23区
(50音順)
足立区
荒川区
板橋区
江戸川区
大田区
葛飾区
北区
江東区
品川区
渋谷区
新宿区
杉並区
墨田区
世田谷区
台東区
中央区
千代田区
豊島区
中野区
練馬区
文京区
港区
目黒区
あ行
青ヶ島村〔八丈〕
昭島市
あきる野市
稲城市
青梅市
大島町〔大島〕
小笠原村
奥多摩町(西多摩郡)
か行
清瀬市
国立市
神津島村〔大島〕
小金井市
国分寺市
小平市
狛江市
た行・な行
立川市
多摩市
調布市
利島村〔大島〕
新島村〔大島〕
西東京市
は行
八王子市
八丈町〔八丈〕
羽村市
東久留米市
東村山市
東大和市
日野市
日の出町(西多摩郡)
檜原村(西多摩郡)
府中市
福生市
ま行
町田市
御蔵島村〔三宅〕
瑞穂町(西多摩郡)
三鷹市
三宅村
武蔵野市
武蔵村山市
東京都
123
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
江北の地蔵道標
こうほく
足立区
恵明寺・門前
石道標(駒型)
高83㎝,幅25㎝,厚21㎝
貞享3(1686)
足立風土記・金石文2p28
移設、集約/柵内/先端が欠損
(正面像下中央)「従是西 六あミた」/正面頂部に地蔵坐像(光輪、蓮台)を浮彫り/17世紀の道標
3
B
大谷田の道標1
(六阿弥陀道標)
おおやた
足立区
区郷土博物館
石道標(尖頭角柱)
高77.5㎝,幅25㎝,厚19㎝
元禄4(1691)
足立風土記・金石文2p36
移設/風化・摩耗・汚れ
(正面)「六阿弥陀佛」、(同左下)「是より左江
□□
」/17世紀の道標
3
C
花畑の道標
はなはた
足立区
(2丁目)
石道標
高68㎝,幅23㎝,厚17㎝
天保年間(1830-44)
足立風土記・金石文2p12
移設?
(正面)「
□
大明神道」、(同最下部)「是より/八丁」
2
-
南千住の庚申塔道標
みなみせんじゅ
荒川区
(3丁目)
石道標(駒型)
高90㎝
元禄4(1691)
文化財の保護43
p82
○○
(正面
○
側)「是より」/正面に「奉造庚申供養
□
」と陰刻、頂部に“日月”、最下部に“三猿”の陽刻/17世紀の道標
B
南千住の不動明王像道標
(袈裟塚耳無不動道標)
みなみせんじゅ(けさづかみみなし)
荒川区
三峰神社<仙光院>
石道標
高232㎝(うち、台石151㎝),
幅37㎝,厚36㎝
宝暦10(1760)
区有形民俗
WEB/区教委
明治29移設/焔の部分を赤く彩色/参拝の対象
(台石左面右端に大きく)「右」、(その下に小さく)「みのはへ 八丁/小つか原へ 九丁/南千住へ 十五丁」、(台石左面左端に大きく)「左」、(その下に小さく)「にっぽりへ 八丁/王子へ 一り十丁/板ばしへ 一り半」、 (台石左面中央に)「南 坂本へ 十四丁/南 谷中へ 十二丁」/背の高い台石上に、不動明王坐像(一面二臂、剣と羂索、迦楼羅焔、磐石)を半立体的に浮彫した本体を載せる/像そのものは、建立の由来から、耳の病にご利益があることで有名
2
A
清水坂
しみず
板橋区
<中山道>
道路
江戸期
WEB(鎌倉街道上道)/現地解説板
昭和30年代頃までは旧街道の面影を残していた
日本橋を出た中山道の最初の難所(急坂)/街道で唯一右手に富士山を一望できたとされる
4
C
智清寺の参道橋
ちせい
板橋区
(大和町)智清寺
石桁橋
(G)
正徳4(1714)
区登録史跡
WEB(鎌倉街道上道)
橋としての役割は終えている
中用水に架けられていた橋
2
-
志村一里塚
しむら
板橋区
<中山道>
一里塚(2基)
塚木:榎(2基とも補植)
慶長9(1604)
国史跡/
区登録史跡
WEB
土盛り下部を石垣で補強/都市部の割によく保存
日本橋から3里目の一里塚
2
B
西台の庚申塔道標
にしだい
板橋区
善長寺
石道標(駒型)
高89㎝(うち、台石7㎝),幅30㎝,厚18㎝
江戸期
文化財の保護43p123
/WEB(鎌倉街道上道)
移設、集約/中央で斜めに折損→修復
(右面)「西 ねりま道」、(左面)「東 江戸道」/正面に青面金剛立像(日月、六手剣人、二鶏、邪鬼、三猿)の陽刻/「江戸」の標記は江戸期/上記の「西台の地蔵道標」と並ぶ
3
B
前野町の石橋供養塔
まえの
板橋区
志村第2公園
石碑(尖頭角柱、道標兼)
高57㎝,幅21㎝,厚16㎝
明和7(1770)
文化財の保護43p106
/WEB(鎌倉街道上道)
移設、集約
(正面)「奉石橋建立庚申待講中二世安樂所」、(右面)「右ハ 者やぞミち」、(左面)「左ハ 祢里まミち」/上記「前野町の庚申塔道標6」と並ぶ
2
-
双葉町の敷石供養塔
ふたば
板橋区
氷川神社
石碑
高53㎝,幅18㎝,厚16㎝
安政4(1857)
WEB(鎌倉街道上道)
移設(下部埋設)、集約
(正面)「奉、敷/石」/その下に願主名が大きく陰刻
2
-
北小岩
(小岩田三谷)
の地蔵道標
きたこいわ
江戸川区
(8丁目)<慈恩寺道>
石道標(笠付き)
高113㎝,幅41㎝,厚21㎝
正徳3(1713)
区登録有形
区教委/WEB
木祠内
(右面)「是より右 岩付慈恩寺道 岩付迄 七里」「これより左 千手道、新宿迄 壹里/千手迄 弐里半」(岩付=岩槻、千手=千住)/正面に地蔵立像を陽刻
1
C
逆井の渡し
・跡
さかさい
江戸川区
<佐倉道>/中川
渡し場
江戸期
区登録史跡
区教委/WEB
景・解説板
江戸と房総を結ぶ重要な渡し/安藤広重の「名所江戸百景」にも描かれる
4
B
平井の渡し
・跡
ひらい
江戸川区
<浅草道>/中川
渡し場
江戸期
区登録史跡
区教委
解説板
浅草と行徳を結ぶ渡し/「江戸名所図会」に収録
5
C
旧・小岩の渡しの常夜灯
こいわ
江戸川区
宝林寺<佐倉道/小岩市川>
石常夜灯
(河川舟運)
高3.82m
天保10(1839)
区登録有形
区教委
昭和9河川改修に伴い移設
小岩市川の渡し場の常夜灯/猫脚
2
B
中原街道
(相州街道)
なかはら
大田区
桜坂<江戸~平塚中原>
道路
高2.04m
江戸以前
区史跡
現地解説板
中原街道の旧道の雰囲気を残す唯一の区間
家康の江戸入国の際に部分改修→江戸初期には参勤交代路→東海道の整備により脇往還に
3
B
御硯井戸
おすずり
大田区
本行寺
石井戸
90cm角
鎌倉時代?
文化財総覧p126/馬込と大田区の歴史を保存する会
屋根付き/井戸枠は江戸以降のもの
池上右衛門宗仲の邸内にあった井戸→日蓮が池上在住中に使用されたとの伝承がある
3
B
磐井の井戸
いわい
大田区
(大森北2丁目)
石井戸
江戸期
区史跡
名所図会であるく江戸p112/馬込と大田区の歴史を保存する会
磐井神社境内→神社前歩道上/井戸上にC製の蓋
東海道の旅人に利用/井戸の水が「心正しければ清水、心邪ならば塩水」になるという伝説
3
C
清水窪湧水
しみずくぼ
大田区
(北千束1丁目)
湧水
長20mの池
江戸期 or それ以前
区天然
馬込と大田区の歴史を保存する会
4・5ヶ所→1ヶ所から染み出る程度(ポンプで汲み上げて循環)
洗足池の源流→灌漑に利用/池の小島に弁財天が祀られている
2
B
高砂の庚申塔道標
(高砂の三猿道標)
たかさご
葛飾区
(6丁目)<佐倉道>
石道標
高95.5㎝,幅34㎝,厚23㎝
元禄6(1693)
区登録有形
現地解説板/
区宝篋印塔・道標調査報告p87-88
移設、集約/風化が進み、刻字・三猿とも摩耗
(正面)「これより右/下川原村/さくら海道」、(右面)「これゟ左 下乃割へ能道」/正面と両側面頂部に三猿の小さな浮彫(摩耗して見猿、言わ猿、聞か猿の判別不能)/下記「高砂の地蔵道標」と同所/17世紀の道標
2
B
小合溜井
こあい
葛飾区
水元公園
溜井
(遊水池、溜池)
享保14(1729)
→安永6(1777)囲堤
WEB
公園化
幕命により、灌漑用水を調整する遊水池として、幕臣・井沢為永により開削
2
B
堀切の郷倉
ほりきり、
ごうぐら
葛飾区
堀切小学校
郷倉
(木造寄棟萱葺)
天明期(1781-1788)以降
区有形
現地解説板/WEB
多少の修理は行われているが、創建当初の姿をよく残す
郷村に設置された共同の倉庫/年貢の一時的保管のために設けられ、次第に非常用の食料を保管
2
B
半田稲荷神社神泉遺跡
はんだ
葛飾区
半田稲荷神社
石井戸(円筒型)
江戸中期?
区有形
現地解説板
/WEB(鎌倉街道上道)
井戸としての機能はないが、原位置で丁寧に保存
願人坊主が神仏に祈願する際、水を浴びて体の穢れを去る「水垢離」を行った場所/円筒型にくり抜いた井戸枠/井戸を囲む石柵には、市川団十郎や尾上菊五郎ら歌舞伎役者の名前も
2
B
西ヶ原一里塚
にしがはら
北区
<日光御成道>
一里塚(2基)
江戸期
国史跡
区教委/WEB
塚木を昭和60(1985)に榎に植替え/塚を保存するために新道を迂回/都市部の割によく保存
大正初期の一里塚と榎撤去に対する反対運動が功を奏し、これを記念する碑が一里塚上に建つ
3
A
岩淵町の石橋供養塔
いわぶち
北区
正光寺
石碑(尖頭角柱)
高89㎝,幅24㎝, 厚21㎝
文政10(1827)
WEB(鎌倉街道上道)
移設
(正面)「石槗十二ヶ昉供羪塔」
2
C
田端の敷石供養塔
たばた
北区
与楽寺・前
石碑(尖頭角柱)
高134㎝(うち、台石15㎝),幅36㎝,厚24㎝
安永5(1776)
WEB(鎌倉街道上道)
移設
(正面)「「(梵字)奉建立敷石靣々為二世安樂也」/上記「田端の聖観音像道標」と並ぶ
2
C
赤羽北の敷石供養塔
あかばねきた
北区
諏訪神社
石碑
高116㎝(うち、台石34㎝),幅33㎝,厚33㎝
天保7(1836)
WEB(鎌倉街道上道)
移設、集約
(正面)「(梵字)石坂供養塔」
2
C
亀戸の題目塔道標
(六阿弥陀道道標)
かめいど
江東区
常光寺
石道標(駒型)
高145㎝,
幅45㎝,厚25㎝
延宝7(1679)
区有形民俗
WEB
移設
(左面)「自是右 六阿弥陀道」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻/17世紀の道標
2
B
亀戸の大師道標
(厄除弘法大師標柱)
かめいど
江東区
竜光寺
石道標(隅丸型、安山岩)
高128㎝(うち、台石31㎝),幅32㎝,厚21㎝
明和7(1770)
区有形民俗
区教委
/WEB(鎌倉街道上道)
移設(裏面が簡単に見えないため)
(裏面左端)「右尓向ひ 是与里左り 六番目迄 四丁」/正面に「(梵字)厄除弘法大師」、裏面に「(梵字)南無遍照金剛」と陰刻
2
C
洲崎神社の波除碑
すさき、
なみよけ
江東区
(木場6丁目)洲崎神社
石碑(砂岩)
高155㎝(うち、台石15㎝),29㎝角
寛政6(1794)頃
都有形
WEB/区教委
破損大(鋼棒とCで補強)、若干の移動/C被覆で銘文判読不能→石材露出部分も損耗大
(正面)「
…あき地
…/…十二月日」/同上
4
A
西大井の題目塔道標
(文禄八年銘道標)
にしおおい
品川区
(1丁目)<東海道と中原街道を結ぶ道>
石道標(尖頭角柱)
高108㎝,幅35㎝,厚31㎝
元禄8(1695)
区史跡
現地解説板
/WEB(鎌倉街道上道)
近接移設?
(右面)「從是 奥澤九品佛道」、(左面)「從是 池上本門寺道」/正面に「南無阿彌陀佛」と陰刻/枠だけ残し火灯窓風に削り込み刻字/品川用水に架かる石橋の無事と通行者の安全を願って造立/17世紀の道標
1
B
豊町の不動明王像道標
(六十六部廻国供養道標)
ゆたか
品川区
(5丁目)大原不動堂
<品川道・池上道>
石道標(丸彫)
高172㎝(うち、尊像80㎝),幅40㎝,厚30㎝
享保17(1732)
WEB(鎌倉街道上道)
/WEB
/品川の古道p73・78
近接移設/不動明王像は道標と無関係だが、伝承によれば江戸期から置かれている→供養塔道標とせず不動明王像道標とした理由
(右面)「こ連より左、セんぞくミち/志奈か王ミち」、(左面)「こ連より右、いけかミ/ミち」/正面に「奉納大乗妙典六十六部廻國…」と陰刻/旧道標本体上に、不動明王坐像(一面二臂、剣と羂索、磐石)の丸彫を載せる
2
B
大井の井
おおい
品川区
光福寺
湧水
鎌倉期?
区史跡
WEB
非現役/設置環境悪し
元久の兵乱(1204-5)で東国に流された頭中将光福が、子授けを蔵王権現に祈願すると男児が生まれ、泉が湧きだしたとの伝承
4
B
大井・原の水神池
おおい、はら
品川区
(西大井3丁目)
湧水
江戸中期
区史跡
区教委
柵で囲まれる
3
C
本町の常夜灯
(幡ヶ谷不動尊の常夜灯)
ほん
渋谷区
荘厳寺<甲州街道>
石常夜灯(道標)
高3.04m(うち、基壇0.93m)
嘉永3(1850)
WEB/区教委
移設/火袋後補
(竿裏面)「幡ヶ谷不動尊」、(台石左面上段)「御府内八十八ヶ所/弘法大師 壹丁余/熊野十二社大權現 二丁余/大宮八幡宮 三拾丁余/神田御上水源上/井之頭弁財天 二里余」
2
B
渋谷の石橋・敷石供養塔
しぶや
渋谷区
金王八幡宮
石碑(自然石)
高141㎝,幅85㎝,厚15㎝
嘉永2(1849)
WEB(鎌倉街道上道)
移設?
(正面)「敷石新造并石橋修理碑」
2
C
幡ヶ谷の道供養塔
はたがや
渋谷区
(1丁目)
<鎌倉道
or
甲州街道>
石碑(尖頭角柱)
高150㎝,幅29㎝
文化3(1806)
WEB/渋谷の文化財p117
移設?
(正面)「(梵字)道供養塔」
2
C
玉川上水
(修景保存区間)
たまがわ
渋谷区・世田谷区
多摩川
(笹塚駅周辺の2ヶ所)
上水路(C改修)
総延長約43㎞のうち計約0.4㎞
承応3(1654)
国史跡
玉川上水現況調査報告書/WEB
杉並区の浅間橋より下流は、都心部に残る3ヶ所の保存修景区間(一部は自然な土手水路)以外は、すべて暗渠化
総奉行: 老中・松平信綱、水道奉行: 伊奈半十郎忠治(没後は半左衛門忠克)、施工: 庄右衛門・清右衛門兄弟(褒賞として玉川姓を賜る)/江戸の人口急増による水不足解消のために、羽村市で多摩川から取水し、四谷大木戸まで掘られた素掘りの上水路/開渠部の30kmが国指定史跡
3
B
清正の井
きよまさ
渋谷区
明治神宮
湧水
江戸初期?
現地解説板/WEB
現在もきれいな水が湧き出る
この地に下屋敷を構えていた加藤清正が掘ったとされる井戸/南池の水源
2
C
西早稲田の地蔵道標
(源兵衛子育地蔵尊)
にしわせだ
新宿区
早稲田通り沿い(2丁目)
石道標(丸彫)
高195㎝(うち、台石42㎝)
享保11(1726)
区地域文化財
WEB(鎌倉街道上道)
原位置/木祠内/信仰の対象
(台石右面)「右/落合道」、(台石左面)「左/春王道」(=諏訪)/台石上に地蔵立像(錫杖、蓮台)の丸彫を載せる
1
A
筑土八幡神社の井戸
つくどはちまん
新宿区
筑土八幡神社
石井戸(八角形)
1.25m×1.1m,
高0.8m
天保5(1834)
新宿と石造文化p109
保存状態良好
正面に「御供養」と陰刻/八角形の井戸枠は珍しい
1
B
元・
追分の下水石樋
おいわけ
新宿区
都立新宿高校
下水路
長約3.6m,幅約1m
木樋→
寛政7(1795)石樋に変更
現地解説板/WEB
上水の暗渠化に伴い昭和初年頃に撤去され、後に新宿高校に移設
甲州街道と青梅街道の追分一帯の雨水などの下水を新宿御苑内の池へ落とすために上水の上に架設された石樋
3
B
松平摂津守屋敷の
排水暗渠遺構
まつだいらせっつのかみ
新宿区
落合水再生センター
下水路(石組暗渠)
長50.4m→約2.5m
江戸期
区埋蔵
現地解説板/区教委/WEB
発掘後、一部を移設復元
池の排水用の水路として造られたとされており、明治半ばにはその土地の排水路に、また大正期には下水道施設に役割を変え、現在もその役割を果たす
3
A
久我山の庚申塔道標1
(享保七年銘道標付庚申塔)
くがやま
杉並区
(5丁目)<人見街道>
石道標(駒型)
高142㎝(うち、台石27㎝),幅42㎝,厚29㎝
享保7(1722)
区登録有形
杉並の石仏と石塔p138
原位置?
(右面)「これよりみぎ いのかしらミち」、(左面)「これよりひだり ふちうミち」/正面に青面金剛立像(日月、六手合掌、二鶏、邪鬼、三猿)を陽刻
1
B
成田西の石橋供養塔
なりたにし
杉並区
宝昌寺・門前
石碑(尖頭角柱、道標兼)
高74㎝,幅33㎝,厚21㎝
文久4(1861)
杉並の石仏と石塔p264
(正面)「石橋/供養、十方村々々
□□
」、(右面)「東 江戸道」
-
玉川上水
(素掘改修区間)
たまがわ
杉並区・西東京市・武蔵野市・三鷹市
多摩川
上水路(C改修)
総延長約43㎞のうち約9.2㎞
承応3(1654)
国史跡
玉川上水現況調査報告書/WEB
中流部においては、昭和61から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/護岸の一部がC改修
総奉行: 老中・松平信綱、水道奉行: 伊奈半十郎忠治(没後は半左衛門忠克)、施工: 庄右衛門・清右衛門兄弟(褒賞として玉川姓を賜る)/江戸の人口急増による水不足解消のために、羽村市で多摩川から取水し、四谷大木戸まで掘られた素掘りの上水路/開渠部の30kmが国指定史跡
3
B
八広の道標
(やくしみち道標)
やひろ
墨田区
(4丁目)
石道標
高104㎝,幅27㎝
享保年間(1716-35)
区文化財調査報告書4p87/WEB
移設/路傍の植栽に埋もれている
(正面)「右 や久しみち」(=木根川薬師)、(右面)「左 ゑとみち」/8大将軍・吉宗の木下川薬師参詣の際に、その道しるべとして大畑村の村民によって要所に建立されたものの1基と伝えられいる(建立年不記載)
2
C
東向島の大師道標2
(蓮花寺門前の道標2)
ひがしむこうじま
墨田区
蓮花寺
石道標
高123㎝(うち、台石37㎝),
幅30㎝,厚25㎝
文政5(1822)
区登録有形
現地解説板/
区文化財調査報告書4p89/WEB
近接移設(蓮花寺門前)
(右面)「西、白ひげ/はしば、みち」、正面に「厄除弘法大師」と陰刻/3面とも枠を残して全面を浅く平らに削り込み刻字
1
C
墨堤
ぼくてい
墨田区
隅田川(左岸)
土堤防
約1.3㎞
江戸初期→享保2(1717)桜植樹後、桜の名所に
区登録名勝
古地図で江戸散歩p108/WEB/
区教委
C改修・修景/桜の名所(水害で捕植、伸延のための追加)
水害を避けるため利根川の水路付替えが行われ築堤が進む/享保2(1717)、8代将軍・吉宗の命で100本の桜を植樹(→通説→実際は4代将軍・家綱)→文化年間に150本、天保2に200本、弘化3の決壊後に150本補植、安政元に200本、明治初期に1000本
3
B
駒止井戸
こまどめ
墨田区
旧安田庭園
石井戸
元禄4(1691)以降
古地図で江戸散歩p7/WEB
常陸笠間藩の藩主・本庄因幡守宗資の下屋敷
2
-
玉川の江の島道標
たまがわ
世田谷区
石道標(尖頭角柱)
元禄2(1689)頃
WEB
平成20頃発見→平成24に「江の島道標」と確認
(正面)「(梵字)ゑ能し満道」(=江の島)/鍼医・杉山検校が藤沢宿から江の島へ続く約4㎞の江の島道に建立したと伝えられる→12基が江の島のある藤沢市内に、1基が鎌倉市、1基が世田谷区に現存/17世紀の道標
2
B
奥沢の庚申塔道標1
おくさわ
世田谷区
奥沢神社
石道標
高98㎝,幅16㎝,厚16㎝
享保13(1728)
区石造遺物調査報告2p62
/WEB(鎌倉街道上道)
移設
(右面)「こ連より右江 九保ん仏道)、(左面)「これより左江 ぬま遍道」/正面に「奉供養庚申之塔」と陰刻
2
C
元・
品川領用水御普請所の標石
しながわ
世田谷区
区郷土資料館
石標
天保7(1836)
区教委/WEB
移設、集約
「品川領用水御普請所」/用水の拡張で潰れる耕地について、虚偽の言上をしないことを村役人が誓ったもの
3
C
浅草寺の石橋
せんそう、
しゃっきょう
台東区
浅草寺
石桁橋
長3.3m,幅2.2m
(G)
元和4(1618)
<国重要美術品>
WEB
原位置/通行禁止
2代将軍・徳川秀忠が浅草寺境内に東照宮を造った際、和歌山藩主の浅野但馬守長晃の妻・振姫(徳川家康の娘)が寄進/都内最古の石橋/立派な擬宝珠付き高欄
1
B
永見寺の迷子石
えいけん
台東区
永見寺
石標(尖頭角柱)
高174㎝(うち、台石28㎝)
江戸期?
高橋 努
原位置?
(正面)「まよひ子の/しるべ」、(右面)「たづぬる方」、(左面)「志らする方」/迷子や尋ね人を探すための告知板→側面上部の長方形に削り込んだ部分に紙を貼った
2
B
浅草寺の「迷い子知らせ」石標
せんそう
台東区
浅草寺
石標
高217㎝(うち、台石50㎝),
36.5㎝角
安政7(1860)
WEB
復元(昭和32)
(正面)「南無大慈悲観世音菩薩まよひごのしるべ」、(右面下部)「志らする方」、(左面下部)「たずねる方」/迷子や尋ね人を探すための告知板→側面上部の長方形に削り込んだ部分に紙を貼った
4
B
上野広小路三橋遺構
うえのひろこうじ、みはし
台東区
<忍川>
石護岸(布積)
長約20m+30m,高3m
17C中頃→17C後半~18C前半に改築
区教委
区営地下駐車場工事中、平成17に発見→石材保管→部分復元構想中
将軍が寛永寺に参詣するにあたって忍川に3つの橋(中央が将軍用、両脇が一般用)が架けられた際、川の護岸も石できれいに修景されたもの
4
B
八重洲の
「一石橋迷子しらせ」石標
やえす、
いっこくばし
中央区
(1丁目)
石標
高180㎝
安政4(1857)
都有形
現地解説板/WEB
施錠されたフェンス内に保存
(正面)「満よひ子の志るべ」、(右面下部)「志らする方」、(左面下部)「たづぬる方」/迷子や尋ね人を探すための告知板→側面上部の長方形に削り込んだ部分に紙を貼った
2
B
佃島・石川島の護岸
つくだ、
いしかわ
中央区
石護岸
江戸期
現地解説板/WEB
周囲にビルが立ち並んでいるが舟溜りのまま残り、かつて島だった雰囲気が漂う
佃島は、摂津国佃村の漁夫が正保元(1645)に移住した人工島/石川島は、幕府の船手頭・石川八左衛門重次が江戸初期に徳川家光から拝領した島/護岸を石積にした年代は不明/江戸幕府より建立を許された大幟の柱と抱が埋没
2
A
外堀
(日本橋川 錦橋付近)
の石垣
そとぼり
千代田区
日本橋川
石垣
江戸期
WEB
関東大震災で崩壊後に復元
乱れ積みと呼ばれる工法の石組み/江戸初期に外濠の整備を請け負った大名家の名前や工事をした石工の名前の刻印が石垣内の石に残る
3
A
鎌倉荷揚げ場
かまくら
千代田区
日本橋川
荷揚場
江戸期?
区教委/WEB
柳の井戸
やなぎ
千代田区
石井戸
江戸期
WEB
傍に柳の木が植えられている
皇居桜田濠堤に残る石井戸
2
C
北町奉行所の下水溝遺構
きたまち
千代田区
北町奉行所跡
下水路
文化3(1806)以降
現地解説板/江戸切絵図今昔散歩p12
発掘後、移設・復元/本来3~4段の石積みであったと思われるが、最下段のみ現存
北町奉行所跡から発掘された下水溝遺構/溝の角石が切り取ってあるのは邪鬼が進入する鬼門である艮の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされる
3
C
南長崎の地蔵道標
(目白通り二又子育地蔵尊)
みなみながさき
豊島区
(2丁目)
石道標(丸彫)
高154㎝
宝永7(1710)
歴史をたずねて―豊島区の文化財/WEB(鎌倉街道上道)
移設/立派な木祠内/信仰の対象
(台石右面)「是ゟ右 川越うら道」/台石上に地蔵立像(錫杖)の丸彫を載せる
2
B
千早の敷石供養塔
ちはや
豊島区
地蔵堂
石碑(道標兼)
高163㎝(うち、台石13㎝),幅33㎝,厚22㎝
寛政13(1801)
歴史をたずねて―豊島区の文化財/WEB(鎌倉街道上道)
移設、下部C固定
(正面)「鋪石建立塔」、(同最下部)「東 さうし可や道」、(右面最下部左)「右/いたはし道」、(左面最下部)「左り/ほ里の内道」
2
C
高田の敷石供養塔
たかだ
豊島区
南蔵院
石碑
高73㎝,幅24㎝,厚15㎝
文政5(1822)
WEB(鎌倉街道上道)
原位置?
(正面)「
敷
石建立」(
緑字
は異体字)
1
C
東中野の庚申塔道標
ひがしなかの
中野区
氷川神社
石道標
(舟型、安山岩)
高130㎝,幅59㎝,厚28㎝
寛文9(1669)
区登録有形
中野の庚申塔を歩くp6
/中野区の石造物(神社)p25
/WEB(鎌倉街道上道)
移設、集約
(右面)「あらい梅照院道」(追刻の可能性が指摘されている)/光背頂部に“日月”の陽刻、中央に“三猿”の浮彫り/17世紀の道標
2
B
中野の庚申塔道標
なかの
中野区
谷戸小学校
石道標(蒲鉾型)
慶応2(1866)
WEB
移設
(右面)「あらいみち」、(左面)「ほりのうちミち」/正面に「庚申塚」と陰刻
3
C
東中野の石橋供養塔
ひがしなかの
中野区
氷川神社
石碑(尖頭角柱、安山岩)
高89㎝(うち、台石13㎝),幅25㎝,厚16㎝
安政6(1859)
区登録有形
中野区の石造物(神社)p27
/WEB(鎌倉街道上道)
移設
(正面)「石橋供養塔」/下記の「東中野の敷石供養塔」と並ぶ
2
C
東中野の敷石供養塔
ひがしなかの
中野区
氷川神社
石碑
(駒型、安山岩)
高116㎝,幅35.5㎝,厚21㎝
安政6(1859)
区登録有形
中野区の石造物(神社)p27
/WEB(鎌倉街道上道)
移設
(正面)「敷石供養塔」/上記の「東中野の石橋供養塔」と並ぶ
2
C
御廟橋
みみょう
練馬区
長命寺・奥の院参道
石桁橋
長3.93m(2G),
幅1.50m
嘉永7(1854)?
練馬の石造物寺院編2p51・68
/WEB(鎌倉街道上道)
橋面石の折損が意図的なものかどうか不明
小規模だが、2本の石柱の上に横桁を置き、その上に3本の石梁を架け、橋面石を置いた本格的な参道橋/高欄の石板に装飾的な開口部
1
C
御廟橋碑
みみょう
練馬区
長命寺・奥の院参道
石碑(自然石)
高122㎝
嘉永7(1854)
練馬の石造物寺院編2p51・68
/WEB(鎌倉街道上道)
原位置
(正面)「御廟橋」、(同右フリガナ)「み め他うの 者し」、(同下部)「左ん希以の/人可"
□
多れハ/里やく阿り」(=参詣の 人が渡れば りやくあり)、(裏面上部)「嘉永七寅年/六月吉日/當山二十一世泰英代/橋修覆之」
1
C
大八車
練馬区
石神井公園ふるさと文化館
木製の大八車
長279㎝
江戸後期
区有形民俗
WEB
保存状態良好
御所車型/検査印「免許入間県」の焼印(明治4-6)/現・大泉町4丁目の農家が、江戸のまちへ野菜や練馬大根のたくあん漬けを運ぶのに使用していた
1
B
大泉町の尾張藩鷹場標杭
(尾張殿鷹場碑)
おおいずみ
練馬区
大泉第一小学校
石標
高約1.2m
享保2(1717)以降
→幕末に廃止
区登録有形
WEB
移設(もと、泉学園町の北端)
(正面)「従是南北 尾張殿鷹場」/鷹場の境界を示す石杭(尾張藩鷹場には84本の石杭があり30余本が現存)
3
C
千川上水
せんかわ
練馬区
上水路
長約5㎞
元禄9(1696)
区史跡
現地解説版/区教委
一部暗渠化
現在でも消火用水などに使われるが、大部分が暗渠となり素掘りのままで残されているのは一ヶ所のみ/玉川上水より取水し、千川上水を開削
3
B
円月橋
えんげつ
文京区
小石川後楽園
石アーチ橋
(御影石)
長11.09m(A),
幅2.32m
寛文5(1665)以降
特別史跡/特別名勝
東京都水道歴史館/江戸切絵図今昔散歩p31/WEB
平成22・23に解体・修復
石工:駒橋嘉兵衛/光圀公の命により、中国明の儒学者・朱舜水が設計したわが国初の石アーチとの俗説もあるが、光圀公の生年は寛永5(16
28)なので、長崎眼鏡橋(1634)より早いとは思えない。光圀公が朱舜水を招いた寛文5(1665)以降の完成と見るのが最も蓋然性が高い/解体調査時に121個の鉄ダボが石のズレ止めに使用されていることが判明
1
A
小石川後楽園の船着場
こいしかわ
文京区
小石川後楽園
船着場
特別史跡・特別名勝
小石川後楽園パンフレット
2
C
神田上水石樋
かんだ
文京区
本郷給水所公苑
<神田上水>
上水路
長約50m,
上幅150㎝,下幅120㎝,
高120-150㎝
寛永6(1629)頃→明治31廃止
東京都水道歴史館/江戸切絵図今昔散歩p31/WEB
文京区本郷で約70mが発掘され(昭和62-平成元)、内約50mが移設・復元
江戸の発展に伴い、小石川上水を拡張し、井の頭池・善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源として日本橋方面に通水した(なお、小石川上水は、江戸入府に先立ち、家康が家臣・大久保藤五郎に見立てさせた江戸最初の水道で、小石川を水源としていたとされる)
2
小石川後楽園の
神田上水
・跡
こいしかわ、かんだ
文京区
小石川後楽園<神田上水>
上水路
寛永6(1629)頃
特別史跡・特別名勝
小石川後楽園パンフレット/東京都水道歴史館
当時の水路跡とは異なると思われるが、当時の雰囲気を再現
小石川後楽園は、水戸徳川家の祖である徳川頼房が、神田上水の分流を引き入れて造ったもの(完成は、二代藩主の光圀の代)
3
B
神田上水取水口の元・石柱
(中央の柱)
かんだ
文京区
江戸川公園<神田上水>
石柱
高約1.4m
江戸期
区史跡
現地解説板/WEB
昭和8(1933)大洗堰の廃止に伴い移設
大洗堰の取水口に上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめ込むための石柱
4
C
高輪大木戸
・跡
たかなわ
港区
<東海道>
石塀
幅5.4m,長7.3m,高3.6m
宝永7(1710)→
享保9(1724)移設
国史跡
現地解説版/江戸東京歴史散歩2p33
宝永7(1710)に芝口門に建てられたのが起源とされ、後に現在地に移設/街道両側に造られたが、現在は東側のみ現存
江戸の南の入口として、治安の維持と交通規制のため設置→道幅約10
mの東海道に木戸を設け、両側を石塀で遮断した(当初、夜は木戸を閉めていたが、江戸後期に廃止)/江戸全体を守る木戸のため大木戸と呼ばれた/伊能忠敬が日本地図作成のために行った測量の起点
2
品川第六台場
・跡
しながわ
港区
東京湾
台場
高7.8m,124.6m×121.9m
(基部)
安政元(1854)
国史跡
区教委/岩屋隆夫/WEB
立入禁止して保存(チャーター船でしか接近不能)
江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡/石護岸(布積+谷積)、石護岸(谷積)
1
A
目黒の架橋銘文碑
(目黒川架橋勢至菩薩石像)
めぐろ
目黒区
(1丁目)勢至堂
石碑(丸彫)
高185㎝(うち、塔身60㎝),30㎝角
宝永元(1704)
区有形(歴史資料)
区教委(目黒区指定文化財調査報告書2p10)
祠内
(台石)「夫當所江河者 往還難處/旅客患愁 霜雪之寒朝 人/馬成煩 雨露之降夕 洪水/挙波 依之當山不動浅艸/観音毎日参詣 両山之道/通
豢
於一銭二銭之助力/築立両岸千石壁 桂渡於/二間八間之方橋雁齒橋/斜一心鄭重
□
可顕
□
加/之造立勢至大士之石像/功成終而 執行一夜別時/念佛 奉點眼供養者也 若/
爾
酬此微善 施入之貴賤/興我等齋共成二世安樂/悉地云
爾
」/
緑字
は異体字/台石上に蓮台、勢至観音の半跏坐像を載せる
1
B
青葉台の石橋供養塔
あおばだい
目黒区
(4丁目)
石碑(尖頭角柱)
高105㎝(うち、台石15㎝),幅18㎝,厚18㎝
文化9(1812)
WEB(鎌倉街道上道)
昭和47移設(70m)/下部で折損→修復
(正面)「(梵字)石橋供養塔」/三田用水に架かっていた石橋
2
C
大橋の石坂供養塔
おおはし
目黒区
氷川神社・石段下
石碑(板碑型?)
高108㎝(塔身),幅49㎝,厚13㎝
文化13(1816)
WEB(鎌倉街道上道)
移設/頂部欠損/中央上部で水平に折損→修復/丸石の台石は恐らく後補
(正面)「…坂再建供養塔」/現在の石段(明治38)に改修される前の石段の構築時のもの/上記の「大橋の道標」のすぐ前
3
C
庚申塔道標1
昭島市
石道標
寛政2(1790)
市教委
(正面右側)「右 すな川ミち/左 大神ミち」、(正面左側)「右 はいじまミち/左 志んでんミち」
2
庚申塔道標2
昭島市
諏訪神社
石道標
享和2(1802)
市教委
「右 上川原村 砂川村/左 大神村 拝島村」
2
庚申塔道標3
昭島市
石道標
文政元(1818)
市教委
全面剥離
「右 すな川みち/左 は以じまミち」
3
玉川上水
(現役区間)
たまがわ
昭島市・羽村市・福生市・立川市
多摩川
上水路(全面改修)
総延長約43㎞のうち約11.4㎞(暗渠等を除く)
承応3(1654)
国史跡
玉川上水現況調査報告書/WEB
小平監視所で野火止用水に分水するまでの区間は現役だが、護岸は近代の全面改修
江戸の人口急増による水不足解消のために、羽村市で多摩川から取水し、四谷大木戸まで掘られた素掘りの上水路/開渠部の30kmが国指定史跡
3
B
おねいの井戸
(お鉢の井戸)
昭島市
大日堂
石積井
(自噴)
室町末期
市旧跡
WEB/市教委
三方が石垣で囲まれている/現役
滝山城主・北条氏照の家臣・石川土佐守が、娘「おねい」の眼病が治るよう祈って井戸の水で眼を洗わせたところ、よくなったとの伝承あり/拝島の三井戸の1つ(その内の1つ、松原の井戸は滅失)
1
C
花井の井戸
はない
昭島市
石積井
近世?
市旧跡
WEB/市教委
円形の石積
拝島の三井戸の1つ(その内の1つ、松原の井戸は滅失)
2
C
二宮宿の秋葉山常夜灯
にのみや
あきる野市
<二宮宿>
石常夜灯
高1.61m
寛政12(1800)
あきる野市の石造物p92
原位置
(竿正面)「奉献秋葉山大權現」、(台石正面)「講中」/二宮宿で火災が多く発生したことを受けて勧進
1
C
白石の井戸
しらいし
あきる野市
石積井
(湧水、石敷き)
江戸期?
市教委/WEB
現役/保存状態良好
かつて穴の開いた白い石から水が湧き出ていたという故事から来た名/この地域で横井戸は珍しい
1
C
大悲願寺の井戸
だいひがんじ
あきる野市
大悲願寺
掘抜井
(石枠:四角)
戦国~江戸期?
市有形
WEB
石を井桁状に組んだ珍しい石枠
2
C
横沢入の伊奈石採掘遺構
よこさわいり、いないし
あきる野市
都の環境保全地区
石切場(伊奈石=粗流粒砂岩)
室町~江戸期
市教委(伊奈石採掘遺構分布調査報告書)
露頭掘り、竪坑、テラス、石道、ズリ石、矢穴石などが随所に残るが、雑草の生えた林の中に点在するため視認しにくい
信州伊那の石工集団が、過去しやすい石資源に着目して伊奈村を開いたという伝承/伊奈石の石造物は、現在の東京・神奈川・埼玉・千葉・山梨の一都四県一円に分布(中世は石碑・石塔、近世は石臼が主体)
3
A
秋川河原沿いの伊奈石採掘遺構
あきがわ、いないし
あきる野市
秋川
採石場
中世~近世
市教委
河原の石に矢穴があるので見やすい
横沢入に比べ圧倒的に規模が小さい
2
C
東長沼の常夜灯
ひがしながぬま
稲城市
上新田
石常夜灯
寛政6(1794)
稲城市の石造物p73
原位置/笠・火袋欠損
(竿正面)「小御嶽大權現/榛名山大權現」、(竿左面)「秋葉山大權現」、(竿裏面)「石尊大權現/青沼大明神」
3
東長沼の庚申塔道標
ひがしながぬま
稲城市
上新田
石道標(舟型)
高70㎝,幅34㎝
元禄5(1692)
稲城市の石造物p43
原位置/上部欠損
(左面)「大山道
□
里半」/正面に青面金剛立像(六手合掌、三猿)を陽刻/17世紀の道標
1
B
大丸用水の菅堀
おおまる、すげ
稲城市
多摩川→川崎市登戸/大丸用水土地改良区
用水路
江戸初期
市教委
現役だが農業利用の減少により親水空間化
幕府の「年貢増収」を目的とした利水政策の一環として開削/多摩川に長さ約182mの堰を築いて引水
2
B
吹上坂の切通し
ふきあげ
青梅市
切通し
長37m,幅4m,高10m
文政11(1828)
市教委/WEB
旧状を留める
名主・野崎嘉右ヱ門が中心になり、峠頂部の難所を切り開いた/成木から石灰を運搬する牛馬も通行しやすくなった
3
C
青梅新町の大井戸
おうめしんまち
青梅市
大井戸公園
掘下げ井
(渦巻き状)
長径33m,短径22m,深7m
中世由来→慶長16(1611)大改修
都史跡
市教委/WEB
平成10(1998)に復元・整備
羽村市のまいまいず井戸同様に、すり鉢状の石組井戸/「まいまいず」としては最大級/掘り抜き井戸の技術が普及する以前の築造→慶長16から土豪的農民・吉野織部之助らによって始まる新田開発の際に大改修を受ける→塩野家井戸として使用
2
A
旧吉野家住宅の井戸
よしの
青梅市
<名主・吉野家>
掘抜井(木枠、屋根付き)
深23m?
慶長18(1613)
市教委/WEB
現在残っている家屋(都有形)は、安政2(1855)のもの
水位の低い(地下23mほど)開墾地に掘られた5本の井戸の1つ
2
C
野塩の道標
のしお
清瀬市
(1丁目)
石道標
高70㎝,幅24㎝,厚18㎝
明暦4(1658) or
宝暦4(1754)
WEB(鎌倉街道上道)
/市博物館
原位置?
(正面右)「をんたけ
□
だ大古んけん
□
…」(=御嶽
□
□
大権現)、(同左)
「御りやくを毛つて馬頭観世音
□
つる也/東門
□
へ」(=御利益をもって馬頭観音建つる也)、(左面)「是ゟ東ハ 西薬師入口」(近くの円福寺薬師堂?)、(裏面下部)「右り 江戸道/向ハ 所沢道/左り のみち」/紀年銘は右面に「…厂四戊(戌)年二月吉日」とあるが、厂が暦だとすれば明暦4、宝暦4とも「戌」を含むので可能性は同程度→清瀬市博物館では、隣接する地蔵菩薩が明暦3の建立で材質が似ている点と、市内の宗教施設の建立が17世紀に集中するので明暦4の建立とみなしている→明暦4の建立とすれば、裏面の標記はこの時期としてはあり得ないような道標標記であり、宝暦4の可能性も十分にあり得ると考える
1
B
中里の馬頭観音道標
なかざと
清瀬市
(1丁目)
石道標
高82㎝(うち、台石20㎝),幅27㎝,厚19㎝
文政11(1828)
WEB(鎌倉街道上道)
移設(C基礎)
(正面右下隅)「右 ところさ王」、(同左下隅)「左 くめか王」/正面中央に「馬頭觀世音」と陰刻
2
C
野火止用水
のびどめ
清瀬市・小平市・東村山市・
埼玉/
新座市
玉川上水
用水路
長25㎞
承応4(1655)
WEB
東京都の「清流復活事業」により昭和59水流復活/水路は人工的
施主:川越藩主・松平信綱、補佐:安松金右衛門・小畠助左衛門/生活・灌漑用水確保のために、玉川上水から3割の分水を許されたもの/工期40日、費用3000両
3
B
谷保の秋葉山常夜灯
やほ
国立市
南養寺 <甲州街道>
石常夜灯
高2.21m
寛政6(1794)
市登録有形
WEB/現地解説板
道路改修のため移設
(竿正面)「秋葉大權現」、(竿右面)「榛名大權現」、(竿左面)「天満宮」/中台3面に浮彫/大正期まで村人が毎夕交代で灯りを点した/もとは上谷保村の油屋の隣に建立
2
C
青柳の秋葉山常夜灯
あおやぎ
国立市
青柳福祉センター
<甲州街道>
石常夜灯
高1.99m
寛政11(1799)
市登録有形
WEB/現地解説板
竿の右・左面が表面剥離→標題の「秋葉山」の刻字も滅失
(竿正面)「正一位稲荷大…」/解説板によれば竿の側面に「秋葉大權現」「榛名大權現」と刻字されているとあるが不明/中台3面に浮彫/昭和初期まで村人が毎夕交代で灯りを点した
3
C
青柳の石橋供養塔
あおやぎ
国立市
青柳福祉センター
石碑
高59㎝
嘉永元(1848)
市登録有形
WEB/高橋 努
移設
(正面)「石橋供羪塔」/青柳稲荷神社の参道橋の供養塔?
2
-
谷保の石橋供養塔2
やほ
国立市
石碑(自然石)
高43㎝
嘉永3(1850)
市登録有形
WEB/高橋 努
移設/下部埋設(埋設がなければ高60㎝以上)
(正面)「石橋供…」/永福寺住職が架けた石橋の再々修築に関わる供養塔?
3
-
府中用水
ふちゅう
国立市
多摩川
用水路
元禄6(1693)
疏水百選
WEB
ほとんどが暗渠化/城山歴史環境保全地域の付近は良好な景観
多摩川左岸の7つの町と村の灌漑・生活用として、旧多摩川の河道を利用する形で開削された用水(当初、「七ヵ村用水」と呼ばれた)
3
B
中町の地蔵道標
なか
小金井市
<江戸道>
石道標(丸彫)
高163㎝(うち、台石67㎝)
享保元(1716)
市教委
/WEB(鎌倉街道上道)
2度移設、集約/木祠内
(台石右面)「左ハ 国分寺道/右ハ 須奈川道」/台石上に地蔵立像(蓮台)の丸彫を載せる
2
B
玉川上水
(素掘区間)
たまがわ
小金井市・小平市
多摩川
(茜屋橋~新小金井橋)
上水路(素掘)
総延長約43㎞のうち約8.4㎞
承応3(1654)
国史跡
玉川上水現況調査報告書/市教委
中流部においては、昭和61から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/市内の茜屋橋~新小金井橋間には当時の素掘りが残る
総奉行: 老中・松平信綱、水道奉行: 伊奈半十郎忠治(没後は半左衛門忠克)、施工: 庄右衛門・清右衛門兄弟(褒賞として玉川姓を賜る)/江戸の人口急増による水不足解消のために、羽村市で多摩川から取水し、四谷大木戸まで掘られた素掘りの上水路/開渠部の30kmが国指定史跡
2
B
泉町の東山道武蔵路
・跡
いずみ
国分寺市
隣接地:都立武蔵国分寺公園 <旧国鉄中央学園跡地>
道路
側溝表示区間
:長490m,幅15m
宝亀2(771)以前
国史跡
木下 良/WEB/市教委(国分寺市の文化財)
旧国鉄中央学園跡地の開発により発掘調査後、地下約0.8~1mの所に埋設保存/地表面は土色のアスファルトとし、発掘された側溝の位置および形状をアスファルト上に黄色の塗装で忠実に示す
新田駅(群馬)から東山道本道と分かれて武蔵国府に通じる駅路→宝亀2に武蔵国が東海道に所属替えになったため廃止/発掘調査により4期の変遷が確認→第1期は両側溝間12mの道路遺構が、中央線北側を含め約490mにわたり一直線に通っていることが判明/都指定地の約100m南で上記道路跡の延長部が検出されたが、ここでは1~3期の変遷が確認
2
胎内堀
たいないぼり
国分寺市
玉川上水(中藤新田分水)
用水路(暗渠)
断面
:30㎝×30㎝
慶応4(1868)
市教委(国分寺市史・中巻)
現在竪穴の大部分は埋没→暗渠部分を観察することは難しい
国分寺崖線上を暗渠にした分水路=最初から全線暗渠化された分水は珍しい/清掃用に竪穴が点在
3
B
真姿の池
ますがた
国分寺市
真姿弁財天
湧水
3.6m×3.6m
嘉祥元(848)伝承
都指定名勝/名水百選/東京の名湧水57選
WEB/市教委(国分寺市の文化財)
名水百選の「真姿の池湧水群」の一環/現役の湧水がすぐ脇にある
不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21回参詣すると、童子が現れ、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、その通りにしたところ、すぐに病は癒え、元の美しい姿に戻ったという伝承に由来する名
1
C
姿見の池
すがたみ
国分寺市
国分寺姿見の池緑地保全地域
湧水
鎌倉由来(伝承)
東京の名湧水57選
WEB/市教委
昭和40代に埋立て→平成10年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助で復元・再生
鎌倉街道の宿場町・恋ヶ窪の遊女達が自分の姿を見ていたという伝承に由来する名/周辺からの湧水が主な水源
2
C
神明宮の石橋
しんめい
小平市
神明宮
石桁橋
嘉永年間(1848-54)
小平の石造物p16
保存状態良好
高欄の左側面に寄進者16名の名前他が一面に刻字されている
1
-
小川町の秋葉山常夜灯1
おがわ
小平市
神明宮
石常夜灯
高1.91m
文化12(1815)
小平の石造物p22
移設(もと、小川三番組)
(竿正面)「秋葉山」、(竿左面)「榛名山」、(竿裏面)「神明宮」
2
C
花小金井の石橋供養塔
はなこがねい
小平市
円成院
石碑(尖頭角柱)
高67㎝,17㎝角
文化5(1808)
小平の石造物p160
移設?
(正面)「石橋四ヶ所供養塔」
2
-
小金井の桜
こがねい
小平市・小金井市・西東京市・武蔵野市
玉川上水
桜並木(水路)
長約6㎞
元文2(1737)?→嘉永年間に大補植→その後も補植を続行
国名勝
市教委/小金井市教育委員会/WEB
小金井市参照
小金井市参照
2
野火止用水
のびどめ
小平市・清瀬市・東村山市・
埼玉/
新座市
玉川上水
用水路
長25㎞
承応4(1655)
市教委/WEB
東京都の「清流復活事業」により昭和59水流復活/水路は人工的
施主:川越藩主・松平信綱、補佐:安松金右衛門・小畠助左衛門/生活・灌漑用水確保のために、玉川上水から3割の分水を許されたもの/工期40日、費用3000両
3
B
和泉本町の聖観音像道標
いずみほん
狛江市
松原庚申堂
石道標
高90㎝,幅25㎝
文化2(1805)
市教委(狛江市の石造物p31)
移設/中央で水平に折損→修復
(台石正面)「東/六郷道/南/のぼりと/道」、(台石右面)「北/たかいど/道」、(台石左面)「西/ふちう/道」/正面に聖観音立像(蓮の花、蓮台)を陽刻
3
C
弁財天池
べんざいてん
狛江市
泉龍寺
湧水
約200㎡
戦国末期
市史跡
WEB
昭和47、周辺の宅地化により枯渇→翌年文化財指定後に復元
泉祝和尚という禅僧が、旅の途中に発見したのがきっかけ(泉龍寺の名も泉にちなんだもの)
2
C
富士見町の秋葉山常夜灯1
ふじみ
立川市
(4丁目)
石常夜灯
高2.03m
寛政9(1797)
立川の野仏をたずねてp143
原位置?
(竿正面)「秋葉大權現」/中台に浮彫り/石基壇なし
1
C
砂川町の秋葉山常夜灯
すながわ
立川市
天王橋・際
石常夜灯
高1.73m
文化3(1806)
立川の野仏をたずねてp144
/WEB(鎌倉街道上道)
原位置?/火袋更新
(竿右面)「秋葉大權現」、(竿左面)「榛名大權現」/中台4面に浮彫り/竿が角柱状/石基壇なし
2
C
砂川分水
すながわ
立川市
玉川上水
上水路
長4㎞
明暦3(1657)
WEB
現役の灌漑用水/C改修
野火止用水の次に古い分水/砂川新田の飲用水(伸延後、深大寺用水と名称変更)
3
C
柴崎分水
しばさき
立川市
玉川上水
上水路
長8㎞
元文2(1737)
市史跡
WEB
現役の灌漑用水/C改修
柴崎村・芋窪新田の飲用水や農業用水
3
C
元・
本郷の尾張藩鷹場標杭
ほんごう、
おわりはんたかば
立川市
立川市歴史民俗資料館
石杭
高77㎝,14.5㎝角
享保2(1717)以降
→幕末に廃止
立川市歴史民俗資料館/立川の野仏をたずねてp170-171
資料館の敷地内に展示(日野市本郷にあったものが流されてきた)
(正面)「尾張殿鷹場」、(右面)「是より川上 羽村」「川向う杭」/鷹場の境界を示す石杭(尾張藩鷹場には84本の石杭があり30余本が現存)
3
C
南野の鎌倉裏街道
・跡
みなみの
多摩市
一本杉公園
<鎌倉裏街道(推定ルート)>
土
道
長約10m
鎌倉時代?
市教委
一部弧状に窪んだ古道跡が所在
鎌倉時代の主要幹線、鎌倉街道上道に並行した鎌倉古道(鎌倉街道上道に対して、鎌倉裏街道、鎌倉脇街道等とも呼ばれる)
3
C
諏訪の馬頭観音像道標
すわ
多摩市
(三丁目馬引沢共同墓地)
石道標
(自然石)
高104㎝,幅58㎝,厚37㎝
天保4(1833)
市教委
移設
(台座)「南 おのち道/左 東 さかはま道/北 ふちう道」/
全面に「馬頭観世音」が陰刻
2
C
霞ノ関南木戸柵
・跡
かすみのせき
多摩市
<鎌倉街道(推定ルート)>
木戸柵跡の穴
16
個
建保元(1213)
都史跡
市教委
昭和30代に熊野神社参道際の土居を発掘したところ、丸柱の痕跡が45㎝間隔で16ヶ所確認された→指定に伴い柱穴列を復元
鎌倉街道に設けられた関の柵跡とされる/和田合戦に関連した豪族横山党の滅亡を受け、横山党の残党に備えて設置された軍事的な関所とみられる
3
B
旧飛田給の秋葉山常夜灯
とびたきゅう
調布市
石常夜灯
高2.2m
弘化3(1846)
市教委(調布市の石造物2)
調布市交流館脇に移設/竿石の受石は更新
(竿正面)「秋葉大權現」、「榛名大權現」「鎮守両社宮大權現」/火袋・台石・基壇最上段とも非常に装飾的
2
B
小島町の秋葉山常夜灯
こじま
調布市
西光寺<甲州街道>
石常夜灯
弘化3(1846)
WEB
保存状態良好
(竿正面)「秋葉大權現」、「榛名大權現」「鎮守両社宮大權現」/火袋・台石とも非常に装飾的/猫脚
1
B
若葉町の石橋供養塔
わかば
調布市
(3丁目)
石碑
高90㎝,幅28㎝,厚18㎝
寛政2(1790)
調布市の石造物1p30
原位置?
(正面)「(梵字3)奉納、秩父/西國/坂東、百牧兼石橋建立惣供養」
1
C
深大寺元町の敷石供養塔
じんだいじもと
調布市
深大寺
石碑
高192㎝
寛政9(1797)
調布市の石造物2p36
移設?
(台石正面)「敷石供羪塔」/正面に地蔵の半跏坐像を陽刻
2
B
入間町の石坂供養塔
いりま
調布市
明照院
石碑
高73㎝,幅29㎝
天保12(1841)
調布市の石造物2p72
移設?
(正面)「(梵字)石坂供羪塔」
2
-
泉町の庚申塔道標1
いずみ
西東京市
如意輪寺
石道標(笠付き)
高168㎝(うち、台石35㎝),幅35.5
㎝,厚34㎝
元禄14(1701)
市教委/保谷の石仏と石塔2p29-30
/WEB(鎌倉街道上道)
移設、集約
(右面下部左端)「これよ里東ハ ね里満道」、(左面下部右)「これよ里西ハ 田無
□
」/正面に青面金剛立像(日月、六手合掌、二鶏、三猿)を浮彫り/右・左面に蓮の花の浮彫り/笠正面に唐破風/下記の「泉町の地蔵・廻国塔道標」と並ぶ
2
B
玉川上水
(素掘改修区間)
たまがわ
西東京市・武蔵野市・三鷹市・杉並区
多摩川
上水路
(素掘、C改修)
総延長約43㎞のうち約9.2㎞
承応3(1654)
国史跡
玉川上水現況調査報告書/WEB
中流部においては、昭和61から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/護岸の一部がC改修
総奉行: 老中・松平信綱、水道奉行: 伊奈半十郎忠治(没後は半左衛門忠克)、施工: 庄右衛門・清右衛門兄弟(褒賞として玉川姓を賜る)/江戸の人口急増による水不足解消のために、羽村市で多摩川から取水し、四谷大木戸まで掘られた素掘りの上水路/開渠部の30kmが国指定史跡
2-3
B
千川上水
せんかわ
西東京市・武蔵野市
玉川上水
上水路
総延長約22㎞のうち約5㎞
元禄9(1696)
→宝永4(1707)農業用
WEB
平成元から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/C護岸
設計: 河村瑞賢、施工: 仙川村の太兵衛・徳兵衛(開削の功により、仙の字を吉字に改めて千川とし、2人に名字として与えた)/飲用から農業両用、農業専用、飲用兼用と変遷
2
B
鑓水の絹の道
・跡
やりみず
八王子市
(御殿橋・袂~「絹の道碑」・前)<神奈川往還>
道路
約1.5㎞
江戸末期
市史跡/歴史の道百選
WEB/市教委
当時の雰囲気が残る(未舗装)
いったん八王子宿に集められてから横浜に運ばれた絹の通り道
1
B
裏高尾町の常夜灯
(三度飛脚常夜灯)
うらたかお
八王子市
宝珠寺
<甲州街道・小仏宿>
石常夜灯
高1.25m
文久2(1862)
高橋 努/WEB
移設
(台石正面)「甲府/三度/飛脚/中」/小仏宿の三度屋は甲州三度飛脚(毎月甲府と江戸を3度往復した)の定宿であった/甲州三度飛脚が奉納した常夜灯
2
C
念佛院の「時の鐘」
ねんぶつ
八王子市
(上野町)
木造楼閣
元禄12(1699)
現地解説板
昭和20空襲で焼失→昭和29再建
八日市名主、千人頭、千人同心、宿内十五組、近郷村々の協力で鋳造された時を告げる鐘
3
B
五ノ神の道標
ごのかみ
羽村市
石道標(自然石)
元文5(1724)
青梅市の石仏p261
「右、ちゝふ/阿まてら、道」「左、あふめ/みたけ、道」
2
-
天笠の庚申塔道標
羽村市
石道標
享保9(1740)
青梅市の石仏p261
下部で折損し修復
「みき、ちゝ婦/あまてら、道」「ひたり、あふめ/
□□□
、道」/全面に青面金剛像を陽刻
2
C
五ノ神のまいまいず井戸
ごのかみ
羽村市
五ノ神神社
掘下げ井
(渦巻き状)
直径16m→5m,深4.3m,中央の掘り井戸部直径1.2m
鎌倉時代の創建→
元文6(1741)普請→
昭和35(1960)使用停止
都史跡
WEB
すり鉢状の窪みの中央に掘り井戸が残る
技術が未発達の時代に筒状井戸の掘りにくい砂礫層地帯に井戸を設けるために螺旋構造/地元伝説では大同年間(806-810)に遡るが、史料上の根拠はない
1
中央町の石橋供養塔
ちゅうおう
東久留米市
(3丁目)
石碑(尖頭角柱)
高52㎝,幅30㎝,厚20㎝
宝暦10(1760)
市有形民俗
東久留米市文化財資料集7p54-55
/WEB(鎌倉街道上道)
原位置?
(正面)「石橋日本廻國供養塔」
1
-
沢頭の湧水
さがしら
東久留米市
南沢の湧水群
湧水
南沢の湧水群全体で日量約1万t
江戸期
平成の名水百選
市教委/現地解説板/WEB
都の緑地保全地域/源泉地は南沢浄水場内(立入禁止)
市内の水道水に混入使用
2
A
門前厳島神社の湧水
もんぜんいつくしま
東久留米市
湧水
市教委
水量減少/C側壁
かつてが水量が多く、灌漑用にも使われていた
3
C
本町の鎌倉街道上道
・跡
ほんちょう
東村山市
<鎌倉街道上道(推定ルート)>
道路
約1㎞
鎌倉時代?
市史跡
WEB(鎌倉街道上道)
/市教委
市街地化/舗装(一部2車線)
頼朝が 鎌倉に入り東国支配確立の頃には街道として整備されていたとされる(~17世紀初頭)
4
C
美住町の石橋供養塔
みすみ
東村山市
(2丁目)空堀川水系
<所沢道、山口道>
石碑
(隅丸型、道標兼)
高108㎝,幅37㎝,厚22.5㎝
寛政9(1797)
東村山市 野の神・野の仏p117-118/市教委
/WEB(鎌倉街道上道)
移設
(正面)「石橋供養塔」、(右面左)「右 所澤道」、(左面)「左 山口道」
2
C
野火止用水
のびどめ
東村山市・小平市・清瀬市・
埼玉/
新座市
玉川上水
用水路
長25㎞
承応4(1655)
現地解説板/WEB
/WEB(鎌倉街道上道)
東京都の「清流復活事業」により昭和59水流復活/「万年橋のケヤキ」の下を掘った部分(
写真
)は原形を保つ/多くの水路は人工的
施主:川越藩主・松平信綱、補佐:安松金右衛門・小畠助左衛門/生活・灌漑用水確保のために、玉川上水から3割の分水を許されたもの/工期40日、費用3000両
1-3
B
奈良橋の庚申塔道標
ならはし
東大和市
雲性寺
石道標(笠付き)
高165㎝(うち、台石34㎝),幅40㎝,厚29㎝
享保16(1731)
東大和市史資料編6p213-214/8p113-114
/WEB(鎌倉街道上道)
移設
(台石正面中央)「東 江戸道」、(台石右面中央)「北 く王んをんみ…」、(台石左面左)「南 府中道」、(同左端)「西、右 中藤/左 青梅」/正面に青面金剛立像(日月、六手合掌、邪鬼、三猿)を陽刻/笠正面に唐破風/下記の「奈良橋の供養塔道標」と並ぶ
2
B
清水の石橋供養塔3
しみず
東大和市
(1丁目)清水観音堂
石碑(尖頭角柱)
高124㎝,幅37㎝,厚20㎝
天保4(1833)
市郷土資料
東大和市史資料編6p98-99,181
/WEB(鎌倉街道上道)
移設/上記「供養塔3」と同じ敷地内に放置
(正面)「石橋供養塔」
2
C
蔵敷高札場
・跡
ぞうしき
東大和市
高札場
木製(屋根付き)
慶長8(1603)
都旧跡
WEB
バス停が前にあり、そぐわない
多摩地区に残る2ヶ所の高札場の1つ
2
C
万願寺一里塚
まんがんじ
日野市
<甲州街道>
一里塚(1基)
慶長9-15(1604-10)
市史跡
市教委/現地解説板
北塚は昭和43撤去、南塚のみ残る(改修)/平成15の発掘調査を踏まえ、旧甲州街道(幅5.4m)の一部も保存・整備
日本橋から9里目/発掘調査の結果、塚の崩落を防ぐため道との境に三段の石積みがなされ、その上に宝永の火山灰(1707)が見つかった
3
C
百草の馬頭観音道標
もぐさ
日野市
石道標(墓石型)
高148㎝(うち、台石3段55㎝)
天保5(1834)
高橋 努
移設
(2段目台石正面)「八/景/山/松/連/寺/道」/正面に「馬頭觀世音」と陰刻
2
C
南平の石橋供養塔
みなみだいら
日野市
石碑
高67㎝(うち、台石22㎝)
明和2(1765)
高橋 努
移設
(正面)「石橋供養佛村中」/堂内にある石橋供養仏のための供養塔(?)
2
-
東光寺大橋の碑
とうこうじ
日野市
<東光寺道/日野用水・上堰堀>
石碑(板碑型)
高83㎝
(塔身のみ)
弘化3(1846)
市史跡
高橋 努
移設/台石は後補
(正面頂部装飾下)「石/橋/碑」、(同・その下)「武州日野駅本郷東光寺村有溝圯橋以為/往来古昔栽槻樹于圯橋之四隅累世繁茂/嫡車馬之用天明丙午年伐一樹而為板橋/以代圯橋里老曰是非不朽之謀也願以石/歟衆咸為然焉因賣三樹以充資乞不足於/隣里文化戊辰年石橋落成
□
然石質疎悪/不能久保天保年間橋終崩矣弘化丙午星/邑人與成就院法印子惠勠力而遠求豆州/之石爲橋於是乎石質緻密以可期
□
久為/農夫耕耘之補示不偉哉」/頂部に装飾的な陽刻/「土橋→木橋→材質の悪い石橋→材質の良い石橋」と架け替えの変遷が示されている(きわめて稀)
2
B
川辺堀之内の堤防
かわべ、
ほりのうち
日野市
駒形公園<浅川>
土水制
長約20m,高0.7m
江戸期?
市教委/高橋 努
公園内に保全
「信玄堤」とも呼ばれていた/小規模
3
C
筏道(品川街道、 いききの道、ハケタ道)
いかだ
府中市
道路
江戸期~
WEB
散歩道として普通に整備
奥多摩から江戸まで、多摩川を筏で下っていた筏師の帰路/国府から東海道に通じる脇街道/六社宮の大祭に用いる清め水を、品川沖で水を汲む禊祓式の神事に向かう神主の歩いた道/崖に沿った小径に由来する名称
2
C
寿町のまいまいず井戸
ことぶき
府中市
郷土の森博物館
掘下げ井
(渦巻き状)
平安時代
WEB
埋蔵文化財の発掘調査で発見→公園内に再現
典型的な渦巻き状井戸
3
B
弁慶の井戸
べんけい
府中市
高安寺
掘抜井
(石枠:四角)
鎌倉時代
現地解説板
/WEB(鎌倉街道上道)
井戸の石枠は中世まで遡らない
源頼朝の怒りを買って鎌倉入りを許されなかった義経一行が、この寺に滞在した際、弁慶が段丘崖下にある井戸水で墨を摺り赦免嘆願のための大般若経を書写したとの伝承あり
2
C
本町の道標
ほんちょう
福生市
石道標(自然石)
高77㎝,幅45㎝
元治元(1864)
市教委
転倒
「右、はいじま/八王子、左、山口/所沢、道」
2
-
福生の一石一字道標
ふくさ
福生市
清岩院
石道標(墓石型)
高131㎝,幅33.5㎝,厚30.5㎝
元治2(1865)
市教委
移設
「右、江戸/すな川、左、はこね/所沢/まちや」
2
C
玉川上水旧水路
たまがわ
福生市
<玉川上水>
上水路
長600mを掘替え→約40m
元文5(1740)
市史跡
WEB/市教委
新水路の多摩川寄りに保存
多摩川の洪水被害を避けるため新水路に掘り替えられた際の旧水路
2
C
伝・
地頭井戸
じとう
福生市
掘抜井(C枠、掘抜部:野面積)
深約3m
江戸期
市登録
WEB/市教委
8角のC枠、汲み上げ器設置
熊川鍋ヶ谷戸地区を知行した旗本が、水不足に悩む領民のために井戸を掘り与えたとの伝承
4
C
相原の七国峠古道
・跡
あいはら、
ななくに
町田市
<鎌倉古道(推定ルート)>
道路(堀割状遺構)
長1㎞以上
鎌倉時代?
WEB(鎌倉街道上道)
堀割状の様子がよく残る
鎌倉古道のルートとされている/奈良時代に起源をもつとも言われている/鎌倉古道の遺構の中で延長1㎞以上に渡って残る例はきわめて稀
1
小野路一里塚
おのじ
町田市
<大山道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB(鎌倉街道上道)
平成3復元
4
C
木曽一里塚
きそ
町田市
<大山道>
一里塚(1基)
江戸期
市史跡
市教委
西塚のみ残る/改変が大きい
塚上に武州御嶽山の大口真神の小祠
4
-
七国山の鎌倉井戸
ななくにやま
町田市
<鎌倉街道(推定ルート)>
掘抜井(木枠)
深約4m(地表面下1.5mから70㎝径)
鎌倉時代?
市史跡
市教委/WEB(鎌倉街道上道)
表土部分は木枠で修復/枯渇
街道を往来する人馬用との伝承
3
B
井の頭弁財天の太鼓橋
いのかしら
三鷹市
井の頭弁財天
石桁橋
(3G)
文化14(1817)
市重宝
WEB/みたかの石造物p89
高欄→鋼製
石橋脚に石桁を置いた最も単純な構造/施主: 伊勢屋由兵衛
2
C
玉川上水
(素掘改修区間)
たまがわ
三鷹市・西東京市・武蔵野市・杉並区
多摩川
上水路
(素掘、C改修)
総延長約43㎞のうち約9.2㎞
承応3(1654)
国史跡
玉川上水現況調査報告書/WEB
中流部においては、昭和61から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/護岸の一部がC改修
総奉行: 老中・松平信綱、水道奉行: 伊奈半十郎忠治(没後は半左衛門忠克)、施工: 庄右衛門・清右衛門兄弟(褒賞として玉川姓を賜る)/江戸の人口急増による水不足解消のために、羽村市で多摩川から取水し、四谷大木戸まで掘られた素掘りの上水路/開渠部の30kmが国指定史跡
3
B
井の頭池
いのかしら
三鷹市
井の頭恩賜公園<神田上水>
湧水
縄文期(竪穴式住居遺跡)→平安中期(井の頭弁財天)→寛永6(1629)頃
都旧跡
WEB
桜で有名
神田上水の主要な水源/「井の頭」の命名は、3代将軍・家光とされる(意味は、「上水道の水源」「このうえなくうまい水を出す井戸」の2説)
2
B
吉祥寺東町の井頭弁財天道標
きちじょうじひがし
武蔵野市
武蔵野八幡宮
石道標(尖頭角柱)
高約2m
天明5(1785)
WEB
WEB
3度目の移設
(正面頂部)「神田/御上水」、(正面)「井之頭辨戝天」、(左面)「これよりみち」
2
C
境取水口
・跡
さかい
武蔵野市
玉川上水→品川用水
<取水堰>(石垣)
寛文9(1669)
品川用水「溜池から用水へ」
取水口(木製)はなく、Cが充填/両側の江戸期の石垣が残る
施主:幕府、請負: 尾張屋金兵衛ら5名/品川用水は、玉川上水の分水の中で最長
4
C
小金井の桜
こがねい
武蔵野市・小平市・小金井市・西東京市
玉川上水
桜並木(水路)
長約6㎞
元文2(1737)?→嘉永年間に大補植→その後も補植を続行
国名勝
小金井市教育委員会/WEB
小金井市参照
小金井市参照
3
C
玉川上水
(素掘改修区間)
たまがわ
武蔵野市・西東京市・三鷹市・杉並区
多摩川
上水路
(素掘部分改修)
総延長約43㎞のうち約9.2㎞
承応3(1654)
国史跡
玉川上水現況調査報告書/WEB
中流部においては、昭和61から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/護岸の一部がC改修
総奉行: 老中・松平信綱、水道奉行: 伊奈半十郎忠治(没後は半左衛門忠克)、施工: 庄右衛門・清右衛門兄弟(褒賞として玉川姓を賜る)/江戸の人口急増による水不足解消のために、羽村市で多摩川から取水し、四谷大木戸まで掘られた素掘りの上水路/開渠部の30kmが国指定史跡
2
B
千川上水
せんかわ
武蔵野市・西東京市
玉川上水
上水路
総延長約22㎞のうち約5㎞
元禄9(1696)→宝永4(1707)農業用
WEB
平成元から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/C護岸
設計: 河村瑞賢、施工: 仙川村の太兵衛・徳兵衛(開削の功により、仙の字を吉字に改めて千川とし、2人に名字として与えた)/飲用から農業両用、農業専用、飲用兼用と変遷
2
B
三ツ木の秋葉山常夜灯
みつぎ
武蔵村山市
(3丁目)青梅街道・赤稲荷
石常夜灯
高約2m
文久4(1864)
WEB(鎌倉街道上道)
原位置?
(竿正面)「正一位稲荷大明神」、(竿左面)「榛名山大權現」、(裏面)「秋葉山大權現」/中台と最上段台石4面に浮彫り/猫脚/石基壇なし
1
C
中藤の馬頭観音道標
なかとう
武蔵村山市
(1丁目)
石道標(隅丸型)
高149㎝(塔身のみ),幅35.5㎝,厚20㎝
享和元(1801)
武蔵村山市の馬頭観音p51-52
/WEB(鎌倉街道上道)
移設/台石は更新の可能性
(正面最下部右)「みなみ 八王子」、(同左)「きた、ふじ山/やま口」、(左面最下部右)「にし さやまへ」/正面に「(梵字)馬頭觀
世
音菩薩」と陰刻(
緑字
は異体字)
2
C
岸の石橋供養塔
きし
武蔵村山市
根通り
石碑
天保15(1844)
武蔵村山の川p37
移設・保管(もと、横丁川)
(正面)「石橋供羪塔」
3
-
中央の石橋供養塔
ちゅうおう
武蔵村山市
日吉神社・入口
石碑
高154㎝,幅36㎝,厚23㎝
慶応2(1866)
武蔵村山の川p39-40
/WEB(鎌倉街道上道)
移設(もと、神社東を流れる細い流路に架かる?)
(右面)「石橋供養塔」/正面に「南無妙法蓮華経」と陰刻
2
C
中藤の坂道供養塔
なかとう
武蔵村山市
入り天満宮・石段上
石碑(尖頭角柱)
高72㎝,幅32㎝,厚19㎝
天保4(1833
WEB(鎌倉街道上道)
移設(基部露出)
(正面)「阪道修理供養塔」/上記の「中藤の石橋供養塔2」と並ぶ
2
-
泉津の椿トンネル
せんづ
〔大島〕大島町
(大島)
都道・八丈循環線
椿並木<防風林>
江戸期~戦後
WEB
樹齢400年の古木1本他は、樹齢200年級の古木が混在する
大島特産のヤブツバキの巨木がトンネル状になっている/元々は、防風目的で植えられていた後に道路を作り、椿を補植し、並木状にしたのではないかと推測される(絞油目的なら面的に植樹するはず、大島では一般的に防風用に椿を植えた)
2
A
ハマンカー
(浜の川)
〔大島〕大島町
(大島)
掘抜井(C枠)
弘化年間(1844-48)
町教委
八角のC製井戸枠が、井戸の原型に関係なく後付けされている
幕府の命で、尾張屋金兵衛らが請け負う/自然石の石敷きあり/井戸周囲を黒色火成岩の石積塀が四角く囲む/琉球風の名称
3
C
神津島
の野牛垣
こうづ
〔大島〕神津島村
(神津島)
石積、堀
江戸期
村教委
野牛の侵入を防ぐための施設/小規模
C
十三社神社の参道橋
じゅうさんしゃ
〔大島〕新島村
(新島)
十三社神社
石アーチ橋
(コーガ石)
(2A)
江戸期
村教委/WEB
保存状態良好/十三社神社内はコーガ石芸術の宝庫(本殿の両脇にある摂社は総石造り)
アーチ構造を100%理解しているとは思えないような迫石の配置/新島特産のコーガ石を用いたディテールの加工は見事/碁盤目状の石を45度傾けて並べた橋面石がユニーク
1
B
丸山の方角石
まるやま
〔大島〕新島村
(式根島)
方角石
文化12(1815)
村旧跡
WEB
戦争で破壊→複製
伊能忠敬門下の測量隊が神引山に設置/八角形
3
B
原町の網納屋
はらちょう、あみなんや
〔大島〕新島村
(新島)
木造萱葺屋根
(寄棟、高床式)
江戸期
村教委/WEB
昔は多数存在していた→1棟のみ残る
地引網に使われていた漁具を入れる倉庫/4本の背の高い石杭上に載る
1
B
式根島の塩釜
・跡
しきね
〔大島〕新島村
(式根島)
塩釜
寛永19(1642)
村旧跡
村教委/WEB
釜の破片が残る
寛永19に、新島から式根島に塩釜を移し釜衆三元が釜下海岸で製塩を始めたことに由来(年貢として、塩を納めていた)
4
B
原町の井戸
はらちょう
〔大島〕新島村
(新島)
掘下げ井
(非渦巻き
→直線通路)
正徳5(1715)
都史跡
WEB/村教委
保存状態良好
新島に初めて掘られた井戸/周囲すべてが石積構造
1
A
〔大島〕利島村
〔小笠原〕小笠原村
数馬の切通し
かずま
(西多摩)奥多摩町
切通し
延長20m,幅1.5m
→延長9m,
幅3.8m
元禄12(1607)
町史跡
現地解説板/町教委/WEB
岩盤を開削された切通しが残る/災害でアクセス道が破壊され、接近不能
石門状の開削/岩盤に火を焚いて水をかけツルハシと石鑿で開削/青梅街道の交通の要所
5
B
塩田
の道標
しおだ
(西多摩)日の出町
石道標(自然石)
寛保元(1741)
青梅市の石仏p261
「面、右 あふめみち/左 大久のみたけ道」
2
C
平井
の道標
ひらい
(西多摩)日の出町
石道標(自然石)
天保元(1830)
WEB
「面、右 あうめみち/左 大久の三たけ
□
」
2
C
駒繋石峠の駒繋石
こまつなぎいし
(西多摩)日の出町
<鎌倉街道>
馬つなぎ石
(自然石)
鎌倉初期?
WEB
畠山重忠が秩父から鎌倉への途中、馬を繋いだとされる三角錐形状の石/馬を繋いだとされる小さな穴が残る(駒を繋ぐ適当な石がなかったので、重忠が指を押し当ててあけた穴との伝承)/峠の名前の由来
1
B
平井の高札場
・跡
ひらい
(西多摩)日の出町
石垣
江戸期
町史跡
WEB
石垣のみ残る
4
C
(西多摩)檜原村
石畑の秋葉山常夜灯
いしはた
(西多摩)瑞穂町
御嶽神社
石常夜灯
高1.60m
寛政11(1799)
瑞穂町文化財調査報告2p62
/WEB(鎌倉街道上道)
移設
(竿正面)「金峯山大權現」、(竿右面)「榛名山大權現」、(竿左面)「秋葉山大權現」/竿が角柱状/中台正面に装飾的浮彫り/台石頂部に蓮花模様
2
C
石畑の石橋供養塔3
いしはた
(西多摩)瑞穂町
御岳神社・前
石碑
高53㎝
嘉永6(1853)
瑞穂町文化財調査報告2p54
(正面)「石橋
□
ヶ所供養塔」
-
箱根ケ崎の尾張藩鷹場標杭
はこねがさき
(西多摩)瑞穂町
石標
高112㎝
享保2(1717)以降
→幕末に廃止
瑞穂町文化財調査報告2p65
移設
(正面)「従是東南 尾張殿鷹場」/鷹場の境界を示す石杭(尾張藩鷹場には84本の石杭があり30余本が現存)
2
C
〔八丈〕青ヶ島村
樫立の掘っ切り
かしたて
〔八丈〕八丈町
(八丈島)
<大坂道>
切通し
鎌倉時代?
WEB
保存状態良好(切通し部のみ)/島内でも観光地という認識は全くない
交通の妨げとなっていた岩山を、源為朝が弓で射抜いて切通しを造り、島の人を助けたとの伝説がある
2
C
三原山の硫黄沼
みはら
〔八丈〕八丈町
(八丈島)
溜池
室町時代
観光協会
島内を代表するハイキングルート
硫黄分が溶けて緑色になっている/すぐ上流に大正期の硫黄坑跡
2
C
大里の玉石垣
おおさと
〔八丈〕八丈町
(八丈島)
石垣・石塀
江戸期
WEB
陣屋周辺の民家の石垣・石塀として面的に分布
八丈島の強い海風に対する防風林の基壇的役割/流人達が玉石(30-40㎝)を積み上げて造ったと言われている(範囲は不明)
1
尾越の水汲場
おごし
〔八丈〕八丈町
(八丈島)
湧水
時期不詳
町史跡
WEB
水は出ているが、飲用には適さない
島内で最も原型を保った水汲み場/小規模
2
C
〔三宅〕御蔵島村
〔三宅〕三宅村
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