釈迦堂口切通・・・・その1

今回ご紹介するのは「釈迦堂切通」です。鎌倉の切通しとしては、鎌倉七口の切通しが良く知られていますが、その七口の切通しはいずれも鎌倉の内から外、外から内への、いわゆる出入り口になっているところです。しかし鎌倉の内にも切通しは今も多く存在し、その代表格に挙げられるのが、この「釈迦堂切通」です。左の写真は北側から釈迦堂切通へ向かう道の写真です。写真の場所は滑川の南側を東西に通る道に接続する釈迦堂ヶ谷の道を撮影したものです。そしてその東西に通る道は鎌倉時代に「田楽辻子(でんがくずし)」と呼ばれた小路であると推定されています。

上の写真の道を南へしばらく進み、振り向いて撮影したものが右の写真です。遠景の小高い山は杉本寺のあるところで、この山はまた、杉本城があったところでもあります。

釈迦堂切通のある北側の谷を釈迦堂ヶ谷と呼び、この谷には鎌倉時代に三代執権の北条泰時が、父の義時の菩提を弔うために建立した釈迦堂があったところと伝えられてきています。現在ではその釈迦堂もこの谷のどこにあったのか、はっきりしていなく、いつ頃廃寺となったのかも資料が残されていないようです。そして釈迦堂は谷名となり現代まで伝えられているのです。

谷を通る道を更に南へと向かうと、谷の両側の山斜面が狭まってきます。やがて分岐路があり、その分岐路の左側の道が切通しへ向かう道で、そこには写真の釈迦堂ヶ谷の説明版が建っています。説明版にはこの谷に釈迦堂があった由来や、釈迦堂の本尊であった清涼寺式釈迦如来立像が現在では東京都目黒行人坂の大円寺にまつられていることなどが書かれています。

 

分岐路から南側には人家は無く、未舗装の右写真のような道が切通しへと続いています。古都鎌倉と言えども、このような未舗装の道は現在では大変に少なく、この道は貴重な景観を伝えています。そしてこの辺りは切通しの尾根の北側にある深い谷ということで、日当たりが悪く、いつ来ても薄暗くて寂しいところとなっています。人を化かす狐や、何か妖怪のようなもんが隠れていそうな雰囲気のところです。

 

実はこの道は、この先で通行止めになっています。切通しの崖が崩れて危険なためです。あえてそれを承知で入って行くことは事故が起きても自己責任ということになります。しかし、二階堂・浄明寺地区から南の大町・名越地区へ行くにはここを通らないと大変な大回りをしなくてはならず、地区の住民の生活の道としては欠かせない存在の道でもあるのです。切通しの景観を保ちつつ、通行の安全を計ることは難しい問題です。

 

また、釈迦堂切通の奥の尾根から南側付近にかけての場所は、初代鎌倉幕府執権、北条時政の名越山荘があったところでもあります。建仁3年(1203)比企能員は娘婿の頼家とともに北条氏打倒をくわだてるのですが、いち早く謀反を知った北条時政・政子親子は先手を取り能員を名越山荘へ誘いだします。そしてそこで天野遠景及び仁田忠常の二人の手にかかり能員は殺害されてしまうのでした。その血染めの山荘があったのがこの辺だと想像すると首筋に冷たいものが感じられます。

 

北側から釈迦堂切通(洞門)を見る

 

釈迦堂切通(洞門)

突然目の前に現れた切通し、ご覧のとおり切通しというよりも洞門となっています。初めてここを訪れた人は、鎌倉に大仏以外にも大きく迫力あるものが存在することに驚きを感じることでしょう。洞門の大きさや荒々しく削られた壁面からは不気味さも伝わってきます。

実はこの釈迦堂切通の洞門は実際の古道にあたるものなのかと調べてみると、意外にも古い文献には触れられていないのです。ただ、この切通しの上には鎌倉でも著名な「やぐら群」が存在し、また近くには「北条時政名越山荘」があったと伝えていることなどから、付近には古い時代からの道が通っていたと想定されるのです。鎌倉の歴史研究者の中には釈迦堂切通を通る道は「三浦道」と呼び、源頼朝が鎌倉に入る以前からあった道とする説もあり、更に三浦道は切通洞門の道ではなく、洞門付近の尾根越えの道であったとも考えられています。
果たしてこの切通(洞門)は中世まで遡れるものなのでしょうか?

 

落石に恐れつつ洞門の中へ入ってみますと、壁にはご覧のような「やぐら」が見られます。左の写真の下中央の穴を表面から撮影したものが上の写真です。一般の資料によれば釈迦堂切通の壁の穴は「やぐら」と説明されているものが殆どですが、実際にこの穴は「やぐら」と決めてよいものなのでしょうか。

 

「やぐら」についての説明はこちらのページを参照ください。
 鎌倉の「やぐら」について

やぐらには羨道とか供養段(壇)などが一般に設けられているものですが、この壁の穴にはそれらの痕跡が認められないのです。中の石塔類もどこからか集められたものの可能性が考えられます。ホームページ作者は「やぐら」について詳しく解説できるほどの専門家ではありませんので、この壁の穴は中世のやぐらなのか、それ以外のものなのかはわかりません。

この洞門の中央部の路面幅を計って見ると4.2メートルでした。洞門の北側外では5メートル以上ありました。洞門を更に詳しく観察すると、掘られ方とか、壁の削られ方が一定していないのがうかがわれます。掘削が一定していないということは、掘削が時期を異にして段階的に行われていたとも予測されるのです。

 

掘削が段階的に行われたものと予測されるのは、北側から洞門を眺めると顕著に感じられます。洞門入口の高さ8メートルほどあるといわれる壁面の、風化や浸食具合が上部と下部では全く異なっています。路面に近い最下部の壁面は近年に削られたように平らですが、上部は風化が著しく地層の硬さの違いなのか、縞模様の凹凸は深くなっていて、いかにも古いように感じられます。現在釈迦堂切通といわれているこの洞門は「道」を造るために掘られたものなのでしょうか、多少なりとも疑問が湧いてくるのです。それは、この洞門の尾根上部にある別の切通しの存在や、『新編鎌倉志』に書かれている「昔の本道」というものが、作者にとって気になるからなのかも知れませんが。

左の写真は切通洞門を南側から撮影したものです。よく観察してみると、洞門(トンネル)上部の壁面に縦に3つの窪みが見られます。

その窪みを望遠で撮影したものが左の写真です。皆さんお気づきでしょうか。この窪みはどうやら「やぐら」の跡のようです。これが実際に「やぐら」であったとするならば、やぐらが造られた当時にはこの洞門は無かったということも考えられそうです。普通やぐらの前は安定した平場が設けられている例が多いのです。洞門(トンネル)の上に「やぐら」を造ったとは考えずらく、やぐらが造られた時代(中世)以降にやぐらの下を掘削して洞門ができたと考える方が自然なのです。

 

それにしてもここは本来の切通しではなく、何故に洞門(トンネル)なのでしょうか。洞門の上は私有地のために一般の方々は上ることはできません。釈迦堂切通の上部にはやぐら群が存在し、そして尾根を掘削した洞門とは別の切通しが現存するそうです。その切通しこそが中世本来の道跡なのかも知れないと想像してみるのは如何なものでしょうか。
近頃、釈迦堂切通の上にあるやぐら群や切通し跡を拝見する機会がありました。次ページからそれらをご紹介します。

右の写真は切通洞門南側の道を撮影したものです。

釈迦堂切通   次へ  1. 2. 3. 4.