大仏切通

大仏切通はいわゆる鎌倉七口の一つです。鎌倉七口の初見として大徳寺の僧の旅行記『玉舟和尚鎌倉記』というのがあり、そこでは切通しと言わず、すべて「坂」の名を付けて呼んでいます。鎌倉七口は以降の近世の鎌倉を紹介した文献には必ず出てきているようです。しかし、中世以前の鎌倉についての文献史料には鎌倉に七つの出入り口があったことを記したものはなく、そもそも鎌倉の出入り口が七口だけと決めてかかってよいものなのでしょうか。

鎌倉七口中でもことにこの大仏切通は文献史料に登場することが極めて少ないようです。私は鎌倉七口の中で現在残るものとして大仏切通と化粧坂が何故か不自然なものを感じていて、「鎌倉の古道物語」というものを作成することに至ったのです。

大仏切通は鎌倉七口の中では「朝比奈切通」と「名越切通」に次いで古いままの姿が残るところです。とりわけ堀割道の美しさではここが一番です。

大仏切通は狭い道がくねくねと曲がり所々には右の写真のような垂直に近い岩壁が両側にせまっていて、典型的な切通し道となっています。鎌倉七口には朝比奈切通のような谷道もありますが、ここは尾根の中腹を通るもので鎌倉道としては例外的な形態の道となっています。狭い切通しに置き石が並び切通しの上には平場があり、鎌倉に出入りするところの防衛遺構を伝えるそのものの姿が残されています。

現在の大仏切通はハイキングコースからも外れ、初めてここを訪れた人は切通しへの入口がわからず迷うことが多いようです。例外なく私もそうでした。切通しの東側は入口は閉ざされていて大仏方面から上ってきた人はたいがい裏大仏ハイキングコース(源氏山方面)へ行ってしまうものです。また西側の藤沢鎌倉線の火の見下バス亭からは人家の狭い路地を抜けるので大変わかりずらくなっています。途中で北側から現在は宅地造成で無くなってしまった「仲ノ坂」からの合流する入口がありますが、そこはほとんど知られていませえん。

上の写真は大きな切通しにある置き石です。写真の角度から見るといかにも道を塞がんかの如き石ですが、切通しの東側から見ると上からの落石のようにも見えます。右の写真は切通し道の西端の広い空間とその奥にある切岸と、そこにえぐられたやぐらが見られます。切岸の下の広い平場は何かの施設があったのかも知れません。
この大仏切通道は明治15年の古い地形図には書かれていなく昭和29年の地形図にも載っていません。近代にはほとんど廃道だったのか。また、古代の古東海道はこの付近から鎌倉へ入ったという説もあり大仏切通は大変謎めいた道なのです。