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      超 越 の 領 域

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 第一章               

 

 津田は、フウーッ、と大きく息を吐いた。そして、ふわり

と、スペース・トレーナーから体を浮き上がらせた。全身汗

だくだった。腕を伸ばし、ジャズ音楽も止めた。

 津田は、それから無重力のトレーニング・ルームの中を、

ただ回転するにまかせて漂った。タオルで、首と顔の汗をぬ

ぐう。そして、肩に触れた壁の一点を、軽く手で押した。体

は、またゆっくりと壁を離れる。窓の前へ流れて行くと、三

枚の窓のうち二枚の窓に、巨大な地球が入った。地球は、半

分夜の闇にかげっている。

 ここでは、その地球の方向を、一応“下”と呼んでいた。

その、下から射してくる地球の青白い光が、トレーニング・

ルームの壁をほのかに照している。

 津田はしばしば、地球や太陽のような巨大な質量が、よく

この真空世界に浮かんでいるものだと思う。が、考えてみれ

ば、それは海の中を魚が泳いでいるのも、自分自身が今こう

してここに存在しているのも、本質的には何の違いもないわ

けだった。ミクロは素粒子から、マクロは銀河の階層的広が

りに至るまで、全てはそれ自体が、何者とも知らずに存在し

ている。そしてまた、全てが自分が何者とも知らずに、それ

そのもののストーリイを経歴しているのである。

 人はしばしば、あらゆる物事を知りつくし、あらゆる事象

を究めつくしたと錯覚する。しかし、こうした根源的なこと

は、人間はこれまで、何ひとつ究めつくしてはいないのであ

る。

 津田は、ゆっくりと、生命維持システムのコントロール・

パネルの方へ泳いだ。そして、パネルを開き、ファンの出力

を上げた。それから、温度と湿度の方は、少しレベルを下げ

た。

 この、L5宇宙天文台は、名前の示すとおり、L5ラグラ

ンジュ・ポイントに浮かんでいる。ラグランジュ・ポイント

とは、地球と月の重力バランスが作り出す場所である。こう

したラグランジュ・ポイントは、地球を周回する月の軌道上

に三ヵ所、月の表と裏側に各一ヵ所づつある。L5は、その

第五番目という意味であり、月軌道上でも最も安定している

場所である。

 こうしたラグランジュ・ポイントでは、物体は地球と月

に、重力的に補足されている。つまり物体は、この宙域か

ら、ひとりでに外へ流れ出していくということがない。ま

た、仮に、微妙なバランスの崩れから、それがあったとし

ても、ごくわずかな力で押し戻すことが可能である。

 むろん、こうした重力バランス・ポイントは、地球と月と

の関係にだけ存在するのではない。太陽と地球の関係にも、

太陽と他の惑星との関係にも存在する。また、バランス・ポ

イントとはいっても、これは天文学的な意味でのポイントで

ある。実際には、かなり広い宙域をさしている。したがっ

て、宇宙天文台やスペース・コロニー等のサテライト(衛

星)を置くには、まさに最良の場所となっている。

 

「真!」コントロール・パネルの上のスピーカーから、ミッ

キー・コールダーの声が呼びかけた。

「何だ?」津田は、英語で聞き返した。彼は、ここではもっ

ぱら英語を使っている。

「AURA(天文学研究大学連合)から、研究データが入り

ました」

「ほう・・・AURAか、」津田は、窓から地球を見下ろし

た。

「なかなか面白いですよ」

「うむ、そうかね、」津田は、汗でじっとりと濡れた髪を、

左手でパサリと払った。「もう少ししたら行くよ」

 津田は、目を閉じた。静かに深呼吸をした。そして、汗で

濡れた髪をパサパサと振った。「ふむ・・・面白いデータ

か・・・」津田は、一人つぶやき、楽しげにグイと四肢を伸

ばした。「何のデータだろう?」

 津田は、疲労がしだいに抜けていく心地好さで、ただぼん

やりと宙を漂っていた。何も考えなかった。そして、何も考

えずに、この85立方メートルのトレーニング・ルームを、

ゆっくりと見回した。不足なことは何もなかった。ただ、今

ここに、“人間原理”が現出しているだけだった。そして、

その尊い“命”の絶対座標の上を、刻々と宇宙が経歴してい

る。

 津田は、窓ガラスに額を押し当てた。ガラスは、ひんやり

と冷たかった。が、二重の強化ガラスの外側の超真空の世界

は、風の音も他の物音もまるでない、おそるべき静寂の支配

する世界である。そして、それはまた、魂をも凍らせる、超

低温の世界でもあった。それが、何故かは知らない。しか

し、そうした無限とも言えるぼうぼうたる時空が、現実にこ

うして目の前に広がっているのである。

 津田は、むろん哲学者ではなかった。高エネルギー物理学

で学位を取得した、宇宙物理学者である。したがって、この

目の前の超真空といわれる宇宙空間も、真の真空ではないこ

とを知っていた。また、永遠を支配するような静寂も、真の

静寂ではないことを知っていた。人間的にはそうではあって

も、物理学的には、およそ逆の世界なのである。

 まず第一に、窓の外の、何も見えない太陽系空間でさえ、

実際にはプラズマ流や磁力線や、さまざまな電磁波の飛び交

う、嵐のような世界である。また、銀河系全体には、膨大な

量の星間物質がある。そして、その偏在が、紫外線に励起さ

れ、あるいは暗黒星雲を形成する。また、巨大複合分子雲の

中では、新しい星が刻々と誕生したりしている。

 一方、運動力学的な意味においても、約二億年に一回転す

る銀河系(天の川銀河系)の回転は、太陽系においても、毎

秒230キロメートルという高速に達している。が、およそ

ケタはずれの激しさは、まさに銀河円盤の中央バルジの中に

集中している。そこは銀河系においても、特に星が濃密に集

まっている宙域である。そこでは、膨大な量の星と星がぶつ

かり合い、また至る所で星が爆発し、まさに大嵐のような巨

大物理現象のルツボとなっている。また、さらにその銀河中

心部の方、“いて座A−西”と呼ばれている最深部には、超

高密度の電離ガスが回転している。そして、その不気味なガ

スのリングの中こそが、いわゆる銀河中心部であり、巨大な

ブラック・ホールが回転している所である。電離ガスのリン

グは、そのシュバルツシルト半径(重力半径)によって形成

されているものだ。また、ブラック・ホールのシュバルツシ

ルト半径の内側では、計算上時間と空間が逆転し、重力波以

外のあらゆる事象の限界面となっている。この銀河中心部の

巨大ブラック・ホールは、太陽質量の数十万倍とも数百万倍

とも計算されている。

 こうした嵐のような風景こそが、宇宙物理学的に見た、我

々の住む銀河系の姿である。しかし、この直径10万光年の

宙域に、1000億個の恒星を包み、その大小の重力にむし

ばまれた銀河系もまた、すさまじい速度で膨張しつつある、

大宇宙の一点でしかないわけである。

 ・・・しかし、と津田は、静かに心の中でつぶやいいた。

  ・・・このような宇宙を開闢(かいびゃく)したという事象は、

いったい何処にその必然性があったのだろうか?宇宙開闢

の、その底知れない意味の発現の源は、いったい何だったの

だろうか?また、今もこの宇宙を運行し続けている巨大な

力、この不可思議力は、いったい何処から、何のために溢れ

出しているのだろうか?およそ、現在の人間の知性など及び

もつかない、はるか遠い高次元の領域でのことなのだろう

が・・・

 津田は、さらにファンの出力を上げた。ダクトの壁面か

ら、フウーッ、と乾燥した空気が音を立てて吹出した。津田

は、宙に漂っているタオルとヘアバンドをつかみ、くるりと

丸めてクリーニング・シューターに投込んだ。センサーが感

知し、一瞬シャッターが開閉した。

 それから津田は、汗だくになっているトレーナーの方も脱

いだ。そして、クリーニングの終わって出てきている、一式

の白い標準サテライト・スーツに着替えた。津田の四肢は、

器械体操で、筋肉が硬くもりあがっている。一定量の運動

は、宇宙では重要な日課になっているからである。

 津田は、まだ汗でしっとりとしている髪を、指ですきあげ

た。そうしながら、入口のシャッターの方へ向かって、ト

ン、と軽く壁を蹴った。体がふわりと流れていき、津田は素

早い手慣れた手つきで、シャッターの開閉ボタンを押した。

そして、そのまま間一髪で、トレーニング・ルームの外に流

れ出した。今日はうまくいった。これには、一通りのテクニ

ックが必要だった。スピードとシャッターの感度、腕の長

さ、スイッチの位置が関連するわけだが、チェック・ポイン

トは絶妙な壁の蹴り具合と、微妙な方向性にあった。

 津田は、一人ほくそ笑み、外壁にトンと手をついた。それ

から、リード・ラインにある、リード・スティックを立て

た。そのスティックを片手でつかみ、それに引かれ、中央観

測モジュールの方へ向かった。

 連結ユニットで結ばれた、暗い回廊の窓の外に、遠く“エ

リア・77”の一群の光が見えた。その中心近くの、特に濃

密に光の重なり合っている部分が、オリンポス・サテライト

の灯である。そこが、このL5ラグランジュ領域の、ほぼ中

心だった。また、火星基地や月基地などをも含めた、人口約

4000人に及ぶ、宇宙コンミューンの中心部でもある。

 現在、そのオリンポス・サテライトをベースにして、“エ

リア・50”に恒久的な宇宙植民島の建設が進んでいる。す

でに83パーセントの完成であり、人工重力を作り出す内殻

の回転も始まっている。直径約500メートル、長さ約

1250メートルのチューブ型であり、二万人以上が生活可

能である。この、第一号宇宙植民島だけで、現在の全宇宙コ

ンミューンの、四、五倍の人口を収容するわけである。しか

も、地球上の都市と、同程度の生活環境を目指したものとい

われる。

 しかし、この第一号の宇宙植民島も、あくまでも実験的な

ものでしかない。国連はすでに、つぎの実用植民段階の、数

十万人、数百万人規模のものの建設に着手している。そして

それには、この第一号宇宙植民島に収容される、新たな二万

人の宇宙人口が動員されるのだ。そして、チューブ型のもの

では、直径数キロメートル、長さ数十キロメートルというよ

うな、巨大宇宙植民島が、順次に大規模に建設されてゆくわ

けである。

 地球の人口増加率は、しだいに鈍ってきているとはいえ、

今も指数関数的な増加が続いている。したがって、すでに資

源の枯渇し始めた地球を離れ、宇宙空間での完全な自給自足

がその目的である。

 津田は、回廊が十字に交差している所で、リード・スティ

ックをゆっくりと倒した。そして、垂直方向に向かって軽く

床を蹴った。その正面が、中央観測モジュールの入口だっ

た。

 津田は、壁にあるカプセル・ボタンを押した。すると、中

央観測モジュールのぶ厚いシャッターが、やわらかな音をた

てて二つに割れた。ここのシャッターは、まさに重装甲なみ

だった。

 中は、光々と明るかった。この、直径18メートルあまり

の八角柱をしたモジュールが、このL5宇宙天文台では、最

大の作業空間である。これは、一時代前、核戦略体系がスペ

ース・ウォーに拡大しつつあった頃のことだが、その時代の

遺物だった。したがって、今も宇宙戦闘指令室の硬化装甲が

生きている。また、旧式ではあるが、サバイバル・システム

の幾つかは、今も使える状態にある。もっとも、L5宇宙天

文台の中央観測室として復活してからは、そうした独立シス

テムは、ほとんど無用の長物になっていた。戦闘システムや

防御システムの頭脳は撤去され、レール・ガンやレーザー・

ビーム・ガンは、幾つもの天体観測システムに取って代わら

れている。また、かって地球と人類を支配した、宇宙戦闘指

令コンピューターも、今はジョセフソン素子・知能回路型・

宇宙科学基地コンピューター“ミネルバF31”に、その座

をゆずっている。そして、こと安全性に関しては、そのセン

トラル・プロセッサ・システムをつかさどる“フローラ”

が、宇宙戦闘指令室の70倍の保障を彼等に与えている。む

ろん、これは、L5宇宙天文台の、システム全体としてであ

る。

 津田が、中央観測室の中に入っても、誰も気づかなかっ

た。中が広いからだ。それに壁面や中空が、電子危機や観測

機材で、縦横に埋めつくされているからだろう。津田は、そ

の観測システムのモニターや、操作盤、メイン・コンピュー

ター等がぎっしり並んでいる中を、ゆるゆると漂った。この

ような無重力空間は、まるで深い滝壷の中を泳いでいるよう

だった。立体的であり、実際以上に深く感じられるのだ。

 この中央観測モジュールでは、機器の規格化や、モジュー

ル化や、中央処理化は、相当に進んでいる方である。が、そ

れでも、こうした雑然とした感じになってしまうのは、最先

端技術がどんどん導入される、先端科学基地としての宿命と

いえた。もっとも、ここに魚のように住みついている四人の

観測員には、こうした所でも、まるで自分たちの淵の中を泳

いでいるようなものだった。小さなネジの一本、体積メモリ

ー・キューブの一個をなくした時でさえ、それが空気の還流

から、どこの隙間にひっかかり、どのあたりに流れついてい

るかさえ、全て知りつくしていた。

 ところで、こうした最先端技術を結集したL5宇宙天文台

の観測任務は、非常に広範囲にわたっていた。が、それらは

全て自動化され、宇宙科学基地コンピューターの“フロー

ラ”が、一括管理していた。また、国際天文学会が、オリン

ポス・サテライトにスペースを確保したことにより、宇宙空

間の各観測拠点のデータは、すべてその宇宙天文台総本部で

集中処理するようになった。そのために、宇宙コンミューン

における実際の天文学活動の中心は、L5宇宙天文台から、

オリンポス・サテライトの方に移ってしまっていた。

 したがって、現在、L5宇宙天文台の四人の観測員の主要

な仕事は、彼等自身の研究テーマにしぼられていた。つま

り、大型シュミット・カメラによる赤方変移の掃天観測と、

大型赤外線望遠鏡等による掃天観測の、総合的な宇宙論的解

析である。

 それから、補助的な仕事として、“フローラ”によって動

かされている、宇宙天文台システムの監視があった。これ

は、いかに“フローラ”が優秀であるとはいえ、“フロー

ラ”は生命体ではないからである。つまり、故障やトラブル

の警告や応急処置はできても、それを根本的に自己修復する

能力はないからである。が、それ以外のことでは、“フロー

ラ”はめったに彼等を煩わせることはなかった。膨大な量の

観測データの方も、オリンポス・サテライトと地球の通信衛

星ネットワークに、彼女が自動的に送り出している。

 

 津田の仲間の三人は、上の方の、Bブロックと呼ばれてい

る所にいた。地球上なら、ビルの五階あたりの壁面に、直角

に立っている格好だ。しかし、無重力空間では、自分の体の

向きを変えれば、壁は床にもなるわけである。

 

 三人の仲間は、その八角柱の内壁の床の一つで、Sb型渦状

銀河の立体ホログラフィーを眺めていた。その立体ホログラ

フィーに、銀河回転と銀河団の回転を加え、さらに超銀河団

回転への流れをシミュレートしているのだ。つまり、宇宙に

おける物質の偏在と、銀河生成の課程を、最新の物理科学条

件下で探っているわけである。

 天文台長のバン・ダイクは、津田と同じ白い標準サテライ

ト・ズボンをはいていた。が、上着の方は、アメリカの伝統

的なカウボーイのように、ラフなチェックのワークシャツで

ある。大男ではないが、肩が大きく、腕も太く、ころりとし

て肉づきが良かった。そして、頭は、愉快にツルリと禿げ上

がっていた。また、これはいかにも残念なことだったが、頬

と口のまわりの方は逆で、ちりちりとした褐色のヒゲが豊だ

った。それがトビ色のきれいな目と、バン・ダイクの陽気な

性格を、いっそう引き立てていた。しかし、バン・ダイクの

芯にあるものは、何といっても明晰な頭脳である。そして、

かっての西部開拓史時代を思わせるような、粗野で頑強で善

良な精神だった。

 一方、ミッキー・コールダーは、ブロンドの髪のふさふさ

した好青年だった。二年前に、エール大学で修士課程を終了

している。それから、ふらふらと宇宙空間へ出てきたわけで

ある。オリンポス・サテライトから、このL5宇宙天文台へ

移ってきたのは、六ヶ月ほど前である。そのミッキーは、今

カリフォルニアで流行の、派手な絵柄の刺しゅうの入ったズ

ボンをはいていた。上は、洗いざらしの木綿のTシャツであ

る。

 ただ一人の女性である、副天文台長のアイリーン・中原

は、ほっそりとしたきゃしゃな体をした女だった。そして、

その細身の体に、上下つなぎの女性用サテライト・ウエアー

を身につけていた。彼女お気に入りの、淡いスミレ色のもの

だ。そして、その細い腰に、濃いスミレ色のバンドをしめ、

バンドには、プラスチック製の白いポケット・ケースを二個

つけていた。

 彼女は、年齢は津田よりは一つ若かった。が、すでに大学

時代から、幾つもの功績を上げている才女だった。いわば、

今世紀へ入ってからの、天文学会の逸材の一人である。した

がって、宇宙コンミューンにおいても、彼女は最もフリーな

身分を与えられている一人である。

 

 津田は、白いサテライト・スーツの袖口のチャックを切っ

た。そしてその両腕を、肘の上まで押し上げた。

 天文台長のバン・ダイクが、宙を漂っている津田を見上げ

た。

「おそかったな、」

「ええ、どんなデータが入ったんです?」

「例の、ペルセウス座超銀河団の、新しい解析データが送ら

れてきたのよ」アイリーン・中原が言った。

 彼女は、細面の整った顔に、チタン・フレームの大きなト

ンボ眼鏡をかけていた。彼女は、両手を差し出し、宙を漂っ

てきた津田を引き下ろした。

 津田は、彼女の力をかり、ふわりと足の方から降りた。そ

して、テーブル型スクリーンと、Sb型渦状銀河を映してい

る立体ホログラフィーの前の、マグネット・ラインの上に降

り立った。

「それに添付されてきたのが、実に面白い」バン・ダイク

は、ちりちりした褐色のヒゲの中に、白く透けた歯を見せて

笑った。「AURA(天文学研究大学連合)のラロッカの仮

説だよ。ラロッカを覚えているかね?」

「もちろんです」津田は言った。「なつかしい名前ですね

え」

「そうね、」アイリーン・中原が言った。

「じゃ、いいかい、アイリーン?スクリーンに切換えます

よ」コントロール・デスクに向かっている、ミッキー・コー

ルダーが言った。

「ええ、どうぞ、ミッキー。最初にもどして、」

「了解、」

 ミッキーは、Sb型渦状銀河のシミュレーションをキープ

した。そして、テーブル型スクリーンの方の画像を回復し

た。

 アイリーン・中原は、大きなトンボ眼鏡ごしに、知的な鋭

いまなざしを津田に送った。

「いいこと、真・・・このフィラメント型の超銀河団を形成

する銀河の一つ一つだけど・・・」彼女は、テーブル型スク

リーンの方に半歩あゆみ寄り、愛用の伸縮式の電磁ペンを引

き伸ばした。

「ああ・・・」津田も、テーブルの隅から、備え付けの電磁

ペンを抜き取った。

「この全体のフィラメント構造の軸と、一つ一つの銀河の自

転軸との関係に、奇妙な統一的なブレがあるのを見つけてい

るわ。これを、ある曲率の空間内で解析すると、120分の

1の精度が得られるのよ・・・」アイリーンは、引き伸ばし

た電磁ペンを、指先でクルリクルリと回した。

「それなら、クリコフが、」

「ええ、そうなの」アイリーンは、電磁ペンで、左手の掌を

たたいた。「けど、それが、デニングのモデルが使われてい

て、ラロッカ自身が計算した予測値と、ほとんど一致してい

るとしたら・・・これが、何を意味しているか、お分りで

しょうね、真?」

「ああ・・・うむ・・・うむ・・・デニングのモデル

ね・・・」

 それから、津田は首をかしげた。バンとアイリーンを、交

互に見た。眉をつり上げ、手を振ってみせた。

「まさかな、」

 が、バンもアイリーンも、真面目な顔をくずさなかった。

バンは、難しい顔をして、首を振った。

 津田は、もう一度、素早くガイドラインを確認した。そし

て、やはり首を振った。

「いや、こんなことはあり得んな。我々の理論も計算も、完

璧だったはずだ」

「ええ、」アイリーンは、巻き上げた髪を電磁ペンでたた

き、ため息をついた。「とにかく、くわしく見ていただきた

いわ」

「よかろう。くわしく見よう」

「どうぞ、」アイリーンは、唇をすぼめて笑い、語尾のアク

セントを上げて言った。それから、なかば自嘲的な笑いをお

さえ、津田に目くばせしてみせた。

 津田は、まだ汗で濡れている髪をなで下ろし、バンを眺め

た。津田はむろん、アイリーンの判断力というものを信用し

ていた。そして、その彼女がこういう態度をした時は、まず

勝ち目のないことも分っていた。もっとも、勝ち目がないの

は、アイリーンも含めた、彼等四人の仮説そのものだった。

「どうしたの、ミッキー?」アイリーンが言った。

「ええ・・・」ミッキーは、コントロール・デスクのモニタ

ーをのぞきながら言った。「大丈夫です・・・すぐ回復する

と思います・・・どうも、フレアー(太陽表面の爆発)のせ

いではないかと思うんですが、」

「そう、」アイリーンは、唇をひき結んだ。電磁ペンを、ピ

タリピタリと頬に当てた。 ところで、アイリーンの唇とい

うのは、全く奇妙だった。引き結んでいる時でも、笑ってい

る時でもそうだが、その薄い唇が分るか分らないかほど、か

すかに浮き上がるかよじれるかしているのだ。が、その微妙

なバランスのくずれが、彼女のしたたかさに加えて、謎めい

た魅力を作り出していた。

「かつごうってんじゃあるまいな、アイリーン?」

「まじめよ、」

 バンは、パチッ、とスモーク・クリーナーのボタンを押し

た。その前で、葉巻に火をつけた。

「とにかく、角運動量は、ここでも基本的な問題だ・・・」

バンは、通りの良くない葉巻を、スパ、スパ、とやった。火

のついた、先の方を持ち上げて眺めた。「・・・質量とスピ

ンの問題では・・・量子力学の轍を踏まぬことだな、」

「じゃあ、スリー・コークの注文は、キャンセルにします

か?」津田は、笑って言った。

「でも、それだけの代償は、もう払っているわね」

「と言うと?」

「本当という意味よ」

「アイソスピンとオイラー系だ」バンが言った。「しかし、

むろん素粒子とは違うぞ。第一、因果律の衝撃の大きさが違

うからな」

「ええ・・・」津田は、うなづいて考えた。

 アイリーンは、電磁ペンで髪を撫でながら、マグネット・

ラインの上をミッキーの方へ歩いて行った。彼女の、そのツ

ヤのある黒髪を巻き上げている頭の中は、まるで“フロー

ラ”の、超高速演算素子が詰っているようなものだった。彼

女と本気で議論を始めようものなら、数式やあらゆる抽象概

念を、まるでレーザー・ビームのように浴びせかけてくるの

だ。最近ではともかく、そうしたヒステリックな傾向は少な

くなったが、津田にしても、彼女とそうした議論をやり取り

するのはごめんだった。

 やがて、再びスクリーンが回復した。津田は、天球上にお

ける新しいクェーサー地図や、統計図表をつぎつぎに見てい

った。それから、問題のラロッカの仮説をじっくりと見た。

「どう?」アイリーンが、微笑しながら言った。電磁ペン

を、カチリ、とトンボ眼鏡の縁に当てた。

 アイリーンの直観力、抽象力、判断力の素晴らしさは、衆

人の認めるところだった。が、彼女には、ただ一つ、粘り強

さ、持続力に欠けるところがあった。もっとも、そのために

こそ、まるで性格も考えも異なる、津田と組んでいるわけだ

った。しかし、いかに持続力があろうとも、最初が間違って

いては、それはただの無駄骨折り以外の何者でもない。した

がって、優れた直観力と持続力の統合こそが、新しい研究成

果を切り開いていくわけである。

 津田は、愉快だが、少々癇癪もちのトンボ眼鏡の女から、

目をそらした。そして、ようやく汗の乾いてきた髪をかき上

げ、頭の中で、ラロッカの仮説の抽象風景を見つめていた。

 バンは、ひとり葉巻を吹かしている。

 アイリーンは、トンボ眼鏡のレンズの奥で、まばたきし

た。そして、楽しうに唇をすぼめ、津田が何か言い出すのを

待っている。

「アイリーン・・・アインシュタインは、こう言っていた

な、」

「ン?」アイリーンは、優しくアゴを動かした。

「自然というのは、単純であり、美しく調和のとれたものだ

と、」

「ええ・・・」彼女は、目顔でうなずいた。トンボ眼鏡の奥

の知的なまなざしが、津田のかすかな表情を見つめた。「そ

れで?」

「だとすれば、これはどこかしっくりしないな、」

 アイリーンは、電磁ペンを持った手を唇に当て、深く考え

込んだ。

「ただ、何かと言われると、説明できないんだが・・・」

「うむ。わしもそう思った、」バンが、葉巻をスモーク・ク

リーナーの上から取り上げて言った。「方向としては、いい

のかも知れんが、」

「そうかしら・・・」アイリーンは、電磁ペンを立てて唇に

当て、一心に宙空を見つめた。

「ま、いずれにしてもだ、」バンは、そう言って、葉巻をヒ

ゲでおおわれた口にくわえた。葉巻の先からもれる紫煙が、

下のスモーク・クリーナーの方へ、糸を引いて流れていく。

「さらに詳しいデータが必要だな、」

「これはもう、精度としては十分すぎると思うわ、バン」

「だったら、ローレンツ変換が必要だ。違う座標から証明す

る必要があるな」

「分ったわ、バン」アイリーンは、唇をなめた。そして、そ

の唇を引き結び、銀白色の伸縮式電磁ペンを縮めた。それ

を、腰のポケット・ケースの穴にさした。「それじゃあ、後

で議論しましょう、真」

「何でだい?」

「あら、そうじゃなくて、真?」アイリーンは、けげんな顔

をして見せた。

「おれを、いじめるつもりかい?」

「まさか、わたしが、真を?」

 バンは、にやにや笑って、ヒゲをなで回した。

「ハッ、ハッ、ハッ、」ミッキーが、コントロール・デスク

を離れながら笑った。「怒らせましたね、アイリーンを」

「坊やは黙ってらっしゃい!」

「アイリーン、怒らせたのは、バンの方だろう?」

「バカね、何を言ってるの。わたしは、このことについて、

真と議論がしたいだけよ」

 アイリーンは、津田の肩に優しく手をかけた。そして、結

局は、楽しみは後に残しておくことに決め、ふわりとマグネ

ット・ラインから宙に浮き上がった。それから、鼻歌をうた

いながら、ドルフィン・キックで、X線望遠鏡の観測データ

を集計している方へ泳いで行った。

「しかし、真、」ミッキーが言った。「空間に、エントロピ

ーが蓄積していく速度は、星や銀河の進化によって決まって

いくわけでしょう。だったら、それがどうしてデニングのモ

デルになるんですか?」

「ああ・・・」

 津田は、髪を指ですき上げながら、ミッキーから電磁ペン

を取った。そしてテーブル型スクリーンの隅に、全系のエン

トロピー増加をあらわす式を二本書いた。電磁ペンをミッキ

ーに返した。

「ラロッカは、」津田は、バンの方に言った。「今どこに居

るんですか?」

「シドニーだよ。海水浴でも楽しんでるだろう」

「また、みんなで、オーストラリアへ行きたいですね」

「うむ・・・今度は、いつ行けるか、」

「ところで、真」ミッキーが、スクリーンから顔を上げて言

った。「いい話があるんですよ」

「ほう、いい話か。アイリーンが、少し太ったとでも言うの

かい」

「そんなんじゃあないですよ」ミッキーは、首を振って、し

なやかなブロンドの髪を揺らした。そして、くったくのない

若者らしい笑いを浮かべた。「いいですか、真、オリンポ

ス・サテライトに、スーパー・スターが来るんですよ」

「女か?」

 ミッキーは、がっかりしたように首を振った。

「宇宙コンミューンには、野郎は腐るほどいますよ」

「誰から聞いた?」

「イワノフさ、」バンが、手を振って言った。

 ミッキーは、トン、とマグネット・ラインを蹴った。ふわ

りと宙へ浮び上がりながら、津田に対して、空手の蹴りの遊

戯をやった。

「若い娘だってことは、間違いないですね。名前は、トッ

プ・シークレットだそうですが、」

 津田は、ミッキーが再び蹴り出してきた足首をつかみ、グ

イと捻りながら、上へ押し上げた。

「イワノフだって、名前など知りゃせんのさ」バンが言っ

た。

「同感ですね」ミッキーが、上の方から泳いでもどってき

た。「しかし、オリンポスじゃ、誰が最初にモノにするか

で、大騒ぎになってますよ」

 ミッキーの後の方から、アイリーンが慣性でゆるゆると降

りてきた。

「賭けも始まってますね。中には、もともと親しいやつが居

るとかで、大変な騒ぎですよ。それで、新しいルールを作る

とか作らないとか、」

「あらあら、」アイリーンが、最後に軽く手首をパタパタさ

せながら言った。「また、あのジェニー・ミルトンの時のよ

うなバカ騒ぎになるのかしら、」

「しかし、アイリーン、」ミッキーは、体をしなやかに回転

させながら言った。「ジェニーは、あのサテライト・アワー

でカムバックしたんですよ」

「そんなの、バカげてるわ」

「まあ、おれはアイリーンひとりでいいさ」津田は言った。

「ありがとう、真」アイリーンは、津田の差し出した手につ

かまり、それから頬に接吻した。そして、床のマグネット・

ラインの上に、ふわりと降り立った。

「もう、卒業ですか、真?」

「ああ。あんなバカ騒ぎは、もうごめんだ」

「しかし、」バンが、ポケットに手を突っ込みながら、重い

口調で言った。「また、あんなバカ騒ぎをやらかすとなる

と、問題だぞ。今度は、宇宙コンミューンのモラルが疑われ

る」

「じゃあ、地球はどうなんです?もっとひどいですよ、バ

ン。それに、あれはジェニーだって面白がってたんですよ。

その限りでは、いいんじゃないですかね。いやなら、来なけ

りゃいいんだし、」

「それは違うわよ、ミッキー。宇宙コンミューンは、地球と

は違うのよ。そりゃあ、人間には、地球の方が住み良いに決

まってるわね。だけど、宇宙コンミューンは、人類の希望の

社会なのよ。確かに、静的な停滞した管理社会にならないた

めの、自由の原理は必要だと思うわ。だけど、それは無責任

ということではないはずよ」

「そうだぞ、」バンも、重々しく言った。「宇宙は、確かに

生命が希薄だ。それに、あらゆる意味で、過酷な世界だ。本

来、人間の住める世界ではない。だからこそ、甘えではな

く、規律と団結が必要なんだ。そして、あらゆる生命現象に

対して、厳粛でなければならん。主義主張が違うというだけ

で、殺しあったり、乱ちきパーティーをやったり、平気で肉

を食ったりするのは、どこかのいかれた連中に任せておけば

いいんだ」

「しかし、オリンポス・サテライトの連中は、やめやしませ

んね」

「そうねえ・・・困った人たちね」

「まあ、みんなで、何とかやめさせよう」

「さあ、真、」アイリーンが言った。「検出装置のCCD

(電荷結合素子)を交換してもらう約束でしたわね」

「ああ、」

 津田は、頭上の方の、ハニカム・ボードの作業フロアーを

見た。その、フロアーを透かした向こうの、通信回線の大型

液晶スクリーンを眺めた。

 大型スクリーンは、今はただ青い海洋と、白い雲を映して

いた。ここでは、地球標準時刻を使っているわけだが、スク

リーン下のデジタル表示では、10時30分を示している。

その標準時刻と並んで、地球上の各主要都市の時刻も出てい

る。東京は、今は夢見の時刻のようだった。

「ミッキー、工具はどこにある?」

「E−25です。そこのマグネット・ラインに留めてありま

す」

「うむ」

「交換の、CCDも一緒にそろえてありますから、」

「分った」

 津田は、透明プラスチック製の自分の小物入れの引出しか

ら、黄色のリスト・バンドを一組取り出した。それを、両手

首にはめた。

「それで・・・アイリーン、いったいどうしたっていうんだ

い?」

「感度の上限が、微妙に揺れるのよ。ミッキーがさっき、ス

クリーンの調整に手間取ったわね。あれも、同じ原因だと思

うの」

「うむ・・・妙な兆候がありますね、バン、」

「そうだな、」バンは、褐色の豊なヒゲをしごいた。

「ミッキー、“フローラ”は何と言ってるんだ?」

「“フローラ”の方も、現在分析中です。今のところ、

CCDを指示しているだけです」

「じゃあ、CCDをチェックしてみるか」

「ホコリでも入ったのかしら、」

「まさかな。一個や二個のCCDの問題ではあるまい。もっ

とも、いつも問題を起こすやつは、分ってるがな」

「ええ。あの、イタズラ坊主の七番ヘッドね」

「ああ。ダダをこね始めるのは、まずやっこさんからだ」

「そうね、」

「おい、たのむぞ」バンが、手を振った。

 二人は、反射望遠鏡システムの、軸方向観測装置の方へ泳

いだ。この本体は、中央観測モジュールの外側の、暴露テラ

スにある。主鏡は3.2メートルであり、カセグレン式リッ

チー・クレチャン型の、“ハッブル”を踏襲している。

 宇宙空間には現在、主鏡3メートル以上の光学望遠鏡は、

四基が稼働状態にある。この、L5宇宙天文台の“アンドロ

メダ”は、それらの中では一番古いものだった。しかし、溶

融シリカ・ガラスで作られた主鏡の鏡面精度(鏡面の凹凸)

は、10ナノ・メートル以下という脅威的なものである。し

たがって、システム的には劣るとはいえ、宇宙の時空間を見

るという基本目的においては、決して他に劣るものではなか

った。もっとも、この“アンドロメダ”も、二、三年後には

退役になる。そして、初めて宇宙空間で制作される超大型主

鏡“ギャラクシイ−1”システムにとってかわられる。

 結局、津田とアイリーンは、七番のCCDカメラ・ヘッド

をそっくり交換した。先々のことを考えれば、これが最良の

方法と判断したからである。

「姿勢制御システムの入射光の方だけど・・・」アイリーン

が言った。腰バンドのポケット・ケースに、メモリー・カー

ドを差込んだ。

「そいつは、今は無理だろう・・・」津田は、アダプター・

スクリーンで、画像の百万分の一の微調整をしながら言っ

た。「セイファート銀河のプログラムを、全部いじくること

になる・・・」

「ええ・・・」

 津田は、ゆっくりと振返って、後にいるアイリーンを眺め

た。

「不満なのか?」

「ええ・・・」アイリーンは、首を横に振った。「私にとっ

てはね、」

「しょうがあるまい。ミッキーは、何と言ったんだ?」

「お手上げらしいけど、」アイリーンは、引き伸ばした電磁

ペンで、ピシッ、と太腿をたたいた。彼女の気持ちは、はっ

きりとしていた。

「しかし、無理だ」津田は、微調整のスクリーンを見つめな

がら言った。「これまでどおり、“フローラ”にホローさせ

よう」

「でも、セイファート・プログラムに、“フローラ”の5分

の1を持っていかれるのは痛いわ」

 津田は、それには答えなかった。そして、高分解能分光器

の方を、モニター・スクリーンに映し出した。感度の揺れ

は、まだ完全に除去されてはいなかった。が、これは、全宇

宙コンミューンに押し広げ、再調査が始まるだろうと思っ

た。

「どうかしら?」アイリーンが、津田をうながした。

「ああ・・・まあ、ミッキーがそのうちに、セクション・7

のスプレット・シートを、独立処理に持込むそうだ」

「そう・・・それで、5パーセントは浮くかしら、」

「まあ、そんなとこだな」

「差引、15パーセントね。その状態で、“フローラ”が二

週間持ちこたえてくれればいいんだけど、」

「まあ、その時は、その時さ・・・」津田は、アダプターの

モニター・スクリーンを見つめながら、全神経を集中してキ

イをたたきこんでいった。

 アイリーンも、黙ってそれを見つめていた。

「いざとなったら、」津田は、手を休めて言った。モニタ

ー・スクリーンの様子を、ジッと見守った。「オリンポス

の、計算センターへ泣きつくまでさ」

「真の、そういうところが分らないわ」アイリーンは、津田

の背中を、電磁ペンの鋭い先の方でつついた。

 彼女は、ハイスクール時代に友人に誘われ、一年間ほどフ

ェンシングをやったことがあった。それで、やたらと電磁ペ

ンを振り回し、人を叩いたり突いたりするのが困りものだっ

た。

「どうしてだ?」津田は、まだ彼の背中に電磁ペンを突き立

てている、アイリーンを振返った。

「かなり・・・いえ、十分に、無責任ね」

「じゃあ、何ができる?わめき散らせとでも言うのかい?」

「そりゃあ、そうだけど、」アイリーンは、ソッポを向い

た。

「ふん、」津田も、後手に手を振った。「我々が、片肘を張

ることもあるまい。宇宙は、逃げて行きゃあしないさ。え

え、そうじゃないかい、アイリーン女史?」

「まあ、真たら!」

 津田は、アイリーンに背中を向け、唇をなめてほくそ笑ん

だ。

「もう!真は、何もかもが、マンガのようでないと気がすま

ないのね!」

「聞き捨てならんな。マンガとは、どういう意味だい?」

「ふん!マンガのディスクばかり集めているということよ!

単純で、中身が無いという意味ね!お分りかしら!」

 津田は、アイリーンは無視することにした。こういう時

は、黙っているのが一番だった。津田は、モニター・スクリ

ーンの微調整の方にもどり、妥協点を見つけ、それを固定し

た。それから、アダプターを外した。そして、介入していた

“アンドロメダ”の電子回路の一部も、再び“フローラ”に

返した。

 

 その時、中央観測モジュールの窓が、サーッ、とほの白く

輝いた。太陽発電パネルや、まわりのモジュールが、何かの

強烈な光を受けたのだ。太陽の可視光や、集光ミラーでもな

かった。全然別の角度から来た、もっと柔らかな光だった。

「何かしら?」

「分らんな、」

「何か、爆発があったのかしら?」

「うむ・・・」

 津田は、CCDのラジエーター・カバーを、ドン、と強く

蹴った。そして、両手を差し出し、全身で窓のあるJ−8の

方へ飛んだ。作業フロアーの向こうの通信回線から、ザザザ

ーッ、とすさまじいノイズが流れ出している。大型液晶スク

リーンも、波が走って、まったく画像がかき消されてしまっ

ている。

「“フローラ”!」Bブロックに浮かんでいる、バンが叫ん

だ。「いったい、何があった?」

「‘分りません’」女性の声を模した、“フローラ”の美し

い金属音声が響いた。「‘現在、分析中です。L5ラグラン

ジュ領域内ではありません’」

 津田は、かっての宇宙戦闘指令室の装甲窓の一つに取りつ

き、外を見回した。イカダのように連結された、L5宇宙天

文台の陰の部分が、淡い光にゆらゆらと照り輝いている。津

田は、また強く壁を蹴り、Aブロックの方へ飛んだ。30メ

ートルほどの無重力空間を、斜に勢いよく流れて行く。ふだ

んはやらない、荒っぽい行為だ。

「フレアー(太陽表面の爆発)が、同調しているようで

す!」ミッキーが、Aブロックの“フローラ”の監視モニタ

ーをのぞきながら叫んだ。

「本当か?」バンが、聞き返した。

「まさか、とは思いますが・・・」

「どういうことだ!」

 中央観測モジュールの中の四人に、一瞬、ギラリと、かた

い緊迫感が流れた。

「太陽の変調か?」息詰まる緊迫感を押し、津田が口を開い

た。

「それとも、スーパー・ノバ(超新星)かしら?どこか、近

くの、」アイリーンが、ようやくAブロックにたどり着きな

がら言った。

「真!」バンが叫んだ。「27番の、広角惑星カメラはフリ

ーだったな?」

「ええ。フリーです」

「よーし、ミッキー!27番をたのむ!」

「了解!」

 ミッキーは、キーボードから“フローラ”に指示し、27

番を回復した。“フローラ”は、すぐにその広角惑星望遠鏡

のカバー領域を、拡大モニター・スクリーンの天球上に映し

出した。

「オリオンの方かな、」津田は、スクリーンを見ながら言っ

た。「近くでスーパー・ノバがあると、太陽系もかぶるな、

「そうね・・・でも、大丈夫のようだけど・・・ミッキー、

火星のあたりに合せてみて、」

「了解」

「火星か・・・まさかな、」

「ええ、」アイリーンは、津田のかたにつかまり、うなずい

た。

 スクリーンが、一瞬、白くなった。“フローラ”が、それ

をしぼり込んで、消していった。やがて、正体不明のノイズ

の方も消し、広角惑星望遠鏡の中心に、そのエネルギー源を

補足した。やはり、こうした時の抽象判断能力は、“フロー

ラ”よりも人間の頭脳の方が数段上だった。これも、いわゆ

る“人間原理”からくる、直観力というものだろう。

「このノイズは、何ですかね?」ミッキーが、肩越しに津田

を振返って聞いた。「核パルスですか?」

「うむ、EMP(電磁波パルス)の影響に似ているようだ

な・・・」津田は言った。「昔、先制核攻撃のシミュレーシ

ョンで見たことがある」

「しかし、ここはL5だ」バンが言った。「いったい、何だ

ろう?」

「この座標で、なんらかの形で、巨大な核爆発があったのか

も知れません」

「真!“ベガ”(大型赤外線望遠鏡)が異常を示していま

す!」

「うむ。分った」

 光源は、さらに数分し、霧のように薄れて消えた。あとは

また、果てしない広大な星の世界が広がっているばかりだっ

た。

 津田は、その光源の消えたスクリーンを、じっと見続けて

いた。今は、“フローラ”のマーカーと、その座標のデータ

だけが映し出されている。深度も、ちょうどアステロイド・

ベルト(小惑星帯)あたりを示している。しかし、スクリー

ンの可視光は消えたが、L5のあらゆる電磁波レベルのモニ

ターが、まだ嵐のように乱れ狂っていた。

 ・・・忽然と現れた火の玉、か・・・津田は、いつものよ

うに心の中でつぶやいた。

 ・・・一体なんだったのだろう・・・

  ・・・その光の、生と滅の姿・・・

 ・・・複雑な波動関数の上を瞬時に流れた、光円錐とエネ

ルギーの相関・・・

 ・・・その人間的意味・・・

 ・・・さらに、その“シンボル”と“意味”を構成する背

景座標の、またそのさらなる意味の流れ・・・

 ・・・こうした根源的な“意味の世界”を、人間は、いつ

かは解明することができるのだろうか・・・

 ・・・あるいは、すでに因果律の破れた世界観に、意味の

根源などがあるのだろうか・・・

 しばらくして、ミッキーが、“フローラ”の割出したエネ

ルギー源の正確な立体座標を、天球座標上に表示した。ま

ず、エネルギー源は、太陽系の内部であることがはっきりし

た。方位は、現在の火星位置の左約11度29分03秒。深

度は、ずばりアステロイド・ベルトだ。が、いずれにして

も、現在の地球と火星の位置から、相当の深度があった。つ

まり、そのエネルギーは膨大なものだということだ。

 

 一時間後、オリンポス・サテライトから、詳しい分析デー

タが続々と入ってきた。エネルギーやスペクトルの分析に関

しては、“フローラ”の分析と一致している。

 したがって、最初から目をひいたのは、ニュートリノ(中

性微子)と、グラビトン(重力子)の項目だった。これらの

粒子は、いずれも物質貫通力がきわめて高いという特徴を持

っている。そのため、宇宙物理学の分野でも、最近ようやく

初歩的な観測体勢がスタートしたばかりである。

 この、アステロイド・ベルトのエネルギー源に関しては、

問題はグラビトン(重力子)、つまり重力波(量子力学にお

ける、粒子の波としての側面。重力子と重力波は、同一のも

のの二つの側面を示す)の方だった。金属棒を使った極低温

重力波アンテナや、現在“エリア・82”に建設途上の“エ

クスカリバー”重力波レーザー・アンテナのデータも入って

きている。が、結論から言えば、問題のアステロイド方向に

は、急激な重力的変動は観測されていなかった。また、それ

らしい重力波の独特の波紋も見つかっていない。つまり、そ

の座標では、大きな質量の変動はなかったということであ

る。このことは、逆に推論すれば、これは核爆弾のような爆

発物と考えるのが妥当ということではあるまいか。それも、

人類がこれまでに作り出してきたようなレベルの比ではな

い。スーパー・ノバ(超新星)や太陽とは比較にならない

が、天文学レベルのものである。

 いずれにしても、エネルギーとしては、ケタはずれであ

る。仮に、核融合エネルギーだとしても、これまで人類が扱

ってきたものの、推定1万倍から100万倍以上のものだろ

う。さらに、もしそうしたものだとすれば、誰が、何のため

に引き起こしたかということが問題である。

 バンとアイリーンは、重力波に関して、突っ込んだ議論を

始めていた。

 キッキーは、オリンポス・サテライトとの情報交換に集中

している。

 そして、津田は、自分の考えにふけっていた。が、ふと、

ぼんやりと宙に浮き上がった。そして、脚を組み上げ、無重

力空間で座禅を組んで漂った。J−7の窓から、砂をふりま

いたような、まばゆい銀河の輝きが見えた。

 あのアステロイドで、何かとほうもない技術革新が試され

たのだろうか、と津田は思った。科学技術は、しばしば大き

く飛躍する時がある。蒸気機関の発明、電灯の発明、飛行機

の発明、みなそうだった。また、戦場における原子爆弾やミ

サイルの登場でさえも、それ以後の世界秩序を一変させてし

まったものだ。

 そうした、発見、発明、技術革新という幾多の急流は、や

がて本流の谷川に集まる。そして、そうした谷川がさらに集

まって、大河となっていく。それが、何十万年、何百万年と

う、時空の熟成を必要とするかもしれないが、大河はやがて

緩やかに、“豊饒の海”へと流れ込んでいくのだろう。むろ

ん谷川も、物理科学の谷川ばかりではあるまい。社会科学、

宗教、哲学、芸術、そうした全てが作り出す、文明というも

のの全ての歴史の流れが、究極の“豊饒の海”へと熟成して

いくのだろう・・・

 そうした、人間の“知性”の生み出してきたあらゆるもの

が、その“知性”の所産のゆえに、“豊饒の海”へと熟成し

ていくわけである。が、はたして、その“豊饒の海”では、

人類は、因果律や二律背反という“ゆらぎ”から発生したこ

の世界の、根源的な矛盾を超越して存在しているのだろう

か。それとも、我々地球人類、ホモ・サピエンスの文明史

は、知的生命としての“超越”に失敗し、早々に滅び去って

いくのだろうか・・・

「どうだね、真、これは人為的なものと思うかね?」バン

が、津田の方に声をかけた。

「そう思いますね・・・しかし、純粋に人為的なものとも思

えない。太陽磁場の巨大な変調のような、我々の知らない何

かが・・・」

「わしには考えられんな。この宇宙には、我々の知らんこと

はまだ山ほどある。神がいるかどうかさえ、我々には分らん

のだ」バンは、禿げ頭をなでまわした。

 アイリーンは、みんなに背を向けて電磁ペンを脇にはさ

み、一人で考え込んでいた。

「しかし、バン、ビッグ・プロジェクトとばかりは限らんで

すよ。これは、状況から考えても、もっと簡単にやってのけ

たような気がしますね」

「というと、」

「たとえば、触媒です。モノポール(磁気単極子。素粒子論

で想定する、磁石のS・N極の一方の極のみを持つ素粒子)

を使えば、理論的には、陽子崩壊は簡単に起こり得るわけで

す。もし、この技術に成功したとしたら、核融合エネルギー

などは比較にならんでしょう」

「そのモノポールが、アステロイドで採掘できたとうわけか

ね?」

「あるいは・・・もっとも、そうだとすれば、その意義は計

り知れませんが」

「うーむ・・・ありうるかね、そんなことが、」

「それとも、重力波工学の連中かも知れません。重力波工学

が、実際どんなことができる段階なのか、これも分りません

が、」

「うーむ・・・ま、反陽子リングにしても、まだあの状態だ

ぞ、」

「バン!」“フローラ”の情報を追っていたミッキーが、手

を上げた。「オリンポス・サテライトに、妙な動きがありま

す。東、西、南の、各軍事ブロック代表が、活発に動き始め

ているようです。地球との暗号による通信量も、急増してい

ます。この事件で、宇宙コンミューンを牽制している模様で

す」

「まさか・・・これが、宇宙コンミューンの仕業だというの

か!」

「とにかく、ニック・ハリソンが、警戒を発してます。L5

宇宙天文台は、位置的に重要だと言ってきています。ここ

は、収容能力も高いと、」

「何てことだ!」バンは、両手を振り上げた。「我々は、天

文学をやってるんだ!」

 津田は、素早く、その背後で動いている、戦略、戦術を考

察してみた。

「ええと、それから・・・」ミッキーが、言葉を捜しながら

続けた。「“フローラ”の探知したところでは、特に南部連

合軍ですね。彼等が、この騒ぎを引っ張っているようです。

いつの間にか、南部連合軍は、“エリア・77”に相当深く

くい込んでいるようです。もっとも、国連宇宙情報部の方

も、それは察知していたようです。だいぶ以前から、防戦に

出ていた形跡があるそうです」

「ふーむ、どういうことか・・・」バンが、津田を眺めた。

「このアステロイドの爆発も、そのラインにあるというわけ

ね」アイリーンが、口を開いた。

「それも、今のところ、はっきりとは分りません」ミッキー

が言った。「もっとも、このまま推移すれば、宇宙では完全

に国連の主導権が確立します」

「困ったことだ」バンが、腕組みをして言った。「我々は、

人類のユートピアを建設しようとしているのにな、」

「いつの時代もそうね」アイリーンが、チタン・フレームの

トンボ眼鏡に手をかけて言った。「人類はもう、何度もこう

したことを繰り返しているのに、宇宙でもまだやるのかし

ら・・・」

「遊び場を見つけたわけか、」バンが、まばたきし、額に手

を当てた。

 この種の問題は、国連総会でも、国連宇宙開発委員会で

も、すでに長年討議が重ねられてきたことだった。つまり、

宇宙空間における、全体的な社会形態の在り方の問題であ

る。そして、その成果は、宇宙憲章の中に結晶化していた。

しかし、長い歴史的背景から、対立は依然根深く残っていた

わけである。こうした軍事勢力の介入は、旧時代のしがらみ

を、いまさらながらに力で解決しようというものだった。そ

して、宇宙の主導権を、かってのように軍で掌握しようとし

ているのだ。が、それでは、地球に発生した知的生命として

の“超越”の芽が、失われてしまうことになる。この超越の

領域における宇宙社会では、文明形態も一段高いステージへ

変容していかなければならないのだ。そうでなければ、単な

る歴史の延長になり、抗争と戦争の繰り返しになってしま

う。

 この地球生命圏のDNA世界に、最後にホモ・サピエンス

が書き加えられたのは、つい数百万年前のことである。ま

た、それが言語と道具を用い、火をあやつり、文明を築き上

げたのは、わずか数千年前。また、最初に地球の引力加速度

を越えて、まだ一世紀にも満たない。つまり、我々ホモ・サ

ピエンスは、きわめて特異な存在と言えるだろう。しかも文

明は、ますます加速度を増し、拡大しつつある。この文明が

どこへ向かっているにしても、我々の一挙手一投足、一分一

秒が、貴重な文明史そのものとして記述されていくだろう。

加速度が増せば、ますますその舵は重く、難しくなり、失敗

は許されないものになる。

「さあ、ミッキー!」アイリーンが、大声で言った。「三次

元ホログラフィーのシミュレーションにもどるわよ」

「は!」ミッキーは、挙手を切って見せた。そして、マグネ

ット・ラインを蹴り、マニュピレーター付の誘導チェアーの

方へ泳いだ。

 

 

 第二章           

 

 L5宇宙天文台の主要システムの一つ、大型赤外線望遠鏡

“ベガ”に変調が出たのは、アステロイドの謎の大爆発の直

後だった。それは、最初は、かすかに霧のように流れ出る、

黒く焼けた画像だった。そして、それが30分ほどたった時

から、しだいにモニターでもはっきりと分るようになった。

が、“フローラ”の持つこれまでのデータを解析して分った

ことだが、兆候は以外にも、一週間以前にまで遡った。た

だ、謎の大爆発の数分間に、壮大な極大値が出ていたのであ

る。

 このことから推理すると、アステロイドにおける大爆発

は、すでに一週間以前から何かが始まっていたことになる。

また、最近の、太陽表面の黒点活動の活発化とも一致してい

た。ただ、これは偶然の可能性もあった。しかし、そうでな

いとすると、黒点活動の活発化が、この謎の大爆発に影響を

与えたということになる。いずれにせよ、すべてが尋常なこ

とではなかった。何か、とてつもないシステムが関与してい

るようだった。

「幾つかの要素が、重なっている可能性がありますね」津田

は、テーブル型スクリーンを見ながら言った。

「やっかいなことだ」バンは、ツルリと禿げ頭をなでた。

「あの爆発で、手頃な小惑星が一つ吹き飛んでますね」

「うむ、」バンは、ため息をついた。「これは、事故じゃな

いかと思うが、」

「ええ・・・で、“ベガ”の方は、どうします。とりあえ

ず、液体ヘリウムの補充ぐらいで押さえられればいいんです

が、」

「うーむ、オリンポスの運営委員会は、何と言ってる?」

「反応が鈍いですね」

「どういうことなの?」向こうから、アイリーンが口をはさ

んだ。指先で電磁ペンをくるくる回しながら、マグネット・

ラインを歩いてきた。

「オリンポスは、気がないようですね」誘導チェアーから、

ミッキーが言った。

 三人は、顔を見合せた。アイリーンは、トンボ眼鏡の真ん

中を押し、薄い唇を妙に結び合わせた。何かトンチンカンな

ことを、真剣に考えようとしている彼女は、なかなか魅力的

だった。

「どうやら、」ミッキーが、誘導チェアーを移動して来なが

ら言った。「こっちからの情報を、故意にぼかしているよう

なんです。逆に言えば、我々が何か、重要な情報をつかんで

いて、」

 アイリーンは、ため息をついた。

「“ベガ”ね、」

「ああ、間違いない」津田は言った。

「とにかく、こっちの情報機関が動くまで、“フローラ”に

ガードさせておいた方がいいようですね」

「うむ、そうしてくれ」バンが言った。

「もう、手はうってあります」

 

「まだか、ミッキー?」津田は、宇宙服のヘルメットの中で

言った。

 予定の殻外作業時間を、すでに50分オーバーしている。

「もう、じきだと思います」ミッキーが、中央観測モジュー

ルの中で、“フローラ”の情報の洪水を処理しながら答え

た。

「うむ・・・」津田は、腕につけている、ディスプレイ円盤

に目を落とした。この殻外作業用のディスプレイは、通信回

線で“フローラ”と直接リンクしていてる。

 津田の体は今、宇宙空間にあり、命綱で大型赤外線望遠鏡

“ベガ”に結ばれていた。その“ベガ”の本体は、直径十数

メートルの銀白色の円筒形である。現在、“ベガ”の全プロ

グラムは、緊急に打ち切られていた。そして、稼働可能なわ

ずかな能力が、アステロイド・ベルト座標の、謎の大爆発跡

に向けられていた。瀕死の状態にあるとはいえ、この“ベ

ガ”の威力は、まさに絶大な力を発揮していた。

「“フローラ”、」津田は、ディスプレイ円盤を見ながら、

ヘルメットの中で言った。「爆発の時間推移のデータを、半

径500万キロの立体座標で出してくれ。それから、フレア

ーのデータは、三ヶ月まで拡大だ」

「‘はい、真’」“フローラ”の美しい金属音声が、津田の

耳に響いた。

「オリンポスからのアクセスはあるか?」

「‘はい。幾つかが、プロテクトを破ろうとしています’」

「破られそうか?」

「‘軍用のアイス・ブレレーカー・プログラムが強力です。

一時間以内に破られる可能性、60パーセント。この場合、

こちらがプログラムEQ−3371を発動させる必要があり

ます’」

「ふむ・・・」

「‘表示しましょうか?’」

「いや、問題点だけでいい」

「‘宇宙憲章7−35−6及び、7−35−12に抵触しま

す。EQ−3371の発動には、天文台長の許可が必要で

す’」

「じゃ、バンに伝えておけ」

「‘はい、真’」

 津田は、ディスプレイ円盤に入ってくる、爆発の時間推移

のデータを読んだ。が、ふと、ため息をつくと、半分太陽光

の陰った青白い地球が目に入った。津田は、巨大で孤独な地

球を見つめた。宇宙空間は、可視光レベルでは静寂そのもの

だ。彼は、L5宇宙天文台の本体の方を、何気なく振返っ

た・・・

 このL5宇宙天文台は、その60パーセント以上が、中古

で払い下げられた寄せ集めのモジュールでできている。人類

が、宇宙開発を始めた初期の頃の、宇宙実験室や、宇宙戦闘

指令室などである。そうしたもので、しっかりとした内殻構

造を持ったものが、特別な接合ユニットで連結されてある。

したがって、この寄せ集めモジュールは、人工島や船と言う

よりは、まさにイカダに似ていた。が、イカダの内部は、大

半が最新鋭の天体観測機材で満たされている。そして、“フ

ローラ”は、このL5重力バランス領域のはずれにある、イ

カダの相対的座標を、常時精密に維持し続けていた。

 津田は、それから、地球表面での重量にして70トンにも

及ぶ、大型赤外線望遠鏡システム“ベガ”を見上げた。むろ

ん、この重量は、冷媒として充填されている、液体ヘリウム

をも含めてである。が、それほどの重量の“ベガ”も、宇宙

空間ではポッカリと浮かんでいる。そして、宇宙天文台本体

から、数十メートル離れた所に、ポツンと設置されてあっ

た。むろん、連絡固定パイプで、しっかりと連結されている

わけである。そして、そのパイプ上には、補助用の太陽発電

パネルが、二列の波形に張られていた。

 他の、ほとんどの観測システムもそうだが、この“ベガ”

も、マイナス200度C以下という、極寒の超真空にさらさ

れていた。が、“ベガ”の場合、それをさらに液体ヘリウム

という冷媒によって、極限状態にまで冷却しているのであ

る。鏡筒や鏡は、約7度K(マイナス266度C)、検出器

にいたっては、約2度K(マイナス271度C。絶対0度よ

り2度上)である。むろん、これらの温度も、精密に調整さ

れるわけである。

 こうした、異常とも言えるほどの極低温システムが施され

ているのは、観測装置本体の材質の発する赤外線放射を、極

限まで遮断するためである。こうしたきわめてデリケートな

構成によって、“ベガ”の過敏すぎるほどの、超高感度シス

テムができ上がっている。

 この“ベガ”は、もうかなり以前になるが、地球の静止衛

星軌道の外側で組み立てられたものだった。それを、この

L5ラグランジュ・ポイントまで引き上げてきたのは、津田

自身である。そして、オリンポス・サテライトで、耐用年数

の延長工作をやり、さらに、あらん限りの新技術を加えてい

った。“ベガ”というニックネームも、この時に命名され

た。つまり、実質的にも全く新しいと言っていいほどの、超

高性能大型赤外線望遠鏡に生まれ変わったのである。それ以

後、この“ベガ”によって、広大な宇宙の秘密が、赤外線領

域において本格的に掃天が開始された。

 津田は、近くで黙々と働いている、知能回路型工作ロボッ

ト“チャンピオン・AI”の方に目を投げた。人間の半分ほ

どの大きさの、特殊金属のメカトロニクスだ。人間や動物の

ように洗練された体形ではないが、頼りになる相棒だった。

人間なら、三度の飯さえ与えておけば、たいがいは一人前の

働き手になる。しかし、このハイブリッド・体積メモリー

(膜蛋白質バクテリオロドプシンと、従来型半導体技術の合

体したコンピューター・デバイス)を持つ“AI・工作ロボ

ット”は、目の玉が二度飛出すほどの高価なメカトロニクス

だった。女の気まぐれで、二足三文で生み出されたものとは

わけが違うのだ。

 その、スーパー・メカトロニクス“チャンピオン・AI”

が今、シグマ端子をセットし、センサー・アームを直接“ベ

ガ”の頭脳回路に挿入していた。そして、その強制干渉によ

る解析データを、“フローラ”に直接送り出している。

 津田が、“チャンピオン”をここに連れてきて分ったこと

は、予想以上に太陽方向の影響が大きかったことだ。むろ

ん、太陽方向に対しては、“ベガ”は可動式の日傘を装備し

ている。しかし、この遮蔽装置でカバーしきれない何かが、

強く影響していた。もっとも、こうした最先端技術分野で

は、しばしばまるで予想もしなかったような原因が出てくる

ことがある。かって、国際天文学会をゆるがせた大事件が、

実は宇宙ネズミの気まぐれによる、光ファイバー・ケーブル

の試食だったということがあった。喰いちぎった傷跡から、

それがネズミの歯と分ったのだ。そして、この話は、今では

はるか野に下って、日本の落語の世界でヒット作品になって

いる。

 ところで、ここ数ヶ月間続いている太陽表面の異常黒点活

動は、専門家の間でも意見が分れていた。が、真の原因が何

であれ、その巨大フレアーから吹き出す太陽風は、津波のよ

うに、この太陽系第三惑星の地球軌道にも押し寄せていた。

もっとも、津波といっても、これは目に見えないプラズマ流

の風波である。また、地球自体は、この秒速数百キロメート

ル(秒速300メートル〜最大800メートル以上。平均

400メートル)のプラズマ流から、地球磁場と厚い大気層

によって守られている。しかし、このL5ラグランジュ領域

では、そのプラズマ流がまともに吹き抜けているのだ。その

エネルギーが如何に凄じいかは、太陽風によって吹き流され

た地球の磁力線が、この月軌道のはるか外側まで尾を引いて

いることでも分る。もっとも、その太陽風が、L5宇宙天文

台をどこかへ吹き飛ばしてしまうというようなものでもなか

った。秒速数百キロメートルのエネルギーと言っても、たか

だか電子や水素原子核のことである。それが相当の面積、あ

るいは相当の時間たまってこない限り、大きな物体を動かす

ような力にはならない。ただ、太陽風もちょうど太陽光線と

同じように、希薄ではあるが、そのエネルギーの総量は膨大

なものである。したがって、この太陽風も、いずれ人類に、

無限の恵みとして活用される時が来ると言われている。この

風波は、まさに今も刻々と、数十億キロメートルにも及ぶ、

全太陽系の果てにまで吹き抜けているからである。

 太陽圏は数十天文単位(1天文単位は、地球と太陽の距

離。約、1億5000万キロメートル)から百天文単位とい

われ、太陽風は一年近くかけて、太陽系の果てにまで達して

いる。その果てでは、太陽風は星間ガス圧との間で、球形に

終端衝撃波を形成し、明確に太陽の影響圏を示している。

(本来、太陽風を構成するプラズマは、取るに足らないほど

希薄なものである。しかし、良電気電導体のため、太陽圏内

の磁力線は、太陽風に凍りついたような状態で流れていく。

この凍結した磁束が一緒に流れていくために、希薄なプラズ

マ流が圧力をもつのである)

「バン、精度をもう二ケタ上げたいんですが、」キッキーの

声が、津田の宇宙ヘルメットの耳の上で響いた。

「どうした?」少し遠くの方で、バンの声がした。

「25マイクロ・メーターの波長で、500億ビットがオフ

になります」

「うむ。それを回したいのか?」

「ええ。ちょうど、黄道塵にかかってきますから、」

「ふむ、そうだな・・・」

「それに、バン、この座標のケイ酸塩の広がりですが、例の

爆発に巻き込まれた、第二の小惑星の塵とも考えられます

ね。速度が、予測値と一致します」

「ふむ、よかろう、ミッキー。500億ビットで、そのガス

の追跡だ。それから、その宙域全般の温度分布と、励起した

黄道塵もな」

「ええ。“ベガ”なら、楽にその宙域の残照を補足していけ

ますよ」

「たのむぞ。ところで、アイリーン、オリンポスには今、太

陽屋は誰がいたかな?」

「シュタイナーがいますわ。それと、織部、フィッシャ

ー・・・」

「うむ。ちょっと、シュタイナーを呼出してくれんか」

「ええ、いいですよ」

「それから、キム教授だが、彼にだけは、“ベガ”のことを

臭わせておけんかな?」

「でも、教授は、地球へ向かっていますわ」

「うむ。なんとか、コンタクトできんものかな」

「友情の問題というわけね。まだ、低軌道ステーションあた

りにいると思うけど。連絡を取ってみますわ」

「うむ」

 津田は、バンが葉巻をくわえ、アイリーンがしたたかに微

笑しているのが、目に見えるようだった。津田は、そうした

ふうに時空に刻印されていく、おだやかな日常的ストーリイ

に、口もとをゆるめた。

壮大な、宇宙のキャンバスに・・・

“認識”と“知性”の創り出す、幻想的亜空世界に・・・

そうした、全てのものの、何処とも知れない一点に、今もこ

うして、明確な ストーリイが記述されていく・・・

が、それは、何処とも知れないが、まさにココそのものでも

ある・・・

そしてまた、全体そのものとも、寸分たがわずに重なる、一

つの意味を持つ明確な事象世界・・・

 津田は、あらゆる事物の背後、あらゆる事象の根源を探る

ようなまなざしで、“ベガ”を見つめていた。その銀白色の

冷たい金属表面を、津田は宇宙服の手袋でサラサラと撫で

た。

「アイリーン、キム教授をキャッチできたのか?」バンの声

がした。

 かすかな、アイリーンの笑いを含んだ声が聞こえた。

「もう・・・段階ですって・・・たぶん・・・と思います

わ」

「ブラック・アウト?」

「だから・・・ソウルに・・・」

 津田も苦笑した。すると、すぐにバンの怒鳴り声がした。

「真!」

「何ですか、聞こえてますよ」

「掃天用アレイと、測光器のデータは取ったか?」

「ええ、しっかり、」

「よーし、じゃあ、残るのは遮蔽装置の状況だな。そこをビ

デオに納めたら、一応おしまいにしよう」

「了解」

「あとは、どうでも、運営委員会の指示を仰ぐ他はあるま

い」

「ええ、」

 津田は、ズングリとした“ベガ”を見上げた。青白い地球

の反射光を受け、半分が陰っている。“ベガ”にとっては、

太陽光ばかりでなく、地球の反射光も障害になるのだ。が、

こっちほうは、36000キロメートルの静止軌道にあった

頃に比べれば、障害ははるかに小さい。

 津田は、“チャンピオン”に、“ベガ”のヘッドの方か

ら、ぐるりと日傘を撮影するように命じた。

「‘オーケイ、真’」

「カメラ・アイのデータを、こっちにも回してくれ」

「‘オーケイ’」

“チャンピオン”は、伸縮アームを出し、連結パイプに固

定した。それから数秒間計算し、自分の本体の方を、“ベ

ガ”のヘッドの周囲へ飛ばした。

「‘オーケイか?’」

「うむ。どうだ、ミッキー?」

「十分です」

「よーし、オーケイだ!さあ、帰ろうぜ、チャンプ!」

「‘オウ!’」

 “チャンピオン”の伸縮アームが縮み、本体がゆるゆると

戻ってきた。それから、“チャンピオン”は、自分の万能リ

ード・ユニットを出し、連絡固定パイプのリード・ラインに

セットした。津田も、“ベガ”に固定していた命綱のフック

を、そっちの方に切換えた。そして、“チャンピオン”の小

さなリード・スティックにつかまり、ゆっくりと“ベガ”を

振り返った。

「‘オーケイか、真?’」

「ああ、いいぞ、チャンプ」

“チャンピオン”のリード・ユニットが、連絡固定パイプ

のラインを滑らかにすべりだした。彼等は、窓に黄色い明り

の並ぶL5宇宙天文台本体の方へ、静かに流れていった。

 孤独な月が、ポッカリと、暗黒の中天にはめ込まれている

のが見えた。が、やがて、工作艇とスペース・クルーザーが

固定されている、入港ドック・テラスに取りついた。津田

は、ドッキング用のレーザー・ガイド・ビームの発射口の横

で、まず“チャンピオン”を先にエア・ロックに入れた。そ

して“ベガ”の方をいちべつし、自分もエア・ロックに入っ

た。

 エア・ロックの中で“チャンピオン”と並ぶと、外側のハ

ッチを閉鎖した。それから、中に空気が満たされていく様子

を、スクリーンのゲージで見守った。やがて、ライン上の赤

色が消え、全てグリーンに輝いた。ピィーン、と金属音が、

エア・ロック内の空気を振動させた。その振動波が、スクリ

ーン上にも走った。

 津田は、“フローラ”がハッチを開けるのを待った。それ

から、“チャンピオン”と一緒に、エア・ロックから内部空

間へ抜け出した。その、約五十立方メートルの部屋の中は、

光々と明るかった。一気圧の空気と、二十度Cの温度が保た

れている。それから、さらにセンサーが作動し、厚い密閉式

のシャッターが滑らかに開いた。大型貨物の搬入には、この

部屋そのものがエア・ロックとして使われるのだ。小型工作

艇なら、二隻がらくに入るスペースである。しかし、観測が

主任務の宇宙天文台では、ここが使われるのは、補給と機材

の搬入時だけである。

 ところで、こうしたエア・ロック構造を持つ宇宙基地は、

しばしば潜水艦や海底基地と比較される。それは、本来人間

が住めない環境に、地球表面と同じ人間環境を持込んだとい

う点で、共通しているからであろう。が、基本的な相違も幾

つかある。まず、その置かれている空間が、開放系か閉鎖系

かという点である。そして、機能そのものが、対内圧か対外

圧かという点もそうだろう。が、いずれにしろ、開放系空間

に置かれてある宇宙基地の方は、きわめて精密でデリケート

なものであり、構造そのものもいたって開放的と言えるだろ

う。

 

“チャンピオン”を相手に宇宙服を脱いでいると、“フロー

ラ”が、ナンバー28のインフォメーション・スクリーンを

回復した。スクリーンには、アイリーンが映っていた。彼女

は、こっちの方へ向かっていた。シャッターがつぎつぎと開

いていくのが映った。しばらくすると、ナンバー28のシャ

ッターが映り、同時に回廊の左手の方のシャッターが開い

た。

 アイリーンは、慣性力を残して、リード・スティックから

手を離した。そして、白い手袋をはめながら、津田のいる方

へ流れてきた。

「ごくろうさま、真」

「やるだけはやった」津田は、マジック・ラインの上で微笑

し、片手を上げた。

「そうね、」

 アイリーンは、宙に漂っているヘルメットをつかまえた。

それを簡単に点検し、ポン、と叩き、収納庫に入れた。それ

から、一緒に宇宙服の方を点検した。これは、最近定期点検

に出したばかりのものだった。これも、二人で、同じナンバ

ーの収納庫に納めた。

 津田は、髪を両手で押さえつけた。そして、白い標準サテ

ライト・スーツに着替えながら、マジック・ラインにいる

“チャンピオン”を見下ろした。“チャンピオン”のカメ

ラ・アイも、津田を見上げていた。が、“チャンピオン”の

ハイブリッド・人工知能回路は、何を考えているやら分った

ものではなかった。津田は、この方面の専門知識はなかった

が、こうした人工知能は、どの様に成長していくのだろうか

と思った。また、感情というものは生まれてくるのだろうか

と思った。一応の説明では、人工知能には幾つかのバイアス

がかけてあり、その微妙なからみが、個性を育てていくとい

うことだったが・・・

「ねえ、真・・・」アイリーンが、トンボ眼鏡をはずしなが

ら言った。

「何だ?」

「人間の行為というのは、本当に、本来はいったい何なのか

しら?」

「・・・むずかしい質問だな。“存在”そのものの意味が、

何だと言うことになるだろう」

「人間は、自分自身の知らない何かで動いているのかし

ら?」アイリーンは、トンボ眼鏡のレンズを、ポケット・ク

リーナーでふいた。

「ああ・・・人間の知っていることなど、わずかなもの

だ・・・しかし、この世界の全ては、互いに関連し合ってい

る。独立したものは何もない。これは確かだ」

「システム論的にね、」

「まあ、それだけというわけでもないがな、」津田は、アイ

リーンの肩に手をかけた。

 アイリーンは、トンボ眼鏡をかけなおし、微笑んだ。

「ただ、聞いてみただけよ。今度は、わたしの方が真に影響

されたのかしら、」

「そうした純粋な疑問は、いつまでも残しておきたいものだ

な。人間は、特に宇宙空間では、謙虚さが必要だ」

「わたしが、まだバークレイにいた頃だけど、」アイリーン

は、壁のリード・ラインに手をやり、スティックを立てた。

「“チャンプ”」津田は、AI・工作ロボットに手を上げ

た。「ご苦労だった。戻っていいぞ」

「‘オーケイ、真’」

 アイリーンは、スティック・ヘッドのボタンを押した。津

田は、彼女の肩につかまった。無重力の回廊を、二人の体が

静かに加速していく。やがて、一度直角に曲ると、リード・

ラインは透明なシリンダーの中に入った。空気浄化モジュー

ルの、真ん中を突き抜けているのだ。

 その中に入っていくと、周囲はまばゆいばかりの緑だっ

た。巨大なシリンダーの中に、太陽の光が光々と溢れてい

た。この空気浄化モジュールは、スペース・バイオ・テクノ

ロジーを駆使した、最新のシステムである。強力な藍藻植物

の一種が使われ、それが集光ミラーから光ファイバーで導か

れてくるあり余る太陽光で、激しく炭酸同化作用をしてい

る。むろん、このモジュールの機能は、それだけではない。

が、図式としては、主に人間の呼吸によって溜まった炭酸ガ

スが、ここで酸素に再生産されているのである。

 この、緑と光の爆発しているシリンダーの中には、さらに

いくつものイミテーションの透明な球体が漂っていた。その

球体の、無重力状態で加圧された気体と液体の奇妙な相混合

の中では、繰り返し繰り返し、美しい色とりどりの花が咲い

ている。これを大きくしたものが、“スペース・オアシス”

と呼ばれているもので、オリンポス・サテライトの名物の一

つになっている。“エリア・77”で急速に進んでいる、ス

ペース・バイオ・テクノロジーの余技である。こうした、か

なりゆとりのある環境浄化システムが、最近はコマーシャ

ル・ベースでどんどん生産されているのだ。

 透明なシリンダーを抜け出した彼等は、モジュールの連結

ユニットのシャッターを二つ抜けた。すると、中央分岐点に

着いた。上は中央観測モジュールであり、下は回転内殻をも

つ、人工重力モジュールである。人工重力モジュールの方

は、コミュニティー・スペースと、その下層のプライベー

ト・スペースとに分れている。それは直径25メートルの円

筒形であり、このL5宇宙天文台では最大のものである。こ

の上下二つの最大級のモジュールが、扁平なイカダに、唯一

垂直に組み立てられていた。

 彼等は、そこでリード・スティックをかえ、人工重力モジ

ュールの方へ入った。このモジュールは、複合装甲になって

いて、かなりのレベルまでの高エネルギー粒子の貫通を遮断

していた。そして、内殻が一定の速度で回転している。モジ

ュールの疑似重力は、この回転による遠心力から得ていた。

しかし、内殻は、直径21メートルで、たいした遠心力には

なっていない。むろん、回転の調整は可能だが、地上スタイ

ルでの入浴と、テーブルを囲んでの食事ができる程度であ

る。現段階ではこのあたりが、無重力環境における精神的生

理学的諸問題と、さまざまな機能面との、微妙な妥協点のよ

うだった。

 コミュニティー・スペースの床面には、きゃしゃなテーブ

ルや椅子等、家具調度品がにぎやかだった。それらはすべ

て、マジック・パーツで床に固定されている。また、床に対

して壁にあたる部分には、縦2メートル横3メートルの、大

型コミュニティー・スクリーンがあった。これは、全宇宙コ

ンミューンで、ネットワーク化を進めているものだった。そ

して、その左手の方には、完全自動化されたシステム・キッ

チンがある。が、最近では、これは全自動システムとしては

ほとんど使われていなかった。人工重力モジュールを持つサ

テライトでは、むしろ手料理の方が好まれているからであ

る。極度にエレクトロニクス化されている宇宙コンミューン

では、食事に関した仕事だけが、唯一人間的な仕事として、

聖域化される傾向にあった。

 ここにもまた、さきほどアイリーンの言った問題が、厳然

として突きつけられていた。つまり、人間の行為とは、本来

いったい何なのかと言う哲学である。こうして、地球を離れ

た宇宙空間で働き、天体の運行を研究し、それがいったい何

なのかと言うことである。また、そうした行為を推進してい

く“意欲”というものは、何処から来るのかということであ

る。実際、人々にこう言うことを考えさせるほどに、宇宙は

人間にとってあまりにも広大だった。そして、一面は激し

く、また一面は虚無の広がりでもあった。虚無は、時には天

文学者の魂さえも凍らせ、絶えがたいほどの孤独にさせるこ

ともあった。

 津田とアイリーンは、回転している内殻の軸から、ステッ

プ付リードラインで降下していた。最大遠心力の床面まで、

10メートルあった。

「どうしたものか・・・」バンが、二人を見上げて言った。

「どうしたの、バン?」アイリーンが聞いた。

「やっぱり、オリンポス・サテライトまで出かけた方がいい

かな?」

「ええ、」津田は、唇にコブシを当てたまま、ふわりと3メ

ートルほどを飛び降りた。「放っておける問題でもないです

ね」

「うむ、」

「じゃ、明日、ミッキーと一緒に行ってきますか、」

 アイリーンも、津田の横に降り立った。口に手を当て、あ

くびをした。

「いいかな、ミッキー?」

「いいですよ」エプロンを付けているミッキーが、セラミッ

クの包丁を振り上げて言った。「買物もありますから」

「それじゃあ、連絡を取っておいた方がよさそうね。レ・ド

ク・タンがいいかしら?」

「ああ」津田はうなずいた。「彼がいい。あのベトナム人は

賢い」

「そうね、」

「アイリーンは、今夜は誰のものだい?」ミッキーが聞い

た。

「今夜は、誰のものでもないわよ」アイリーンは、歩きなが

ら振り返った。「むこうで、遊んでこようというのね、ミッ

キー」

「待ってる娘がいるのさ」津田は、笑って言った。

「ふうん、そうなの。どうぞ、ミッキー。若いんですもの

ね」

 アイリーンは、直径20メートルの内殻の床を、どんどん

歩いて行った。そして、天井近くまで歩いて行き、そこのサ

ブ通信回線のパネルを開いた。

 ところで、この回転内殻の床面は、なかなか面白いものだ

った。この上をまっすぐに歩いて行けば、最後にはもとの場

所に戻ってくるのである。むろん、これは床が曲率をもって

いるのであって、空間そのものが曲率をもっているわけでは

ない。が、これは、この宇宙空間のモデルとして使われる、

三次元トーラスとよく似ているのである。

「アイリーン」津田は、上の方を見上げて言った。「定時補

給のコンテナの方も、準備できるかどうか聞いてくれない

か」

 逆さになっているアイリーンが、手を振り上げて見せた。

 

 宇宙での食事が、地上なみになったのは、ついここ二、三

年のことである。そして、この食文化の革新には、二つの要

因があった。一つは、コマーシャル・ベースで生産されだし

た、人工重力モジュールの普及である。これは、もともと

は、宇宙生理学的な要求から開発されたものである。が、当

初からの予想通り、文化的波及効果の方が大きかった。これ

によって、スペース・イノベーション(宇宙空間技術革新)

の最前線基地になっている、“エリア・77”の無数の小サ

テライト郡でも、地球上なみに食卓を囲んでの食事が楽しめ

るようになった。

 それから、宇宙での食文化に貢献したもう一つの革新は、

“エリア77”の三つの農場サテライトが、良好な生産サイ

クルにのりだしたことである。これによって、生鮮野菜に加

え、食品加工々場も軌道にのり始めた。その生産ラインも、

植物油、ソース、ジャム、豆乳、パンと、すでに200種類

をはるかに越えたはずであり、日増しにその幅を広げてい

る。しかし、これらも全て、人類の本格的な宇宙植民時代へ

向けての、実験的なミニチュア・システムなのである。た

だ、ミニチュアとは言っても、すでにL5領域を初め、月基

地、低軌道ステーション・ウクライナ等へも供給を開始して

いる。

 こうして、宇宙コンミューンは、徐々に食料の面でも自立

を始めていた。宇宙から地球へ帰投するシャトルも、無重力

空間で生産された工業製品で満載の状態であり、経済的にも

軌道にのり始めている。やがて、この広大な太陽系空間と、

無限の太陽エネルギーを活用し、急速に宇宙農業文明が拡大

して行くはずである。それは、かってのアメリカ西部開拓史

や、大航海時代をも越える、巨大な一大文明事業に発展して

行くものである。

 津田は、地球人類、ホモ・サピエンスは、いずれ真に自ら

の種族と、自らの生態系を、コントロールできるようになる

だろうと信じていた。また、そのためにも、貴重な遺伝子情

報の宝庫でもある地球の生態系を、もうこれ以上破壊しては

ならない。さらに、きわめて高度な“知能”のゆえに増殖し

てきたホモ・サピエンスの方は、それゆえに、“超越の領

域”である宇宙空間へ出て行かなければならないだろう。ま

た、同時に、そのホモ・サピエンスに与えられた、超越者と

しての重要な課題は、仲間の動物たちの肉を喰らって生きて

いくという、“原罪”をも克服していくことである。仲間の

動物たちの多くが草食であるように、タンパク質にしても、

脂質にしても、穀物から十分に摂取可能である。他の肉食動

物はいざ知らず、ホモ・サピエンスには、すでにそれが技術

的に十分可能なのである。したがって、ホモ・サピエンスに

おいては、肉食はすでに“原罪”ではなく、より深刻な単な

る罪悪でしかない。一方、そうした意味では、草食の牛や馬

や羊の方が、よりいっそう清浄な生き物と言えるのかも知れ

ない。

 ところで、こうして限りなく拡大していく宇宙文明が、将

来起こるであろう結果に対して、良いか悪いかと言うこと

は、津田にはむろん分らなかった。何故なら、すでに人類

は、さまざまな分野で、神の聖域を侵しているかも知れない

からである。しかし、津田は、こうした文明の発生と、その

ストーリイの流れは、良い悪いというワクの外の問題と考え

たかった。むろん、事前の十分なアセスメントは、絶対に必

要である。しかし、マクロ的に見れば、人がいずれ死ぬよう

に、ホモ・サピエンス文明も、いづれは滅びるのである。そ

れは、宇宙における膨大な生命原理の新陳代謝機構に、人類

文明自体も組込まれていると思われるからである。したがっ

て、生命体の中の一つの細胞が生滅するように、宇宙におけ

るホモ・サピエンス文明も、いずれは滅びていく。そして一

方、宇宙のどこかで、また新たな知的生命体による、新たな

文明が新陳代謝していくのだと思われる。

 こうした機構が、何故宇宙に存在するのかは分らない。

が、おそらく、宇宙開闢の初期条件の中に、すでに必要条件

として、知的生命の誕生がプログラムされていたからではな

かろうか。この、“人間原理”の思想は、宇宙論におけるき

わめて微妙な問題である。が、その知的生命の誕生と、その

認識なくしては、宇宙は存在し得ないのである。つまり、逆

に言えば、知的生命による認識のないところには、“時間”

も“空間”も“神”さえも存在し得ないからである。そうし

た所では、もともと意味の形成そのものが、不可能だからで

ある。

「本当にいつか・・・」アイリーンが、上品にフォークを使

いながら言った。「わたしたちは、この真空の海を越えるこ

とが出きるのかしら・・・」

「それには・・・」ミッキーが、フルーツ・ゼリーを自分の

皿に取りながら言った。「基礎科学分野での、新しい発見が

必要ですね」

「そうね・・・」

 バンは、ナプキンで口のまわりをぬぐった。それから、ス

モーク・クリーナーの付いた、葉巻の箱を引き寄せた。

 津田は、自分のゴブレットに、ビールをなみなみと注い

だ。バンが葉巻を手放さないように、津田は何といってもビ

ールが大好きだった。

「もっとも・・・」ミッキーが言った。「それは例によっ

て、思いがけない方向へいくかも知れませんが、」

「そう・・・」アイリーンが、小首を傾けてうなづいた。

「あるいは、」津田は、大好きなビールを口へ運びながら、

ミッキーの言葉を引き取った。「そうでなければ、すでに我

々が、その技術の片鱗をつかんでいるものの中にある。た

だ、我々が、それと気付かないだけで・・・」

「そうね・・・」

「しかしだ・・・」津田は、ビールをを眺め、ひとくち喉に

流した。「空間を越えることだけが、我々の文明の在り方だ

とは思わんな。かりに、アンドロメダ大星雲までいけたとし

て、それでどうなるものでもあるまい。我々の銀河系をずっ

と突き抜けていって、その向こうのマフィー銀河までいけた

としても、そこに何が発見できるかな。宇宙はきわめて広

く、きわめて均質だ。結局、それは、単なる相対的な“場”

の移動だけでしかないのかもしれん」

「真、それは単なる“場”の移動ではないはずよ。時空は連

動するものだし、それを言うなら、わたしたちの未来はいっ

たい何なの?」

「ぼくの言いたいのは、平面的座標の移動だけなのかという

ことだ。ぼくはむしろ、垂直座標の方にロマンを感じるね」

「それは、何?」

「版図の拡大ではなく、深化だ。垂直方向への潜行と探索

だ」

「・・・」

「とにかく、ぼくは、前進するということは、素晴らしいこ

とだと思いますね」ミッキーが言った。「冒険や危険の全く

ない、完全管理社会なんてのは、ぼくはごめんこうむります

よ。アメリカの栄光は、あの苦難の、西部開拓史時代にこそ

あったんですよ。そうでしょう、バン?」

「うむ・・・」バンは上を向いて、プカリと葉巻の煙を吐い

た。が、煙はスモーク・クリーナーの方へ、急速に引きもど

されていく。「しかしだ、ミッキー、あれはインディアンに

とっては、被侵略戦争だったのだぞ。そういう側面もあると

いうことだ」

「ええ。それは認めます」

「いいか、ミッキー、我々は、抗争を再び宇宙で繰り返して

はならんのだ。我々は、“歴史”というバイブル(聖書)を

持っている。“歴史”は、我々人類の栄光と挫折、失敗と教

訓の記録だ。我々は、そうした過去のさまざまな歴史を学び

ながら、新しい宇宙文明を模索しているんだからな」

「垂直座標・・・深化と潜行ということね・・・」アイリー

ンが言った。「よく考えてみるわ、」

 

 夕食後、彼等はレ・ドク・タンから、オリンポス・サテラ

イトにおける極秘情報をいくつか入手した。いずれも、例の

アステロイド・ベルト座標の、大爆発に関連したものだっ

た。それらの中でも、特に強調されたのは、東西両軍事ブロ

ックと、追撃急の南部連合軍ブロックの、三つどもえの動き

だった。むろんこれらの背後には、対立する利害や政略があ

る。そして、それらに対抗しているのが、国連宇宙開発委員

会第五部、俗称戦略情報室だった。また、さらに、セクショ

ンは異なるが、実働部隊として、ソルジャー・アストロノー

トの一支隊が動き出しているという。この部隊はまだ訓練

中だが、深宇宙レスキュー艦を扱う超精鋭である。むろん、

それらに、全宇宙コンミューンが連動しているという構図に

なる。

 レ・ドク・タンとの符牒を使った交信の後、彼等はブラン

ディーを飲みながら、その日一日のニュースを見た。オリン

ポス・サテライトが、ちょうど一時間前に収録したものであ

る。科学ニュースに続いて、いつものように、第一号宇宙植

民島の仕上り風景を眺めた。それから今日は、すでに半年前

にスタートしている、植民島における一連のバイオ・システ

ムを案内していた。この種のバイオ・システムは、人間が地

球という場を離れても、依然として他の生物との共生関係に

依存していることを、あらためて示唆するものだった。

 また、宇宙においては、地球上で起っているさまざまな日

常的な出来事を見るのは、心の休まるひとときだった。一

方、他愛もないいざこざや、中傷や、力の論理で押し合う紛

争に関しては、彼等ははるか38万キロの高所から、文化人

類学的な視点で考察することができた。むろん、こうした宇

宙コンミューンにおける感覚は、マクロ空間の文化的特質、

その人間的特徴といえた。

 

 

 第三章             

 

 彼等は、人工重力モジュール内にある、縦2メートル横3

メートルの大型コミュニティー・スクリーンで、朝のセレモ

ニーを眺めていた。これは、オリンポス・サテライトをキ

イ・ステーションに、全宇宙コンミューンに放映されてい

る。そして、やがてデジタル時計が六時を示した時、全宇宙

コンミューンに、太陽風ホイッスルが響きわたった。これは

太陽風のプラズマ流を、電子的に合成した音である。その太

陽の発した音で、L5宇宙天文台でも、その日一日の活動を

スタートさせた。これが、宇宙コンミューンの朝であり、地

球標準時刻(経度0)の午前6時である。

 もっとも、この地球標準時刻は、火星基地あたりでは多少

問題があった。火星には、惑星としての独自の自転周期があ

るからである。が、火星の自転周期は、ほとんど地球と同じ

だったし、アステロイドの開発は、まだ始まったばかりであ

る。

 六時のホイッスルの後、四人はコミュニティー・スクリー

ンの進行プログラムどうり、溜まっている雑事やデータを処

理した。そして最後に、健康管理局の主宰する、朝の器械体

操で汗を流した。健康管理局は、この毎朝のコミュニティ

ー・スクリーンと、体操機械のマイクロ・コンピューターか

ら、膨大な個人データを収集している。これは、むろん健康

管理が目的である。が、さらに、本格的な宇宙植民時代へ向

けての、長期的多角的な集団健康管理や、社会管理などの研

究も含まれていた。したがって、当然のことだが、プライバ

シーの領域は狭い。しかし、宇宙コンミューンは、あらゆる

意味において、まだ社会科学的な実験段階なのである。人類

の宇宙文明へのシフトにおいて、社会形態、宗教形態、家族

形態、各レベルでの危機管理システム等、新しいパラダイム

が試されているのである。

 器械体操が終わると、津田やミッキーでさえも、かなりぐ

ったりとした。全身が汗だくだった。

 コミュニティー・スクリーンの方は、宇宙天文台総本部の

方に切り替わった。

「おい・・・」スクリーンの中で、パウエルが話しかけた。

顔を真っ赤にし、タオルを首に掛けている。

「おう、何だ?」津田も、息を切りながら言った。

「“ベガ”が停止になったってのは・・・ありゃあ、本当

か?」

「ああ、イカれちまった・・・本当さ」

「昨日は、大変でしたわね、パウエル・・・」レオタードを

じっとりと濡らしているアイリーンが、スクリーンの前に出

てきた。「シュタイナーはおります?」

「ああ・・・ヤツは今、シャワーを浴びてるが・・・」

「そう・・・」アイリーンは、大きく息をついた。「管理局

は・・・フウー・・・わたしたちを殺す気かしら、」

「まあ、なあ・・・」

 リンとマリアの仲良し二人組は、レオタード姿で、まだ床

の上に転がって伸びていた。息をはずませるたびに、乳房が

可愛く波うっていた。

 ミッキーが、タオルを丸めてスクリーンに投げつけた。二

人は、体をよじって腕を上げた。マリアが、ミッキーをなじ

った。

「アイリーン!」バンが呼んだ。「早く、シャワーを、使っ

てくれ」

「どうぞ、バン・・・わたしは・・・個室の方を使ってもい

いわ、」

「アイリーン・・・」床に、腰を折って転がっているリン

が、頭を横にしたままで言った。「今日は・・・何を着る

の・・・」

「まだ、決めてないわ・・・」アイリーンは、トンボ眼鏡を

はずし、タオルで顔の汗をぬぐった。巻き上げている崩れた

髪を、指でつついた。「あなたは、何を、」

「マリアと交換よ・・・」リンは、肘を立て、褐色の髪の頭

を支えた。

 

 それから三十分後、ようやくスクリーン越しに、会食のテ

ーブルが一つにつながった。この朝食の相手のグループは、

毎朝異なっている。が、一週間のうち四日は、同じ天文学会

の小グループとだった。そして、あとの三日が、全く別のセ

クションのグループになる。それがバイオ・コンピューター

のグループだったり、アストロノート(宇宙飛行士)のグル

ープだったり、あるいは女優の何人もいる、映画ロケ隊だっ

たりするわけである。

 が、今朝は、宇宙天文台総本部の、太陽系物理学の小グル

ープだった。話題は、むろん、きのうのアステロイドでの大

爆発になった。

「とにかくだ、もう少し他の方面からの情報が集まらんこと

には、どうにもならん」パウエルは、宇宙工場で焼かれたパ

ンに、宇宙工場で加工した植物マーガリンをぬりながら言っ

た。

「まあ、そっちの方は、我々の仕事じゃないがね、」シュナ

イダーが言い添えた。彼は、アッシュ・ブロンドの髪に、銀

縁の眼鏡をかけていた。

「そっちの方で、何か異常は?」津田は、野菜ジュースのグ

ラスを取りながら聞いた。

「磁気中性面電流層が乱れてる」シュナイダーが言った。

「この爆発でか?」

「うむ・・・今調べてるが、微妙な問題がある。今は、何と

も言えん」

「この爆発は、天文学的なものなのか?」津田は、別の角度

から聞いてみた。

「別に隠すつもりはないが、今は何とも言えん状況だ。我々

にも分らんのだ」

「クリフォード資源調査隊とは、交信が回復したんです

か?」ミッキーが聞いた。

「まだよ、」マリアが答えた。彼女は、フリルのついた水色

のブラウスでめかし込んでいた。それはリンのブラウスで、

二人で交換して着ているのだ。リンの方は、ベージュのブラ

ウスだった。

「あれは、絶対に、UFO(未確認飛行物体)の仕業です

よ」チコが、褐色の長い腕を差し出して言った。「調査局の

資料でも、深宇宙での目撃が急増してますね」

「まあ、何でもかんでも、連中のせいにしてしまうのは簡単

だ」バンが、フォークを休めて言った。

「しかし、そちらさんが、何でもかんでも、“宇宙の初期条

件”に入れてしまうほどじゃないですよ」チコが、素早く切

り返した。

 コミュニティー・スクリーンで一つにつながっているテー

ブルに、ドッ、と笑いの波が広がった。津田は、顔を押さえ

た。日頃、最も多く“宇宙の初期条件”を口にしているの

は、彼だったからである。

「ねえ、アイリーン、今度はいつこっちに来るの?」マリア

が聞いた。

「分らないわ。多分、近いうちに行くと思うけど。学術会議

で、地球へ降りるのよ」

「しかし、軍の動きは、さすがに早かったな」

「連中は、それが商売だ」

「ねえ、バディンガーの、ニューモードのサテラテト・スー

ツはいらない?素敵なのがたくさんあるわ」

「カタログはあるの?」

「もちろんよ。昨日、レーザー・パルスで入ったの」

「そう、じゃ、後で送ってちょうだい」

「あたしは、彼は嫌いよ。個人的にだけど。ハイスクールの

頃の先生にそっくりなのよ」

「そうかあ・・・その先生にふられたのね、」

「ちがうったら、マリア」

「どうやら、宇宙開発委員会は、その条件をのむ方向で動い

ているらしいんだ」

「ふーむ・・・」

「まあ、妥当なところじゃないかね」

「かも知れんが・・・」

 ピッ、ピッ、ピッとスクリーンに、緊急割り込みサインが

入った。パッ、と画像の左下隅が円形に消え、白くなった。

すると、全体の音声も消えた。これは“フローラ”の判断で

ある。隅の円の中に、“フローラ”のファンタジック・イメ

ージが出た。

「何だい、“フローラ”?」ミッキーが聞いた。

「‘真に、地球から、直通レーザー回線です’」“フロー

ラ”の、美しい響きの金属音声が言った。

「うむ、分った。七番に回してくれ」津田は、立ち上がっ

た。フォークを、チャリン、と皿の中に放り込んだ。

「‘はい、真’」

 スクリーンの隅で、“フローラ”のファンタジック・イメ

ージが消えた。音声が回復した。

「いったい、どうした?」シュタイナーが聞いた。

「地球からだ」津田は、スクリーンを振り返って手を上げ、

曲率をもつ床を、七番インフォメーション・スクリーンの方

へ登った。

 “フローラ”が、津田を再度確認した。それから、津田の

方も、特別にもっているS1・コード・ナンバーで、二重の

暗号を解除し、“フローラ”のS1・ガードを確認した。こ

の仕事は、宇宙コンミューンから津田に与えられている、学

問以外の特殊任務だった。

 スクリーンに、すぐに国連宇宙開発委員会第五部の、パト

キン部長の顔が現れた。中央アジアのカザフの出身である。

黒い髪に白いものが幾らか混じり、浅黒く政治焼けした端正

な顔をしていた。が、そのもの柔らかな顔の中にも、気迫

と、自信と、人に命令する人間のもつ、横柄さが感じられ

た。

「うむ、あいさつはいい」パトキン部長は、まず言った。そ

して、静かに息を抜き、相手に呼吸を合せた。「・・・どう

だね、そっちのほうは。オリンポス・サテライトほど騒々し

くはあるまい」

「ええ。四人ですから。静かなものです」

 パトキン部長は、ぼんやりと津田の顔を眺めていた。そし

て、特別回線の、通信レーザー・ビームの飛翔時間を待っ

た。

「うむ・・・あの宙域の爆発に関する“ベガ”のデータが、

ここに届いている。我々は、この“ベガ”のデータを検証し

、一つの結論に達した。爆発も、エレクトロニクスの異常

も、一応推理がついた。これは、いずれ我々の切り札になる

だろう。が、そういうわけでだ。これは今、君にも漏らすわ

けにはいかんのだ」

「ええ。ぼくには必要のないものです」

 さらにパトキン部長は、柔らかな声で、重々しく、ぼそり

ぼそりと用件の核心を話し始めた。そして、やがて、津田の

協力の了承を取りつけると、津田と同年配ほどの、日本人技

術部員とかわった。

 その日本人技術部員の話は、L5宙天文台の“フローラ”

を使い、オリンポス・サテライトの計算センターに介入して

欲しいというものだった。あの膨大な情報の海を捜索し、そ

こから宇宙コンミューンやスペース・イノベーション(宇宙

空間技術革新)における、各軍事ブロックの影響力を、緊急

に見直してほしいというのだ。むろん、この仕事自体は、訓

練を受けたテクニシャン・グループの仕事である。が、それ

にL5の“フローラ”を使い、彼等の全面協力も得たいとい

うわけである。これは、この天文台の戦略的位置と能力、そ

して非軍事から選択されたという。また、国際天文学会を通

さないという条件も加えられた。

 津田は、バンを呼び、それからアイリーンとミッキーも呼

んだ。そして15分間にわたって、綿密に話を進めた。が、

情報工学を修得しているミッキー以外、門外漢の彼等には、

十分な理解が困難だった。しかも、極秘で、緊急を要すると

いう。この成否いかんでは、今後大幅に、軍事勢力を宇宙コ

ンミューンのシステムの中に組み入れてしまうことになると

いう。これは、宇宙コンミューン、ひいては宇宙植民計画

と、ホモ・サピエンスの純化しようとしている文明を、再び

過去の抗争型社会に引き戻してしまうことにつながる。そう

なれば、ホモ・サピエンスの宇宙文明史は、きわめて小規模

で、短いものに終わってしまう可能性が大きくなるわけであ

る。

 最後にパトキン部長は、二時間後に、計算センターのテク

ニシャン五名が、極秘にL5宇宙天文台へ移ることを告げ

た。いずれにせよ、こちらからオリンポス・サテライトへ出

向く必要はなくなったわけである。

 

 三つの軍事勢力の、三つどもえの干渉で、オリンポス・サ

テライトはしだいにざわめきだしていた。L5ラグランジュ

領域の人口は、約2500人余り。そして月や火星等、その

他に散らばる各基地に、合計1500人余りが活動してい

る。その4000人強の全宇宙コンミューンが、今初めて、

一つの大きな試練にさらされようとしていた。しかもこれ

は、今後の人類社会及び宇宙文明を占う上で、きわめて重要

なものになりつつあるようだった。

 ところで、津田は、“フローラ”によるオリンポスの計算

センターへの介入は、一つの欺瞞ではないかと考えていた。

が、それはそれなりに、成果の期待できるものでもあった。

しかし、いずれにせよ、そういった戦略については、彼等は

考える立場にも、指揮する立場にもなかったわけである。

 それで津田は、何も考えず、中央観測モジュールの中を、

ゆっくりと漂っていた。そして、観測室の中のありとあらゆ

る事物のありようを、彼は心のままに、認識の座標に映し出

していた。そしてまた、この今の瞬間と、この命の広がり

を、無心にその心に吸収し、ゆっくりと呼吸していた。

 津田は、むろん物理学者である。しかし、こうした事物の

存在や、事物の形態や、その幻想的な背景座標に、人間自身

の認識や思念が、深く関連しているものと思っていた。視空

間と物理空間的な差異ではなく、その運命時間的な形成にお

いてである。これは彼が単に、仏教的な思想背景をもってい

るということだけなのだろうか・・・

 科学的合理主義の方法論は、その源流をたどれば、キリス

ト教的なヘブライズム思想の土壌の上に育ったものと言われ

る。それは、物事を限りなく細分化し、虫メガネから顕微

鏡、さらに電子顕微鏡というように掘り下げてきた。また、

それは、空間の細分化を観察してきただけではなく、時間を

も限りなく細分化してきたのである。が、こうした細分化

は、時間や空間の、一側面、一特質でしかないのは明白であ

ろう。 もちろん、細分化の学問には、それなりの権威が備

っている。この今の宇宙文明を切り開いてきたのも、まぎれ

もなく科学の力である。しかし、分割・細分化からの統合に

は、やはり限界があった。つまり、こうした手法だけでは、

おそらく人類は、究極に到達することはできないだろう。全

人類を恐怖に落とし入れた、あの核戦略体系の矛盾は、そう

した危険な流れを如実に証明した。

 一方、超越的な時空間に見いだされる新たな側面にこそ、

ホモ・サピエンスの宇宙文明史が伸びていく、新しい方向の

可能性があった。科学者が科学を信奉しつつも、常に左手に

神をいだいていたのは、直観的にその不可知の領域を認知し

ていたからである。

 津田は、トン、と壁に手をつき、また漂った。そして、

“宇宙開闢の人間原理の風景”を、ぼんやりと見渡してい

た。が、やがて、ゆっくりとマグネット・ラインの上に降り

立ち、やりかけの自分の仕事にもどった。

 

 オリンポス・サテライトからL5宇宙天文台までは、スペ

ース・ビークルの巡航速度で、約二時間の行程である。が、

二時間が過ぎ、三時間が過ぎても、テクニシャン・グループ

は到着しなかった。しかも、“フローラ”の各種センサーに

も全くかからないところを見れば、オリンポス・サテライト

を出ていない様子だった。向こうで、何か緊急のトラブルが

発生した可能性が大きかった。

「真!」バンが、太い腕を振り上げた。「計画は、中止だ!

応援も来なくなった!」

「で、どうなるんです?」津田は、“フローラ”の端末機か

ら離れ、マグネット・ラインを大股でバンの方へ歩いた。

「よくは分らん」バンは、葉巻を口にくわえ、手を振った。

「ま、こっちは、大いに助かったがな」

「でも、どういうことかしら?」アイリーンが、伸ばした電

磁ペンを乗馬ムチのように脇にはさみ、上の方から横に流れ

てきた。

 津田は、アイリーンの差し出した電磁ペンの先をつかみ、

クイ、と引き下ろした。「どうやらオリンポスでは、非常事

態宣言が出るような雲行きらしい。そうなれば、全ての動き

が大幅に制限される」

「本当なの、バン?」

「うむ。このシナリオの見通しはどうかね、真?」

「正解だと思いますね」

「わしもそう思う。とにかく、今は先手を打つことが大事

だ」

「どういういうことなの?」アイリーンは、津田の方を見

た。

「つまり、これ以後、軍事勢力側が何を言おうが、どういう

行動に出ようが、全て非常事態宣言の網の中と言うことにな

る」

「でも、彼等には、力があります」

「ここは、力ではないな。戦略が大事だ」

「それで、具体的に、どうなりますの?」

「彼等の動きは、ほとんど非合法化されてしまうだろう。こ

れだけ強気に出られたのは、おそらく、“ベガ”のデータだ

と思う」

 バンもうなづいた。

「結局、テクニシャン・グループを送ってくると言うのは

餌だったわけだ」津田は、窓の方を眺めて言った。

「つまり、」アイリーンが、津田の鼻先で言った。「非常事

態宣言を引出すための?」

「ああ、」

 アイリーンは、電磁ペンを弓のように曲げ、ビッ、と弾い

た。

「パトキンか・・・さすがに、キレ者と言われるだけある

な・・・」津田は、ミッキーの姿を捜した。どうやら、“情

報の巣”に入っているようだった。

「しかし、」バンは、まるい禿げ頭を撫で回した。「連中

も、このまま黙ってしぼんでしまいはすまい。宇宙コンミュ

ーンへの食い込みは相当なものだ」

 津田は、黙ってうなずいた。

「で、ミッキーはどこにいる?」バンが聞いた。

「“情報の巣”に入ってるわ」アイリーンが言った。

「うむ、」バンは、小さくうなずいた。「さあ、下へ行っ

て、コーヒーでも飲むとするか」

「そうね、」

 ここでは、葉巻だけでなく、コーヒーに関しても、バンが

第一人者だった。バンのコーヒー好きは、農場サテライトに

私費を払い、コーヒー豆の木を何本か試験栽培しているほど

だった。

 津田は、ミッキーの入っている、“情報の巣”の方へ昇っ

てみた。その急命ボートほどのカプセルは、バーチャル・リ

アリティーで、コンピューターと人間をリンクしている。

が、コマーシャル・ベース以前の試作品で、コンピューター

が認識背景になるほどのものではなかった。したがって、人

間の負担もたいしたものではなく、外部とのコンタクトも可

能だ。おそらくミッキーは、パトキン部長が指示した通り

に、オリンポスの計算センターに侵入しているようだった。

 津田は、ハッチの横の呼出しボタンを押した。そして、キ

ーボードから、下へコーヒーを飲みに行くと打ち込んだ。ミ

ッキーは、“了解”のサインだけで答えた。

 

 夕食後、パトキン部長から、再び津田に直通レーザー回線

が接続した。部長は、形式的に、朝の計画の中止を伝えた。

事後通達である。

 それから、新たに事務的な用件をいくらか話した後、近

々、国連事務総長のオリンポス・サテライト訪問があること

を洩らした。事務総長のオリンポス・サテライト訪問は、も

し実現するとすれば、宇宙コンミューン創立以来のビッグ・

ニュースである。これは全世界へ向けての、はかり知れない

アピールとなる。むろん、国連の強力な意思表示でもあるわ

けである。

 津田は、秘話回線を切り、大きくため息をついた。三人の

いる方を眺めた。三人は、コミュニティー・スクリーンを使

い、ニュースを見ていた。アイリーンは、ミッキーの髪をつ

まみ、散髪をしながら見ている。

 津田は、大股で彼等の方へ下っていき、国連事務総長訪問

のホット・ニュースを伝えた。バンはうなり、ミッキーは跳

びはね、アイリーンは、キャッ、と声を上げた。

「パトキンは、打つ手が早いわね!」アイリーンが言った。

「プロさ。その道の」津田は言った。

「うーむ。これからいよいよ忙しくなるな!」バンが言っ

た。

「動き出したって感じですね!」ミッキーが、興奮した声で

言った。

「あら、そうそう、」アイリーンが、ミッキーの髪を引っ張

って座らせながら言った。「明日から、ここで、テレビのビ

デオ撮りがありますからね」

「おい、何だって、」バンが、ポロリと手から葉巻を落とし

た。

「そうなの」アイリーンは、にっこりとうなずいた。「“ス

ター・ライト・シャワー”の番組。プロデューサーは、この

わたしよ。10人ほど来るわ。わたしにさせてくれるって、

 ミッキーがポカンと口を開け、津田を眺めた。それから肩

を落とし、大きくコケてみせた。

 アイリーンが、ハサミの尻で、コツンとミッキーの頭を打

った。

「まさか、」バンが、両手を開いた。

「本当よ、バン」アイリーンは、口をすぼめた。「けど、実

際のところ、あの番組スタッフは、オリンポスを抜け出した

がっているのよ」

「それは、アイリーン、いつの話だい?」津田が聞いた。

「夕食の前よ、」

「クソ、あの時だ!何てことだ!」バンは、首を振った。バ

ンは、そうしたバカ騒ぎを一番嫌っていた。

「それが、交換条件らしいですな、」ミッキーが、気取って

言った。

 アイリーンは、またミッキーの頭をコツンとやった。

「一度やってみたかったの。プロデューサーは、女性のあこ

がれの仕事ですもの」

「フーッ、」津田は、椅子に掛けた。「じゃあ、当分は、騒

々しくなるなあ、」

「三日間の予定よ」アイリーンは、チョキンとミッキーのブ

ロンドの髪を切った。

「で、我々の方は、何をすりゃいいのかね?」バンが聞い

た。

「けっこうよ、何もしなくて。そっちの方は、“チャンピオ

ン”を使うから。みなさんを、驚かせたいの。わたしの芸術

的センスも、見ていただきたいものね。このぐらいでいいか

しら、ミッキー?」

「ああ・・・」ミッキーは、パラリとブロンドの髪を横に振

り払った。「これで、“スター・ライト・シャワー”に出演

か・・・」

「文句を言わないで!さあ、準備が大変だわ」

「ふむ、」バンは、大きな肩を丸め、両手を開いた。「じゃ

あ、我々の方は、トリプル・ゲームでもやるかね?」

 津田は、ため息をつきながらうなずいた。サイド・テーブ

ルの上にあったブルーのヘア・バンドを取り、頭につけた。

「で、何を賭ける?」津田は言った。

「アレは?」ミッキーが、親指でアイリーンを指した。「今

夜は、誰のものでもないですよ」

「ふむ。あの、浮かれた女か、」

「まあ、よかろう」バンが言った。

「ダメよ!」アイリーンが振り返り、腰に両手を当てて言っ

た。「もう、わたしを賭けたりなんかしないでちょうだい。

わたしは知りませんからね」

「しかし、同じでしょうが、」ミッキーが言った。

「バカね。だったら、賭けたりなんかしないで、」

 アイリーンは、コミュニティー・スペースの下層にある、

自分の個室の方へ歩いて行った。下層といっても、リボルバ

ー・拳銃の弾倉のように、隣の壁に配置されてあり、一緒に

回転している。このプライベート・スペースの一部が、バス

ルーム等にも当てられているわけである。

「じゃあ、」バンが言った。「あの、ブランディーのボトル

はどうだ?」

「アイリーン!」ミッキーが呼んだ。「あの、最後のナポレ

オンのボトルはいいかい?」

「ええ、どうぞ!」天井近くに、逆さに立っているアイリー

ンが言った。「ただし、わたしの分は、ちゃんといただきま

すからね」

 アイリーンは、壁のボタンを押してシャッターを開き、彼

等に手を振り、自分の個室に入った。

 

 コミュニティー・スペースの下層にあるプライベート・ス

ペースは、現在七室に分れている。が、壁はもともと、取り

外しも移動も自由である。また、水を扱うバスルーム等も、

カプセル式で、このモジュールの規格で取り付けは自由にで

きる。

 津田は今、そのプライベート・スペースの、自分の個室に

いた。そして、月の砂で焼いた白いジョッキで、ビールを飲

んでいた。頭上のぼんやりとした乳緑色のパネルの明りが、

かすかに部屋の中に、生命の息ずく気配を感じさせている。

そして、まさに、果てしない荒涼とした宇宙の海に、一人の

ホモ・サピエンスの上に、尊い命の時空ストーリイが静かに

形成されていた。

 津田は、静かに、ほの明りの壁の一点を見つめていた。そ

して、彼のいわゆる“知性”の方も、“ポイント”という、

その“点”の意味の風景を見つめていた。この宇宙天文台の

ある“ラグランジュ・ポイント”、この宇宙の全認識の中心

である“主体性というポイント”、そしてさらに、“素粒子

論的なポイント”というものの概念をである。

 この“ポイント”、つまり本来は幾何学的な“点”の概念

なのだが、これこそ、この現象界で実にさまざまな矛盾をは

らんでいるものだった。もっとも、“ラグランジュ・ポイン

ト”というような、天文学的な大雑把な意味として使うこと

には、さしたる罪もない。が、これが厳しい定義が要求され

る素粒子論で使われると、問題はきわめて深刻なものになっ

てくる。素粒子論は、本来がミクロの世界の学問である。し

たがって、その基本理念である“点”というものにまで、そ

の厳密な立場が要求されるわけである。そして、その本来の

意味をはずれた、“点”の時空構造、あるいは記述の背景座

標にまで、論理的なメスが加えられなければならなかった。

そしてまた、こうした領域は、マクロ的な宇宙論とも、きわ

めて近い関係にあったのである。そして、素粒子論において

は、“点”は、“素領域”というような、“場”の概念に置

き換えられてきたわけである。

 かって、朝永博士(ノーベル物理学賞を授賞した科学者)

は、ミンコフスキー空間(四次元の時空間)に、ある曲面を

設定し、素粒子論的ないくつかの基本的な矛盾を解決した。

それが、いわゆる“超多時間理論”である。が、これによっ

て、無限大という問題は整理されたが、質量と電荷の方に

は、依然として問題が残ったわけである。また、湯川博士

(ノーベル物理学賞を授賞した科学者)の“非局所場の理

論”は、こうした問題を、さらに根本的に検討し直そうとし

たものだった。そして検討は、時間や空間の概念そのものに

まで発展し、最終的には、“粒子のような時空間の基本単

位”にまで到達した。それがいわゆる、“素領域”と名付け

られたものである。しかし、“非局所場の理論”でも、“素

領域”の概念でも、問題は依然として解決されたわけではな

かった。つまり、またそこでも、“超光速の問題”が顔を出

したわけである。そして、そこで光速度を越える“タキオン

粒子”の存在を承認してしまうと、今度は“時間の可逆性の

問題”が吹出すということになる。それが、なぜ困るかとい

えば、世界を構成する現在・過去・未来という因果律が崩れ

てしまうからである。つまり、すべては、振り出しへ戻って

しまうのだ。その振り出しとは、いわゆる振り出しであり、

原初の波動であり、その波動以前である。

 ところで津田は、むろんこうした素粒子論の歴史を考えて

いたわけではなかった。そうした基本構造的な矛盾を浮かべ

ている、“人間原理の海”を考えていたわけである。こうし

たあらゆる問題は、必ず人間の主体性という窓から光が当て

られ、そこに人間的な側面を見せている。したがって、因果

律にも、二律背反にも、そこから来る時空ストーリイにも、

そこに強烈な人間的構成要素があるわけである。また、波動

場にも、その波動関数にも、すべてそこに人間的な相対の世

界が構成されている。一方また、宇宙論的な意味での、“知

性”の相互主体的な、“点”座標の在り方の問題もある。つ

まり、人間を形成する、内外一片の超越的座標系と、この宇

宙の、超宇宙的ストーリイの座標系があるわけである。

 津田は、壁の一点から、乳緑色の天井に目を移した。そし

て、空になったビールのジョッキを持って、ふらりと立ち上

がった。ベッドの方を眺めると、アイリーンはいつの間にか

シーツで肩をくるみ、眠り込んでいた。あれやこれやで、結

局、今夜は津田のものになったのだった。

 

 津田は、アイリーンの方のビールのジョッキも手にひっか

け、シャッターを開けた。コミュニティ・スペースでは、ミ

ッキーがまだ“フローラ”の端末を使っていた。火星ライナ

ーに装備する、航法掃天観測システムの設計をしているの

だ。これは公募で、懸賞金つきのものだった。

 津田は、ミッキーのいる上の方へ歩いた。円周の内壁床面

には、本来上も天井もない。が、自分の足もとは常に下なの

である。

「何か、ニュースは入ったか?」津田は、アルミニウム・タ

ンクのコックを開き、自分のジョッキにビールを注ぎながら

聞いた。

「緊急のものはないですね。特別なのは、シンディーからで

す。彼女、パウリとかいうイカレた野郎と結婚するんだって

言ってきました。まあ、いいんじゃないんですかね」

「うむ」

 津田は、500リットルの冷却加圧型タンクの、ビールの

残量を見やった。それから、自分が今日注ぎ出した、ゲージ

にも目をくれた。

「いいのができそうか?」

「“フローラ”がいりゃ、大丈夫ですよ。最適設計アルゴリ

ズムも、いいのがありますから、」

「しかし、世間は広いものだ」

「だったら、“フローラ”のせいですね」

「はっはっはっ、ミッキー、人間の創造力と、コンピュータ

ーの創造性を比較するつもりか?」

「それは分ってますよ」

「ふむ・・・しかし、アピールするには、抜群のアイディア

が必要だな」

 津田は、なみなみと注いだジョッキのビールを、自分の口

に少し移した。それから、野菜冷蔵庫からトマトを一個取り

出し、セラミック・ナイフでヘタの部分を切り取った。そし

て、それを串刺しにし、もう一方の手にジョッキを持ち、ま

た自分の個室に戻った。

 津田は、またビールを相手にしながら、“空間”“時間”

“物質”“知性”といったものを、はるか天上界の抽象風景

の中に眺めていた。

 ・・・物質によって、時空構造までが決定されていく、一

般相対性理論・・・四次元の時空間に占める、物質と、エネ

ルギーと、因果律の風景・・・さらに、五次元、六次元、N

次元にも及ぶ、人間の背景座標と、超越的な“知性”発現の

場・・・こうした高次元の“人間原理”の風景の中では、無

限大や、論理に内在する基本的な矛盾や、因果律の崩れは、

何処でどの様に完結されているのだろうか・・・

 津田は、ビールを一口飲み、トマトを二つに割って食べ、

またジョッキを傾けた。 ・・・ところで、そうした高次元

の世界でも、常に人間は一定の制限を加えられつつあるとい

う。これは何故だろうか。あるいは、今の合理主義的な科学

の進化が、莫大な可能性のある“人間原理”の進化の方を、

難しくしているのだろうか。もっとも、こうした低次元から

の矛盾は、階層的に幾重にも存在しているのだろうが。それ

にしても、存在すること自体、きわめて特異と思える不可思

議な世界なのだが・・・

 津田は、体の向きをかえた。コンソール・テーブルの上

の、電磁ペンを取り上げた。そして、スクリーンの上に、純

粋な人間の諸原理と思えるものを書込んで言った。“知性”

にとって、この無限に広がる時空間は、無限に広がる情報系

と重なっている。そして、その情報系を形成し、情報を刷り

込み、想像と創造の糸を紡いでいくのもまた、人間の諸原理

なのである。

 ところで、ここに一つの奇妙な事実がある。それは、地球

における生態系が、みな同一の遺伝子言語によってプログラ

ムされているということである。人間も、動物も、植物も、

バクテリアも、その何億、何兆、何京もの生物がみな、同じ

DNA言語によってコピー培養されているのだ。このこと

は、我々地球型生命体は、その大もとの先祖は、たった一個

のDNA鋳型であった可能性を示唆している。

 最初、このようなDNA鋳型は、何処で、どの様に形成さ

れたのだろうか。DNAのような、きわめてデリケートで複

雑なものが、地球の太古の海で、偶然に同時多発的に(ある

程度の数にならないと、生命活動ができない)発生したとは

考えられない。あるいは、確率がプラスに反転する可能性が

あるとしたら、さらに広い銀河宙域においてであろう。直径

10万光年に及ぶ銀河系の片隅で、最初の生命群が奇跡的に

形成され、そのはるかなDNAの子孫が、なんらかの関係

で、この太陽系に漂着したのではないかと。そしてそこに、

46億年前の原始地球の姿があったとしたら・・・

 それとも、もし仮に、すでに子宮の中の胎盤のように整え

られた、この太陽系と地球の環境に、不自然な形で不自然な

生命が誕生したのだとしたら、これをどう解釈すべきなのだ

ろうか。いずれにせよ、ここに、現実にこうして知的生命が

存在し、この世界を認識しているのである・・・

 津田は、このことを、図形でスクリーン上に書きなぐっ

た。それから、ビールを一口飲み、アイリーンの方に目を投

げた。彼女のチタン・フレームのトンボ眼鏡が、編み上げの

壁掛けポケットに差込まれてあった。

 津田は、眠っているアイリーンの姿を眺め、太古の地球の

海に生まれた、三葉虫やアンモナイトを思った。それらもま

た、“生命”というものの愛おしさにおいては同じだった。

また、自らそれと知らずに生まれ出た“命”の、その無知な

る“プライバシー”と、“存在”と、“認識”の覚醒の驚き

も、その本質においては、今も昔も変りはあるまい。もっと

も、かの三葉虫氏やアンモナイト氏に比べれば、アイリーン

女史の方は、はるかに複雑に、生意気に、魅力的に進化して

いるわけだが・・・

 ところで、“人間原理”という視点が、宇宙論に導入され

たのは、それほど古いことではない。この視点は、我々知的

生命の存在だけが、この複雑深淵特異なる今の宇宙の存在

を、唯一立証できるものだとする立場である。つまりこの宇

宙は、知的生命の誕生を、その原初においてすでにプログラ

ムされていたと見るのである。したがって、宇宙は、知的生

命の存在という絶対条件を、まず持っていたわけである。そ

して、その知的生命が存在し得るという条件のもとで、この

今の膨大な宇宙の法則や性質が構成されてきたのだとする。

何故そうなのかといえば、もしこの宇宙に、知的生命が存在

しなかったとすれば、この宇宙が、もともと構成が不可能に

なるからである。本来、そのものが“現実”であるというこ

とは、科学的に言えば、“観測”されるということである。

しかし、その“観測者”たる知的生命もいず、したがって

“観測”もされないとなれば、意味も構成されず、そこには

いかなるものも存在しないと同じだからである。

 このような、“人間原理”という古典的な考えが提案され

てきた背景には、この今の我々の存在している宇宙が、あま

りにも極小の確率の上に、ほとんど奇跡的に結晶化している

という事実が分ってきたからである。たとえば、プランクの

定数(6.6×10のマイナス27乗/エルグ秒)を一つと

ってみてもそうである。もし、プランクの定数がこの宇宙に

なかったり、あるいは、少しでも数字が違っていたりした

ら、この宇宙は全く異質な宇宙になっていたはずである。何

故なら、プランクの定数というそのワクがなければ、物質を

構成している原子の安定もなかったからである。原子の安定

がなければ、このような物質宇宙は、当然生まれてこなかっ

たわけである。あるいはまた、宇宙開闢の脱出速度と後退速

度が、もし等しくなかったら、こうしたマクロ的な等方性を

もち、銀河や銀河団といった局所的な不均一性をもつ今のこ

のような宇宙は、現れなかったはずである。また太陽の質

量、地球と太陽との距離、地球の大気、地球の水の温度(地

球の水は、液体・気体・個体の三つの相を循環する、きわめ

て微妙なバランス上の温度にある)、大気中の酸素濃度(現

在より多少でも酸素の濃度が高いと、森林はたちまち火災を

起こし、生態系は完結しない)等、数え上げればきりがない

ほどある。

 すなわち、宇宙論という、知性の最先端におけるこの“人

間原理”の視点とは、偶然に偶然が重なって、知的生命が誕

生したのではないとする。論法としてはむしろ逆ではある

が、この宇宙の存在と実証のためにこそ、我々知的生命の誕

生が、宇宙の初期条件において、すでに定められていたとす

るのである。最先端の科学において、何故こうした逆さの論

理が導入されたかといえば、この今の宇宙の姿を実証するの

は、余りにも奇跡的なバランスの上に存在しているからであ

る。また、一方で、この宇宙の原初が、あまりにも未知なる

ものであり、あまりにも不透明なものだからである。したが

って、一般的な演繹的手法が、もともと宇宙論にはなじみに

くいという素地があったわけである。

 ビッグ・バン以前の原初の宇宙では、物理系を構成する時

間や空間さえもが、大統一理論やその他の理論でも、推定が

全く困難になる。つまり、その領域では、物理学的解明が、

ほとんど不可能になるのだ。しかし、そうした原初の宇宙に

おいても、唯一我々にとって、真実確かなものがある。それ

はつまり、まぎれもなくその原初の宇宙から、我々が生み出

されてきたということである。この現在の宇宙の姿、この我

々の姿そのものが、唯一の実証なのである。

 津田は、アイリーンの皿に残っていたピーナツを拾い、口

に放り込んだ。トマトもピーナツも、L5の農場サテライト

で生産されたものである。しかしビールは、タンクで地球か

ら上げられてきたものだった。が、これも、いずれ宇宙で生

産されるようになるだろう。

 津田は、電磁ペンで書込んだスクリーンに、ファイル・ナ

ンバーを付けた。そしてそれを、パーソナル・メモリーに入

れた。それから、“フローラ”に命じ、ここ数週間彼等が作

成し没頭している、最新のクェーサー地図を出させた。

 これは、まさにこの宇宙の縮図である。また、“ベガ”

や、“アンドロメダ”や、大型シュミット望遠鏡“ケフェウ

ス”の成果でもある。が、この地図に見る100億光年彼方

の数億立方光年に、現在宇宙論的に物議をかもしだしている

問題の宙域があった。L5の天文学者たちが、“パンドラの

領域”と名づけた所である。ここには、あるいは何もないの

かもしれない。が、何か、途方もないものが隠されているの

かもしれなかった。いずれにしても、この宇宙では、つぎつ

ぎと予測もしないようなものが見つかってくる。

 津田は今、こうして遥かな宇宙の果ての情報を眺めている

と、この宇宙そのものが、きわめて曖昧な感じのものだとい

う気がした。むろん、それは、彼がしばしば、この宇宙を内

的に見ているからかも知れなかった・・・広いようで広くな

く、狭いかと思えば、狭くない・・・実に、不思議な世界で

はある。

 

 

 

  第四章           

 

 アステロイド・ベルトにおける謎の大爆発から、一週間が

過ぎていた。今、約4000人、300兆円にふくれ上がっ

た宇宙コンミューンは、人類の崇高な宇宙社会建設の途上

で、最初の大きな峠にさしかかっていた。

 その、宇宙コンミューンの中心であるオリンポス・サテラ

イトは、非常事態宣言下にあった。また、軍事ブロック側

の、巧妙な巻き返しも始まっていた。そのため、オリンポ

ス・サテライトでは、本来の任務の宇宙植民島建設の方にま

で、徐々にしわよせが出始めていた。また、続々と乗込んで

くる各軍事ブロック要員で、観光客にも相当な影響が出てい

るという。また、わずか一週間の間に確認された暴力事件

は、21件を数えるという。

 あの、謎の大爆発から八日目の朝、津田は、地球への緊急

帰還命令を受けた。国際天文学会本部の発令で、オリンポ

ス・サテライトの宇宙天文台総局長が伝えてきた。内容は、

ヒューストン(アメリカ・テキサス州)の、国連宇宙情報部

へ出向せよというものだった。謎の大爆発について、偶然か

奇跡か、いよいよその核心がほの見えてきた時だった。

 津田は、すぐにこれが、委員会第五部のパトキン部長の意

向であり、宇宙コンミューンの意向だと分かった。むろん、

津田の立場なら、断ることも可能だった。また、宇宙にいた

方が、より多くの仕事がこなせるとも思った。しかし、この

混乱時に、緊急に地球へ降りろとは、よほどのことが出来し

たということだろう。しかし、内容については、総局長も何

も分らないと答えた。

 いずれにしても、誰かがやらなければならない仕事であ

り、津田が指名されたわけである。しかも今は、全国連機関

が一丸となって突き進んでいる時である。ただ、多少割り切

れないのは、天文学の仕事がいつでも手の抜ける、非生産的

な遊びだと思われていることだった。したがってこれは、純

粋な学問をしている天文学界の、宇宙コンミューンへの奉仕

でもあるわけだった。

 津田は、三人の仲間と相談した後、総局長に承諾を伝え

た。では、五日以内だ、と総局長は言った。L5から地球ま

では、通常二日の旅であり、三日間の猶予が与えられてい

た。これは多少とも、こちらの事情を考慮してくれたもので

ある。

「それじゃ、わたしも真と一緒に地球へ降りますわ」アイリ

ーンが言った。「いいかしら、バン?」

「そうだな。こっちはもうどうせ開店休業だ。そうしてく

れ。“ベガ”の修理もあるし、“アンドロメダ”の姿勢制御

システムも手を加えてみるか、」

「ありがとう、バン、」アイリーンは、バンの太い腕に手を

置いた。「それから、二ヶ月ほど、ウエーバー研究所で、重

力波の勉強をしてきていいかしら?」

「プリンセス・アイリーンがそうしたいと言うんなら、誰も

とめやしないさ」津田は言った。「向こうも大歓迎だろう」

「二ヶ月か・・・」バンは、ヒゲを撫で回し、津田の方を見

た。「真、そっちはどれくらいかかりそうだ?」

「分らんですね。宇宙植民島への移住開始が、案外早いかも

知れませんから」

「そうだな、」バンは、あきらめて首を振った。「ま、早く

終わることを祈るほかあるまい」

「宇宙は、逃げてはいきませんよ、バン。そうでしたわね、

真?」

「ああ、」津田は、苦笑した。「おれは、これからすぐに出

発し、日本に降りようと思う」

「ええ、」アイリーンは、首をややかしげ、コクリとうなず

いた。「日本で、一息入れようというわけね」

「うむ、そういうことだ」

「わたしの方は大丈夫よ。二週間前から準備はできていま

す」

「しかし、この騒ぎで、」ミッキーが、システム・キッチン

から野菜ジュースを取り出しながら言った。「オリンポスに

うんざりしている連中が相当いますね」

 ミッキーは、ジュースを四つのグラスに注いだ。三人に手

でうながし、自分のグラスを取り上げた。

「バン、女の子を何人か、助手にここへ呼んでもかまいませ

んか?」

「あら、あら、ミッキーったら、」アイリーンが首を左右に

振り、グラスを取った。「さっそく、ここをハレムにでもし

ようというの?」

「ハレムというよりは、カジノだろ」津田は、まぜっかえし

た。

「いや、」ミッキーは、ブロンドの髪をかき上げ、真面目な

顔で首を振った。「彼女たちの方が、来たがってるんです

よ」

 アイリーンは、野菜ジュースを一口飲んだ。そして、眼鏡

の縁に手をかけ、ため息をついた。

「そうね。軍人は、どうしてああなのかしら。威張り散らし

たり、命令したがったり。そのくせ、セックスの方はやたら

に強くて、」

「人間の欲望の権化ですね」

「本当ね。あんな人達が、宇宙コンミューンにいっぱいにな

ったら、どうなるのかしら」

「立派な軍人だって、大勢いるんだ」津田は言った。「悪い

のは、ごく一部なんだ。いつの時代もそうだが、」

「でも、彼等はみんな単細胞ね」アイリーンは、大げさに両

手を開いた。

「男は、そうあるべきだと思うがね」

「そうかしら、」アイリーンは、ソッポを向いた。

 ミッキーが、笑いながら、グラスをテーブルに下ろした。

「決まりですね、真」

 津田は、野菜ジュースのグラスをあおった。アイリーンが

ソッポを向いたら、確かに勝負はついたのだった。

「おいおい、」バンが、見かねて言った。「宇宙コンミュー

ンは、開放社会なんだぞ」

 しかし、バンが何と言おうと、アイリーンがソッポを向い

てしまえば、話はそれでおしまいだった。

 

 昼食後、津田とアイリーンは、すぐに飛行スーツに着替え

た。そして、トランクを一個づつ、スペース・クルーザーに

積み込み、地球へ向かって出発した。

 まず、オリンポス・サテライトまでは、二時間ほどの行程

である。そこでクルーザーを下り、地球ライナー(定期船)

に乗りかえる。そして、赤道上空500キロを回る低軌道ス

テーション・ウクライナで、さらに大気圏突入シャトルに乗

りかえるわけである。したがって、この指呼の間にある巨大

な地球の懐に入るにも、まだ二日近くの旅行が必要だった。

その間に、地上の強い重力に対応する、生理学的なプログラ

ムが実行される。

 約一時間半の飛行で、スペース・クルーザーは、“エリ

ア・77”に到達した。そこまで近づくと、さすがに“エリ

ア・50”の第一号宇宙植民島は、肉眼でも大きく見えた。

直径約500メートル、長さ約1250メートルの巨大なチ

ューブは、すでに外観は完成しているように見える。これ

が、実際に機能する時には、まさに絶大な威力を発揮するわ

けである。

 ピッ、ピッ、ピッ、と航法スクリーンに、紫のパルス・ラ

インが流れた。津田は、自動操縦を、“エリア・77”の飛

行管制コンピューターにリンクさせた。これは放っておいて

も、スペース・クルーザーの航法コンピーターがホロウす

る。が、一応は、パイロットの義務として規定されている

る。

 速度を落とし、“エリア・77”の宙域に入って行くと、

田舎の牧場から町へ出てきたような実感があった。闇の中

で、太陽と地球の光にさらされた、農場サテライト、工場サ

テライト、科学実験サテライト群が、ぐんぐんと近づいてく

る。こうしたサテライトは、全てが実験段階のミニチュア的

なものである。しかし、これら“エリア・77”のミニ・サ

テライト群こそが、宇宙空間におけるスペース・イノベーシ

ョン(宇宙空間技術革新)の最前線基地となっている。ま

た、イノベーションの波は、応用技術分野にとどまらず、広

く基礎科学分野にまで波及しつつある。超大型粒子加速器

や、極低温実験施設をはじめ、地球上の重力下では、理論的

技術的経済的に難しかった大型実験装置が、続々と無重力空

間の純粋な更地に建設されている。したがって、この“エリ

ア・77”は、まさに最先端産業や研究機関や学界等によ

る、建設ラッシュの様相さえ見せ始めていた。こうした研究

都市化は、宇宙空間の産業を拡大強化し、宇宙コンミューン

の活動の中核となっている。もっとも、建設ラッシュといっ

ても、ここは広大無辺な宇宙空間である。ただ、そうした無

数の形のサテライトが、ポツン、ポツン、と無造作に闇の中

に浮かんでいるにすぎない。

 地球上に拡散した、多量の核兵器の凍結管理以後、国際連

合は再編され、強化された。その新制国際連合の最大のテー

マとなったのが、環境と人口問題であり、その根本的打開策

の宇宙植民計画の推進だった。国連は、この宇宙植民計画に

あたり、まず自由主義経済原理の活力を、積極的に導入する

ことを決定をした。すなわち、この地球規模の膨大なプロジ

ェクトを安定軌道に乗せるために、まず宇宙植民の理念より

も、それ自体がダイナミズムをもつ、経済の方を優先させた

わけである。それは具体的には、L5ラグランジュ領域にお

いて、各国の民間資本をも導入した、スペース・イノベーシ

ョン(宇宙空間技術革新)の大波を引き起こすことで始まっ

た。また、コマーシャル・ベースでの宇宙観光にも、大いに

力を入れた。これは宣伝と、よりいっそうの資本導入をはか

ったものである。そして、さらに地球文化圏を、広く月軌道

にまで拡大することに効果があった。もっとも、このコマー

シャル・ベースの観光にしても、実際にはそれほど多くの人

間が、このL5宇宙コロニーの建設風景を、直接観光できた

わけではなかった。地球上の80億を越す全人口のうち、現

段階ではたかだか30万人程度である。つまり、もともと

が、よほど運よく選ばれての話だった。が、誰にでも手の届

く程度の資金で、誰でも行けるというところに、最大のポイ

ントがあった。それで、人々は安心し、宇宙植民計画に、違

和感のない親しみを感じていたからである。したがって、月

軌道は、地球上の人類一人一人のレベルにまで引き下げられ

ていたわけである。

 もともと宇宙植民計画には、全人類の理解と、精神的な革

新が必要だった。そして、もし仮に、それらが得られなかっ

た場合、地球は惨憺たる事態になる。が、現在までのとこ

ろ、各軍事ブロックの本格的な介入にもかかわらず、国連主

導の宇宙植民計画は、人類社会の圧倒的支持を得ていた。

 

 スペース・クルーザーは、“エリア・77”の飛行管制コ

ンピューターに誘導され、飛行回廊を低速で流れていた。ス

クリーンの立体座標に、町の地図が書込まれ、流れ去ってい

く。やがて正面に、実物のオリンポス・サテライトが見えて

きた。直径50メートル、長さ120メートルの、チューブ

型サテライトである。そのチューブに、これもかなり大き

な、宇宙船入港ドックやバナール球が結合されている。この

全体が、いわゆるオリンポス・サテライトであり、別名L5

ジャンクションと呼ばれている島である。中心の、円筒形を

したチューブ型サテライトは、“エリア・50”に完成間近

の、第一号宇宙植民島の原形である。

「5分早かったな」津田は、航法スクリーンを見ながら言っ

た。

 アイリーンが、電子リーダーから顔を上げた。外に目をや

り、それから無表情に津田を見た。

「着いたの?」

「ああ、」

「そう・・・」アイリーンは、小さくため息をついた。

 彼女は、電子リーダーに表示していた、“11次元構造に

おける超重力理論”の画像を消した。それから、愛用の電磁

ペンの先でエジェクト・ボタンを押し、体積メモリーのポケ

ット・ライブラリーを取り出した。それを、電磁ペンと一緒

に、バンドに付けているポケット・ケースに装着した。

 津田は、後のマグネット・プレートの上から、ヘルメット

を二つ取り上げた。一つをアイリーンにやった。それから、

自分の方のヘルメットを頭からかぶり、飛行スーツにロック

した。強く息を吸込み、吐いてみた。それから、アイリーン

のヘルメットが、しっかりロックしているかどうかを確認し

た。

 そうしている間にも、スペース・クルーザーは、オリンポ

ス・サテライトにぐんぐん接近していった。

 

 このオリンポス・サテライトは、最近ではL5ジャンクシ

ョンと呼ばれることが多くなった。アストロノート(宇宙飛

行士)たちが、まずそう呼び始めたのである。確かに、ここ

はもう、ライナー(定期船)の終着ステーシヨンではなくな

ってきている。つまり、ジャンクション(交差点)にかわっ

てきているのだ。火星ライナーも増加しているし、すでに第

二、第三宇宙植民島のラインも引かれている。また、月ライ

ナー、L4ライナー、L3ライナーがある。そして、なんと

いっても現在最大の幹線は、第一号宇宙植民島建設現場へ

の、“カリフォルニア回廊”である。そして、さらにかなり

の数量の、不定期船が加わるわけである。こうした宇宙コン

ミューンの全てが、スペース・イノベーションを背景にも

つ、オリンポス・サテライト、L5ジャンクションを中心に

動いているのだ。

 

 二人は、それぞれにトランクを持って、エア・ロック室か

ら連絡回廊に入った。無人のゲートで、IDカードを使い、

入港チェックをすませた。そして、リード・ステックを使

い、第一級安全システムの働いているA環境へ出た。そこで

ヘルメットを脱いだ。このあたりは、観光客は立ち入ること

のできない場所だった。ヘルメットは、ひもを伸ばし、バン

ドのフックに引っ掛けた。

 入港ドックの細い回廊を進んで行くと、動力室や宇宙船修

理施設があり、やがて、大きな富士山の描かれている自動シ

ャッターが開閉した。出た所は、体育館のように広く、目が

覚めるようにガランとしていた。ここは、“新人類ホール”

と呼ばれている所だった。津田は、このホールに入ったの

は、一ヶ月ぶりだった。天井や壁面に、地球の青空のパネル

が張られ、ホログラフィーのポスターや、巨大な液晶スクリ

ーンがあった。が、この広々とした“新人類ホール”の中に

も、人は数人が泳いでいるだけだった。現在の宇宙コンミュ

ーンでは、これほど人間が少ないわけである。もっとも、こ

のホールほどゆったりとした立体スペースは、他にはなかっ

た。

 彼等は、壁は使わず、ゆるやかにホールの中へ泳ぎ出して

いった。ホールを斜に横切り、連絡通路の入口のある方へ昇

った。むろん、地球のある方が下というだけであり、上も下

もまるで感じさせない無重力空間である。それにしても、片

田舎の宇宙天文台からやってくると、この広すぎるA環境空

間は、一瞬怖いような感じさえあった。

 やがて、連絡通路の入口に達しようとした時、津田は壁の

方から声をかけられた。日本語だった。眺めると、少し離れ

たホールの管制室に、三人の男の姿が見えた。三人の中で、

日下部四郎が笑って手を上げていた。日下部は、アストロノ

ート(宇宙飛行士)だった。が、今は非常事態宣言下のため

か、警備隊員用の無線通話器付のヘルメットをかぶってい

る。

「オウ!これから地球行きだ!」津田も、久しぶりに日本語

で言った。

「この忙しい時にかい?」

「ああ。あの爆発で、赤外線望遠鏡がイカレちまった」

「ほう、」日下部は、片手でアイリーンの方にあいさつを送

った。

「仕事にならんし、ヤボ用をすませてくる」

 津田は、一緒に居る二人にあいさつを送り、管制室の方へ

泳いだ。さしたる人口もない宇宙コンミューンであり、それ

ぞれ互いに良く知っていた。

「この間の地球行きは、どうだったね?」津田は、トン、と

青い壁に手をついて聞いた。

「まあ、ここはこんな所さ」人のいい日下部は、唇をなめ、

苦々しく首を振った。「いったい出産間近の女房が、どんな

顔で出迎えたと思う?」

「ハッハッハッハッハッハッハッ!」津田は、弾けるように

笑った。その笑い声が、ホールの中に反響した。

 ホールの中に漂っていた何人かが、ホール管制室の方を眺

めた。そして、笑いコケている津田に、手を振った。アイリ

ーンが、それに答えて手を振り、トランクで津田の背中を小

突いた。

「いやあ、日下部、笑わんよ。クッ、クッ、クッ、笑っちゃ

いないぜ」津田は、顔を手の甲でこすった。「とにかく、お

れには、女房はいないからな、」

「白々しいことを、」

「ヘイ、津田!そのうちに、隕石がその頭をブチ割るぜ!」

「ブレナン、」アイリーンが、腰に手を当てて言った。「そ

れは勘弁していただきたいわね。けど、ほんとうに、真た

ら、」

「まあ、なんにしてもだ、」日下部が言った。「地球よりは

ここの方がいいぜ」

「うむ」津田は、うなずいた。「それは同感だ」

「中原博士は?」

「学術会議だ。おれも学術会議だが、天文学会の方に直接要

求したいことがいくつかあってな、」

「それじゃあ、気を付けて、」ブレナンが言った。

「津田、来る時に、」リカルドが言った。「ワインのいいの

をたのむ。金はいくらでもだす」

「じゃあ、折を見て送ろうか。すぐ帰れるかどうか、ちょっ

と分らんのだ」

「そうしてくれるかい。後で、ライナー(定期船)の方にリ

ストを送るよ」

「ああ、」

 津田とアイリーンが、ホール管制室を離れようとした時、

旅客ライナーの入港ドックの方のシャッターから、五、六人

の男が入ってきた。そして、まっすぐに、ホール管制室の方

を見上げた。南部連合軍の軍人だった。軍服の胸やヘルメッ

トに、赤いサザンクロス(南十字星)が描かれている。

「じゃあ、いってくる!」津田は、片手を上げた。

「気を付けてな」日下部は、アストロノートらしく、挙手を

切った。

 津田たちは、連絡通路の入口で、トランクとヘルメットを

ロッカーにしまった。それから、壁のリード・スティックを

立て、二人でゆっくりと引かれて行った。回廊もL5天文台

のように狭くはなく、明りが灯っていて、全てがゆったりと

していた。こうした、全てにゆとりを持った設計は、本格的

な宇宙植民時代に備えたものだった。

 ところで、国際天文学会が、このミニ・植民都市にスペー

スを確保しているのは、建設にあたって、相応の分担金を負

担していたからである。しかし、それ以外の通信、計算セン

ターの利用、物資の補給等は、すべてコマーシャル・ベース

で行われている。これは、生産目的、技術開発目的、学術研

究目的等で、比率は異なるものの全て同様のシステムで運用

されている。

 一方、すでに数多くの民間企業が、このL5ラグランジュ

領域に進出してきているのも、こうした自由経済、市場原理

が、実際に機能しているからである。そしてまた、こうした

形の宇宙開発計画の推移は、将来の社会政治形態にも、確実

に波及していくものである。むろん、自由主義市場経済体制

ばかりがいいというのではない。これまでに人類が蓄積して

きた、社会主義的な全体管理のテクノロジーも、宇宙社会と

いう厳しい環境下では、どうしても必要になるだろう。いづ

れにしろ、こうした分野は、思考の柔軟な若い有望な社会科

学者たちが、入念に研究立案し、実行に入っている。したが

って、現在の経済優先による企業の社会支配的傾向も、民主

主義の大原則のもとに、慎重な修正がプログラムされている

はずである。また、およそ人間性を喪失させるような、静的

管理社会というものも、どうしても避けなければならないだ

ろう。

 それでは一体、どういう社会体制がいいのかということだ

が、それは時と共に、文化や環境と共に、その時代の人間と

共に変遷していくと考えるべきだろう。したがって、かんじ

んなのは、その社会を構成する、一人一人の人間の自覚が、

常に正しい位置にあるということである。

 今、ホモ・サピエンスは、あまたの試行錯誤の歴史の精華

の上に立ち、ようやく純化した“知性”による、実験的なユ

ートピアを建設しようとしているのである。これは、必然的

に知的生命の目指す、はるかな“豊饒の海”への第一歩とな

るものである。

 ところで、釈迦はすでに、その“永遠の峰々の連なる道”

を、遠く遥かな先の方まで歩まれている。しかし、この宇宙

の全ての謎の解ける、究極の“豊饒の海”までは、まだとて

も到達していないとも聞く。そして、つぎに弥勒菩薩がこの

人間界に下降して、仏の位につかれるのは、56億7000

万年後といわれる。むろん、この途方もない時間を、直線的

にばかり解釈する必要はないだろう。しかし、“豊饒の海”

への道は、そうした時間概念自体が溶けてしまうような、

“知的生命”と“宇宙”の、膨大な神秘と実在のからみあっ

た流れなのでる。

 

 彼等は連絡通路を、サテライトの主軸方向へ曲がった。こ

の直径6メートルの主軸回廊は、実験農場区、ハニー・ハウ

ス区、スペース・リース区等を抜け、さらに直径50メート

ル、長さ120メートルの回転内殻をも貫通していた。

 主軸回廊に入ると、パネル壁面に、二人の画家が壁画を描

いていた。それぞれに、かなり広い区画を使っている。津田

は、仏画を描いている年配の女性の後で、リード・スティッ

クを止めた。その壁画全体は、幻想と科学とを融合したもの

だった。そして、その幻想の流れの中心部に、仏の真理を表

す、やわらかい光の世界があった。女は、眺めている彼等に

も全く気づかず、ただ一心不乱に制作に没頭している。

 津田はかって、中国奥地のタクラマカン砂漠に、千仏洞を

訪れた時のことを思い出した。すると、体の中に、久しく忘

れていた、熱い血がさわぐのをおぼえた。

 ・・・地球上に、かつて経歴した、あの戦乱と情熱と純朴

の時代。ヨルダン川とヒマラヤの麓に、魂の救済の示された

時代。あの因果律と二律背反に身をこがした、燃えたぎった

原初人間の時代。そうした時代は、青春のように、もう人類

には再びもどってはこないのだろうか・・・

 実験農場区に入ると、回廊の壁は強化ガラスにかわった。

彼等は、層状のフロアーにさんさんと光の溢れている中を、

のんびりとリード・スティックに引かれていった。後から来

たスティックが、リード・ラインを切換え、サッと彼等を追

い抜いた。ここの、女性警備員だった。軽い身のこなしで腰

をひねり、挙手を切った。腰にソフト・ガンと、電磁ムチを

付けている。

 この実験農場区は、多分にショウ・ウインドウ的に作られ

た農園である。地球からやってくる観光客やVIPに、宇宙

農場の成果を披露する所だった。したがって、宇宙空間のあ

りあまる太陽エネルギーを使い、それによって驚くべきバイ

オ・エネルギーを解放し、まさに生命100億年の神秘さえ

もうかがわせるものがあった。

 こうした、生産性を無視した派手な宣伝活動も、何億、何

十億という人口を宇宙社会に導くためには、必要な投資とい

われている。そしてまた、この“エリア・77”は、ホモ・

サピエンス文明が宇宙空間へ伸びていく最先端であり、成長

細胞であり、シンボルでもあるのだ。

「実際のところ、どんな感じなの、真?」アイリーンが、オ

リーブ色の軍服姿がたむろしている方を、何気なく見やって

言った。

 オリーブ色は、東部連合軍である。むろん、軍事ブロック

の連中でも、古株たちは、津田にもなじみの顔が多い。した

がって、そうした古株連中とは、互いによく分りあっている

のである。

「結局、我々にやれることといえば、団結と、国際世論の喚

起しかあるまい。彼等にあるのは力だが、その力の源は何か

ね?」

「・・・」

「これは、おれの直観だが、歴史的に蓄積されてきたパワー

だと思う。人類に君臨する巨大財団、結社、教団、そうした

諸々の、権益確保のパワーではないかと思う。むろん、そう

したパワーは、学界や研究機関、行政官僚などから、すでに

宇宙コンミューンにも入ってる。しかし、うまく動いていな

い・・・」

「でも、軍事ブロックよ」

「うむ・・・軍事ブロック自体が、単独で、独自の行動をす

ることはあり得んな。しかし、いづれにしろ、好きなように

はさせん。ここは宇宙コンミューンだ」

「軍は、必要なの?」

「うむ・・・厄介の種だが、必要ではある。しかし、対立す

る軍事ブロックはいらんな」

「宇宙コンミューンは、いい子にしているわけね、」アイリ

ーンは、トンボ眼鏡のまん中を押した。「できるかしら?」

「やらなきゃならんだろう。新しい社会形態にシフトするた

めには、」

「そうね、」アイリーンは、口の上にコブシを当てた。「わ

たしには、とても無理だけど、」

「とにかく、第一号宇宙植民島が動き出せば、我々の側が決

定的に有利になる」

 アイリーンは、小さくため息をついた。

「それまでが大変ね、」

「社会工学の連中も、何か手を打っているという話だ」

「そう、」

 アイリーンは、一癖も二癖もありそうな、軍服連中の方を

見やった。そして、ものめずらしげに、目を見開いた。

 ともかく、彼女も認めるとおり、人間管理や社会コントロ

ールに関しては、軍はプロフェッショナルとしてのテクノロ

ジーを持っている。が、彼等にしても、ただゴタゴタを起こ

すのを、本来の使命と思っている者は一人もいないだろう。

つまり、それぞれの真剣な思いや、主張や、正義が、複雑に

絡んでいるわけである。

 自動シャッターの両サイドのマグネット・ライン上に、そ

れぞれ警備員が一人づつ立っていた。二人とも、会食などで

津田とアイリーンを知っていた。彼等は声をかけ、挙手を切

り、起動ボタンを押してシャッターを開けた。非常事態宣言

下ならではの光景である。

 ハニー・ハウスの区画に入ると、周囲の光景は一変した。

ここは、コマーシャル・ベースでやってくる、観光客向けの

ホテル区画だった。ナンバー付のハニカム構造は、まさに蜂

の巣そのものである。が、無重力空間のため、人間一人がや

っと両手を広げられるほどのカプセルでも、狭いという苦情

はないという。サイズはさまざまにあり、数人のグループで

入るカプセルもある。また、カプセルの中には、インフォメ

ーション・スクリーンをはじめ、各種電子機器が組込まれて

いる。むろん、こうした電子システムは、宇宙コンミューン

のもっとも得意とするところだった。

 このハニー・ハウス区には、こうした対面をなした各種の

蜂の巣が幾層にも連なり、その中心を主軸回廊が突き抜けて

いる。観光客にとっては、回転内殻の人工重力などは無用の

長物だった。彼等は、無重力の別世界に憧れてやって来てい

るのである。が、観光客とは身勝手なものであり、食事や排

泄等の生理現象では、人工重力コアを利用していた。しか

し、今はこのハニー・ハウス区も、かなりの部分が軍人によ

って占領されているようだった。

 コア入口の、E・7自動シャッター前には、四人の警備員

がいた。そこのインフォメーション・スクリーンで、アイリ

ーンが、宇宙天文台総局に到着を告げた。するとすぐに、

レ・ドク・タンとボブ・バットが、頭上のシャッターから出

てきた。そこは、宇宙天文台総局の無重力リース・スペース

だった。

「イヤアー!」ボブ・バットが、両手をふりかざした。彼

は、最近益々太りだしていた。

「お元気そうね、」アイリーンは、首を上げたまま、トン、

と壁を蹴った。「少し太りすぎよ、ボブ、」

「アイリーンに、少し分けてやるかね。どこをかじってもい

いぜ」

「けっこうよ」

「天文台の方は、変りはないですか?」レ・ドク・タンが、

白い歯を見せながら、津田に握手の手を差し出した。

「まあ、“ベガ”だな、」津田は、レ・ドク・タンの澄んだ

黒い瞳を眺め、手を握り、体を回転した。「こっちの方は、

あれから変ったことはないか?」

「色々あるんです。後で話しますが、」

「うむ。こっちもだ」

「さあ、真、急ごうぜ!」ボブが言った。「みんな、首を長

くして待ってぜ!」

 彼等は、四人でひとかたまりに肩を組合わせ、一緒にE・

7シャッターからコアの中に入った。後の方で、コアの厚い

シャッターが閉った。中に入ると、さすがにだいぶ人出があ

った。

「地球の方も、すでに息がつまりかけてます」レ・ドク・タ

ンが、顔を突き合わせながら言った。「宇宙植民計画じた

い、10年遅かった感じがしますね」

「まあ、最終的には、」ボブが言った。「軍事ブロック側と

の妥協ということになるんだろうな」

「彼等の要求は、何ですの?」

 アイリーンは真面目に聞いたのだが、一瞬シラケてしまった。

「まあ、」ボブが言った。「ポストかな、」

「それが困ります」ト・ドク・タンが言った。「我々の絶対

的なラインは、早くはっきりさせておいた方がいいですね」

「そうね、」アイリーンが、巻き上げている髪に手をかけ、

唇を引き結んだ。

「とにかく、」レ・ドク・タンは、さらに言った。「宇宙コ

ンミューンの中に、特定の軍事集団や、国家や、宗教の影響

力を持込むことだけは、絶対に阻止すべきです」

「社会工学の連中は、何と言ってる?」

「あそこは、口が回るだけだ」ボブが言った。「ペラペラよ

くしゃべるが、たいしたのはいない。もっとも、自分らは、

社会科学者であって、政治家ではないと言ってるが、」

「どういうこと?」

「学術的な探求はするが、実行は別だと言うことさ。馬鹿げ

た連中だ」

 津田は、主軸回廊の向こう端を見渡した。120メートル

の内殻視界は、建設中の人工島をのぞけば、最大のものだっ

た。

「あの、アステロイドの座標が、“特異場”だというのはど

うとうことだ?」津田が聞いた。

「シュタイナーがそう言ってる」レ・ドク・タンが、目にか

すかな微笑を浮かべた。「太陽圏の“特異場”の可能性があ

るそうです」

「どういう?」

「“場”です。我々のまだ認知していないもの、と言ってま

す」

「たとえば?」

「ミニ・ブラックホール、ホワイト・ホール、その他いくら

でも。とにかく、今回の結果が、“特異場”を示しているそ

うです。ここ三日ほどの、“ベガ”のデータを見ています

か?」

「いや、」

「あの座標に、極微弱なエネルギーの点があります」

「本当なの?」アイリーンが言った。

「彼は、そう言ってますね。それで、全スペクトルでの観測

を開始しています」

「面白いな。ふむ、」

 

 津田とアイリーンは、コアの第四層の最大重力室で、天文

学界の二つの緊急会議に出席した。その後、その日の第三便

の地球行き旅客ライナーに乗込んだ。時間ぎりぎりで、彼等

が一番最後の乗客だった。

 60人乗り旅客ライナーのGシートは、ほぼ満席に近かっ

た。彼等二人が並んでGシートにつくと、それを待っていた

ように、弱い加速が感じられた。旅客ライナーが、オリンポ

ス・サテライトを離れたのだ。

 それから30分ほどの間に、五隻の貨物ライナーと、一隻

の不定期特殊クルーザーが合流し、総勢七隻の編隊を完成し

た。そして、斜にエシェロン編隊を組んだ七隻は、今にも吸

込まれていきそうな巨大な青い地球を目指し、最短曲線をま

っしぐらに加速降下していった。

“エリア・50”のそばを通ると、ほとんど外観の完成して

いる第一号宇宙植民島が、すぐ手の届きそうな間近に見え

た。それはまさに、その名前の示すとうり、島のように巨大

だった。周囲に、まだ工作艇が、夜光虫のように無数の光を

点滅している。そして、銀河を覆い隠すその宇宙植民島の方

からも、所々に一群の黄色い光が漏れていた。

 この第一号宇宙植民島は現在、83パーセントの完成であ

る。しかし、津田は、国連事務総長の宇宙コンミューン訪問

による世論の沸騰と同時に、ここへの移住が開始されるだろ

うと思っていた。宇宙植民島は、深宇宙探査船やシンクロト

ロン加速器などとは違い、残りの17パーセントが完成しな

ければ、それは一文の価値もないというものではないのだ。

しかも、そこに入るのは、まだ一般人ではなかった。すでに

十分な訓練を積んでいる、第二号、第三号の宇宙植民島を建

設する、優秀な若い男女二万人のエンジニアたちである。そ

して、その彼等もまた、一方で宇宙植民島の建設を進めなが

ら、もう一方では、宇宙心理学や、宇宙社会学の研究対象に

なっていくわけである。が、今度は、地球上なみの家庭生活

や、宇宙での赤ん坊の誕生まで含まれてくるだろう。そし

て、宇宙植民島完成の最後の数パーセントは、その新しく生

まれてくる子供たちのためのものである。つまり、そのあた

りはまだ更地であり、新しいスポーツや、新しい娯楽や、新

しい教育施設等が、これから考案設計されていく部分であ

る。

 したがって、この第一号宇宙植民島もまた、本格的な宇宙

文明時代へ向かっての、単なるワン・ステップでしかない。

そして、おそらく、この宇宙文明の歩みは、当分終わること

はないだろう。いや、我々にとって、そう簡単に終わっては

困る、ホモ・サピエンスの宇宙文明史ストーリイの展開なの

である。

 

「ハーイ、真!」頭上で、明るくはずんだ声が呼んだ。

 見上げると、バーバラ・マッコーネルだった。栗毛の、ポ

ニー・テイルの可愛いソバカス娘だ。オリンポス・サテライ

トの計算センターに勤務している。おそらく、まだハイスク

ールの年齢だろう。しかし、ことコンピューターに関して

は、ずば抜けた才能の持ち主だった。

「やあ、バーバラ。君も地球行きかね」

 津田は、個室に使われている、六人乗りの救難ライフ・ボ

ートの中から言った。すでにライナーは、最初の加速を終

り、再び無重力状態になっている。

「ええ、そうなの。よろしくね、真」

「ああ、こちらこそよろしくな、」

「何を見てるの?」バーバラは、ライフ・ボートの電子リー

ダーをのぞきこんで言った。

「日本のお寺だよ。教会のようなものだ。これは、永平寺と

いって、まあ、特に由緒のあるお寺だ」

「ふうん・・・ねえ、入っていい?」

「ああ、」

 津田は、両手を差し出した。バーハラは、ポニー・テイル

を振って、他のライフ・ボートを見回した。そして、津田の

手を握った。頭からライフ・ボートの中に入り、津田に素早

く接吻した。それから、片手で、津田の横のGシートに体を

沈めた。クルリとGシートを半回転させ、にっこりと笑っ

た。

「ハイスクールの学科は、もう終了したのかい?」

「ええ。数学はもうとっくに終わったわ。でも、歴史がまだ

だいぶ残ってるの。コペルニクスやガリレオのアレよ。“そ

れでも地球は回ってる”だなんて、バカみたいな話だわ。ね

え、真、ニュートンが何才でケンブリッジ大学の教授になっ

たか、ごぞんじ?」

「ふむ、さあな、」

「18歳よ。多分だけど、」

「ふむ、たいしたものだな」

「それ、あたしの方?」

「いや、ニュートンの方だ」

「そうねえ。でも、あたしは、卵のかわりに時計をゆでたり

はしないわよ」

「まあ、バーバラだってたいしたものさ。まだその若さだか

らな。ディラックについては学んだかい?」

「彼はまだむずかしすぎるわ。でも、ディラックの業績は良

く知ってるわ。今、メンデルの遺伝法則の発見から、DNA

の遺伝子工学までの歴史を習ってるの」

「うむ・・・かのメンデル氏か。あの男はかわいそうだっ

た。あの遺伝法則の論文が評価されたのは、彼が死んで19

年もたってからだった」

「そう!そうなのよ!論文が発表された時からだと、35年

もたっていたのよ!」バーバラは、両手と一緒に目をつり上

げて見せた。「学会に発表した時は、誰も検討も評価もしな

かったんですって!誰もよ!理解できないんで、無視したの

よ!バカみたい!そんな話って、あると思う?本当にトンカ

チ頭なのよ!」

「あら、あら、」アイリーンが、愛用の電磁ペンをクルクル

回しながら戻ってきた。「バーバラ、真はわたしのエスコー

トよ」

「ただお話ししていただけよ、」

「どう、展望室へ行ってみましょうか?」

「いいわ、アイリーン。みんなで行きましょうよ、真、」

「うむ・・・よし、行ってみるか、」

 津田は、電子リーダーのエジェクト・ボタンを押し、体積

メモリー・キューブを取り出した。

 バーバラが、それを津田の手から取り上げた。そして、彼

の飛行スーツの腰にあるポケット・ライブラリーのケースに

しまい込み、ポンと叩いた。

 津田は、両手でバーバラの腰をつかみ、ライフ・ボートの

外へ押出した。それから、自分もトンと床を蹴り、外へ泳ぎ

出した。すると、ちょうど頭上から、アナウンスの声が響い

てきた。

「・・・アイリーン・中原博士・・・アイリーン・中原博

士・・・お近くのインフォメーション・ポストへどう

ぞ・・・地球から、メッセージが届いております・・・」

 津田は、バーバラと一緒に、さきに展望室へ昇った。展望

室には、女子学生の一行が七、八人いた。彼女たちは、胸に

中国の五星紅旗をもじったワッペンを付けていた。 バーバ

ラは、すでにオリンポスで彼女等と友達になっていた。そし

て、彼女たちに津田を紹介した。

 エシェロン編隊の最後尾船の展望室からは、青い地球に吸

込まれるように浮かんでいる、六隻の貨物ライナーが壮観だ

った。貨物ライナーには、無重力下で生産された、高付加価

値の工業製品が満載されている。歴史は、この今、地球人類

が太陽系開発を始めた、このまさに第一歩の上を、脈々と流

れている。津田は、この今の瞬間、この今の意味、この今の

宇宙を、自分の生涯忘れまいと思った。こうやって世界が形

成され、この自分と共に人類が流れ、宇宙が流れ、意味とス

トーリイが熟成していく。こうした風景は、自己の命そのも

のなのであり、他の何者にもたとえようのないものである。

 アイリーンが、展望室へ昇ってきた。

「真、」アイリーンは、宙を漂いながら言った。「わたしも

日本へ降りることにしたわ。ジャッキーったら、東京にいた

のよ。祖父について行ったのね」

「ジャッキーは、9歳だったかな?」

「ええ。でも、あの娘に会うのは半年ぶりだわ。また、大き

くなったかしら・・・」

 バーバラが、二人のそばで咳払いをした。

「紹介するわ!こちらが有名な宇宙物理学者の、アイリー

ン・中原博士よ。アイリーン、こちらは、中国の西安から来

た学生さんたち。大学生よ」

「よろしくね、」アイリーンは、微笑しながら、彼女たちに

手をさし出した。

 

 

 

 第五章                

 

 彼等は、ライナーで一泊した。そして、ドーナツ型の低軌

道ステーション・ウクライナで一泊した。ウクライナでの一

泊は、地球上の重力環境に合せるための、体調の調整だっ

た。最近の宇宙生理学の発達は、めざましいものがある。

が、まだ当分は、地球上とのギャップは、越えることのでき

ないものとされている。

 津田とアイリーンは、地球標準時刻で真夜中の少し前、ブ

ザーで起こされた。そして、日本へ降下する大気圏シャトル

に乗込み、大気圏への突入に備えた。

 大気圏シャトルは、地球を周回しながら、高度260キロ

メートルまで降下。着陸一時間前に、軌道離脱。それから、

大気圏突入による十数分間のブラック・アウトの後、地上側

から補足された。津田もアイリーンも、すでにこの行程は幾

度となく経験していた。宇宙活動の中では、大気圏離脱と、

この大気圏再突入が、最もダイナミックなものである。した

がって、そのたびに、その時々の感動があった。

 アジア大陸の東部は、朝焼けが広がっていた。その太陽の

光を浴びている地球の朝の空を、広い雲海がおおっている。

大気圏シャトルは、やがてその雲海の中へと突っ込んでいっ

た。

 津田とアイリーンは、Gシートの中で、久しぶりに本物の

地球の重力を感じ取っていた。そして、Gシートのポケット

から、1リットル入りの体液調整ドリンクを取り出し、キャ

ップを切って乾杯した。

 窓の外は、晴れていれば、おだやかな九月の海が広がって

いるはずである。が、大気圏シャトルは、ぼうぼうとした厚

い雨雲の中を流れていった。九月といえば、また台風の季節

でもある。そして、この雨雲の広がりも、どうやらその台風

の影響の方だった。低軌道ステーションで見た気象情報で

は、一日以内に、東京湾上陸と予想が出ていた。

 やがて、客席正面のスクリーンに、かすかにモヤのかかっ

た太平洋が見えてきた。そして、そのモヤの彼方に、電磁ブ

ースター・タワーの、航空識別灯の点滅が見えた。そこが、

太平洋上に浮かぶ、東京宇宙港である。

 そこでは、大気圏シャトルは滑走路のリニア・モーターで

加速され、その高さ450メートルの電磁ブースター・タワ

ーから、スキー・ジャンプ式に宇宙空間へ打出されていく。

つまり、電磁ブースターで、初速をかせいでいるわけであ

る。現在、世界各地の宇宙港では、さまざまな補助推進シス

テムが用いられている。しかし、こうしたものが実際に威力

を発揮しているのは、赤道付近から大量に発射されている、

無人貨物シャトルである。生身の人間や精密機械などは、そ

のフル・パワーの強烈なGに耐えられないからである。

 

 ようやくシャトルが停止すると、長い滑走路にザーザーと

雨が降っているのが分った。強い重力と、濃密な大気と、一

面雨の降りしきる世界が広がっていた。この、全てに濃密な

世界が、彼等の生まれ育った世界である。そして、目に映る

さらに濃密な海洋は、白く荒れて波立っていた。

 津田は、ぼんやりと立って、その白波のかすむ太平洋を眺

めていた。すると、シャトルのドア・ロックが解除されるチ

ャイムが鳴った。ゆっくりと、厚いドアが開いていく。津田

とアイリーンは、開いていくドアのセイフティー・ロッドの

前で、久しぶりに地球の大気圏の香りを吸い込んだ。甘くな

つかしい、雨の音が聞こえた。遠く、風の音がうなってい

る。これは、濃密な空気の音だ。音の無い超真空の世界では

ない。

 やがて雨の中を、白とオレンジ色のランド・シャトルが接

近してくるのが目に入った。

「気をつけろ、」津田は、顔に雨を受けながら、アイリーン

の肩をつかんだ。「地球上じゃ、ここから飛び降りたら自殺

だと言われる」

「そうね、」

 ランド・シャトルの先端から、最近ではすっかり洗練され

た形になった、階段と透明なジャバラが伸びてきた。先の所

に、二人の武装したセキュリティー・ポリスが立っている。

今までは、こんなことは一度もなかった。軍事ブロックの対

立の影響が、こんなところにまで波及しているのだ。近づく

と、彼等は挙手を切った。階段の先端が、大気圏シャトルに

ロックした。「ようこそ、ご帰還を!」セキュリティ・ポリ

スの一人が、再び挙手を切り、力強く日本語で言った。

 津田も、挙手をまねた。そして、アイリーンを先に降ろ

し、それから津田が続いた。

「中原博士、東京へようこそ!」階段の下で、国際天文学会

のブルー・カードを胸に付けた、若い男が言った。「津田博

士、ようこそ!広瀬といいます」

「ああ、知ってるとも、」津田は、片手を上げ、顔を崩し

た。「君の、“大停止モデル”は、見せてもらったよ」

「それはどうも。恐縮です」

「なかなか面白いものだ」

「突然で、ご迷惑をおかけしますわ」アイリーンが、なまり

のある日本語で言った。「娘が、東京に来ておりますもの

で、」

「承知しています。娘さんには、すでに連絡を取ってありま

す」

「あら、そうなの。驚かそうと思ってましたのに、」

 アイリーンは、トランクを広瀬に渡した。彼等は、後から

来る客の邪魔にならないように、ランド・シャトルの客席に

入っていった。

「そうそう、広瀬君。忘れないうちに、君に頼んでおこう」

「何でしょうか?」

「うむ。グラファイト相の炭素微粒子のカプセルを預ってき

ている。この間の、宇宙塵物質の実験で問題になったやつ

だ。これを早急に村岡教授に渡すように言われてきた」

「そうですか、分りました。それでは、再チェックの時に頂

きます」

「すまんが、たのむ」

 28人の乗客全員が乗り移ると、ランド・シャトルは大気

圏シャトルから離れた。そして、しだいにスピードを上げな

がら、雨の中を宇宙港ターミナルへ向かった。

 

 宇宙に長期滞在していた彼等は、規定通り、宇宙港メディ

カル・センターで二時間を過ごした。強い重力下で、体がだ

るく、頭も重い感じだった。

 彼等は、それから二時間半後には、ターボプロップ機で、

内陸の国際空港に着陸した。そして、空港近くのホテルに入

った。ホテルのロビーでは、アイリーンの82歳になる祖父

と、9歳になる娘のジャッキーが、首を長くして待ってい

た。案内してきた広瀬は、そこで帰った。

 津田とアイリーンは、久しぶりに、地球での平凡でなごや

かな食事をした。これは、昼食のぶんだった。娘のジャッキ

ーは、アイリーンにかまわれ、つつかれ、津田の膝の上にあ

がったり下りたりし、身軽にはしゃぎ回った。しかし、彼等

の方は、逆にひどく体がだるかった。が、それでも、笑顔の

サービスだけは絶やさなかった。

 食事が終わると、津田はアイリーンの祖父と、また握手を

交わした。そして、ジャッキーに、今度はアメリカで会うこ

とを約束し、ホテルを出た。

 津田は、ヒューストンに出頭するまでの二日間は、天文学

のことは考えないことにしていた。それに、これから始ま

る、人間や組織を相手の仕事のこともだ。また、とくに誰に

も会わないつもりだった。とにかく、休日は二日間だけだっ

た。それも、あさっての朝には、日本を発たなければならな

い。非生産的であり、純粋な学術研究をしている天文学界の

人間は、こうして時々便利に徴用されるこいがある。むろ

ん、これは言語道断なことではあるが、一面無理からぬ所も

あった。建設途上の宇宙コンミューンには、人員を引き抜け

る部署などは、何処にも無いからである。

 津田は、ホテルの車で空港へ戻った。そして、軽井沢方面

へ向かう、大型ダブル反転ローターのジェット・ヘリを見つ

け、それに乗込んだ。軽井沢から、東京天文台のある、八ケ

岳山麓へ行ってみるつもりだった。津田はかって、そこの野

辺山の天文台で、一時代を過ごしたことがあった。日本で田

舎へ行ってみたいと思い、まず思い出したのが、その一帯の

山野だったのである。

 大型輸送ヘリは、東京の都心と、その北部の川越市の二ヵ

所に着陸した。その後、一直線に軽井沢へ向かった。台風が

接近しているために、空がどんよりとしていた。湿度が、か

なり高いようだった。関東北西部から碓氷峠の山々も、灰色

に重くかすんでいた。やがて、白樺の木立が見え、芝生が見

え、ヘリはようやく高原のヘリポートに着陸した。津田は、

国際天文学会保証のICカードを使い、ヘリの料金を支払っ

た。そして、一番最後にヘリのタラップを下りた。

 国際天文学会のICカードを使ったのは、地上でまだプラ

イベート口座を開いてなかったからである。が、それともう

一つは、このカードを使っていれば、彼の行動を、国際天文

学会がトレースできることだった。今は、宇宙コンミューン

が、極度に緊迫した状況にある。いつ、どんな緊急連絡があ

るかもしれなかった。

 津田は、ぶらりと、ヘリポートの事務所に入った。そし

て、タクシーを一台手配してくれるようにたのんだ。

「どちらの方面へ?」

「野辺山の方だ。この葉巻を一本もらうよ」

「ええ、どうぞ、」カウンターの男は、津田の方は見ずに手

を振った。

 津田は、葉巻を一本ゲートに流し、ICカードを挿入し

た。それから、スモーク・クリーナーのある方のくたびれた

椅子に、ドッカリと腰を下ろした。

 津田は、宇宙では、葉巻などには手を出さなかった。しか

し、全てが濃密な地上では、どうやら悪徳に対しても、奇妙

な寛容があった。これが、膨大な量の生命体が互いに消化し

合う、地球生態系の霊的な相なのかもしれないと思った。

 また、地上の人々は、この事務員にしてもそうだったが、

宇宙コンミューンよりはどこか殺伐としていた。厚い大気

と、濃密な生命と、溢れかえる人間たちで、そのねじ曲げら

れた思念エネルギーが、社会の中に鬱積しているように見え

る。

 津田は、スモーク・クリーナーのスイッチを入れた。そし

て、ライターを取り上げ、葉巻に火をつけた。窓からちょう

ど、彼の乗ってきた白い大型ヘリが、灰色の空に上昇してい

くのが見えた。

 

 津田は、タクシーの運転手に頼み、田舎道を佐久地方へ走

ってもらった。高原も、ようやく残暑の去った季節である。

沿道には、コスモスの花が咲き始めていた。また、畑には、

豊な作物が、秋の実りの季節を迎えていた。津田は、どんよ

りとした空と、働く人々と、雑然とした一画の、ナスやトマ

トやキュウリ畑を眺めた。おそらく、その一画の、朽ちかけ

たナスやトマトやキュウリ畑は、出荷するためのものではな

く、家庭で食べるために作ったものだろう。

 津田は、そのナスやトマトやキュウリ畑に、宇宙のハイテ

ク農場には見られない、大自然本来の姿の郷愁を感じた。そ

の、枯れて腐り始めた雑然とした中にも、人間のテクノロジ

ーなどはるかに超越した、大宇宙のエントロピーとネゲント

ロピー(マイナスのエントロピー。構造化、生命現象、進

化)の拮抗する世界がある。その、はかり知れないほどの巨

大な全生態系の流れは、まさに宇宙の意味、人間の意味、神

の意味にまで拡大される、一つの膨大な世界になっている。

 また、こうした畑の風景は、全宇宙の一部ではあるが、ま

さに宇宙全体の風景そのものでもあった。なぜなら、それは

“無限”によって“無限”を見つめ、“意味”が“意味”を

きわめつくせない、この世界の広がりそのものだからであ

る。

 ところで、人類は、この貴重な大地、この貴重な大自然

を、もうこれ以上破壊することは許されない所まで来てい

る。やがて、宇宙に進出していくホモ・サピエンスの文明に

とっても、この地球の大自然と地球の歴史は、不確実な未来

に対峙した時に、常に唯一学ぶことのできる図書であり、師

である。したがって、地球こそは、宝の山であり、人類の永

遠の聖域なのである。人類は、この地球をこそ、何よりも大

切に守り通していかなければならない。また、万一の折、逆

に地球さえ守り通してあれば、人類は決して敗北することは

ないだろう。

 また、さらに言えば、これから銀河空間へ拡散していくで

あろう、10万年後100万年後のホモ・サピエンスの子孫

にとっても、あるいは、さらにその先の新地球人類誕生の可

能性にとっても、この青い太陽系第三惑星は、DNAの源流

であり、魂の源流なのである。したがって、今の我々のため

ばかりではなく、そうした遥かな遠い子孫の文明の可能性の

ためにも、この地球の生態系、この地球という聖域は、あら

ゆる犠牲をはらってでも守り通していかなければならない。

そしてそれが、その時代その時代の上を生きていく、地球人

類の道標であり、義務と責任なのである。そしてまた、それ

が、“知的生命”が“豊饒の海”にまで到達できる、唯一の

“人間原理”の大道でもあるのであろう。

 こうした我々ホモ・サピエンスが、なぜその究極の“豊饒

の海”にまで到達できる可能性があるのかといえば、おそら

く我々は、そのために選ばれて創造されているからである。

我々は、そのために選ばれて存在し、着実に進化しているか

らである。この宇宙は、生命の発現と進化の“場”であり、

“豊饒の海”を実現する“場”である。このように考える以

外に、我々は自分自身の存在を、どう説明できるだろう

か・・・

「台風の上陸は、何時ごろになりますか?」津田は、白髪の

老運転手に聞いた。

「もう、東京湾は、暴風雨圏内に入ってますな、」老運転手

は、半自動操縦に切換え、肩を回した。

 津田は、うなずいてシートにもたれた。顔に、秋の香りを

のせた風を当てながら、目を細めた。

「この地方は通りそうですか?」

「さて、直撃しますかどうか、」

「しかし、相当大きいそうですね、」

「まあ、このあたりも、ただではすまんでしょうな。若い連

中は、台風パーティーの準備で大変です。とにかく、エキサ

イトしますからな、」

 津田も苦笑した。まあ、麻薬よりはマシだと言おうと思っ

たが、口をつぐんだ。

「うちの会社の連中は、ブルドーザ三台で、浅間山に登ると

言ってました」

「ほう、そりゃあ、楽しそうだ」

 老運転手は、首を振った。

「まあ、みんな、無事で帰ってきてくれりゃいいですがね」

「これで、どのぐらいが死ぬと思いますか?」

「ま、20人前後でしょう、死ぬのは。事故があれば、

200人前後。そのぐらいが、上限でしょうな」

「宇宙コンミューンでは、とても考えられんな。宇宙は、生

命が希薄ですら、」津田は、サン・ルーフから、どんよりと

した頭上の空を見上げた。

「しかし、帰還そうそう、大変な台風に出くわしたもの

だ・・・」

「やはり、お客さんは、空から帰還された方ですな」

「ええ、五、六時間前に、」

 津田は、川の向こうの方に見えてきた、新しい住宅団地に

目を投げた。

「この高原にも、ずいぶんと住宅の波が押し寄せてきてます

ね」

「そうですな・・・」老運転手はうなずき、ため息をつい

た。「ごみごみしてきましたな。住宅とゴミの山と。息が詰

りそうです。山の上の方までこんな調子で、」

「うむ・・・」

「地球は、どうなっちまうんですかねえ。わしの子供の頃

は、まだこのあたり一帯は、入会の雑木林でした。別荘はぽ

つぽつあったが、熊もいたし、狸もいたもんです。あの山か

らは、炭焼の細い煙が立ち昇って、」

「炭焼ですか・・・」

「ええ・・・子供の頃は、まあ、あきあきするほど、のんび

りしてました・・・しかし、今にして思えば、どこにでもゴ

ロゴロあったあきあきする時間も、二度ともどることのない

風景でした。そうした時間こそ、貴重でしたな」

「そうですね、」

「これから、どうなるものやら・・・」

 

 二時間ほど走ると、津田はぐったりとした。それで幹道へ

出、最短コースを、昔なじみのあった温泉旅館へ行ってもら

った。旅館につくと、津田はすぐに温泉場へ上がった。そこ

は自然石を使った広々とした所で、数人の先客がいた。和洋

折中の大型旅館だったが、娯楽設備のある休憩所の方にも、

数人がいるだけだった。

 津田は、広々とした温泉場の湯にとっぷりと浸かった。そ

うしていると、これでようやく一息ついた感じがした。宇宙

からの帰還には、温泉で体を休めるのが一番だった。それ

に、湯に浸かっていれば、多少とも地球の強い重力を軽減で

きる。

 しかし、津田は、帰還するたびに思うのだが、地上はどこ

か息苦しい感じがした。地上世界のなつかしさと同時に、宇

宙の方がよほど単純で、情熱があり、のびのびとしているよ

うに思えるのだった。むろん、地球は生まれ育った所であ

り、純粋に比較できるわけではない。しかし、津田自身、最

近では宇宙コンミューンの方に、むしろ自分のホームのよう

な親しみを感じていたのである。

 ところで現在、地球の総人口は80億を越えている。が、

この地球上で、本当に自由を謳歌している人間は、何パーセ

ントいるだろうか。80億もの人口を養うために、地球の生

態系は破壊がくり返され、大自然は荒廃をきわめている。そ

して、人類社会は、まさに急速に、無気力な静的管理社会に

移行しつつあった。その抑圧された反動が、あの台風パーテ

ィーのようなバカ騒ぎになっているのである。五年前の夏に

は、そうした気のゆるんでいる所に、予想をはるかに上回る

台風が吹き荒れた。そして、風速40メートルの超大型暴風

雨は、ある太平洋岸の海岸と市街地一帯をなめつくし、実に

死者行方不明者を7000人も出したのである。

 むろん、そうして好き好んでやっている連中に、同情はな

かった。しかし、世界各地の飢餓地帯や餓死地帯にいたって

は、目をおおうばかりだった。あらん限りの人類の英知と技

術の集積を投入しても、すでに各方面の危機は、全地球規模

で顕在化してきていた。そしてその元凶は、まさに限界を越

えた人類の異常繁殖にあったのである。

 この、“知能”の発達を武器にした人類の異常繁殖は、最

強の猛獣であるトラやライオンさえも、あっさりと駆逐して

きた。学習し、数々の道具をうみだし続け、強大な文明を築

き上げた。が、こうした繁殖のあり方は、必然的に地球の生

態系を狂わせるに至ったのである。そして、そのために、す

でに幾多の種が、この地上世界から完全に滅び去っていっ

た。これを単に、弱者と強者の風景、環境圧力下における自

然淘汰と割り切るには、人類は他の生物種に対し、あまりに

も“神”に近い力を持っていたのではあるまいか。

 また、この地球の絶対者たる人間は、よく肉を喰らう。そ

して、その肉を得る目的のためだけに、まわりの仲間の動物

たちの“心”を、常に踏みにじってきた。特に20世紀以

降、彼等の生と死の権利はいうに及ばず、個性という遺伝子

のプライバシーまでも、その邪悪な目的のためにコントロー

ルしてきた。人間社会では、まだ生まれぬ胎児の権利が議論

されても、こうした莫大な数の仲間の動物たちの権利は、故

意に無視され続けてきたわけである。彼等にも、むろん親子

の情愛もあり、喜びも悲しみも怒りの感情もあったのであ

る。したがって、こうした食肉の生産システムこそは、人類

が作り上げてきた、あまりにも非道な暴力機構といえるもの

だった。そこでは巨大な矛盾と、さまざまな種族たちの巨大

な悲しみが、華やかな人類文明の陰で、延々とたれ流されて

きたのである。

 したがって、宇宙コンミューンでは、この命題は、まず第

一に克服されなければならないものだった。むろん、地上に

おいても、それが急がれていた。何故ならば、本来の生態系

を破壊して増幅された、この巨大な邪悪と巨大な悲しみとの

相克が、太陽系地球圏の霊的な進化に、重大な影響を与え始

めていることに気づいたからである。

 ・・・しかし、それにしても、この宇宙と地球人類史スト

ーリイだが、これは全くうまくできすぎてはいないだろう

か・・・津田は、わき上がる湯気をぼんやりと見つめなが

ら、心の中でつぶやいた。これはやはり、“人間原理”によ

る、認識の必然的な閉鎖性に関係があるのだろうか・・・そ

して、“原初宇宙”の上に描かれた“人間原理”の必要条件

が、現在知られている四つの基本的な力(電磁力、重力、強

い相互作用の力、弱い相互作用の力)の上に加えられる、何

らかの第五の力、第五の要素だという証明だろうか・・・そ

れとも、こうした次元構造的に解析される力とは全く別の、

第二、第三の流れといったものがあるのだろうか・・・そう

なれば、DNAの二重ラセン構造のように、超重力理論など

もきわめて解明困難なものになってしまう。アインシュタイ

ンは、この宇宙に単調な基本的メロディーを示唆した。しか

し、生命系が加わると、まさに複雑系に一変する。しかも、

複雑なるがゆえに、その相乗効果の不可知な迷路から、統合

としての意外なものが発現しているようにも見える・・・意

識、生命、価値、自己組織化などだ・・・“地球圏の霊的な

進化”などという思想も、地球生命圏の統合としての姿を見

たものである。

 

 津田は、湯から上がると浴衣を着流し、ぼんやりと休憩場

で藤椅子に掛けていた。そのうち、女中が気をきかせ、ワゴ

ンでビールを運んできた。

「ああ、ありがとう・・・」津田は、しっとりと濡れた髪

を、両手で撫で上げた。

「オツマミは、ハムでよろしゅうございますね?」

「いや、枝豆か、ピーナツでももらえないかな」

「そうですかあ・・・」

「たのむ。ところで、ここでは何か台風パーティーはやるの

かい?」津田は、ビールの大ジョッキを口へ運びながら聞い

た。

「ええ。そりゃあ、町の人達も集まって、色々と盛りだくさ

んですよ。JRBの台風中継も契約してますし、」

「ふーむ、そいつは楽しみだな。君も何かやるのかい?」

「わたしは芝居を。それ以上は、後のお楽しみに」

 女中は、含み笑いをして、腰を折った。それから、ハムの

皿をワゴンに戻し、まわりの空になったジョッキや皿を集

め、休憩場から出ていった。

 津田は、ぼんやりと湯煙りのたっている方を眺めた。そし

て、冷たいビールで喉を潤しながら、また自分の思索にもど

った。

 ・・・では・・・現実的な問題として、人間にとって、ユ

ートピアとは一体何なのだろうか・・・これはまた、幾多の

宗教における、永年の人類救済史的課題でもあるわけだ

が・・・むろん、因果律の無常も二律背反の激情も、単なる

幻影であることは明白である。そして、真実の事象、真実の

根源は、そうした幻影や“ゆらぎ”の背後にある何者かだろ

う。

 ところで、ここでもまた、人類の歴史ノートを開き、過去

の賢人たちに学ぶとすれば、ユートピアというものは、あく

までも自覚的な座標の上にこそ求めるべきものだという教示

だろう。つまり、地球も、宇宙コンミューンも、またこれか

ら太陽系空間、銀河空間へと拡大していくであろうホモ・サ

ピエンスの宇宙文明史も、相互主体的な、自覚的な文明構造

を建設していかなければならないということだろうか。うつ

ろいやすい物質界の欲望の幻影にではなく、真実に立脚した

内的な自覚世界にこそ、これからの文明の主流をすえていけ

という示唆だろうか・・・

 しかし、さらにまた、これまでの人類文明史の歩みから学

び取れば、国家や社会や個人の資質というものも、それほど

急激に変化をするものではないだろう。つまり、いかにしよ

うとも、悪人や俗人を、全く無くしてしまうことは不可能と

いえる。また、極端な管理はすべきではない。何故なら、人

間はもともと、DNA戦略により、不揃いを信条として存在

しているからである。そして社会もまた、その不揃いによっ

て波動するオーガニゼーションだからである。

 したがって、悪童や俗人の多様さやダイナミズムもまた、

さらに広い視野から眺めれば、人類の持つ貴重な資産ともい

えるだろう。しかし、文明の大動脈のシナリオは、“人間原

理”本来の流れの意味において、“豊饒の海”を目指すもの

でなければならない。すなわち、すべてを、大いなる慈悲、

大いなるハーモニー、大いなる美によって押し包み、推移し

ていくものでなければならないだろう。

 

 津田は、ビールをのんだ後、部屋へ上がってひと眠りし

た。目を覚ました時、窓の外はすでに薄暗かった。窓が小さ

く震え、空がゴウゴウと低く唸っていた。

 津田は、浴衣の着流しで階下へ降りた。そして、下駄を突

っかけ、台風の余波の出始めた中庭へ出てみた。その強い風

の中で、旅館の男たちが、庭木に竹竿を補強していた。すで

に石燈篭も崩され、池の鯉もすっかりどこかへ移されている

ようだった。「あの、津田様!」明りの灯ったロビーの戸口

の方で、和服の女が手を上げて呼んだ。たもとがパタパタゆ

れ、声が半分風にかき消された。「国際電話でございま

す!」

「ああ!」津田は、手を上げ、その手を浴衣の胸に差込ん

だ。そして、大股でロビーの方へ歩いた。

「お食事は、食堂の方でよろしゅうございますか?」

「ああ。何がある?」

「何でもございます」

「じゃあ、天ぷらとソバが食べたいな」

「はい。電話は、あちらの三番でございます」

「うむ、」

 津田は、強い風に髪を乱されながら、ロビーに上がった。

国際電話は、おそらくヒューストンからだろうと思った。こ

の台風の接近のように、“宇宙植民計画”の方でも、いよい

よ嵐が巻き起こっているようだった。

 

 

            〔 完 〕

                     

 

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