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 2013年 11月 ボブ・ディラン ライブ観戦 & リチャード三世, ロンドン ツアーレポート
 

Part 2 リチャード三世をめぐる旅 Looking for Richard in Leicester, Bosworth

        2013年11月26日 レスター,ボズワース・バトルフィールド

 King Richard V

 リチャード三世(1452−1485)は、イングランド,プランタジニット王朝ヨーク公爵家最後の国王である。
 ランカスター公爵家とヨーク公爵家の間で王位をめぐって争われた薔薇戦争のなか、兄エドワード四世が即位したが、その死後、そのプリンスたち(リチャードにとっては甥)が嫡出子ではないとして、リチャードが王位についた。これに反対するランカスター公爵家派に推されたヘンリー・チューダーとのボズワース・バトルフィールドでの武力衝突の末、リチャードは戦死。王位はヘンリー・チューダーのものとなり、チューダー王朝のルネサンス期が幕を開ける。

       

 武力で王位を勝ち取ったヘンリー・チューダーとその王朝にとって、自らの正当性を強固にするためにも、リチャードの存在は貶められなければならなかった。右肩が左肩より少し上がっていたというだけのリチャードの容姿を、著しいせむし(hunchback)で片手が萎えており、極悪非道のモンスター、そして行方不明となったエドワード四世の二人のプリンス殺しの犯人として広く喧伝したのである。シェイクスピアがその悪人リチャードを主人公に名作戯曲「リチャード三世」を作ったため、このリチャード像は英国民の間で広く流布するにいたった。
 しかし、あまりにも大袈裟に悪人リチャード像を作りあげてしまったために、逆にリチャードの実像はまったく違うのでは無いかと唱える人々 ― リカーディアンが出現することになった。
 王位に就く前はグロスター公爵として優秀な領主・貴族であり、兄王がもっとも信頼する有能な弟であったはずのリチャード。王位についてからも、不遇にあった甥などの若い親戚を救済し、兄王のプリンス二人を殺したにしては不自然な状況証拠も多く挙げられる。プリンスたちを殺したのは、本当はリチャードではなく、ヘンリーだったのでは…?
 リチャードを廻る考察に関する名作ミステリー小説 「時の娘 The Daughter of Time」(ジョセフィン・テイ)が有名だ。

 プリンス殺しの犯人についてはともかく、リチャードの遺骸がどこにあるのかということも長い間歴史研究家の注目点だった。リチャードはボズワースで戦死した後、遺骸は前日にリチャードが出陣した町であるレスターに移され、グレイ・フライアーズ・アビーに葬られた。しかし、その後この修道院が破壊されたため、リチャードには墓がないのだ。別の噂では、彼の遺骸は川に投げ捨てられたとも言う。

 2012年、レスター市とレスター大学、そしてリカーディアンの組織であるリチャードVソサイアティの共同研究として、グレイ・フライアーズ・アビー跡地 ― 今は駐車場になっている ― を発掘し、リチャードとおぼしき遺骨を発見するに至った。
 DNA鑑定の結果、遺骨は間違いなくリチャードのもの。530年の時を経て、リチャードは再び地上に現れたのだ。

 前置きが長くなったが、私はリカーディアンの一人。最近までは自分がリカーディアンとまでは言えまいと思っていたが、骨が出るとリカーディアンとしての自覚が芽生えた。エドワード四世のプリンスたちを殺したのがリチャードかどうかは Fifty-Fifty だと思っているが、とにかくリチャードは有能で行動力のある魅力的な人物だったはず。
 ロンドンへボブ・ディランを見に行くに当たって、レスターやボズワース・バトルフィールドへ行く絶好の機会を逃してなるものかと、決断した次第。幸い、日本一のリカーディアンであるATさんが同行してくれる。心強い援軍を得て、UK上陸の翌日、はるばるロンドンからまずはレスターを目指すことにした。

 ボズワース・バトルフィールドへの道

 ロンドンのセント・パンクラス・インターナショナル・ステーション朝8時15分発。特急で一路レスターへ向かう。タイムマネージメントに自信のある私にしてはめずらしく、ややギリギリの乗車となった。
 UK独特の指定席表示にとまどいながらも、なんとか席につき、朝日の上るロンドンを後にする。びっくりするほど、あっという間に町は終わり、なだらかな緑の地面が延々と続き、ヒツジや牛が点々としている田舎を進む。こんなに田舎が続くと、本当にレスターなんて大学町があるのかどうか心配になるが、9時28分、無事に電車はレスターに到着した。ロンドンよりだいぶ寒い。存外大きな町で、車の通りも多い。

 

 ATさんがメールで事前に予約してくれたタクシーも無事に発見し、一路レスターから20キロほど離れたボズワース・バトルフィールドへ。タクシーの運転手さんも慣れていないらしく、最後にきてナビが当てにならなくなったが、45分ほどかけて、どうにかこうにかボズワース・バトルフィールド・ヘリテージ・センターに到着した。

 ヘリテージ・センター・ミュージアム

 ボズワース・フィールド。どこまでも続く緑の丘。畑と、ヒツジと、散在する林以外は、なにもない所。そこに、ぽつねんとヘリテージ・センターの建物がある。レストランと、ミュージアム、事務所棟など。驚いたことに、このヘリテージ・センターに、次から次へと地元の小学生達が集団で押し寄せるのだ。10歳くらいの子たちだろうか。先生に引率され、わぁわぁと騒々しくミュージアムを見学している。
 その子供達に負けじと、極東からやってきたリカーディアンもミュージアムの展示を見学。想像していたよりも、ずっとしっかりした展示だった。

 1485年8月22日、このフィールドで行われた一大会戦の前夜、国王リチャード三世がレスターの町から軍勢を率いてやってくる ― そのとき、リチャードとヘンリー双方の貴族達の紋章や、当時の甲冑、武器などが並んでいる。そして当時の生活 ― たとえば食生活や、衣類、通信手段などもクイズ形式で展示するなど、なかなか凝っている。

 

 小さな液晶画面では、レスターでリチャードが宿泊した宿の小さな娘や、ヘンリー側についたフランス人兵士の妻、弓の名人であるイングランド人兵士、そしてリチャードを裏切り、ヘンリーに勝利をもたらすことになるスタンリー卿などが登場して、当時の様子を語ると言った、現代ならではの展示も行われている。中でも、スタンリーが最後までどちらに味方するか悩んでいた…という演出がされていたのが、面白かった。実際には、最初からヘンリー側へ寝返ると決めていたと思うのだが…

 ボズワースでの戦いの展開、勝敗がついた後、リチャードの遺体がレスターに戻され、晒されたこと、グレイ・フライアーズ・アビーに葬られたことなどがパネルで紹介された後は、なぜかチューダー朝の紹介になる。どうやら英国民はチューダー朝が好きらしい。そこはあまり興味がないので、子供たちを振り切るためにスルーし、最後の現代の研究,発掘状況についての展示を見る。
 いきなりガイコツ(たぶんレプリカ)が展示されているので、すわリチャードか?!と色めき立ったが、これがフェイント。ボズワースで発掘された一兵士の骨だった。リチャードの骨は写真で紹介されている。

 

 さらに歴史学者,考古学者達などの説をもとに、実際の戦場がどこだったのかを探る展示もあった。そう、実はこのヘリテージ・センター、従来から会戦のあった場所と言われているところに建っているが、実際の戦場はもう少し別の場所だったのではないかという説もあるのだ。

バトルフィールド

 本当は別の場所だろうがなんだろうが、とにかくここはリチャードが戦死したということになっている、ボズワース・バトルフィールドである。広々とした敷地には、散策コースが設けられている。曇ってはいるが、さいわい雨は降っていない。45分ほどはかかるという散策に出る。

 まず丘の上に大きなポールに旗があるが、無風のためまったく旗の柄が見えない。たぶん、セントジョージクロスと、リチャードの印であるイノシシのはずだが。それから、日時計になっているモニュメント。ヨークとランカスター、双方の印である赤と白のバラがかろうじて花を残している。 

 


 さらに、畑の間の小道をぐるりと周り、ところどころに、ボズワースの戦いに関する文書やオブジェを据えたポイントをたどっていく。こうなると実際の戦いとは直接関係なくても、とにかく周りきるためのポイントを追いかけるオリエンテーリング。途中、また別の小学生の一団に遭遇。道を間違える私たちに、先生が道を教えてくれたりしつつ、彼らを追い越してゴールを目指す。

 

 途中、戦いに参加した貴族の紋章が飾ってあったり、何も考えていなさそうなヒツジがゴロゴロしていたり、林を抜ける道があったり。そして最後に、「リチャード三世の井戸」なるものにたどり着く。なんでも、リチャードが戦場で最後に口にした水を、この井戸から得たのだと言う。たぶん、事実ではないだろうが、すでに大事なのは事実ではなくなっている。ボズワースに来た、ボズワースを廻った、リチャード最後の地にやってきたという達成感が爽やか心を満たした。

 散策を終わると、レストランで簡単に腹ごしらえ。ATさんはさすがに熱心で売店で買いものをしていたが、私は1ペニー硬貨を記念メダルにするにとどめた。
 タクシーの運転手さんはヘリテージ・センターで待っていてくれて、13時にボズワースを離れる。帰りは30分ほどですんなりレスターに到着した。
 レスターからボズワース・バトルフィールドに行くには、レスターからバスを利用し、マーケット・ボズワースから5キロほど歩くという手もあるようだが、これはあまり勧めない。やはり自分で車を運転するか、タクシー利用がおすすめだ。

 レスター,グレイ・フライアーズ・アビー跡

 さて、こんどはレスターの町の中で、リチャードや歴史的なポイントをチェックする。ここで参考にしたのが、レスター市が作成した、[King Richard V Walking Trail] 。これをもとに、まずはリチャードが戦場に向かう前、最後に宿泊したというThe Blue Bore Inn跡を訪ねるが、ここは新しいパブなどがあるだけで、当時の面影はまったくない。

 次はこれぞ最大の目的地、リチャードの骨が発見された駐車場を目指す。レスター市作成の地図によると、レスター大聖堂(11)とギルドホール(12)が北。ピーコック・レーンを挟んだ南側で、ニュー・ストリートの「西側」が、リチャードの骨が発掘された駐車場とある。10番の印の場所だ。

           

 実はニュー・ストリートの西側というこの位置、渡英前から違和感を持っていた。Google Mapのストリービューで覗いてみたのだが、どうにも雰囲気がおかしい。リチャードの遺骨発掘ドキュメンタリーに登場する駐車場とは、眺めが違いすぎるのだ。Google Mapの画像は古いのだろうと思って渡英し、実際にニュー・ストリートの西側を見ると、同じ違和感。これが、リチャードの骨が発見された駐車場だろうか…?
 どうにも様子がおかしいので、ニュー・ストリートを挟んで東側を見ると、やっと分かった。まさに重機が入って工事中。周りの建物からしても、こちらがあのリチャード発見の駐車場だったのだ。ぐるりと区画を回ってみても、間違いない。資料館の建設予定地として記されている13番の場所こそ、そこであった。
 レスター大聖堂側からATさんと二人で眺めていると、地元の人とおぼしき男性が声を掛けてくれた。曰く、確かにここがリチャード三世の遺骨が見つかった駐車場だと言う。親切な人で、今ギルドホールで発掘作業に関する展示をやっているから、見に行くと良いと言ってくれた。

 

 工事現場の入り口まで行って写真を撮ろうとすると、車両の交通整理をしている現場のお兄さんも、ここで間違いないと言って、写真を撮るのに良いアングルを教えてくれた。曰く、左奥の緑色の筒の見える辺りがリチャード発見現場だと言う。
 私たちが盛り上がりながら現場の写真を撮っている間にも、何人かの観光客が同じ目的で写真を撮っていた。

 

 要するに、レスター市の案内に載っている地図は、リチャードの骨の出た位置を示していたのではなく、グレイ・フライヤーズ跡地であるということのみを示していたのだ。ある意味正しく、ある意味間違っている。考えてみれば、ニュー・ストリートという名前からして、この小さな通りは広いグレイ・フライヤーズの敷地だったところに、あとで作られた道に違いない。道の西側もグレイ・フライヤーズ跡地には違いはなく、リチャードの埋葬場所だけが、微妙に東側だったということなのだ。
 やはり、物事は現地へ行って自分の目で確かめねば真実はわからない。インターネットだけで見た気でいると、とんでもない誤解を生むことになる。
 今も継続している工事は、2014年にオープンする予定の、The King Richard III Center 建設のためのものだろう。

 レスター,ギルドホール,レスター大聖堂

 リチャードがボズワースへ向かうために渡り、そしてその遺骸も渡ったというボウ川にかかる橋や、リチャードの彫像(多分に芸術的にデフォルメされている)、レスター城跡、その付近の古い教会などをめぐり、最後にまたレスター大聖堂のところへ戻ってきた。大聖堂ではお葬式が行われており、先に隣りのギルドホールを見学する。
 ギルドホールには古い建物も残されており、昔の牢獄あとなど(人形つき)もあるが、やはり見応えがあるのは新館のリチャード三世発掘に関する展示だった。
 出土品の一部や、昔と今の地図の比較、そして今はレスター大学に保管されている遺骨の液晶ディスプレイ展示など、なかなか見応えがある。
 そうしている間に葬儀が終わったようなので、いよいよ大聖堂に入った。

 

 大聖堂とはいってもささやかな教会建築である。リチャードの肖像が賑々しく飾られ、「レスター大聖堂にリチャードを葬るべく、募金を!」などと呼びかけている。
 リチャードの遺骨をどこに安置するのか、これがまた議論の的なのだ。候補地は、まず発見場所であるレスター。そして司教座のあるヨーク − つまりリチャードの出身家であるヨーク公爵家のお膝元。双方がリチャードの骨を望んでいると言うことは、ロンドンのホテルや、車の中で聞いたラジオのニュースでも伝えていた。
 レスター大聖堂はリチャードの墓を作る気満々で、墓とその周りの改装予定図などを展示していた。

  

 リチャードはどこに眠るのが一番良いのか。私にはなんとも言いがたいが、いかにかつての国王とは言え、530年も前のことである。埋蔵物はその場所に属するものであり、結局はレスターに残るのではないだろうか。
 大聖堂の中央部にはリチャードの記念碑プレートが飾られている。白いバラは置かれ,何人かのリチャード・ファンとおぼしき人々の姿もある。私たちもひとしきりリチャードへの感慨にひたった。

  

 レスター大聖堂を後にすると4時過ぎだがもうすっかり暗くなっている。リチャードを廻る旅は大満足を得て、私たちはレスターを後にすることにした。また特急に乗って暗闇の中をロンドンへ向かった。

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