祇園山ハイキングコース(東勝寺跡)・・・その4

佐竹山山頂の土塁や平場を後にしてハイキングコースを南へ進みます。やがて一級基準点のあるところで道は二手に分かれます。真っ直ぐ尾根上を行けばやがてその先は祇園山山頂へ行き着きます。西に下る道を行けば途中で平場を通過して八雲神社の境内に下りる道になります。西に下る道の平場を通過した後には左手より祇園山山頂からの下り道に合流します。そしてその付近からは鎌倉の市街と海が眺められます。右の写真は佐竹山から祇園山へ向かうハイキングコースの道を撮影したものです。

祇園山山頂
左の写真は祇園山の山頂を撮影したものです。手前の白い台上の円盤はここからの展望案内指示盤です。御覧の通りの樹木に覆われた山頂ですから遠望が効くのは案内指示盤の立つ西側一部だけです。写真左に見られるコンクリートの土台は先々代の安養院の住職が建てたお堂の基礎であったそうですが、お堂は台風のために倒壊してしまったそうです。また、祇園山は大正14年に亡くなられた貴族院議員の村田保氏の宅地庭園でもあったそうです。「三養山」と呼ばれていたそうで、今も一段下の平場などには当時の壊れた石像片などが転がっているのが見られます。

太平洋戦争の砲座跡
祇園山から安養院へ下る綴れ折れの道があったそうです。その途中に太平洋戦争でアメリカ軍の日本本土上陸侵攻作戦を拒む目的で造られた砲座の跡が残っているそうです。一般の人は見ることはできませんが、「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」の資料に載っていたものですからちょっと触れておきたいと思います。

敗戦が近づいてきた日本軍は水際の攻防を意識して鎌倉の小坪、材木座、佐助、長谷、稲村ヶ崎、そしてこの安養院に陣地が造られたそうです。

アメリカ軍の関東平野上陸侵攻作戦の中に「コロネット作戦」というのがあって、上陸地点として千葉県の九十九里浜と湘南茅ヶ崎が選ばれていたそうです。結局原爆投下でこの作戦は無くなったのですが、戦局の行方によっては鎌倉の海岸は日本のノルマンディーとなっていたかも知れないのでした。想像したくは無いのですが、もしそうなっていたら、今の鎌倉の街はどのようになっていたことか? 原爆投下で古都鎌倉は難を逃れて良かったと言っているのではないのでこれも誤解されないように。

稲村ヶ崎が古戦場と歌にありますが、太平洋戦争でもこの鎌倉が戦場地となっていたら、歴史の巡り合わせというものだったのか・・・。

上の写真は八雲神社後方のハイキングコースを下る途中で望められる鎌倉の街と海です。平和な日本の風景ですが、それを当たり前と受け止めてよいものなのでしょうか。

八雲神社(祇園天王社)
祇園山ハイキングコースの南口にあたるのが八雲神社です。この神社は古くは祇園天王社と称していて明治維新に八雲神社と改称されたことが境内の説明版に書かれています。由緒に永保年中(1081〜1084)、新羅三郎義光が奥州の安倍貞任を征伐するために下向の途中、鎌倉により、疫病が流行しているのをみて、京都の祇園社を勧請したと伝えています。祭神は須佐之男命、稲田姫命、八王子命です。応永年中(1394〜1427)に佐竹屋敷にあった佐竹一族の霊祠を合祀し佐竹天王と称したとも伝います。

『吾妻鏡』に次のような記事があります。

安貞2年(1228)7月16日条
「天晴、南風烈し、申の刻、松童社の傍らより失火出来す。東西四町の内人家化燼しをはんぬ。竹の御所、纔に一町ばかりを相隔て、余焔を免がると。武州参らると。 」?

松童社より火事が起こり、東西四町の内の人家が延焼したが、竹御所は延焼を免れた、という内容のものです。「竹御所」は四代将軍九条頼経の妻(一幡の妹、源よし子)の館で、現在の妙本寺北東奥の墓地にあったと伝えられています。その後、竹御所の霊廟として「新釈迦堂」が建てられたといわれています。この竹御所との地理的な関係から松童社は大町大路と小町大路の交差する付近であるとして、この八雲神社が松童社であった可能性が考えられ、当社が鎌倉時代の始頃に存在していたことを物語ります。江戸時代にはこの神社は「松堂祇園社」、「松殿山祇園社」などとも呼ばれていたようです。

鎌倉祇園会
八雲神社では毎年「鎌倉祇園会」という夏祭りが行われています。この「鎌倉祇園会」について天正14年(1586)に北条氏直が鎌倉代官に宛てて出した禁制に「喧嘩口論押買狼籍横合非文の輩は権門といえども厳料に処す」というのがあります。人が多く集まる鎌倉祇園会では喧嘩口論や押買(値切り)をすると罰するというものです。この祭りがかなり盛大なものであったことを物語ます。

神社境内のお手玉石
右の写真は境内にある新羅三郎義光の「お手玉石」と伝わる丸い大きな石ですが漬け物石より大きくて、この石でお手玉というのはかなり大袈裟な話です。

ここまでご案内してきた「祇園山ハイキングコース」ですが、この祇園山の地名は元が祇園社の八雲神社の裏山なので、この尾根上の道が祇園山ハイキングコースという名前になったのでしょう。

大宝寺と佐竹氏屋敷跡
東勝寺跡から八雲神社までが祇園山ハイキングコースで、普通の人がノンビリ歩いても1時間あれば十分です。さて、ここでお終いということなのですが、私は佐竹氏館跡付近と伝わる大宝寺と東勝寺切通の下のトンネルを歩いてみたく、そちらへ向かいました。

新羅三郎義光の子孫の佐竹氏
名越へ向かう県道の鎌倉葉山線を少し東へ歩くと安養院があり、更にその先にコンビニがあります。そこの近くの信号を左に曲がって進んで行くと、やがて左に折れる道の角に大宝寺入り口の標示があります。そこを曲がって入って行くと上の写真の大宝寺前に出ます。大宝寺は日蓮宗のお寺で開山は日出上人です。新羅三郎義光は後三年の役の後に、この大宝寺の付近に館を構えたと伝えています。常陸の源氏である佐竹氏は義光の子孫でありましたが、源頼朝は関東平定にともない同じ源氏の血筋を引く佐竹氏を関東の対抗勢力として滅ぼしてしまうのでした。

その後、南北朝期に佐竹氏は足利尊氏に従い勢力を回復します。佐竹貞義は常陸国守護に任じられています。大宝寺の入り口前に佐竹屋敷跡の石碑があり、この地が佐竹秀義以降の佐竹家代々の屋敷跡であったことや、大宝寺後方の山は佐竹山と呼んでいたことなどが記されています。

大宝寺の前身は応永6年(1399)に佐竹義盛が建てた多福寺であるといい、大宝寺の山号は多福山と称します。義盛の死後に佐竹氏は山ノ内上杉家の龍保丸(義憲)を養子に迎えますが、分家の山入氏の佐竹上総入道常元(与義)は対立します。その後、佐竹氏と山入氏とは抗争が続いたのでした。

応永29年(1422)に鎌倉公方の足利持氏は上杉憲直に命じて常元を攻めます。常元は比企ヶ谷で防戦しますが一族郎党十二人と共に法華堂で自害したといいます。ここでいう法華堂は、先にご説明させて頂いた竹御所の新釈迦堂と同一の可能性があると「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」に書かれています。

上の写真は大宝寺奥の墓地にある新羅三郎義光の墓と伝える宝篋印塔です。実際に義光の墓なのかどうかは裏付ける史料はみあたらず、墓の前には説明版などはありません。新羅三郎義光の後継には佐竹氏の他に武田信玄で有名な甲斐の武田氏があります。また、佐竹氏の紋は日の丸扇です。

大宝寺は祇園山尾根南東にあるため、境内は明るく陽ざしにあふれています。祇園山ハイキングコース途中の佐竹山山頂の平場や土塁が佐竹氏と関係のある遺構なのかはわかりませんが、実際に佐竹山山頂は大宝寺の直ぐ裏の尾根上のところです。

東勝寺切通の下のトンネル
大宝寺への入り口標示があるところまで戻り、道を左へ進みます。やがて分岐が現れ、そこを左に入ります。ちなみに右へ行くと釈迦堂切通方面へ向かいます。分岐を左に進むと再び分岐があり、そこを左折します。直進すると電通研修所で行き止まりです。左折した付近から上りの坂道となり、進むにつれ坂の上りは急になります。そして坂を上り切ったところに左の写真のトンネルがあります。写真はトンネルの大町西ヶ谷入口を撮影したものです。

このトンネルについて作家永井路子氏は「私のかまくら道」(かまくら春秋社刊)で次のように表現されています。

「トンネルの入口に立つと、向こう側の景色が馬蹄形に切りとられて、眼のなかにとびこんでくる。この散歩の楽しさは、この瞬間にきわまるといってもいい。(・・・略)たった二十数メートルのことなのに、ひどく遠い幻の世界を見るような、そこからむこうは、ヨーロッパの風景ででもあるような錯覚に捉えられる。まさしくその色調は名画に見るヨーロッパの田園そのものなのだ。この演出者はやわらかい冬の陽ざしだ。」

永井氏は私と反対方向の葛西ヶ谷側からトンネルに入ったのでした。永井氏はトンネルをぬけ出たあと、妙本寺の背中にある稜線を見上げ、その上にひろがる空の青さの濃さに、「鎌倉にはまだ空が残っているんだな、と思うのはこんなときだ。」といっています。

現代人は忙しい毎日に追われ、自分自身を見失いがちなものです。空の青さや自然の美しさが感じられたとき、それらが人間にとって如何に大切なものであるかがわかるはずです。何げない光の優しさは、恋人にでも出会ったかのような、心のときめきを感じさせてくれるものがありす。自然や季節の移ろいから何も感じられなくなってしまえば、人間それほど淋しいものはありません。

上の写真はトンネルを抜け、葛西ヶ谷の東勝寺橋手前付近まで下りてきたところで、朱の鮮やかな紅葉が印象的でしたので撮影したものです。ここの土地空間も金網フェンスで囲まれていて、史跡内なのでしょうか?

今回は東勝寺橋から祇園山ハイキングコースを歩き、大町方面にまわり、西ヶ谷からトンネルを抜けて再び東勝寺橋へ戻ってきた散策でした。鎌倉城は七切通を繋ぐ外郭尾根上だけしかないのかと思っていましたが、今回歩いた祇園山ハイキングコースの尾根の全てが人手による改変を受けた遺構であると感じられました。

東勝寺は鎌倉幕府北条氏の「詰めの城」であったと歴史専門家や研究者は論ぜられています。まさにこの場所で起こった惨劇が鎌倉時代から南北朝時代(室町時代)へと変わっていったのです。滑川が外堀で、葛西ヶ谷の北東支谷の奥には屏風山という大きな土塁のような尾根が張り出しています。東勝寺橋が大手にあたり、東勝寺切通が搦手にあたり、祇園山は見張り台であったということのようです。あらためて鎌倉は奈良や京都の古代の都とは違う中世の城郭都市であったと私自身そう実感されました。

鎌倉幕府を倒したのは鎌倉時代創世記に押さえ封じられた新田氏や足利氏の源氏でした。歴史は私達に語りかけてきます。武力で押さえ込まれた者の恨みは後々の世代まで受け継がれ、復讐の繰り返しであって、武力は必ず次の争いの種を植えること意外の何ものでもないということを。ふとそんなことを考えながら帰路へと向かいました。

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