二階堂大路

鎌倉の地名に二階堂というのがあります。二階堂の地名の起こりは、この地に建てられた永福寺(ようふくじ)の建物が二階建てあったところからきていると伝えます。永福寺は源頼朝が建立した三大寺院(鶴岡八幡宮寺・勝長寿院・永福寺)の一つです。右の写真は鎌倉の主要道である、金沢道から永福寺方面への道が分岐する地点で、現在ここには「関取場跡」の石碑が建っています。「荏柄天神文書」に天文17年(1548)の定書案があり、関銭を取ることに関する定書です。

石碑の説明によると、戦国時代に小田原北条氏が関所を置いたところで、関所は交通税徴収の機関で、取り立てた税は荏柄天神社の修復の費用に充てたという内容です。この場所に関所が設けられたということから、ここが交通の場の要衝であったと考えることができます。更に昔にはこの場所は大倉辻と呼ばれ、六浦道(金沢道)と二階堂大路との交差点であったと考えられています。この付近は北条義時の大倉邸跡もあったところで、荏柄天神社の参道が近くを通り、南へは滑川を渡り、勝長寿院のある大御堂ヶ谷へ向かう道もこの付近で分岐しています。

関取場跡石碑前の道が金沢道と斜めに接続せず、直角接続に近づけるために接続手前で道はカーブしています。このような道の接続は鎌倉道の特徴になっています。上の写真は関取場跡の石碑前から永福寺方面に向かう真っ直ぐな道で、現在する道としては、この道が二階堂大路ではなかったかと思われます。写真付近では小型の自動車が通れるか通れないかの大変細い道です。一方、右の写真は上の写真の道と並行して流れる二階堂川です。天園ハイキングコースの峰々から流れ下った沢は杉ヶ谷・獅子舞・紅葉ヶ谷等からこの二階堂川に集まり、歌の橋で金沢道を渡り滑川にそそいでいます。

『鎌倉市史総説偏』に二階堂大路は次のように記されています。
「二階堂大路も同書(吾妻鏡)歓喜三年正月十四日の条に、大倉観音堂の西の辺の下山入道の家が出火して義時の旧宅や二階堂大路の両方の人家が焼けたとあり、建長三年十月七日の条には薬師堂ヶ谷が焼亡し二階堂大路の南に延び宇佐美判官の荏柄の家の前まで焼けたとある。この路は大倉の辻関取橋のところから北東へ入る道で、今の岐れ道から鎌倉宮の前に行く道と並行して四ツ石に出て、そこから北に進みまた東に行くのが旧道であった。この道がとくに大路といわれたのは永福寺を重視したためではなかったろうか。」

二階堂大路の名称は『吾妻鏡』にも見られ、かなり古くから存在した道であることがうかがえますが、市史ではこの道が大路と呼ばれたのは永福寺を重視したからだと説明しています。つまりこの道は永福寺の参詣路と考えられていたのではないでしょうか。そのように考えるとこの道の重要性は永福寺までで、その先は幹線道路ではなく、山間を抜けて鎌倉の外へ出る間道と捉えられていたものと思われます。しかし最近の研究者の中には二階堂大路は永福寺前から天園方面に上り、その先は遙か奥州へ続いていたとする説を唱えられている方もいるのです。

阿部正道氏の『鎌倉の古道』には、
「鎌倉より峰の灸に向かう道は、十二所神社裏の御坊坂より峰通りを北進するものと、関取橋際より鎌倉宮の東側に出、(現在の大塔宮行バス道の参道は明治以後の新道)永福寺跡の東側の路を川にそって谷奥に進み、天園に登り、北の峰道を北進し、八軒谷に下る、金沢・朝比奈より来る大船に通ずる国道を横切り向いの丘陵を登り、御坊坂よりの道に合するものと、国道に沿い上野に至り、そこから東に円海山よりの丘陵に出る道とがある。」

左の写真は永福寺跡東向いの山上にある護良親王の墓へ登る石段です。

峰の灸とは円海山の護念寺で江戸時代に念仏代わりに灸を始めてから信者がふえて、この道はお灸の寺への道として江戸時代に利用された道だといいますが、鎌倉時代には間道であったと阿部氏は説明しています。この天園へ向かう道は鎌倉七口ではなく、今まで研究者は鎌倉の内と外を結ぶ重要路と考える人はほとんどいなかったようです。しかしここへきて、二階堂釘貫役所という一種の関所が、天園への道に設けられていたのではないかとする説が出てきています。そして天園へ上がるこの道こそが奥州への主要道であり大手でもあったと唱えられてもいるのです。

上の写真は永福寺跡地で国指定の史跡です。左の写真は永福寺跡手前のテニスコート傍らの永福寺跡石碑と説明版です。永福寺は源頼朝が奥州藤原氏を滅亡させた後に、源義経や藤原泰衡をはじめ、敗者の怨霊を鎮めるために建立した寺院であったといいます。中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して造ったのが永福寺の本道の二階堂であったそうです。この寺の建てられた位置は奥州へと向かう道が、この寺の前からはじまっていて、その道こそが頼朝が奥州へ向かった中路ではないかといいます。ホームページの作者も二階堂から天園への道は朝比奈切通に見劣りすることのない人為的な造成が感じられる道跡でした。