第12話 〜第一共和制
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←教授
←助手
人生
「さあ戦争だ戦争。
でも不思議だ。何故かフランスが勝てる気が全然しない。
教授
「国内でここまで混乱してる上に、国王や王宮が敵と手を引いてる訳だけだからな。
という訳で予想通り、序盤は連戦連敗だ。とにかく勝てない。敗北に次ぐ敗北。退却の嵐。
人生
「だよなぁ。
助手
「マリー=アントワネットがこちら側の作戦を相手側に通知していた戦もあったそうで。
人生
「いや、そりゃ勝てないだろw
教授
「会戦から僅か約3ヵ月後の7月11日、立法議会は「祖国の危機」を宣言。
全国から義勇兵を募集したり、国民の総動員を訴えた。
人生
「質問。
教授
「ん? 珍しいな。どうした?
人生
「いや、トップが手引いてるんでしょ? 何で誰もまず国王とか王宮を潰そうとしないわけ?
教授
「いい質問だな。答えは簡単、バレていなかったからだ。
とは言え、いつまでも反フランスの立場を通せる訳がない。1ヶ月後に不満が爆発する事になる。
助手
「「祖国の危機」宣言前の5月27日、
1791憲法に対して忠誠を誓わない僧侶達を追放する法令が議決されましたが、ルイ16世はこれに拒否権を行使。
更に6月8日には2万の兵を募集し、パリを防衛させるという法案にも王は拒否権を行使。
人生
「え、未だに国王は拒否権持ってたの?
助手
「1791憲法で保障されていました。11話で話した通り、反動的な憲法でしたからね。
この一連の拒否権行使に、国民は完全に「王は革命を裏切っている」と認識。
国王並びにそれを擁護するブルジョワ内閣(=ジロンド内閣)を打ち倒さなければいけないと奮起します。
教授
「そんな訳で6月20日、遂にパリ市民が
「テニスコートの誓い2周年を記念し、議会の前に自由の木を植える」という名目で大集結、テュイルリー宮殿に乗り込んだ。
人生
「この○○野郎おおおおおおみたいな。
教授
「が、国王の態度は意外なものだった。
民衆が持ってきたワインを飲んで、民衆が持ってきた、サン・キュロットの象徴とされる赤い帽子も普通に被ってみせた。
そして民衆に大して胸に手を当てさせて「信じなさい。私は胸は震えている」と言ってみせた。
予想外の軟派な態度に民衆は拍子抜け、この運動はあっさり終わってしまった訳だ。
人生
「ルイ16世の勝ちって珍しいってか初めてだな。
教授
「まあそれは6月20日の話。
「祖国の危機」が7月11日に宣言、全国から義勇兵が集まってきてからは再び国王打倒が再燃した。
助手
「ちなみに、フランス現在の国家「ラ・マルセイエーズ」ですが、
マルセイユからの義勇兵がこの歌を歌いながら集まってきた事が由来になっています。
歌詞はなかなか過激です。未だにこの歌詞が変更されていないのは吃驚。
1.立て、祖国の子ら 今こそ、光栄の日は来たぞ!
我らに向かって暴虐の 血生臭い旗が翻る!
聞こえるか、野に山に、 あの暴兵どもの吼えるのが?
奴らは既に我らの腕に迫り 我らの子、我らの妻を殺そうとしている!
武器を取れ、市民達! 君らの部隊を作れ! 進め! 進め! 穢れた血で我らの畝※を潤そう
※畝(うね):作物を植えつけたり種をまいたりするため、畑の土を幾筋も平行に盛り上げた所。
7番までずっとこんな調子です。
人生
「つまり、オリンピックではこの歌が流れてるって事だよな…。
教授
「こんな歌が大流行したんだから、士気上がるのも頷けるな。
で、パリのセクション(国民の組合みたいな団体)は遂に王権の停止を求める請求書を議会に提出した。
が、回答期限とした8月9日を過ぎても返事無し。何故?
人生
「議会もブルジョワ寄りだからか。
教授
「その通り。ジロンド派が大きく構える議会は内閣同様ブルジョワ色が強かった。
ジロンド派でも王の行動を厳しく批判する人は居たんだが(ヴェルニオ)、
あくまで「穏健」な議会にそこまで波濤は立てられなかった。
人生
「なんだ、やっぱり「穏健」って表現が的を射てるじゃん。
教授
「まあそうなんだが、調べていっても結局ジロンド派は何をしたかったのかが分からなくてな。
そりゃ大元の目的は11話の通りだと思うんだが、それにしてもどうもやる事が
ラファイエットやジャコバン派と比べるとフラフラしてるっていうか・・・。
人生
「珍しい。先生が脱線してますね。
教授
「えー…それで、翌日8月10日の早朝に、再びテュイルリー宮殿を襲撃した。
これを8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃事件)と言う。
人生
「毎度の事ながら味気無いネーミングだな
教授
「単純明快で合理的だろう。ヘタに絢爛な名前にすると、それだけで先入観与えるからな。
助手
「宮殿には兵士が4000人程居たそうで、激しい戦闘になりました。
死者は両陣営合せて約1000人です。
教授
「その翌日、流石に議会は王権停止を宣言。ルイ16世らはタンプル塔へ送られた。
人生
「ヴェルサイユ宮殿 → テュイルリー宮殿 → タンプル塔 か。自業自得とは言え忙しいな。
教授
「ちなみに8月10日事件当日は西部の方で司令官を勤めていたラファイエットですが、
パリの騒ぎを聞いて鎮圧の為に軍を動かそうとするも、無理だと悟ります。
彼はココで自ら国境を越え、オーストリア軍の捕虜となりました。
ここで彼はフランス革命の表舞台を降ります。数十年後、老体に鞭打ち再び活躍するんですが。
人生
「息長いなー。
教授
「王権の停止はフランス革命の大きな前進だな。
人生
「王権の停止とか何たら国内の事はいいけど、戦争の方は大丈夫なのか。
教授
「まあこんな感じで国内が血気盛んになってたんだが、
「祖国の危機」を発表して全国から義勇兵が集まってからは、戦争の方も体勢を持ち直しつつあった。
そしつ遂に祖国の危機から約二ヵ月後、ヴァルミーの戦いにおいてフランス軍が初めて勝利した。
相手はプロイセンとオーストリアの連合軍だ。
人生
「お、初勝利か
教授
「「若きウェルテルの悩み」なんかで有名なゲーテも、この戦いを見て
「この日、この場所から新しい世界史が始まる」なんていう名言を残している。
まあ、国民軍が従来の傭兵(雇われた兵)軍に勝ってしまった訳だからな。
ひいては国民国家が、この時代では当たり前だった絶対君主制の国家に勝ってしまった、という事だ。
ココで一旦外国からの攻撃は収まる。冷戦状態だ。
人生
「対外の問題は何とかなった訳か。
教授
「さて、色々ゴタゴタがあってマトモに機能してなかった(ジロンド派が主流の)立法議会だが、
ヴァルミーの戦いの翌日9月21日、解散された立法議会に代わって早速国民公会が発足した。
人生
「国民公会の議員選挙自体は、前々から行われていました。ちなみに男子普通選挙です。
1791憲法にあった「25歳以上で一定上の税を納めた男子制限選挙」という反動的な憲法は無視され、あくまで人権宣言の方に則ってますね。
共和制に向かいつつある風潮を示していると言えるでしょう。
教授
「さて問題。フイヤン派、ジロンド派、ジャコバン派、勝ったのはどれだ。
人生
「フイヤンは無いだろ、国王があんななっちゃってるし。
ジロンドが奮わなかったんだから、やっぱりジャコバンか。
共和制に向かいつつあるって言ってるし。
教授
「正解…だな。
人生
「ちょ、何だその歯切れの悪さは。
教授
「いや、まあ人数的にはジャコバン派の勝利だ。とりあえず後述する。
まず国民公会は、会合の一日目にダントンの提議によって、王政の廃止を決定した。
人生
「あれ、8月10日事件の時に停止してなかったっけ。
教授
「それは“王権”だ。別に王に権利が無くても立憲君主制は成り立つだろう。
王の政治、“王政”を廃止したんだから、要するに国のトップが王じゃなくなったって事だ。
という訳で1589年から続いていた約200年に渡るブルボン朝が終息。1792年9月21日、第一共和制のスタートした。
人生
「“第一”?
教授
「これから、共和制から帝政へバンバンひっくり返りますから。
ちなみに現在のフランスは第五共和制です。
教授
「ココでさっきの話なんだが、人数としては確かにジャコバン派が優勢だ。
ただ、大体200人位居たとされているジロンド派が割とリードというか、依然優勢な立場を保っていたんだな。
人生
「何故?
教授
「政治家としてのスキルだな。要するに「手馴れてる」訳だ。
立法議会の再選組も中には居たし、国王の時代に、王を補佐する為にあった内閣の一部を担ってた人も居た。
人生
「なるほど。
教授
「とは言え、共和制になって勢い付いてるジャコバン派が台頭してくるのも、そう遠くはないんだが。
キリがいいから一旦切ろう。
ルイ16世、王政を停止させられただけならまだ良かったものの・・・。
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