ここでは、その地球の方向を、一応“下”と呼んでいた。
その、下から射してくる地球の青白い光が、トレーニング・
ルームの壁をほのかに照している。
津田はしばしば、地球や太陽のような巨大な質量が、よく
この真空世界に浮かんでいるものだと思う。が、考えてみれ
ば、それは海の中を魚が泳いでいるのも、自分自身が今こう
してここに存在しているのも、本質的には何の違いもないわ
けだった。ミクロは素粒子から、マクロは銀河の階層的広が
りに至るまで、全てはそれ自体が、何者とも知らずに存在し
ている。そしてまた、全てが自分が何者とも知らずに、それ
そのもののストーリイを経歴しているのである。
人はしばしば、あらゆる物事を知りつくし、あらゆる事象
を究めつくしたと錯覚する。しかし、こうした根源的なこと
は、人間はこれまで、何ひとつ究めつくしてはいないのであ
る。
津田は、ゆっくりと、生命維持システムのコントロール・
パネルの方へ泳いだ。そして、パネルを開き、ファンの出力
を上げた。それから、温度と湿度の方は、少しレベルを下げ
た。
この、L5宇宙天文台は、名前の示すとおり、L5ラグラ
ンジュ・ポイントに浮かんでいる。ラグランジュ・ポイント
とは、地球と月の重力バランスが作り出す場所である。こう
したラグランジュ・ポイントは、地球を周回する月の軌道上
に三ヵ所、月の表と裏側に各一ヵ所づつある。L5は、その
第五番目という意味であり、月軌道上でも最も安定している
場所である。
こうしたラグランジュ・ポイントでは、物体は地球と月
に、重力的に補足されている。つまり物体は、この宙域か
ら、ひとりでに外へ流れ出していくということがない。ま
た、仮に、微妙なバランスの崩れから、それがあったとし
ても、ごくわずかな力で押し戻すことが可能である。
むろん、こうした重力バランス・ポイントは、地球と月と
の関係にだけ存在するのではない。太陽と地球の関係にも、
太陽と他の惑星との関係にも存在する。また、バランス・ポ
イントとはいっても、これは天文学的な意味でのポイントで
ある。実際には、かなり広い宙域をさしている。したがっ
て、宇宙天文台やスペース・コロニー等のサテライト(衛
星)を置くには、まさに最良の場所となっている。
「真!」コントロール・パネルの上のスピーカーから、ミッ
キー・コールダーの声が呼びかけた。
「何だ?」津田は、英語で聞き返した。彼は、ここではもっ
ぱら英語を使っている。
「AURA(天文学研究大学連合)から、研究データが入り
ました」
「ほう・・・AURAか、」津田は、窓から地球を見下ろし
た。
「なかなか面白いですよ」
「うむ、そうかね、」津田は、汗でじっとりと濡れた髪を、
左手でパサリと払った。「もう少ししたら行くよ」
津田は、目を閉じた。静かに深呼吸をした。そして、汗で
濡れた髪をパサパサと振った。「ふむ・・・面白いデータ
か・・・」津田は、一人つぶやき、楽しげにグイと四肢を伸
ばした。「何のデータだろう?」
津田は、疲労がしだいに抜けていく心地好さで、ただぼん
やりと宙を漂っていた。何も考えなかった。そして、何も考
えずに、この85立方メートルのトレーニング・ルームを、
ゆっくりと見回した。不足なことは何もなかった。ただ、今
ここに、“人間原理”が現出しているだけだった。そして、
その尊い“命”の絶対座標の上を、刻々と宇宙が経歴してい
る。
津田は、窓ガラスに額を押し当てた。ガラスは、ひんやり
と冷たかった。が、二重の強化ガラスの外側の超真空の世界
は、風の音も他の物音もまるでない、おそるべき静寂の支配
する世界である。そして、それはまた、魂をも凍らせる、超
低温の世界でもあった。それが、何故かは知らない。しか
し、そうした無限とも言えるぼうぼうたる時空が、現実にこ
うして目の前に広がっているのである。
津田は、むろん哲学者ではなかった。高エネルギー物理学
で学位を取得した、宇宙物理学者である。したがって、この
目の前の超真空といわれる宇宙空間も、真の真空ではないこ
とを知っていた。また、永遠を支配するような静寂も、真の
静寂ではないことを知っていた。人間的にはそうではあって
も、物理学的には、およそ逆の世界なのである。
まず第一に、窓の外の、何も見えない太陽系空間でさえ、
実際にはプラズマ流や磁力線や、さまざまな電磁波の飛び交
う、嵐のような世界である。また、銀河系全体には、膨大な
量の星間物質がある。そして、その偏在が、紫外線に励起さ
れ、あるいは暗黒星雲を形成する。また、巨大複合分子雲の
中では、新しい星が刻々と誕生したりしている。
一方、運動力学的な意味においても、約二億年に一回転す
る銀河系(天の川銀河系)の回転は、太陽系においても、毎
秒230キロメートルという高速に達している。が、およそ
ケタはずれの激しさは、まさに銀河円盤の中央バルジの中に
集中している。そこは銀河系においても、特に星が濃密に集
まっている宙域である。そこでは、膨大な量の星と星がぶつ
かり合い、また至る所で星が爆発し、まさに大嵐のような巨
大物理現象のルツボとなっている。また、さらにその銀河中
心部の方、“いて座A−西”と呼ばれている最深部には、超
高密度の電離ガスが回転している。そして、その不気味なガ
スのリングの中こそが、いわゆる銀河中心部であり、巨大な
ブラック・ホールが回転している所である。電離ガスのリン
グは、そのシュバルツシルト半径(重力半径)によって形成
されているものだ。また、ブラック・ホールのシュバルツシ
ルト半径の内側では、計算上時間と空間が逆転し、重力波以
外のあらゆる事象の限界面となっている。この銀河中心部の
巨大ブラック・ホールは、太陽質量の数十万倍とも数百万倍
とも計算されている。
こうした嵐のような風景こそが、宇宙物理学的に見た、我
々の住む銀河系の姿である。しかし、この直径10万光年の
宙域に、1000億個の恒星を包み、その大小の重力にむし
ばまれた銀河系もまた、すさまじい速度で膨張しつつある、
大宇宙の一点でしかないわけである。
・・・しかし、と津田は、静かに心の中でつぶやいいた。
・・・このような宇宙を開闢(かいびゃく)したという事象は、
いったい何処にその必然性があったのだろうか?宇宙開闢
の、その底知れない意味の発現の源は、いったい何だったの
だろうか?また、今もこの宇宙を運行し続けている巨大な
力、この不可思議力は、いったい何処から、何のために溢れ
出しているのだろうか?およそ、現在の人間の知性など及び
もつかない、はるか遠い高次元の領域でのことなのだろう
が・・・
津田は、さらにファンの出力を上げた。ダクトの壁面か
ら、フウーッ、と乾燥した空気が音を立てて吹出した。津田
は、宙に漂っているタオルとヘアバンドをつかみ、くるりと
丸めてクリーニング・シューターに投込んだ。センサーが感
知し、一瞬シャッターが開閉した。
それから津田は、汗だくになっているトレーナーの方も脱
いだ。そして、クリーニングの終わって出てきている、一式
の白い標準サテライト・スーツに着替えた。津田の四肢は、
器械体操で、筋肉が硬くもりあがっている。一定量の運動
は、宇宙では重要な日課になっているからである。
津田は、まだ汗でしっとりとしている髪を、指ですきあげ
た。そうしながら、入口のシャッターの方へ向かって、ト
ン、と軽く壁を蹴った。体がふわりと流れていき、津田は素
早い手慣れた手つきで、シャッターの開閉ボタンを押した。
そして、そのまま間一髪で、トレーニング・ルームの外に流
れ出した。今日はうまくいった。これには、一通りのテクニ
ックが必要だった。スピードとシャッターの感度、腕の長
さ、スイッチの位置が関連するわけだが、チェック・ポイン
トは絶妙な壁の蹴り具合と、微妙な方向性にあった。
津田は、一人ほくそ笑み、外壁にトンと手をついた。それ
から、リード・ラインにある、リード・スティックを立て
た。そのスティックを片手でつかみ、それに引かれ、中央観
測モジュールの方へ向かった。
連結ユニットで結ばれた、暗い回廊の窓の外に、遠く“エ
リア・77”の一群の光が見えた。その中心近くの、特に濃
密に光の重なり合っている部分が、オリンポス・サテライト
の灯である。そこが、このL5ラグランジュ領域の、ほぼ中
心だった。また、火星基地や月基地などをも含めた、人口約
4000人に及ぶ、宇宙コンミューンの中心部でもある。
現在、そのオリンポス・サテライトをベースにして、“エ
リア・50”に恒久的な宇宙植民島の建設が進んでいる。す
でに83パーセントの完成であり、人工重力を作り出す内殻
の回転も始まっている。直径約500メートル、長さ約
1250メートルのチューブ型であり、二万人以上が生活可
能である。この、第一号宇宙植民島だけで、現在の全宇宙コ
ンミューンの、四、五倍の人口を収容するわけである。しか
も、地球上の都市と、同程度の生活環境を目指したものとい
われる。
しかし、この第一号の宇宙植民島も、あくまでも実験的な
ものでしかない。国連はすでに、つぎの実用植民段階の、数
十万人、数百万人規模のものの建設に着手している。そして
それには、この第一号宇宙植民島に収容される、新たな二万
人の宇宙人口が動員されるのだ。そして、チューブ型のもの
では、直径数キロメートル、長さ数十キロメートルというよ
うな、巨大宇宙植民島が、順次に大規模に建設されてゆくわ
けである。
地球の人口増加率は、しだいに鈍ってきているとはいえ、
今も指数関数的な増加が続いている。したがって、すでに資
源の枯渇し始めた地球を離れ、宇宙空間での完全な自給自足
がその目的である。
津田は、回廊が十字に交差している所で、リード・スティ
ックをゆっくりと倒した。そして、垂直方向に向かって軽く
床を蹴った。その正面が、中央観測モジュールの入口だっ
た。
津田は、壁にあるカプセル・ボタンを押した。すると、中
央観測モジュールのぶ厚いシャッターが、やわらかな音をた
てて二つに割れた。ここのシャッターは、まさに重装甲なみ
だった。
中は、光々と明るかった。この、直径18メートルあまり
の八角柱をしたモジュールが、このL5宇宙天文台では、最
大の作業空間である。これは、一時代前、核戦略体系がスペ
ース・ウォーに拡大しつつあった頃のことだが、その時代の
遺物だった。したがって、今も宇宙戦闘指令室の硬化装甲が
生きている。また、旧式ではあるが、サバイバル・システム
の幾つかは、今も使える状態にある。もっとも、L5宇宙天
文台の中央観測室として復活してからは、そうした独立シス
テムは、ほとんど無用の長物になっていた。戦闘システムや
防御システムの頭脳は撤去され、レール・ガンやレーザー・
ビーム・ガンは、幾つもの天体観測システムに取って代わら
れている。また、かって地球と人類を支配した、宇宙戦闘指
令コンピューターも、今はジョセフソン素子・知能回路型・
宇宙科学基地コンピューター“ミネルバF31”に、その座
をゆずっている。そして、こと安全性に関しては、そのセン
トラル・プロセッサ・システムをつかさどる“フローラ”
が、宇宙戦闘指令室の70倍の保障を彼等に与えている。む
ろん、これは、L5宇宙天文台の、システム全体としてであ
る。
津田が、中央観測室の中に入っても、誰も気づかなかっ
た。中が広いからだ。それに壁面や中空が、電子危機や観測
機材で、縦横に埋めつくされているからだろう。津田は、そ
の観測システムのモニターや、操作盤、メイン・コンピュー
ター等がぎっしり並んでいる中を、ゆるゆると漂った。この
ような無重力空間は、まるで深い滝壷の中を泳いでいるよう
だった。立体的であり、実際以上に深く感じられるのだ。
この中央観測モジュールでは、機器の規格化や、モジュー
ル化や、中央処理化は、相当に進んでいる方である。が、そ
れでも、こうした雑然とした感じになってしまうのは、最先
端技術がどんどん導入される、先端科学基地としての宿命と
いえた。もっとも、ここに魚のように住みついている四人の
観測員には、こうした所でも、まるで自分たちの淵の中を泳
いでいるようなものだった。小さなネジの一本、体積メモリ
ー・キューブの一個をなくした時でさえ、それが空気の還流
から、どこの隙間にひっかかり、どのあたりに流れついてい
るかさえ、全て知りつくしていた。
ところで、こうした最先端技術を結集したL5宇宙天文台
の観測任務は、非常に広範囲にわたっていた。が、それらは
全て自動化され、宇宙科学基地コンピューターの“フロー
ラ”が、一括管理していた。また、国際天文学会が、オリン
ポス・サテライトにスペースを確保したことにより、宇宙空
間の各観測拠点のデータは、すべてその宇宙天文台総本部で
集中処理するようになった。そのために、宇宙コンミューン
における実際の天文学活動の中心は、L5宇宙天文台から、
オリンポス・サテライトの方に移ってしまっていた。
したがって、現在、L5宇宙天文台の四人の観測員の主要
な仕事は、彼等自身の研究テーマにしぼられていた。つま
り、大型シュミット・カメラによる赤方変移の掃天観測と、
大型赤外線望遠鏡等による掃天観測の、総合的な宇宙論的解
析である。
それから、補助的な仕事として、“フローラ”によって動
かされている、宇宙天文台システムの監視があった。これ
は、いかに“フローラ”が優秀であるとはいえ、“フロー
ラ”は生命体ではないからである。つまり、故障やトラブル
の警告や応急処置はできても、それを根本的に自己修復する
能力はないからである。が、それ以外のことでは、“フロー
ラ”はめったに彼等を煩わせることはなかった。膨大な量の
観測データの方も、オリンポス・サテライトと地球の通信衛
星ネットワークに、彼女が自動的に送り出している。
津田の仲間の三人は、上の方の、Bブロックと呼ばれてい
る所にいた。地球上なら、ビルの五階あたりの壁面に、直角
に立っている格好だ。しかし、無重力空間では、自分の体の
向きを変えれば、壁は床にもなるわけである。
三人の仲間は、その八角柱の内壁の床の一つで、Sb型渦状
銀河の立体ホログラフィーを眺めていた。その立体ホログラ
フィーに、銀河回転と銀河団の回転を加え、さらに超銀河団
回転への流れをシミュレートしているのだ。つまり、宇宙に
おける物質の偏在と、銀河生成の課程を、最新の物理科学条
件下で探っているわけである。
天文台長のバン・ダイクは、津田と同じ白い標準サテライ
ト・ズボンをはいていた。が、上着の方は、アメリカの伝統
的なカウボーイのように、ラフなチェックのワークシャツで
ある。大男ではないが、肩が大きく、腕も太く、ころりとし
て肉づきが良かった。そして、頭は、愉快にツルリと禿げ上
がっていた。また、これはいかにも残念なことだったが、頬
と口のまわりの方は逆で、ちりちりとした褐色のヒゲが豊だ
った。それがトビ色のきれいな目と、バン・ダイクの陽気な
性格を、いっそう引き立てていた。しかし、バン・ダイクの
芯にあるものは、何といっても明晰な頭脳である。そして、
かっての西部開拓史時代を思わせるような、粗野で頑強で善
良な精神だった。
一方、ミッキー・コールダーは、ブロンドの髪のふさふさ
した好青年だった。二年前に、エール大学で修士課程を終了
している。それから、ふらふらと宇宙空間へ出てきたわけで
ある。オリンポス・サテライトから、このL5宇宙天文台へ
移ってきたのは、六ヶ月ほど前である。そのミッキーは、今
カリフォルニアで流行の、派手な絵柄の刺しゅうの入ったズ
ボンをはいていた。上は、洗いざらしの木綿のTシャツであ
る。
ただ一人の女性である、副天文台長のアイリーン・中原
は、ほっそりとしたきゃしゃな体をした女だった。そして、
その細身の体に、上下つなぎの女性用サテライト・ウエアー
を身につけていた。彼女お気に入りの、淡いスミレ色のもの
だ。そして、その細い腰に、濃いスミレ色のバンドをしめ、
バンドには、プラスチック製の白いポケット・ケースを二個
つけていた。
彼女は、年齢は津田よりは一つ若かった。が、すでに大学
時代から、幾つもの功績を上げている才女だった。いわば、
今世紀へ入ってからの、天文学会の逸材の一人である。した
がって、宇宙コンミューンにおいても、彼女は最もフリーな
身分を与えられている一人である。
津田は、白いサテライト・スーツの袖口のチャックを切っ
た。そしてその両腕を、肘の上まで押し上げた。
天文台長のバン・ダイクが、宙を漂っている津田を見上げ
た。
「おそかったな、」
「ええ、どんなデータが入ったんです?」
「例の、ペルセウス座超銀河団の、新しい解析データが送ら
れてきたのよ」アイリーン・中原が言った。
彼女は、細面の整った顔に、チタン・フレームの大きなト
ンボ眼鏡をかけていた。彼女は、両手を差し出し、宙を漂っ
てきた津田を引き下ろした。
津田は、彼女の力をかり、ふわりと足の方から降りた。そ
して、テーブル型スクリーンと、Sb型渦状銀河を映してい
る立体ホログラフィーの前の、マグネット・ラインの上に降
り立った。
「それに添付されてきたのが、実に面白い」バン・ダイク
は、ちりちりした褐色のヒゲの中に、白く透けた歯を見せて
笑った。「AURA(天文学研究大学連合)のラロッカの仮
説だよ。ラロッカを覚えているかね?」
「もちろんです」津田は言った。「なつかしい名前ですね
え」
「そうね、」アイリーン・中原が言った。
「じゃ、いいかい、アイリーン?スクリーンに切換えます
よ」コントロール・デスクに向かっている、ミッキー・コー
ルダーが言った。
「ええ、どうぞ、ミッキー。最初にもどして、」
「了解、」
ミッキーは、Sb型渦状銀河のシミュレーションをキープ
した。そして、テーブル型スクリーンの方の画像を回復し
た。
アイリーン・中原は、大きなトンボ眼鏡ごしに、知的な鋭
いまなざしを津田に送った。
「いいこと、真・・・このフィラメント型の超銀河団を形成
する銀河の一つ一つだけど・・・」彼女は、テーブル型スク
リーンの方に半歩あゆみ寄り、愛用の伸縮式の電磁ペンを引
き伸ばした。
「ああ・・・」津田も、テーブルの隅から、備え付けの電磁
ペンを抜き取った。
「この全体のフィラメント構造の軸と、一つ一つの銀河の自
転軸との関係に、奇妙な統一的なブレがあるのを見つけてい
るわ。これを、ある曲率の空間内で解析すると、120分の
1の精度が得られるのよ・・・」アイリーンは、引き伸ばし
た電磁ペンを、指先でクルリクルリと回した。
「それなら、クリコフが、」
「ええ、そうなの」アイリーンは、電磁ペンで、左手の掌を
たたいた。「けど、それが、デニングのモデルが使われてい
て、ラロッカ自身が計算した予測値と、ほとんど一致してい
るとしたら・・・これが、何を意味しているか、お分りで
しょうね、真?」
「ああ・・・うむ・・・うむ・・・デニングのモデル
ね・・・」
それから、津田は首をかしげた。バンとアイリーンを、交
互に見た。眉をつり上げ、手を振ってみせた。
「まさかな、」
が、バンもアイリーンも、真面目な顔をくずさなかった。
バンは、難しい顔をして、首を振った。
津田は、もう一度、素早くガイドラインを確認した。そし
て、やはり首を振った。
「いや、こんなことはあり得んな。我々の理論も計算も、完
璧だったはずだ」
「ええ、」アイリーンは、巻き上げた髪を電磁ペンでたた
き、ため息をついた。「とにかく、くわしく見ていただきた
いわ」
「よかろう。くわしく見よう」
「どうぞ、」アイリーンは、唇をすぼめて笑い、語尾のアク
セントを上げて言った。それから、なかば自嘲的な笑いをお
さえ、津田に目くばせしてみせた。
津田は、まだ汗で濡れている髪をなで下ろし、バンを眺め
た。津田はむろん、アイリーンの判断力というものを信用し
ていた。そして、その彼女がこういう態度をした時は、まず
勝ち目のないことも分っていた。もっとも、勝ち目がないの
は、アイリーンも含めた、彼等四人の仮説そのものだった。
「どうしたの、ミッキー?」アイリーンが言った。
「ええ・・・」ミッキーは、コントロール・デスクのモニタ
ーをのぞきながら言った。「大丈夫です・・・すぐ回復する
と思います・・・どうも、フレアー(太陽表面の爆発)のせ
いではないかと思うんですが、」
「そう、」アイリーンは、唇をひき結んだ。電磁ペンを、ピ
タリピタリと頬に当てた。 ところで、アイリーンの唇とい
うのは、全く奇妙だった。引き結んでいる時でも、笑ってい
る時でもそうだが、その薄い唇が分るか分らないかほど、か
すかに浮き上がるかよじれるかしているのだ。が、その微妙
なバランスのくずれが、彼女のしたたかさに加えて、謎めい
た魅力を作り出していた。
「かつごうってんじゃあるまいな、アイリーン?」
「まじめよ、」
バンは、パチッ、とスモーク・クリーナーのボタンを押し
た。その前で、葉巻に火をつけた。
「とにかく、角運動量は、ここでも基本的な問題だ・・・」
バンは、通りの良くない葉巻を、スパ、スパ、とやった。火
のついた、先の方を持ち上げて眺めた。「・・・質量とスピ
ンの問題では・・・量子力学の轍を踏まぬことだな、」
「じゃあ、スリー・コークの注文は、キャンセルにします
か?」津田は、笑って言った。
「でも、それだけの代償は、もう払っているわね」
「と言うと?」
「本当という意味よ」
「アイソスピンとオイラー系だ」バンが言った。「しかし、
むろん素粒子とは違うぞ。第一、因果律の衝撃の大きさが違
うからな」
「ええ・・・」津田は、うなづいて考えた。
アイリーンは、電磁ペンで髪を撫でながら、マグネット・
ラインの上をミッキーの方へ歩いて行った。彼女の、そのツ
ヤのある黒髪を巻き上げている頭の中は、まるで“フロー
ラ”の、超高速演算素子が詰っているようなものだった。彼
女と本気で議論を始めようものなら、数式やあらゆる抽象概
念を、まるでレーザー・ビームのように浴びせかけてくるの
だ。最近ではともかく、そうしたヒステリックな傾向は少な
くなったが、津田にしても、彼女とそうした議論をやり取り
するのはごめんだった。
やがて、再びスクリーンが回復した。津田は、天球上にお
ける新しいクェーサー地図や、統計図表をつぎつぎに見てい
った。それから、問題のラロッカの仮説をじっくりと見た。
「どう?」アイリーンが、微笑しながら言った。電磁ペン
を、カチリ、とトンボ眼鏡の縁に当てた。
アイリーンの直観力、抽象力、判断力の素晴らしさは、衆
人の認めるところだった。が、彼女には、ただ一つ、粘り強
さ、持続力に欠けるところがあった。もっとも、そのために
こそ、まるで性格も考えも異なる、津田と組んでいるわけだ
った。しかし、いかに持続力があろうとも、最初が間違って
いては、それはただの無駄骨折り以外の何者でもない。した
がって、優れた直観力と持続力の統合こそが、新しい研究成
果を切り開いていくわけである。
津田は、愉快だが、少々癇癪もちのトンボ眼鏡の女から、
目をそらした。そして、ようやく汗の乾いてきた髪をかき上
げ、頭の中で、ラロッカの仮説の抽象風景を見つめていた。
バンは、ひとり葉巻を吹かしている。
アイリーンは、トンボ眼鏡のレンズの奥で、まばたきし
た。そして、楽しうに唇をすぼめ、津田が何か言い出すのを
待っている。
「アイリーン・・・アインシュタインは、こう言っていた
な、」
「ン?」アイリーンは、優しくアゴを動かした。
「自然というのは、単純であり、美しく調和のとれたものだ
と、」
「ええ・・・」彼女は、目顔でうなずいた。トンボ眼鏡の奥
の知的なまなざしが、津田のかすかな表情を見つめた。「そ
れで?」
「だとすれば、これはどこかしっくりしないな、」
アイリーンは、電磁ペンを持った手を唇に当て、深く考え
込んだ。
「ただ、何かと言われると、説明できないんだが・・・」
「うむ。わしもそう思った、」バンが、葉巻をスモーク・ク
リーナーの上から取り上げて言った。「方向としては、いい
のかも知れんが、」
「そうかしら・・・」アイリーンは、電磁ペンを立てて唇に
当て、一心に宙空を見つめた。
「ま、いずれにしてもだ、」バンは、そう言って、葉巻をヒ
ゲでおおわれた口にくわえた。葉巻の先からもれる紫煙が、
下のスモーク・クリーナーの方へ、糸を引いて流れていく。
「さらに詳しいデータが必要だな、」
「これはもう、精度としては十分すぎると思うわ、バン」
「だったら、ローレンツ変換が必要だ。違う座標から証明す
る必要があるな」
「分ったわ、バン」アイリーンは、唇をなめた。そして、そ
の唇を引き結び、銀白色の伸縮式電磁ペンを縮めた。それ
を、腰のポケット・ケースの穴にさした。「それじゃあ、後
で議論しましょう、真」
「何でだい?」
「あら、そうじゃなくて、真?」アイリーンは、けげんな顔
をして見せた。
「おれを、いじめるつもりかい?」
「まさか、わたしが、真を?」
バンは、にやにや笑って、ヒゲをなで回した。
「ハッ、ハッ、ハッ、」ミッキーが、コントロール・デスク
を離れながら笑った。「怒らせましたね、アイリーンを」
「坊やは黙ってらっしゃい!」
「アイリーン、怒らせたのは、バンの方だろう?」
「バカね、何を言ってるの。わたしは、このことについて、
真と議論がしたいだけよ」
アイリーンは、津田の肩に優しく手をかけた。そして、結
局は、楽しみは後に残しておくことに決め、ふわりとマグネ
ット・ラインから宙に浮き上がった。それから、鼻歌をうた
いながら、ドルフィン・キックで、X線望遠鏡の観測データ
を集計している方へ泳いで行った。
「しかし、真、」ミッキーが言った。「空間に、エントロピ
ーが蓄積していく速度は、星や銀河の進化によって決まって
いくわけでしょう。だったら、それがどうしてデニングのモ
デルになるんですか?」
「ああ・・・」
津田は、髪を指ですき上げながら、ミッキーから電磁ペン
を取った。そしてテーブル型スクリーンの隅に、全系のエン
トロピー増加をあらわす式を二本書いた。電磁ペンをミッキ
ーに返した。
「ラロッカは、」津田は、バンの方に言った。「今どこに居
るんですか?」
「シドニーだよ。海水浴でも楽しんでるだろう」
「また、みんなで、オーストラリアへ行きたいですね」
「うむ・・・今度は、いつ行けるか、」
「ところで、真」ミッキーが、スクリーンから顔を上げて言
った。「いい話があるんですよ」
「ほう、いい話か。アイリーンが、少し太ったとでも言うの
かい」
「そんなんじゃあないですよ」ミッキーは、首を振って、し
なやかなブロンドの髪を揺らした。そして、くったくのない
若者らしい笑いを浮かべた。「いいですか、真、オリンポ
ス・サテライトに、スーパー・スターが来るんですよ」
「女か?」
ミッキーは、がっかりしたように首を振った。
「宇宙コンミューンには、野郎は腐るほどいますよ」
「誰から聞いた?」
「イワノフさ、」バンが、手を振って言った。
ミッキーは、トン、とマグネット・ラインを蹴った。ふわ
りと宙へ浮び上がりながら、津田に対して、空手の蹴りの遊
戯をやった。
「若い娘だってことは、間違いないですね。名前は、トッ
プ・シークレットだそうですが、」
津田は、ミッキーが再び蹴り出してきた足首をつかみ、グ
イと捻りながら、上へ押し上げた。
「イワノフだって、名前など知りゃせんのさ」バンが言っ
た。
「同感ですね」ミッキーが、上の方から泳いでもどってき
た。「しかし、オリンポスじゃ、誰が最初にモノにするか
で、大騒ぎになってますよ」
ミッキーの後の方から、アイリーンが慣性でゆるゆると降
りてきた。
「賭けも始まってますね。中には、もともと親しいやつが居
るとかで、大変な騒ぎですよ。それで、新しいルールを作る
とか作らないとか、」
「あらあら、」アイリーンが、最後に軽く手首をパタパタさ
せながら言った。「また、あのジェニー・ミルトンの時のよ
うなバカ騒ぎになるのかしら、」
「しかし、アイリーン、」ミッキーは、体をしなやかに回転
させながら言った。「ジェニーは、あのサテライト・アワー
でカムバックしたんですよ」
「そんなの、バカげてるわ」
「まあ、おれはアイリーンひとりでいいさ」津田は言った。
「ありがとう、真」アイリーンは、津田の差し出した手につ
かまり、それから頬に接吻した。そして、床のマグネット・
ラインの上に、ふわりと降り立った。
「もう、卒業ですか、真?」
「ああ。あんなバカ騒ぎは、もうごめんだ」
「しかし、」バンが、ポケットに手を突っ込みながら、重い
口調で言った。「また、あんなバカ騒ぎをやらかすとなる
と、問題だぞ。今度は、宇宙コンミューンのモラルが疑われ
る」
「じゃあ、地球はどうなんです?もっとひどいですよ、バ
ン。それに、あれはジェニーだって面白がってたんですよ。
その限りでは、いいんじゃないですかね。いやなら、来なけ
りゃいいんだし、」
「それは違うわよ、ミッキー。宇宙コンミューンは、地球と
は違うのよ。そりゃあ、人間には、地球の方が住み良いに決
まってるわね。だけど、宇宙コンミューンは、人類の希望の
社会なのよ。確かに、静的な停滞した管理社会にならないた
めの、自由の原理は必要だと思うわ。だけど、それは無責任
ということではないはずよ」
「そうだぞ、」バンも、重々しく言った。「宇宙は、確かに
生命が希薄だ。それに、あらゆる意味で、過酷な世界だ。本
来、人間の住める世界ではない。だからこそ、甘えではな
く、規律と団結が必要なんだ。そして、あらゆる生命現象に
対して、厳粛でなければならん。主義主張が違うというだけ
で、殺しあったり、乱ちきパーティーをやったり、平気で肉
を食ったりするのは、どこかのいかれた連中に任せておけば
いいんだ」
「しかし、オリンポス・サテライトの連中は、やめやしませ
んね」
「そうねえ・・・困った人たちね」
「まあ、みんなで、何とかやめさせよう」
「さあ、真、」アイリーンが言った。「検出装置のCCD
(電荷結合素子)を交換してもらう約束でしたわね」
「ああ、」
津田は、頭上の方の、ハニカム・ボードの作業フロアーを
見た。その、フロアーを透かした向こうの、通信回線の大型
液晶スクリーンを眺めた。
大型スクリーンは、今はただ青い海洋と、白い雲を映して
いた。ここでは、地球標準時刻を使っているわけだが、スク
リーン下のデジタル表示では、10時30分を示している。
その標準時刻と並んで、地球上の各主要都市の時刻も出てい
る。東京は、今は夢見の時刻のようだった。
「ミッキー、工具はどこにある?」
「E−25です。そこのマグネット・ラインに留めてありま
す」
「うむ」
「交換の、CCDも一緒にそろえてありますから、」
「分った」
津田は、透明プラスチック製の自分の小物入れの引出しか
ら、黄色のリスト・バンドを一組取り出した。それを、両手
首にはめた。
「それで・・・アイリーン、いったいどうしたっていうんだ
い?」
「感度の上限が、微妙に揺れるのよ。ミッキーがさっき、ス
クリーンの調整に手間取ったわね。あれも、同じ原因だと思
うの」
「うむ・・・妙な兆候がありますね、バン、」
「そうだな、」バンは、褐色の豊なヒゲをしごいた。
「ミッキー、“フローラ”は何と言ってるんだ?」
「“フローラ”の方も、現在分析中です。今のところ、
CCDを指示しているだけです」
「じゃあ、CCDをチェックしてみるか」
「ホコリでも入ったのかしら、」
「まさかな。一個や二個のCCDの問題ではあるまい。もっ
とも、いつも問題を起こすやつは、分ってるがな」
「ええ。あの、イタズラ坊主の七番ヘッドね」
「ああ。ダダをこね始めるのは、まずやっこさんからだ」
「そうね、」
「おい、たのむぞ」バンが、手を振った。
二人は、反射望遠鏡システムの、軸方向観測装置の方へ泳
いだ。この本体は、中央観測モジュールの外側の、暴露テラ
スにある。主鏡は3.2メートルであり、カセグレン式リッ
チー・クレチャン型の、“ハッブル”を踏襲している。
宇宙空間には現在、主鏡3メートル以上の光学望遠鏡は、
四基が稼働状態にある。この、L5宇宙天文台の“アンドロ
メダ”は、それらの中では一番古いものだった。しかし、溶
融シリカ・ガラスで作られた主鏡の鏡面精度(鏡面の凹凸)
は、10ナノ・メートル以下という脅威的なものである。し
たがって、システム的には劣るとはいえ、宇宙の時空間を見
るという基本目的においては、決して他に劣るものではなか
った。もっとも、この“アンドロメダ”も、二、三年後には
退役になる。そして、初めて宇宙空間で制作される超大型主
鏡“ギャラクシイ−1”システムにとってかわられる。
結局、津田とアイリーンは、七番のCCDカメラ・ヘッド
をそっくり交換した。先々のことを考えれば、これが最良の
方法と判断したからである。
「姿勢制御システムの入射光の方だけど・・・」アイリーン
が言った。腰バンドのポケット・ケースに、メモリー・カー
ドを差込んだ。
「そいつは、今は無理だろう・・・」津田は、アダプター・
スクリーンで、画像の百万分の一の微調整をしながら言っ
た。「セイファート銀河のプログラムを、全部いじくること
になる・・・」
「ええ・・・」
津田は、ゆっくりと振返って、後にいるアイリーンを眺め
た。
「不満なのか?」
「ええ・・・」アイリーンは、首を横に振った。「私にとっ
てはね、」
「しょうがあるまい。ミッキーは、何と言ったんだ?」
「お手上げらしいけど、」アイリーンは、引き伸ばした電磁
ペンで、ピシッ、と太腿をたたいた。彼女の気持ちは、はっ
きりとしていた。
「しかし、無理だ」津田は、微調整のスクリーンを見つめな
がら言った。「これまでどおり、“フローラ”にホローさせ
よう」
「でも、セイファート・プログラムに、“フローラ”の5分
の1を持っていかれるのは痛いわ」
津田は、それには答えなかった。そして、高分解能分光器
の方を、モニター・スクリーンに映し出した。感度の揺れ
は、まだ完全に除去されてはいなかった。が、これは、全宇
宙コンミューンに押し広げ、再調査が始まるだろうと思っ
た。
「どうかしら?」アイリーンが、津田をうながした。
「ああ・・・まあ、ミッキーがそのうちに、セクション・7
のスプレット・シートを、独立処理に持込むそうだ」
「そう・・・それで、5パーセントは浮くかしら、」
「まあ、そんなとこだな」
「差引、15パーセントね。その状態で、“フローラ”が二
週間持ちこたえてくれればいいんだけど、」
「まあ、その時は、その時さ・・・」津田は、アダプターの
モニター・スクリーンを見つめながら、全神経を集中してキ
イをたたきこんでいった。
アイリーンも、黙ってそれを見つめていた。
「いざとなったら、」津田は、手を休めて言った。モニタ
ー・スクリーンの様子を、ジッと見守った。「オリンポス
の、計算センターへ泣きつくまでさ」
「真の、そういうところが分らないわ」アイリーンは、津田
の背中を、電磁ペンの鋭い先の方でつついた。
彼女は、ハイスクール時代に友人に誘われ、一年間ほどフ
ェンシングをやったことがあった。それで、やたらと電磁ペ
ンを振り回し、人を叩いたり突いたりするのが困りものだっ
た。
「どうしてだ?」津田は、まだ彼の背中に電磁ペンを突き立
てている、アイリーンを振返った。
「かなり・・・いえ、十分に、無責任ね」
「じゃあ、何ができる?わめき散らせとでも言うのかい?」
「そりゃあ、そうだけど、」アイリーンは、ソッポを向い
た。
「ふん、」津田も、後手に手を振った。「我々が、片肘を張
ることもあるまい。宇宙は、逃げて行きゃあしないさ。え
え、そうじゃないかい、アイリーン女史?」
「まあ、真たら!」
津田は、アイリーンに背中を向け、唇をなめてほくそ笑ん
だ。
「もう!真は、何もかもが、マンガのようでないと気がすま
ないのね!」
「聞き捨てならんな。マンガとは、どういう意味だい?」
「ふん!マンガのディスクばかり集めているということよ!
単純で、中身が無いという意味ね!お分りかしら!」
津田は、アイリーンは無視することにした。こういう時
は、黙っているのが一番だった。津田は、モニター・スクリ
ーンの微調整の方にもどり、妥協点を見つけ、それを固定し
た。それから、アダプターを外した。そして、介入していた
“アンドロメダ”の電子回路の一部も、再び“フローラ”に
返した。
その時、中央観測モジュールの窓が、サーッ、とほの白く
輝いた。太陽発電パネルや、まわりのモジュールが、何かの
強烈な光を受けたのだ。太陽の可視光や、集光ミラーでもな
かった。全然別の角度から来た、もっと柔らかな光だった。
「何かしら?」
「分らんな、」
「何か、爆発があったのかしら?」
「うむ・・・」
津田は、CCDのラジエーター・カバーを、ドン、と強く
蹴った。そして、両手を差し出し、全身で窓のあるJ−8の
方へ飛んだ。作業フロアーの向こうの通信回線から、ザザザ
ーッ、とすさまじいノイズが流れ出している。大型液晶スク
リーンも、波が走って、まったく画像がかき消されてしまっ
ている。
「“フローラ”!」Bブロックに浮かんでいる、バンが叫ん
だ。「いったい、何があった?」
「‘分りません’」女性の声を模した、“フローラ”の美し
い金属音声が響いた。「‘現在、分析中です。L5ラグラン
ジュ領域内ではありません’」
津田は、かっての宇宙戦闘指令室の装甲窓の一つに取りつ
き、外を見回した。イカダのように連結された、L5宇宙天
文台の陰の部分が、淡い光にゆらゆらと照り輝いている。津
田は、また強く壁を蹴り、Aブロックの方へ飛んだ。30メ
ートルほどの無重力空間を、斜に勢いよく流れて行く。ふだ
んはやらない、荒っぽい行為だ。
「フレアー(太陽表面の爆発)が、同調しているようで
す!」ミッキーが、Aブロックの“フローラ”の監視モニタ
ーをのぞきながら叫んだ。
「本当か?」バンが、聞き返した。
「まさか、とは思いますが・・・」
「どういうことだ!」
中央観測モジュールの中の四人に、一瞬、ギラリと、かた
い緊迫感が流れた。
「太陽の変調か?」息詰まる緊迫感を押し、津田が口を開い
た。
「それとも、スーパー・ノバ(超新星)かしら?どこか、近
くの、」アイリーンが、ようやくAブロックにたどり着きな
がら言った。
「真!」バンが叫んだ。「27番の、広角惑星カメラはフリ
ーだったな?」
「ええ。フリーです」
「よーし、ミッキー!27番をたのむ!」
「了解!」
ミッキーは、キーボードから“フローラ”に指示し、27
番を回復した。“フローラ”は、すぐにその広角惑星望遠鏡
のカバー領域を、拡大モニター・スクリーンの天球上に映し
出した。
「オリオンの方かな、」津田は、スクリーンを見ながら言っ
た。「近くでスーパー・ノバがあると、太陽系もかぶるな、
」
「そうね・・・でも、大丈夫のようだけど・・・ミッキー、
火星のあたりに合せてみて、」
「了解」
「火星か・・・まさかな、」
「ええ、」アイリーンは、津田のかたにつかまり、うなずい
た。
スクリーンが、一瞬、白くなった。“フローラ”が、それ
をしぼり込んで、消していった。やがて、正体不明のノイズ
の方も消し、広角惑星望遠鏡の中心に、そのエネルギー源を
補足した。やはり、こうした時の抽象判断能力は、“フロー
ラ”よりも人間の頭脳の方が数段上だった。これも、いわゆ
る“人間原理”からくる、直観力というものだろう。
「このノイズは、何ですかね?」ミッキーが、肩越しに津田
を振返って聞いた。「核パルスですか?」
「うむ、EMP(電磁波パルス)の影響に似ているようだ
な・・・」津田は言った。「昔、先制核攻撃のシミュレーシ
ョンで見たことがある」
「しかし、ここはL5だ」バンが言った。「いったい、何だ
ろう?」
「この座標で、なんらかの形で、巨大な核爆発があったのか
も知れません」
「真!“ベガ”(大型赤外線望遠鏡)が異常を示していま
す!」
「うむ。分った」
光源は、さらに数分し、霧のように薄れて消えた。あとは
また、果てしない広大な星の世界が広がっているばかりだっ
た。
津田は、その光源の消えたスクリーンを、じっと見続けて
いた。今は、“フローラ”のマーカーと、その座標のデータ
だけが映し出されている。深度も、ちょうどアステロイド・
ベルト(小惑星帯)あたりを示している。しかし、スクリー
ンの可視光は消えたが、L5のあらゆる電磁波レベルのモニ
ターが、まだ嵐のように乱れ狂っていた。
・・・忽然と現れた火の玉、か・・・津田は、いつものよ
うに心の中でつぶやいた。
・・・一体なんだったのだろう・・・
・・・その光の、生と滅の姿・・・
・・・複雑な波動関数の上を瞬時に流れた、光円錐とエネ
ルギーの相関・・・
・・・その人間的意味・・・
・・・さらに、その“シンボル”と“意味”を構成する背
景座標の、またそのさらなる意味の流れ・・・
・・・こうした根源的な“意味の世界”を、人間は、いつ
かは解明することができるのだろうか・・・
・・・あるいは、すでに因果律の破れた世界観に、意味の
根源などがあるのだろうか・・・
しばらくして、ミッキーが、“フローラ”の割出したエネ
ルギー源の正確な立体座標を、天球座標上に表示した。ま
ず、エネルギー源は、太陽系の内部であることがはっきりし
た。方位は、現在の火星位置の左約11度29分03秒。深
度は、ずばりアステロイド・ベルトだ。が、いずれにして
も、現在の地球と火星の位置から、相当の深度があった。つ
まり、そのエネルギーは膨大なものだということだ。
一時間後、オリンポス・サテライトから、詳しい分析デー
タが続々と入ってきた。エネルギーやスペクトルの分析に関
しては、“フローラ”の分析と一致している。
したがって、最初から目をひいたのは、ニュートリノ(中
性微子)と、グラビトン(重力子)の項目だった。これらの
粒子は、いずれも物質貫通力がきわめて高いという特徴を持
っている。そのため、宇宙物理学の分野でも、最近ようやく
初歩的な観測体勢がスタートしたばかりである。
この、アステロイド・ベルトのエネルギー源に関しては、
問題はグラビトン(重力子)、つまり重力波(量子力学にお
ける、粒子の波としての側面。重力子と重力波は、同一のも
のの二つの側面を示す)の方だった。金属棒を使った極低温
重力波アンテナや、現在“エリア・82”に建設途上の“エ
クスカリバー”重力波レーザー・アンテナのデータも入って
きている。が、結論から言えば、問題のアステロイド方向に
は、急激な重力的変動は観測されていなかった。また、それ
らしい重力波の独特の波紋も見つかっていない。つまり、そ
の座標では、大きな質量の変動はなかったということであ
る。このことは、逆に推論すれば、これは核爆弾のような爆
発物と考えるのが妥当ということではあるまいか。それも、
人類がこれまでに作り出してきたようなレベルの比ではな
い。スーパー・ノバ(超新星)や太陽とは比較にならない
が、天文学レベルのものである。
いずれにしても、エネルギーとしては、ケタはずれであ
る。仮に、核融合エネルギーだとしても、これまで人類が扱
ってきたものの、推定1万倍から100万倍以上のものだろ
う。さらに、もしそうしたものだとすれば、誰が、何のため
に引き起こしたかということが問題である。
バンとアイリーンは、重力波に関して、突っ込んだ議論を
始めていた。
キッキーは、オリンポス・サテライトとの情報交換に集中
している。
そして、津田は、自分の考えにふけっていた。が、ふと、
ぼんやりと宙に浮き上がった。そして、脚を組み上げ、無重
力空間で座禅を組んで漂った。J−7の窓から、砂をふりま
いたような、まばゆい銀河の輝きが見えた。
あのアステロイドで、何かとほうもない技術革新が試され
たのだろうか、と津田は思った。科学技術は、しばしば大き
く飛躍する時がある。蒸気機関の発明、電灯の発明、飛行機
の発明、みなそうだった。また、戦場における原子爆弾やミ
サイルの登場でさえも、それ以後の世界秩序を一変させてし
まったものだ。
そうした、発見、発明、技術革新という幾多の急流は、や
がて本流の谷川に集まる。そして、そうした谷川がさらに集
まって、大河となっていく。それが、何十万年、何百万年と
う、時空の熟成を必要とするかもしれないが、大河はやがて
緩やかに、“豊饒の海”へと流れ込んでいくのだろう。むろ
ん谷川も、物理科学の谷川ばかりではあるまい。社会科学、
宗教、哲学、芸術、そうした全てが作り出す、文明というも
のの全ての歴史の流れが、究極の“豊饒の海”へと熟成して
いくのだろう・・・
そうした、人間の“知性”の生み出してきたあらゆるもの
が、その“知性”の所産のゆえに、“豊饒の海”へと熟成し
ていくわけである。が、はたして、その“豊饒の海”では、
人類は、因果律や二律背反という“ゆらぎ”から発生したこ
の世界の、根源的な矛盾を超越して存在しているのだろう
か。それとも、我々地球人類、ホモ・サピエンスの文明史
は、知的生命としての“超越”に失敗し、早々に滅び去って
いくのだろうか・・・
「どうだね、真、これは人為的なものと思うかね?」バン
が、津田の方に声をかけた。
「そう思いますね・・・しかし、純粋に人為的なものとも思
えない。太陽磁場の巨大な変調のような、我々の知らない何
かが・・・」
「わしには考えられんな。この宇宙には、我々の知らんこと
はまだ山ほどある。神がいるかどうかさえ、我々には分らん
のだ」バンは、禿げ頭をなでまわした。
アイリーンは、みんなに背を向けて電磁ペンを脇にはさ
み、一人で考え込んでいた。
「しかし、バン、ビッグ・プロジェクトとばかりは限らんで
すよ。これは、状況から考えても、もっと簡単にやってのけ
たような気がしますね」
「というと、」
「たとえば、触媒です。モノポール(磁気単極子。素粒子論
で想定する、磁石のS・N極の一方の極のみを持つ素粒子)
を使えば、理論的には、陽子崩壊は簡単に起こり得るわけで
す。もし、この技術に成功したとしたら、核融合エネルギー
などは比較にならんでしょう」
「そのモノポールが、アステロイドで採掘できたとうわけか
ね?」
「あるいは・・・もっとも、そうだとすれば、その意義は計
り知れませんが」
「うーむ・・・ありうるかね、そんなことが、」
「それとも、重力波工学の連中かも知れません。重力波工学
が、実際どんなことができる段階なのか、これも分りません
が、」
「うーむ・・・ま、反陽子リングにしても、まだあの状態だ
ぞ、」
「バン!」“フローラ”の情報を追っていたミッキーが、手
を上げた。「オリンポス・サテライトに、妙な動きがありま
す。東、西、南の、各軍事ブロック代表が、活発に動き始め
ているようです。地球との暗号による通信量も、急増してい
ます。この事件で、宇宙コンミューンを牽制している模様で
す」
「まさか・・・これが、宇宙コンミューンの仕業だというの
か!」
「とにかく、ニック・ハリソンが、警戒を発してます。L5
宇宙天文台は、位置的に重要だと言ってきています。ここ
は、収容能力も高いと、」
「何てことだ!」バンは、両手を振り上げた。「我々は、天
文学をやってるんだ!」
津田は、素早く、その背後で動いている、戦略、戦術を考
察してみた。
「ええと、それから・・・」ミッキーが、言葉を捜しながら
続けた。「“フローラ”の探知したところでは、特に南部連
合軍ですね。彼等が、この騒ぎを引っ張っているようです。
いつの間にか、南部連合軍は、“エリア・77”に相当深く
くい込んでいるようです。もっとも、国連宇宙情報部の方
も、それは察知していたようです。だいぶ以前から、防戦に
出ていた形跡があるそうです」
「ふーむ、どういうことか・・・」バンが、津田を眺めた。
「このアステロイドの爆発も、そのラインにあるというわけ
ね」アイリーンが、口を開いた。
「それも、今のところ、はっきりとは分りません」ミッキー
が言った。「もっとも、このまま推移すれば、宇宙では完全
に国連の主導権が確立します」
「困ったことだ」バンが、腕組みをして言った。「我々は、
人類のユートピアを建設しようとしているのにな、」
「いつの時代もそうね」アイリーンが、チタン・フレームの
トンボ眼鏡に手をかけて言った。「人類はもう、何度もこう
したことを繰り返しているのに、宇宙でもまだやるのかし
ら・・・」
「遊び場を見つけたわけか、」バンが、まばたきし、額に手
を当てた。
この種の問題は、国連総会でも、国連宇宙開発委員会で
も、すでに長年討議が重ねられてきたことだった。つまり、
宇宙空間における、全体的な社会形態の在り方の問題であ
る。そして、その成果は、宇宙憲章の中に結晶化していた。
しかし、長い歴史的背景から、対立は依然根深く残っていた
わけである。こうした軍事勢力の介入は、旧時代のしがらみ
を、いまさらながらに力で解決しようというものだった。そ
して、宇宙の主導権を、かってのように軍で掌握しようとし
ているのだ。が、それでは、地球に発生した知的生命として
の“超越”の芽が、失われてしまうことになる。この超越の
領域における宇宙社会では、文明形態も一段高いステージへ
変容していかなければならないのだ。そうでなければ、単な
る歴史の延長になり、抗争と戦争の繰り返しになってしま
う。
この地球生命圏のDNA世界に、最後にホモ・サピエンス
が書き加えられたのは、つい数百万年前のことである。ま
た、それが言語と道具を用い、火をあやつり、文明を築き上
げたのは、わずか数千年前。また、最初に地球の引力加速度
を越えて、まだ一世紀にも満たない。つまり、我々ホモ・サ
ピエンスは、きわめて特異な存在と言えるだろう。しかも文
明は、ますます加速度を増し、拡大しつつある。この文明が
どこへ向かっているにしても、我々の一挙手一投足、一分一
秒が、貴重な文明史そのものとして記述されていくだろう。
加速度が増せば、ますますその舵は重く、難しくなり、失敗
は許されないものになる。
「さあ、ミッキー!」アイリーンが、大声で言った。「三次
元ホログラフィーのシミュレーションにもどるわよ」
「は!」ミッキーは、挙手を切って見せた。そして、マグネ
ット・ラインを蹴り、マニュピレーター付の誘導チェアーの
方へ泳いだ。