鎌倉七口-亀ヶ谷坂切通・・・・その2

亀ヶ谷坂切通道の扇ガ谷側は、山ノ内側の長寿寺脇の道とは、様相がだいぶ違います。坂道の両側の切通し壁が良好な状態で残されていて、道幅もこちら側のほうが大夫広くなっています。路面こそは舗装されてはいますが、鎌倉切通の雰囲気を充分に堪能しながら歩けるところです。現在残る鎌倉七口の切通しで、ホームページ作者には「道」を感じられるところは、朝比奈切通とこの亀ヶ谷坂切通の二つだけなのです。

亀ヶ谷坂切通の峠部から扇ガ谷方面へ下る坂

極楽寺坂切通と巨福呂坂切通は、現在では舗装された一般的な車道になってしまい、しかも道両側の切通し壁はコンクリートで固められ、古の鎌倉切通の面影は殆ど見ることができません。名越坂切通と大仏坂切通は山道の変形的切通しで、古道ではあるとは思いますが、街道という雰囲気とはほど遠いものです。化粧坂切通は源氏山公園と化していて切通しは残っていなく、中世のルートがどこなのかもはっきりしない状態です。朝比奈切通と亀ヶ谷坂切通では確かに古の道を感じられるのですが、ただ、現在の切通しの景観が中世のものなのかと考えると朝比奈切通と亀ヶ谷坂切通でも疑問が残ります。

鎌倉七口の批評としては、かなり辛口の内容を書いてしまいましたが、ホームページ作者は専門の研究者ではありませんので、素人の感想程度に受けとめてください。ただ、関東各地の中世・古代の道路跡を見てきた目で、現在の鎌倉七口を見ると、古都鎌倉の出入り口としてふさわしい雰囲気が残るところ(いわゆる「道」のこと)は朝比奈切通と亀ヶ谷坂切通の二つだけなのです。

左の写真は切通し道頂部の山斜面が崩壊し岩肌が露出しているところを撮影したものです。同じ場所を以前撮影したものが、下の写真の坂の奥部です。

右の写真は切通し道頂部(峠部)から扇ガ谷側へ数十メートル下って振り返って撮影したものです。上でも書いたように、写真の坂の頂部は現在では山斜面が崩れて岩盤が露出しています。この写真は山斜面が崩れる以前に撮影したものです。こちらの写真では坂の傾斜がかなりあることがうかがえるのではないでしょうか。切通し道の扇ガ谷側はかなりの急坂になっています。この坂を自転車で一気に登るのはかなりきついものと思われます。

亀ヶ谷坂の名の由来
亀ヶ谷坂切通の名称の由来として、伝説では昔、一匹の亀がこの坂を越えようとしたところ、あまりにもの急坂に登りきれずに途中から引き返したので、「亀返し坂」といわれていて、その後、これが訛って亀ヶ谷坂となったといいます。また、亀は引き返したのではなっく、ひっくり返ったとの伝えもあるのです。この亀は、海から上がってきた亀であるとか、建長寺の池にいた亀であるとか数説あるようです。そしてこれらの伝承とは違った話もあります。昔、浄光明寺の池に住んでいた亀たちが、山ノ内の建長寺に参詣しようということになり、数千という亀達が連れだって山を越えたことから、そこが削れて亀ヶ谷坂になったという話もあるようです。

現在の亀ヶ谷坂は路面が舗装されていますが、かっての坂道は切通しの崖から落ちてきた石がごろごろしていて、大変に歩きづらい悪路であったそうです。峠部も現在よりもかなり高い位置にあり、坂の傾斜はもっと急であったものと予想されます。鎌倉七口の中では亀ヶ谷坂の文献記述は少なく、『新編鎌倉志』には次のように書かれています。
「亀谷坂は、扇谷と、山内との間也。南は扇谷、北は山内也。寿福寺を、亀谷山と号して、亀谷中央なり。此所は亀谷へ行坂の名なり。亀谷坂を登って扇谷坂を下れば、左に勝縁寺谷と云うあり。昔し寺有と云。今は此谷に、天神の小祠あり。山内の方へ行、左は長寿寺なり。」
『鎌倉攬勝考』では次のように書かれています。
「亀ヶ谷坂 是は亀ヶ谷、扇ヶ谷辺より此坂を踰て山の内へ出ければ、巨福呂坂の路に合せり。」

上記のいずれも簡単な記述で坂の名の由来などは書かれていません。いずれも山ノ内と扇か谷をつなぐ坂であるということを言いたいだけのようです。中世の古い文献などからは、扇ガ谷の広い範囲を「亀谷」と呼んでいたことがわかります。亀ヶ谷坂の名の由来は古い亀谷の地名からきているものと考えるのが妥当のようにも思われます。なお、「亀谷」の地名は、東の「鶴岡」と対になっているともいわれています。

亀ヶ谷坂切通切岸と扇ガ谷側の坂道

亀ヶ谷坂の扇ガ谷側中間部付近

扇ガ谷側の坂の途中には車止めがあり、以前にはそこに血液型占いが置かれていましたが、こちらも峠部の休憩用の椅子と同じように最近来てみると無くなっていました。右の写真は車止めのところから坂を少し下りたところにある道脇の階段です。この階段は民家への入口だと思っていたのですが、ある時にちょっと階段を上ってみると、そこが墓地への入口であることを発見しました。そしてその墓地は、地蔵尊を祀る延寿堂跡があることも新たに知ることができました。

階段を上ってすぐの岩壁には穴が掘られていて、左の写真の地蔵仏が置かれています。この穴の地蔵仏は切通しの坂道からは見えづらく、気がつくことはほとんどありません。地蔵仏を見るには階段を上ってみてください。ただ、写真の地蔵仏から先は立入禁止になっていて、残念ながらそこまでしか入れません。延寿堂は中世には建長寺の僧侶が年老いたり、病になったときの隠居場であったそうです。またここは火葬場でもあったといいます。亀ヶ谷坂切通には山ノ内側の上り口に長寿寺があり、扇ガ谷側の坂の途中には延寿堂があって、延命長寿に関連した名前が集中しているようです。

現在の亀ヶ谷坂切通道は中世まで遡るものなのか。また鎌倉城としての防御遺構との関連はいかなるものなのか。近年、古都鎌倉の世界遺産登録に向けての遺跡調査が実施されていて、この切通しの周辺でも発掘調査が行われています。調査をまとめた資料として、鎌倉市教育委員会の『亀ヶ谷坂周辺詳細分布調査報告書』と、神奈川県教育委員会の『「古都鎌倉」を取り巻く山稜部の調査』等の報告書がつくられています。

近年、この切通しの周辺部で発掘調査されたものの中で幾つかご紹介したいと思います。この切通しの両側の山の山頂付近まで人工的な平場や土塁、堀切、塚等が見つかっているようです。

切通し頂部(峠部)の西側尾根の頂上(崩壊崖の上)で、直径6メートルの塚状の高まりがあり、トレンチを設定した結果、岩盤上に盛土をした塚であることが確認されています。塚の南側には塚裾を巡る溝があったこともわかっています。塚上には拳大の礫が散乱していて、楕円形の大きな窪みも見られたそうです。溝から常滑甕小片が出土しているようですが詳細な年代はわかっていないようです。これが何のための塚なのか、大変興味をそそられます。

長寿寺の西側尾根の最高所で凝灰岩切石を組んだ一辺約1メートルの方形基壇状遺構がトレンチで確認されています。少なくとも2段以上が積まれていたと推定でき、かわらけ細片と常滑甕小片が周囲から採集されているといいます。基壇内には何もなく、遺構の年代も不明だそうです。この基壇が発見された尾根は南北に伸びるもので、尾根上には2カ所の堀切が確認されていて、そこをトレンチ調査をしていますが、遺構の年代は2カ所とも不明であるようです。切通しの東側の尾根上には雛壇状の平場や堀割が確認されています。そのうちの尾根頂部に挟まれた鞍部平場でトレンチが行われ、かわらけ・常滑甕・瓦・滑石の小片が見つかっています。更にその北側自然地形のローム層からは黒曜石剥片も出土しているようです。

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