、「いきどおり」での「私」のい きどおりは、扱い慣れた手に向けられているのではなく、愛の成就が無限に遅延される不 能さに向けられている。「クマツヅラの薫り」で「鱗粉だらけの指先であの人が私にした ことは眠ったふりをして我慢していました けれどあの人が荒い息遣いの下から絞り出す ような声で〈そうか 俺はやはりT家の三男だったのか〉」ということへの「私」の笑い の発作は、生の息苦しさからの解放で、不能への揶揄だけでなく不能としての独身者への 加担なのである。差し引かれた独身者の倒錯した世界を読み進む遊戯性がテキストの表層 を波立てるのである。ここで語られている、中性特有の希薄さ、衰退してゆく生の風景、 罠とさえ見える白痴化、沈黙の周囲に立ち上がってゆく饒舌な言葉は、独身者の過剰な内 在性と表象への欲望、そして倒錯性を囲い込み、生きたままの標本というべきミクロコス モスを作り上げている。

 負の過剰さや倒錯性で定義される不能としての独身者の求愛は、フェティッシュで、厳 格な様式から成り立っていて、「K」の欲望がそうであるように書記機械の部分であるこ とを要求する。そうしたテキストの部分でありながら波立ってゆく言葉は、寡黙な独身者、 誘惑される「私たち」、そして語りの三者が厳格な様式に自らを変形する過程と、様式か ら遊戯の規則へと三者の役割を交換可能なものとし、バロック的なミクロコスモスを種々 の流れへと不定形化することに対応している。遊戯の規則は、他者の欲望にさらされ、宙 に吊られる娼婦という遊戯の観念を終わらせる結婚という制度からの果敢な逃走であるこ とを付け加えねばならない。
 恋愛の重みを差し引いた遊戯で生産される奇想のミクロコスモスへの欲望と、先行する テキストとの埋められぬ隔たりにおいて様式から規則への暗躍を阿部日奈子の作品に認め べきであり、そこでの遊戯の規則は、独身者の沈黙を巡る言説を生産する、そして詩形式 が制度に通底してしまったり、単なる様式に停止してしまうテキストとの距離を撹乱する 機能なのである。