文芸/俳句コーナー/与謝蕪村・選集 |
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トップページ/Hot Spot/Menu/最新のアップロード/ 選者: 星野 支折 |
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俳人であると同時に優れた画家でもあった蕪村は、絵画的で光に満ちた発句を
数多く書き残し、鮮明なイメージを言語によって喚起することに成功した。
蕪村の発句は芭蕉と異なり、思想性が表面に出ることはなく、派手な身振りを示
すこともない。しかしその言葉遣いは他に例を見ないほど洗練されており、彼は穏
やかな情景をわずかに描写するだけで、景色の背後に広がる永遠の時間を感じ
させるという、天才的な言語感覚を発揮した。
蕪村の発句は描写的であるが、句の風景はリアルというよりも理想化されたも
になっている。それは彼が景色の表面ではなく、内面にある理想像を描こうとして
いることによると思われる。
言語の機能美を余すところなく活用した蕪村の発句は、多くの詩人を魅了し、近
代俳句に大きな影響を与えた。蕪村の発句は日本語の機能に依存する度合いが
きわめて大きいため、外国語への翻訳は困難である。 |
宝暦1(1751)年,36歳のとき上京、その後丹後や讃岐に数年ずつ客遊するが、京 都を定住の地と定めてこの地で没した。この間、明和7(1770)年,55歳のときには巴 人の後継者に押されて夜半亭2世を継いだが、画業においても,53歳のときには 『平安人物志』の画家の部に登録されており,画俳いずれにおいても当時一流の存 在であった。
敵手)と述べている通り、早くから文人画の大家として大雅と並び称せられてい た。
趣味や教養を同じくする者同士の遊びに終始した。死後は松尾芭蕉碑のある金 福寺に葬るように遺言したほど芭蕉を慕ったが、生き方にならおうとはしなかっ
た。 芝居好きで、役者や作者とも個人的な付き合いがあり、自宅でこっそりと役者の 真似をして楽しんでいたという逸話もある。
なき風流、老の面目をうしなひ申候」とみずから記している。
も京都移住後、故郷に帰った形跡はない。
20歳の頃江戸に下り早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。 その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。
45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語である『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。
蕪村に影響された俳人は多いが特に正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことは良く知られ、『俳人蕪村』(現在は講談社文芸文庫)がある。旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。
1716年
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<3> 涼しさや鐘をはなるるかねの声 早朝の涼しさの中、鐘の音が響いている。一つまた一つと鐘をつくたびに、その音は遠くへ離れていくようで、何ともさわやかだ。〔季語〕涼し |
<2> 石工(いしきり)の鑿(のみ)冷したる清水(しみず)かな 夏の日盛りの石切り場。人夫の使うのみも熱くなってきたのか、傍らの清水にずぶりと浸けた。〔季語〕清水 |
<2> 鮎(あゆ)くれてよらで過ぎ行く夜半(よは)の門 夜半に門をたたく音に出てみると、釣りの帰りの友が鮎を届けてくれ、寄っていけというのに、そのまま立ち去ってしまった。厚い友情を感じつつも、私は門のそばに立ち尽くすのみであった。〔季語〕鮎 |
<2> みじか夜や毛虫の上に露(つゆ)の玉 夏の短い夜が明けた頃、庭先では、毛虫の毛の上に露の玉がきらきら輝いている。〔季語〕みじか夜 |
ほととぎす平安城を筋違(すぢかひ)に ほととぎすが鋭い声で鳴きながら、平安京を斜め一直線に飛んでいった。〔季語〕ほととぎす |
燭(しょく)の火を燭にうつすや春の夕(ゆふ) 春の日の夕暮れ。燭台から燭台へと灯りをうつしていく。明るくなった室内もまた春らしくのどかであることだ。〔季語〕春の夕 |
春の海ひねもすのたりのたりかな のどかな春の海。一日中、のたりのたりと波打っているばかりだよ。〔季語〕春の海 |
春雨にぬれつつ屋根の手毬(てまり)かな 女の子たちの遊んでいる声が聞こえなくなったと思ったら、いつの間にか春雨がしとしとと降っている。屋根の上には、引っかかった手まりが濡れている。〔季語〕春雨 |
春の夕(ゆふべ)絶えなむとする香(かう)をつぐ 夕闇が迫ってきた。清涼殿では、女房たちが、絶えようとする香をついでいる。何とも優艶な風情であるよ。〔季語〕春の夕 |
滝口に灯(ひ)を呼ぶ声や春の雨 春雨が降りしきり、辺りがひっそりと暗くなってきた。そんな中、滝口には、禁中警護の武士たちが灯を求める声が響いている。〔季語〕春の雨 |
釣鐘(つりがね)にとまりてねむる胡蝶(こてふ)かな 物々しく大きな釣鐘に、小さな蝶々がとまって眠っている。何とも可憐な姿だよ。〔季語〕胡蝶 |
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文芸/俳句コーナー/与謝蕪村・選集 |
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トップページ/Hot Spot/Menu/最新のアップロード/ 選者: 星野 支折 |
プロローグ | = 選者の言葉
=
(1) <蕪村の句の選集に当たって> 江戸中期の・・・俳人/画家 |
2011. 5.14 |
No.1 | 夏川をこすうれしさよ手にぞうり | 2011. 5.14 |
No.2 | 五月雨や大河を前に家二軒 | 2011. 5.14 |
No.3 | 石工の鑿冷したる清水かな | 2011. 5.14 |
No.4 | 滝口に灯を呼ぶ声や春の雨 | 2011. 5.14 |
選者の言葉 | = 選者の言葉 = (2) 蕪村/邪気のないスケッチ | 2011. 6.10 |
No.5 | 涼しさや鐘をはなるるかねの声 | 2011. 6.10 |
No.6 | 夕風や水青鷺の脛をうつ | 2011. 6.10 |
No.7 | 不二ひとつうづみ残して若葉かな | 2011. 6.10 |
No.8 | みじか夜や毛虫の上に露の玉 | 2011. 6.10 |
No.9 | ほととぎす平安城を筋違に | 2011. 6.10 |
2011. 6. | ||
No.10 |
春の海 ひねもすのたりのたりかな |
2011. 6. |
No.11 | 春の暮 家路に遠き人ばかり | 2011. 6. |
No.12 | 菜の花や月は東に日は西に | 2011. 6. |
No.13 | さみだれの 大井越たるかしこさよ | 2011. 6. |
No.14 | さみだれや 名もなき川のおそろしき | 2011. 6. |
No.15 | さつき雨 田毎の闇となりにけり | 2011. 6. |
No.16 | 雲の峰に 肘する酒呑童子かな | 2011. 6. |
No.17 | 曠野行く 身にちかづくや雲の峰 | 2011. 6. |
プロローグ 蕪村の句の選集に当たって
「支折です! 今回は、小林一茶、松尾芭蕉に続いて...3人目の与謝蕪村(1716 〜 1783年) の登場です。一茶、芭蕉の句の考察は少し間をおいて、さらに俳句の視野を広げ てみたいと思います。 蕪村(ぶそん)は...江戸中期/享保元年(1716年)...八代将軍/徳川吉宗が 将軍に就任した年に...摂津国(せっつのくに/大阪市)/東成郡(ひがしなりごおり)/毛馬 村(けまむら)で誕生しています。 “江戸前期/元禄文化・・・松尾芭蕉(1644〜1694年)”が没し、22年後に誕生し ています。“江戸中期・・・江戸俳諧の中興の祖”、と言われる人物ですね。“江戸 後期/化政文化・・・小林一茶(1763〜1828年)”と、松尾芭蕉との、中間の時代に 活躍した、“江戸俳諧の巨星”ということになります。
芭蕉・・・蕪村・・・一茶...と、俳諧の巨星たちを眺めて行くと、少しづつ近代 =明治/大正/昭和の足音が聞こえてきます。その、リアルな歴史の流れを... //人間的時空//事象の蓄積//...というものを、俳句を通して感じ取って ほしいと思います。 ちなみに、蕪村は...“俳画(俳句に添える簡略化した文人画)の創始者”...としても 有名です。つまり、画家としても大成しているわけで、ここは括目(かつもく: 括は、こする の意味・・・目をこすって、よく見ること)に値します。そこから来る、“写実的/絵画的な発句” を得意としたようですね。 近代の足音と言いましたが...蕪村は、明治時代の俳人/正岡子規に、強い 影響を与えた人物として知られます。逆に、そのためかどうか、私には蕪村の句 が、非常に近代的な錯覚を受けてしまいます。でも蕪村は、吉宗の治世(ちせい)/ 江戸中期/享保元年に誕生した、古い世代の俳人なのですよね。
当時...蕪村が生まれた江戸中期/18世紀の頃には...連歌形式の俳諧と いうものは、しだいに下火になりつつあったようです。また俳人たちも、発句の方 に力を注ぐようになっていたようです... うーん...それは、『奥の細道』においてもそうですね。歌仙(連歌・俳諧の形式の1つ。 長句と短句を交互に36句つづけたもの。蕉風の確立以後、連句形式の主流になったようです)もやったよう ですが、紀行には発句のみが記されていますよね。ともかく、申し訳ありません。 この辺りは、勉強不足です。 でも...一茶などは...まだまだ俳諧連歌を興行し、それを1つの楽しみとし て、行脚・俳諧師を続けていたわけですよね。また、一方で...江戸時代の文化 人として、流行の伝達者として...文化の普及にも貢献していたわけです。当時 は、江戸のうわさ話や、江戸の文化の風に、人々は非常に飢えていたようです。
ちなみに...俳諧連歌をやるのは、“通な人たち/精通している人たち”であっ たのでしょうか。ともかく、江戸庶民に受けたのは発句の方だったわけです。その 方が、よほど分かりやすかったわけですよね。 ええと...地方/田舎においては、まだ文化の程度も低く、...俳諧そのもの が、生活に余裕のある有力者が中心だったようです。藩の重職、豪商、本陣、寺 の住職、庄屋、網元、などでしょうか。でも、加賀藩/100万石の城下には、さす がに芭蕉の門人などもいたわけですね。うーん...そうですか...加賀藩の勢い というものが感じられますよね。 それから、時代が下り...一茶のように...信濃/百姓の変わり種でも、俳句 をかじるようになったわけでしょうか。その頃には、江戸の庶民と同じように、田舎 の人々の口にも、俳句が棲みつくようになったのでしょうか。 それが...発句に特化してきた...分かりやすさの効果なのでしょう。いわゆ る俳諧(/俳諧の発句を・・・俳句と命名したのは正岡子規)は...5・7・5の発句のみとなり... 余分なものは全て削ぎ落とし...結局、俳諧連歌をも削ぎ落としてしまったわけで しょうか。面白いですね...これなら確かに、子供でも作れますよね...」 「うーん...」支折が、子猫の頭に片手を添え、モニターを眺めた。「与謝蕪村に ついて...もう少し、基本的な人物像を見ておきましょうか...」
「ええと...先ほども触れましたが... 蕪村は、摂津国/東成郡/毛馬村(大阪市都島区)で生まれました。江戸時代・中 期の俳人であり、画家です...俳人としても、また画家としても、当代一流と高い 評価を受けた人物です。ともかく、晩年はそう言えるのでしょうか。 その意味では、芭蕉と同じように、その道の成功者です。後援者や門人もあり、 暮らしぶりは楽だったと思われます。後の一茶のように、江戸で俳諧宗匠になる という夢が挫折し...故郷/柏原に帰るという...ある意味での敗北者とは違 います。 もちろん...一茶も、歴史的に見れば大成功者です。歴史の荒波を生き抜く、 2万句に及ぶく発句を残した、江戸俳諧の巨星であることは確かです。ただ、経済 的成功者ではありませんでした。でもそれゆえに、“一茶の句”が完成したわけで すよね。
あ、そうそう...ここで面白いことに気付きました...江戸時代/江戸俳諧を 形成した“3人の巨星・・・芭蕉/蕪村/一茶”は...いずれも、江戸の人=江戸 で生まれ/江戸で死んだ人...ではないですよね。これは、どういうことでしょう か...? 芭蕉は、伊賀上野(三重県/伊賀市)で生まれ...家は百姓のようでしたが、苗字 を持つ家柄だったようです。生涯を閉じたのは...旅の途上/大阪の宿でした。 “旅に生き・・・旅に倒れる”...ことを実践したわけですから、芭蕉としては本望 だったのでしょう。 さて、蕪村ですが...彼は、今述べたように、摂津国/毛馬村(大阪市都島区)で、 生まれました。母が、毛馬村の名主の家に奉公に上がっていた時、主人の子を身 ごもり、生まれたのが蕪村だったようです。そして、江戸に出て俳句と俳画を学び、 後半生は、京都市/下京区に居を構え、68歳の生涯を終えています。蕪村は封 建社会の中にあって、いたって気ままに生きていける立場にあったようですね。 それから、一茶は...信濃/柏原(長野県/上水内郡信濃町/柏原町)の百姓の長男と して生まれ、継母と折り合いが悪く、15の歳に江戸に荒奉公に出ました。そこで 俳諧の世界とめぐり合い...夢破れて、故郷/柏原に帰り...そこで自分の俳 句を完成し、生涯を終えています。 この辺りは、まだ《小林一茶・選集》では書いていませんが、これから全体を眺 めた上で、書くことにしています。あ...《松尾芭蕉・選集》も同様です... うーん...この、“江戸の人ではない”というのは...どういうことなのでしょう か?3人とも、生まれた地も没した地も...江戸ではないですよね。これは、江戸 幕藩体制/江戸文化という、特殊性を反映したものでしょうか。3人とも士分/武 士の身分ではなく、気ままな身分でした... でも...俳句の世界だけを眺めても、本当の所は分かりませんよね。もう少し、 熟成を待ちましょうか...ホホ...また、浅学をさらしてしまいました...」
ポン助が、ブラリと入って来た。《鹿村/鳴沢温泉(/ユキちゃんの故郷)》の柏餅を 持って来た。 「置いていくぞ!」ポン助が言った。 「うん...」支折が、モニターを見ながら、うなづいた。 ポン助がすぐに出て行く...窓から気持のいい薫風(くんぷう: 初夏、新緑の間を吹いて くる快い風)が吹きこんで来る。支折は、柏餅を1つ食べながら、急須(きゅうす)から冷 めたお茶を注いだ。窓から風と一緒に、ツバメが1羽入って来た。スーッ、と部屋 の中で弧を描き、また出ていった。
「ええと...」支折が...ツバメの出て行った空をボンヤリと眺めた。柏餅の残り を口に入れ、茶を飲んだ。 「...さあ...話を戻しましょうか... まず、与謝蕪村の本姓ですが...谷口、あるいは谷のようですね...蕪村は もちろん俳号です。名前は...信章。俗称は...寅です。 蕪村の由来ですが...中国の詩人/陶淵明(とうえんめい)の『帰去来辞』に由来 するようです。 俳号ですが...蕪村の他にも...宰鳥(さいちょう)、夜半亭(やはんてい/2代目)、落 日庵、紫狐庵などもあるようです。画号の方は...長庚、春星、謝寅(しゃいん)な どが、あります。 与謝蕪村の与謝ですが...丹後(京都府)の与謝地方に客遊した後、与謝の姓を 名のったようです。42歳頃からだったようですね。あ、もう1つ、母親が、丹後/与 謝の出身だったから、与謝を名のったという説もあるようです。
うーん...ともかく蕪村は...18歳頃、江戸に出て...最初は画俳を志した ようです。そして22歳頃...早野巴人(はやのはじん)/夜半亭宋阿(やはんていそうあ) に師事し、本格的に俳諧を学びました。この頃は、宰鳥(さいちょう)を名のっていたよ うですね。 そして27歳の時...巴人(はじん)が没し...下総/結城(茨城県/結城市)/砂岡 雁宕(いさおかがんとう)ら、巴人・門下の縁故を頼り、俳諧を続けました。約10年にわ たり...常総地方//常陸(ひたち: 茨城県北東部)・下総(しもうさ: 茨城県南部と、千葉県北部) ・上総(かずさ: 千葉県中部)を歴遊した様子です。 そう言えば...この地域は...後の、一茶の地盤/縄張りとも重なって来るわ けですね。ええと、蕪村が没するのは1783年です。一茶が生まれるのは、1763 年です。差し引きすると、生存期間が重なるのは20年ですか... 一茶が15歳で江戸に荒奉公に出た頃は...蕪村は53歳ですか。この頃は、 京都に居を構えていたわけでしょうか。一茶は25歳の時、二六庵・小林竹阿に師 事して、本格的に俳諧を学んだわけですが...この時は、蕪村が没して5年程た つわけですね。 こう推理してみると...直接顔を合わせていた可能性は、低いのでしょうか。 でも、“江戸俳諧の・・・中興の祖・・・蕪村/2代目・夜半亭”の影響は...非常に 強く受けていたようですよね。うーん...研究の余地あり...ですよね。
ええ、蕪村に戻ります。ともかく蕪村は...“芭蕉に強く憧れ”...28歳の時、 『奥の細道』の足跡をたどったようです。芭蕉が51歳で没し...蕪村が22年後に 生まれ...28歳で周遊したわけですから...50年ほど後になるのでしょうか。 いえ...芭蕉が46歳の時、その大紀行を敢行したわけですから、マイナス5年と なるのでしょうか? いずれにしろ...そんな時代に...『奥の細道』を追体験しているわけですね。 関所も、街道も、細道も、芭蕉の当時と、ほとんど変わっていなかったと思います。 鎖国の幕藩体制下にあり、“260年の・・・長い平和の惰眠”をむさぼっていた、江 戸中期という時代です。 落ち着いた封建体制下にあり...時が非常に緩やかに流れ...文化にとって は揺籃期(ようらんき: ユリカゴに入っている時期)として...非常に優しかった時代です。そ うした意味で...“世界史の中でも奇跡といえる・・・鎖国下/日本独自の文化が 育まれた・・・良き江戸時代”...だったわけです。 蕪村は...この“奥州・周遊の手記”を...砂岡雁宕の娘婿/佐藤露鳩(さとう ろきゅう)の家/宇都宮(栃木県/宇都宮市)に身を寄せていた時に...編集・出版してい ます。これが、『歳旦帳(さいたんちょう/ 宇都宮歳旦帳)』です。この時、初めて、蕪村を名 のっています...29歳の時ですね... ちなみに、歳旦帖(さいたんちょう/さいたんじょう)というのは、“自分の門弟の発句を集 め・・・刷ったもの”です。俳諧宗匠として、“一家をなした宣言”となるものですね。 相応の弟子も集まり、実力も付き、俳人として一人前になったということです。 正岡子規は...“蕪村を・・・貧窮のうちに死んだ・・・天明期の俳人”...と見 ていたようですが、ここでは、そうでもなかったということにしておきましょう。側腹 (そばはら: 妾からうまれること)ということになりますが、名主の子として生まれたわけで す。また、修行時代は困窮もあったかもしれませんが、一家をなし、俳画も書いて いたわけですから、困窮していたとは思われませんよね。
うーん...一茶もそうした俳諧宗匠を目指し...江戸で、こうした活動をしてい たわけです。でも、その方面には才能がなかったようです。不運も重なったようで すが、人を組織し、弟子をとり、収入を上げ、一派を形成するというのは、芸術とは 別の才能を必要とするようです。 くり返しますが...一茶は、2万句に及ぶ発句を残すことはできましたが、世渡 りでの出世はできなかったわけです。それが、一茶の一茶らしい所で...おかしく もありますが...江戸で大看板をか掛けた一茶というのも...勝手な言い分です が、面白みがないですよね。
さあ、それでは...蕪村の句の方を見て行きましょう。蕪村は俳人であり、画家 でもあったわけです。“絵画的で・・・鮮明なイメージを・・・言語によって結晶化!” することに、成功しています。 これは、簡単なことではありません。でも、それを成し遂げ、“蕪村の俳句”を確 立しています。ここに、蕪村の句の真骨頂があるようです。芭蕉が、談林派などの 古い俳諧を脱し、蕉風を打ち立てたのにも通じるものがあるでしょうか。 もう一言...付け加えれば...蕪村の俳句/発句は、芭蕉とは異なり...そ の思想性が表面には出ない...もののようです。でも、言語は新鮮で...時代を 超えた洗練さが光ります...さあ、ともかく...句の方を見て行きましょう...」
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夏川をこすうれしさよ手にぞうり
「うーん...手に草履(ぞうり)ですか... まさに、夏の川原のすがすがしく、涼しげな情景が、手に取るように伝わ ります。そこには確かに、精神性は皆無です。ただ、夏の川原の涼しさが、 短い言語で、強烈なイメージとして迫って来ます。 正岡子規の言う...“俳句は、絵画的・写生でなければならない”... というのがよく分かる句です。俳句でもこのような、風景描写性というもの もあるわけですね... 子規は、ここが新しい俳句には、重要だと主張しているわけですか。ふ ーん...そうですか。もっとも絵画でも、そこに内面性や精神性さえも感じ させる肖像画もあります。そして、単にすがすがしい風景画もあるわけです よね。 絵画表現と、言語表現の探求ですか...あ、そう言えば、音の表現の 探求が音楽ですし...味の表現の探求がお酒やお料理ですし...ええ と...香りは、香道(香木をたいて、香りを賞翫/しょうがんする芸道)や、アロマテ ラピー(花や木など植物に由来する芳香成分を用いて、心身の健康や美容を増進する技 術/行為)になるわけですね。 いわゆる、人間の5感の探求が、芸実的に昇華して行くわけですね。そ こに、それぞれの道の表現があり、感受性の受容の昇華もあり...文化 が深まって行くわけですね。
さあ、夏川を超えて行くのは...僧形/旅支度をした...蕪村自身な のでしょうか。それとも旅人の様子を、すこし遠くから眺めているのでしょう か。あるいは、村の子供たちが川を超える風景の描写なのでしょうか? この...想像を豊かに膨らませる言語表現が...絵画とは違うわけで すね。でも、絵画的・言語表現を手中にし、俳画の簡略性の中に、そのイ メージを開放した蕪村は...キレのいい、絵画的・俳句というものを開拓 できたわけでしょうか... ともかく...楽しく...邪気のない...光に満ちた風景のスケッチです よね。うーん...これが、蕪村の句ですか。確かに、一茶とも違いますし、 脱俗した芭蕉の句とも違います。 例えば...芭蕉の句が、洗練された懐石料理とすれば...一茶の句 は、丼モノか、B級グルメ...蕪村の句は、それと比べると、ドレッシング をかけたサラダのような感覚かしら... でも、1句だけでは分からないですよね...次を見て行きましょう...」
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<2>
「うーん...有名な句ですね... 五月雨が降り続き...水かさの増大した大河が...ゴウゴウと流れて います。これは、最上川でしょうか...その大河の前に、二軒の家が並ん でいるスケッチです。大自然の迫力の前で、まさに肩を寄せ合っている風 景です。 心細い2軒の家が、いっそう大河の猛威をかきたてています。この2軒と いう軒数は、2人にも通じます。本質的なペア、男女2人の風景とも言えま す。大自然に対峙しているカップルの、力強くもあり、淋しくもある情景です ね。東日本大震災の直後、ということもあるのでしょうか。心細い人間の営 みと、大自然の豪快な様相が対比的です。
ええと...芭蕉と蕪村の、五月雨を詠んだ次の2句は、よく比較されま す...
五月雨をあつめて早し最上川 (芭蕉) 五月雨や大河を前に家二件 (蕪村)
さあ...どうなのでしょうか?...蕪村の句の方が、荒々しく、大河の 水音/大河の地響きさえも聞こえてくるような句です。でも、雄大さでは芭 蕉の句に軍配が上がるのでしょうか。別々の情景を詠んでいるので、優劣 をつけるというのは心外でしょうが、蕪村は対抗心を燃やしていますよね。 うーん...それでも...個人的に、どちらの句が好きかと言われれば、 私は芭蕉の句の方が、やや好きでしょうか...現在の所はです... 結局、どちらが好きかは...自分の人格の中に、霊的に蓄積されてい る、原風景(げんふうけい: 原体験におけるイメージで、風景の形をとっているもの)によ るのでしょうか。 俳句とは...自分が直接体験していない、遠い過去の霊的風景まで、 遡って行く力があるのでしょうか?...あ、もちろん私には、この世の構造 が、全て分かっているわけではありません。でも、自分の知らない情景まで 蘇(よみがえ)り、そこに懐かしささえ感じるのは、何故なのでしょうか。
さて、蕪村のこの句は...明治時代の巨匠/正岡子規が...“芭蕉 以上である!”...と最高評価を下した句として有名です。つまり、このよ うに、比較して考察したわけですね。 子規は、芭蕉の句の...“あつめて”...という言葉が、“巧み過ぎる臭 みがあり・・・面白くない”...のだそうです。芭蕉の句を、幾度も深読みし ているうちに、そうした境地に到達したのでしょう...子規という人は、面 白い人ですね...ホホ... うーん...子規の批判も...“玄人(くろうと)過ぎる・・・臭みがある”... と言えるのではないでしょうか?“巧み過ぎる臭みとか...玄人過ぎる臭 みとか”...妙なことを言い始めたものです...ホホ... でも...巨匠/正岡子規の言葉ですから...素直に拝聴し、もう少し 時間をかけ、ゆっくりと眺めてみることにしましょう。子規の心が、分かる時 が来るのかも知れません。 ともかく...子規は...蕪村を芭蕉以上の俳人と見なし、最大級の評 価をしたようです。浅学な私には、詳細は分かりませんが...蕪村の絵画 的表現の俳句というのは...子規によれば、それほどに、優れたものの ようですね。
でも...ここで...あえて私見を述べさせてもらえば、それだけでいい のでしょうか、ということです。芭蕉は...“風雅への妄執”/“禅を極めた 上での・・・文学的・求道者”として...“風雅の未知なる探求”...をテー マとして歩みました。 そして芭蕉は...求道者として、旅に死すことも覚悟していたわけです。 でも、子規は...絵画的なスケッチのキレ、その素晴らしさを最良としたわ けです。ここは、それを認めても...禅道を歩む私としては...簡単には 譲歩できないところですよね。 一方...子規ではなく、蕪村の方ですが...蕪村にとっては、俳諧はど ちらかと言えば、余技(よぎ )だった側面も見えます。つまり、絵画の大家で あることを、あるいは、主としていたのかも知れません。 その証拠に、俳壇においても、蕪村は一門を拡大して行く野心はなかっ たようです。また、心構えにおいても、文学的・求道者の芭蕉と、遊び心も 混ざった蕪村とでは、だいぶ違うものがあります。その分、凡人の私たちに とっては、蕪村の方が近しいのかも知れません...ややこしいですね。 もっとも、面白いことに...蕪村は生涯、芭蕉を非常に慕っていたわけ です。その足跡をたどって、『奥の細道』を追体験しているわけですし、自 分の死後は、芭蕉碑(ひ: 後世に伝えるために、先人の氏名・事跡などを刻んだ石碑) のある金福寺に...自分の遺体を葬るように、遺言したほどなのです。 でも...また、ひっくり返すつもりはないのですが...晩年の蕪村の日 常というのは...風交の友や、趣味の合う仲間との、遊行に終始していた ようですよ。 嶋原(京都/下京区にあった遊郭の名称)/角屋(揚屋とし今も遺構が残る)で俳句 をつくったり...年老いて、小糸という芸妓と深い関係になり、門人の樋口 道立から意見されたりもしています。 つまり...蕪村は、芭蕉を非常に慕い、『奥の細道』の俳画なども残し ているわけですが、求道者としての芭蕉の生き方までは、まねをしようとは しなかったわけです。 その点...ホホ...私たちと同様で...通俗的な凡人だったのでしょ うか。身近な、人間味を感じます。
ええと...これは一茶も同様で...“芭蕉をまねても・・・芭蕉を超える ことはできない”...という自覚があったのでしょう。 おそらく、蕪村には...“芭蕉翁にはとてもかなわないし・・・オレには絵 師としての道もある・・・生まれてきたからには、人生を楽しむべきで・・・旅 に倒れるというのもどうか”...とでも思っていたのでしょうか。 一茶も...“芭蕉翁を超えることは無理だし・・・そっくり真似るのもどう か・・・器用に芭蕉を真似る俳人もいるが・・・そんな二番煎じはすぐ忘れら れてしまう・・・一茶には一茶の俳句道がある”...と、俳諧行脚の空の下 で、思っていたのでしょう。
ええ...私は浅学な身で...まだ俳句の全体を見渡すには、程遠い段 階です。でも、ともかくそういうことで...芭蕉/・・・蕪村/・・・一茶という、 江戸俳諧の系譜が、受け継がれて来たようです。もちろんその背後には、 何千何万という俳人が、累々(るいるい)と存在したわけですね。 最後に、もう1句...高浜虚子(たかはまきょし: 明治7年〜昭和34年/1874年 〜 1959年)の、最上川を詠んだ句があるので、ここに取り上げておきましょ う...
夏山の襟(えり)を正して最上川 (虚子)
子になります。虚子の俳号は、子規より授かったものですね。さあ、いよい よ昭和の足音が聞こえてきました...次の句を見て行きましょう...」
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<3> 石工の鑿冷したる清水かな ![]() ![]() (いしきり) (のみ) 「この句の季語は...清水/夏ですね... “石工”と書いて、“いしきり”と読みます。もう1つ、“石切”という表記もあ るようですが...同様の読みです。あ、もう1句あります...
石切(/石工/いしきり)の飛び火流るる清水かな (蕪村)
いずれも、夏の石切り場の情景です。汗と、真夏のムンムンする熱気が 伝わってきます。石鑿(いしのみ)は、たたかれてさらに熱く焼けます。その火 打石の臭いする石鑿を、清水の中に放り込みます。本当に暑そうですね。 健康的な、江戸中期の労働風景です...ここも精神性は皆無です。当 時は、石を吊り上げるクレーンも、石を切る動力も有りません。巨岩は筋 目を読み、ノミ穴を並べ、バカッ、と豪快に割るわけです。ホコリの中、石 切り職人の汗が飛び散ります。 蕪村は、こうした活動的な労働風景を...絵筆同様に短い言語で、発 句として描くことに成功しています。そこに絵画を超えた、言語特有のイメ ージを膨らませています。 絵画は絵画の...言語は言語の...特有の長所があります。そして 蕪村は、その両面を融合できた俳人です。正岡子規は、そこに惚(ほ)れ込 んだのでしょう。ともかく蕪村は、独特の境地を開拓した俳人のようです。 この句も...真夏の石切り場...熱く焼けた石鑿をスケッチし...蕪 村らしさをよく表現していると思います...」
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<4> 滝口に灯を呼ぶ声や春の雨 ![]() (たきぐち) (ひ) (京都御所) 「この句の季語は...春の雨/春ですね... 前の句とは、だいぶ趣(おもむき)の変わったです。後で、もう少し詳しく触 れることもあるかと思いますが...蕪村は後半生は、御所(ごしょ: 天皇の御 座所)のある、京都に居をかまえました。生まれたのは、摂津国(/大阪市)で すから、比較的近いわけですね。 この...深く長い歴史の香る街の住人になった蕪村は...京都ならで はの句も残しています。ここから、当時の京の街の空気が偲ばれます。当 時の雅(みやび)な御所の香りというものを、私たちに体現させてくれていま す。
句意は...春雨の降りしきる中、京都御所は夕闇が迫って来ました。 日常の一風景ですね。“滝口”というのは、清涼殿(せいりょうでん)の北東に ある御溝水(みかわみず)の落ちる所です。ここには、宮中警固に当たってい る、武士の詰所がありました。 ええと...この清涼殿ですが、紫宸殿(ししんでん)が儀式を行う殿舎であ るのに対し...清涼殿は、天皇の日常生活の居所として使われた、と言 われます。この時代は、江戸幕藩体制下の京都御所になりますよね。 小雨の中...御所に夕暮れが迫り...宮中警固の詰所に、“灯を呼ぶ 声”がします。ちなみに、御所の屋外用の灯火は、篝火(かがりび)や松明(た いまつ)でした。 春雨の中...篝火が焚(た)かれ...一時の緊張が流れます。
春の夜に尊き御所を守(も)る身かな (蕪村)
...という句もあるわけですから...“火かかげよ!”...という声を聞 いたのは、宮中警固の武士なのでしょうか。 ある日...ある夕刻...御所の一風景です。そこに、濃密な事象が経 歴し...春雨が降り...雨の夜が重なり...歴史が紡(つむ)がれて行き ます。 うーん...京都御所の夕刻ですか...何とも、趣(おもむき)深い句です ね...」
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選者の言葉 (2)2
蕪村/邪気のないスケッチ
「支折です... 東日本大震災/原子炉大災害の真只中ですが、今年は早い梅雨入りですね。 すでに、3か月に及ぶ被災生活をされている方々に、“心からのお見舞い”を申 し上げます。 ええ...まさに、激動の日本列島となっていますが...私たちは私たちの仕 事を、しっかりと、着実に前へ進めて行くことが、任務だと考えています...」
今回は、蕪村の発句の方を、多く取り上げてみました。これらの句から、蕪村の 感性と人間性を汲み取って欲しいと思います。蕪村という人は、非常に感性の鋭 い...それでいながら、私たちと同じスタンスに立っている...俳人です。 でも、現代の俳人ではなく、江戸時代・中期/8代将軍・吉宗の治世下の俳人 なのです。紀州藩主/吉宗が将軍職に就いたのは... 享保の改革を断行し、大いに倹約(ムダを省き、出費を抑えること)に努めた時代ですよね。 将軍職を長男/家重に譲ったのが... 年間の治世になります。つまり、蕪村は、吉宗の将軍職・就任の年に誕生し、この 8代将軍のもとで、若い時代を過ごしたことになるわけです。 ええ...ともかく蕪村は、今から260年ほど昔の江戸時代・中期の俳人です。 でも、不思議と感性が共鳴します。それが、現代俳句にも通じる、“写実的/絵画 的発句”の、迫真(はくしん: 真に迫っていること)ということになるのでしょうか...」
首くくる縄切れもなし年の暮れ (蕪村)
「ええ... この句は...京都での、蕪村の貧乏暮らしを物語る1句です。京都府/下京 区/仏光寺/烏丸西入ルの居宅に...借金取りを追い返すため、張られたもの です。 さすがの借金取りも、この名句にはあきれ、苦笑して帰ったというエピソードが 伝えられています。相当な生活苦にあったようですが、洒落(しゃれ)がきいています ね。 うーん...正岡子規は蕪村を...“貧窮のうちに死んだ・・・江戸時代/天明 期の俳人”...と見ていたわけですね...私は、そうでもないのではないか、と しましたが...結局、その両面があったようですよね。 ホホ...元々、そんな気はしていたのです。芸術家ですから、お金がある時も ない時もあります。門人もあり、文人画も描き、また旦那衆の支援もあったわけで すが、商売人/実業家の感性はなく、金銭面も頓着しなかったのかも知れませ んね。 葛飾北斎(かつしか・ほくさい/1760〜1849年/江戸時代・中〜後期の浮世絵師)は引っ越し魔 でしたし...レンブラント(1606〜1669年/オランダの画家)の浪費癖も有名です。そう そう、バルザック(1799〜1850年/フランスの小説家)の浪費癖も有名ですね。芸術家と いうのは、時として、そういうものなのでしょうか。 蕪村も...俳人・文人・画家などの社交場でもあった...嶋原(京都/下京区にあっ た遊郭の名称)/角屋(揚屋とし今も遺構が残る・・・重要文化財建造物)に入れ上げ...円山応挙 (まるやま・おうきょ/1733〜1795年/江戸中期の画家。円山派の祖・・・孔雀図、雪松図屏風など、)や、 池大雅(いけたいが/1723〜1776年/江戸中期の文人画家、書家)など遊んでいたわけです。 45歳頃に結婚して、“一人娘/くの”も、そばにいる生活です。貧乏暮らしでは あっても、一茶ほどの困窮とは様相が違うようですよね。でも、本質的に詩人で あり、金銭や出世には、執着心が薄かったのでしょうか。
ちなみに...“南画(なんが)/文人画(ぶんじんが)”というのは...中国/“南宗画 (なんしゅうが)”の影響を受け...江戸時代・中期以降に、日本独自のものに確立さ れた、“絵の様式”です。これを大成したのが、与謝蕪村であり、池大雅です。 “俳画”は、与謝蕪村が創始者ですが、これも文人画の範疇(はんちゅう)に入りま す。俳画は、丁寧・緻密に描くのではなく、“簡潔に表現する・・・味のあるセンス”、 というものが重要になります...むろん、これは南画にも共通するものです。 さて...蕪村、大雅、以降の文人画では...浦上玉堂(うらかみ・ぎょくどう/1745〜 1820年)、谷文晁(たにぶんちょう/1763〜1841年)、田能村竹田(たのむら・ちくでん/1777〜 1835年)、山本梅逸(やまもと・ばいいつ/1783〜1856年)、渡辺崋山(1793〜1841年)など を輩出し...江戸時代・後期の、“一大画派”となっていったわけです。 うーん...こう眺めてみると...蕪村は南画の大成者であり、俳画の創始者 であり...俳人としても芭蕉以来の“江戸俳諧・中興の祖”であり...当代一流 の文化人であったことは、間違いありません。 その彼が...“首くくる縄切れもなし年の暮れ”...とは...ホホ...面白 い人ですね。そう言えば...ホホ...一茶もそうでした... ええ...脱線はこのぐらいにして、蕪村の句の方を見て行きましょうか...」
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<5> 涼しさや鐘をはなるるかねの声 ![]() ![]() 「この句の季語は...涼し/夏ですね...
句意は...早朝の涼しさの中、鐘が突かれている。鐘の響きが、1つ、 また1つと鐘を離れ、さわやかな空気の中を伝わり、風景にしみわたって 行くことだ...と詠んでいます。 梵鐘(ぼんしょう: 寺の鐘)は、この世のけがれを払い、すべてを清らかにし て行きます...何ともすがすがしい、早朝の鐘の響きです。
蕪村の句は...ここでも精神性は皆無で、ただ鐘の音をスケッチしてい ます。でも、その絵画的な活写(かっしゃ)の中に、早朝の鐘が選択されてい ます。その鐘の音の伝わる情景が、心をさわやかにして行きます。 精神性は、あえて詠まず...風景の活写の中に、蕪村の人柄や精神 性を反映させています。そこから、しつこさのない句が、構成されて来るの でしょうか。蕪村の達観(たっかん: 俗事を超越し、悟りの境地で物事に臨むこと)した 人間性を感じます...」
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<6> 「この句の季語は...青鷺/夏です...
夕風というのは、夕方に吹く風のことですね。夕涼みという言葉もありま すが、夏の夕涼みというのは趣があります。すぐに、クーラーだの扇風機 だのというのではなく...自然と寄り添った、良き時代の風景です... 現代では...花見に行くと、桜をまるで貪(むさぼ)るような感覚で眺めま す。また桜の方も、これでもかと言うほど、並んで植えられています。そうな ると...うーん...桜も、あまり美しいとは感じなくなりますよね... 幼い頃...野辺の山桜や、畑の脇の数本のコスモスの花を、本当に清 楚(せいそ: 飾り気がなく、清らかなこと)で美しいと、飽(あ)かずに眺めていたも のです。 そう言えば、女性のファッションや、お化粧についても、同じことが言える のでしょうか。ホホ...余計なことを申してしまいました。どうぞ、お気遣い なく... ともかく...現代は...お店を出して商売をするのにも、そうしたビジネ ス・モデルとかいうものがあるようですね。まるで、貪るかのごとく、お店を 展開するのでしょう。次々とチェーン店を作り、撒餌(まきえ: 魚や小鳥などを寄 せ集めるために、エサを巻くこと)で客を寄せ、投げ付けるように売りまくります。 そうした結果...牛/生肉が大腸菌O−111で汚染され...、食中毒 を引き起こしてしまいました。多くの犠牲者が出てしまいました。うーん... それにつけても、古き良き時代への、郷愁を感じます。
さて...青鷺/アオサギというのは...サギの仲間では、最も大型種 なのだそうです。ここに入っているイラストは...似てはいますが、実は、 コウノトリなのです...ホホ...申し訳ございません。適当なイラストが、 手元になかったものですから... このコウノトリも...同じように水辺に生息しています。姿や特徴も共通 していますが、アオサギよりもさらに大型なのだそうです。水辺でこの種の 鳥を見かけたら、デジタルカメラに収め、確認して欲しいと思います... ええと、それから...脛(はぎ)というのは...脚の膝(ひざ)から踝(くるぶ し)までの部分です。いわゆる、脛(すね)といわれる部分ですね。
句意は...日が沈み...ようやく夕風が立った。岸辺では、さざ波が、 青鷺の脛を洗っている。優しい夕風が、何とも気持ちの良いことだ...と 詠んでいます。 水辺の情景が、眼前に活写されるような句ですね。やはり、ここにも精 神性はなく、1枚の風景画のようです。蕪村の句というものが、少しは、分 かってきたのではないでしょうか...」
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<7> 「季語は...若葉/夏ですね...
まず...“不二”の意味ですが...@ 2つと無いこと(/ふに)...A 2 つに見えるが、実際には1つであること(/ふに)...B 手紙の末尾に記す 語で、十分に意を尽くしていないという意味で、自分の文章をへりくだって 言うこと(/ふに)...それから、全く別の意味で、C 富士山のこと(/ふじ)、 を言います。 つぎに...“うずみ”の意味は、“埋み”ということで...埋もれるという 意味になります。あとは分かりやすい句ですよね。
句意は...見渡す周囲全体が...むせぶような若葉で埋めつくされる 季節になった。その新緑の中で、残雪のかかる富士だけが、埋もれ残って いることだ...と詠んでいます。 蕪村が...旅の途上か、生活の合間に...こんな富士の姿を見たの でしょうか。そんな蕪村の、動的な足跡を想像してみるのも、楽しいことで すよね。 あ...ええと...くり返しになりますが...蕪村もまた、西行・法師や、 宗祇・法師(そうぎ・ほうし: 1421〜1502年/室町時代・後期の連歌師)、そして、 芭蕉や後の一茶と同じように...僧形で旅をしていたようです。 この僧形というのは...あちこちをブラブラしていても...比較的あや しまれずにすんだ身分だったのでしょうか。西行・法師のように、朝廷や武 家にまで顔のきく僧侶や、念仏聖(ねんぶつひじり)のような半僧半俗の僧も いたわけですね。 乞食坊主などとも言われていたわけですが...全国の寺院が、そうした 修行僧を、多少なりとも援助していたわけです。少なくとも、やくざ者とは異 なり、寺の軒下ぐらいは、借し与えたのでしょうか... ともかく昔は...旅というのは、大きなロマンに満ちたものでした。でも それは、命の危険を伴うものでもあったわけですね。治安の面、怪我や病 気の面、宿泊の面...それから資金面でも、現代とは比較にならないほ ど必要だったと思われます。 一生に一度の、“お伊勢参り(江戸庶民にとっては・・・旅行と言えば、お伊勢参り でした)”でも...その軍資金/旅費を、みんなでコツコツと貯め、鍋や米を 持ちあい...東海道を大遠征したわけです...」
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<8> 「季語は...みじか夜/夏ですね...
句意は...短い夏の夜が白々と明けてきた。庭先の草花には露が降 りている。そういえば...小枝にいる毛虫の上にも、透明な露の玉が光っ ている...何ともすがすがしい、朝の風景だ...と詠んでいます。 うーん...単純明快な句ですね。他意はなく...小さな毛虫に視点を 合わせた、蕪村らしい1枚のスケッチです。そこに...無為のすがすがし い、早朝の時間が充足しています。 自らはそれと知らず...ほのかな幸福と倦怠感と...そして、覚醒(か くせい)の姿が漂います...いつしか心に残る、夏の朝のひと時です、」
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<9>
「季語は...ほととぎす(時鳥/不如帰)/夏です...
まず、ホトトギスという鳥ですが...これはカッコウ目/カッコウ科の鳥 で、全長は28センチぐらいでしょうか。ヒヨドリよりも少し大きく、ハトよりは 少し小さい程度です。 頭部と背中は灰色、翼と尾羽は黒褐色...そして、胸と腹は白く、黒い 横縞(よこしま)が入ります。あと、目のまわりには黄色のアイリングがありま す。インターネットや電子辞書で、確認をお願いします。 生息地は...アフリカ東部、インド、中国南部に分布しますが...アジ ア東部で繁殖するものは、冬は東南アジアに渡るようですよ。日本には、 初夏に渡って来るので、俳句では夏の季語になっています。 キョッキョッ、キョキョキョキョキ...と鋭く鳴き、この鳴き声が、“ホ・ト・ ト・ギ・ス”とも...“特許許可局”とも、“テッペンカケタカ”とも聞こえるよう です。 あ...ええと...ホトトギスは、夜中にも鳴くこともあるようですよ。とも かく、特徴的な鳴き声と、ウグイスなどに托卵(たくらん: 鳥が他種の鳥の巣に卵 をうみ、抱卵をさせること・・・ホトトギス、カッコウ、ジュウイチ、ツツドリに見られる)する習 性で知られています。ズルく、賢い、ハトよりも少し小型の、渡り鳥です。
次に...平安城(へいあんじょう)ですが、これは平安京(平安時代の日本の首 都)の異名です。平安京は、794年(延暦13年)に、桓武天皇(かんむてんのう) により、この地が都と定められました。現在の、京都府/京都市の中心部 に相当します。 この平安城/平安京は...基本的には平城京(奈良の都・・・奈良時代の日 本の首都)を踏襲し...碁盤の目のような、隋・唐の“長安城/長安の都” に、倣(なら)ったものです。でも日本では、中国のような都市城壁というもの は模倣せず、発達もしなかったわけですね...
さあ...句意ですが...ホトトギスが鳴きながら...碁盤の目のような 平安城を...筋違/筋交(すじかい: 斜めに交差していること)に、一直線に飛 んでいった...と詠んでいます。 うーん...壮大な句ですよね。これは、夜の聴覚的な情景なのでしょう か。句からは、その辺りは分かりませんが... でも、夜ならば...鋭い鳴き声が薄闇を切り裂き、渡って行く情景は、1 枚の絵になります。逆に...昼間の光の中では、句が視覚的になり、周り もビジュアル(目に見えるさま)になり...ホトトギスの特徴が弱くなります。ど うなのでしょうか...? ホトトギスは...夜も鳴くといっても、闇夜を飛ぶフクロウほどの、夜行 性は持っていないと思います。でも、夜も鳴いているわけですから、月明か り程度なら、平安京の空を、一直線に飛んでいくこともあったのでしょうか。
うーん...こうした雄大さも、蕪村の句の特徴の1つに数えて置いてみ ましょうか。今後、検討してみましょう。蕪村という人は、本当に、面白い人 のようですね。絵も描きますが、芭蕉のような求道者ではありません... その点...私たちに近いのかも知れませんが...そう思っているとグ イと突き離し...少し高みの所へ逃げてしまいます... それに...京都御所のことを詠んだり...色々な側面を見せてくれま すね。まだ、蕪村の全体像というものが見えてきません。実に、不思議な、 身近な人ですよね...」
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選者の言葉 (3)3
蕪村/春・五月雨・雲の峰
「ええ、支折です...」支折が、両手をそろえ、頭を下げた。「梅雨の真只中です ね...東日本大震災の被災地のことが、常に頭をよぎります」
「さて、今回は... 蕪村の有名な春の句と...季節がら、梅雨/五月雨の句、それから夏/雲の 峰の句を、取り上げてみました。私は、蕪村の研究を始めたばかりで、まだまだ全 体像は掴めない状況です。でも、それが、楽しい所でもありますよね。 ええと...それに蕪村は、随分と幅の広い/遊び幅のある人格のようですね。 ともかく、蕪村の句をできるだけ多く取り上げ、そこから蕪村の人間性というものを 探ってみたいと思います。
うーん...蕪村には、『春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)』という作品があります。 これについて、正岡子規は...“俳句やら漢詩やら・・・何やら交ぜこぜにものし たる・・・蕪村の長篇にして・・・蕪村を見るにはこよなく便となるものなり」...と 書いています。その、書き出しはこうです...
余一日問耆老於故園 (私はある日、古い友人に逢うためふるさとを訪ねた。 淀川を渡り、馬堤という所でたまたま帰郷する娘さん と一緒に同じ道を歩いた。 後になったり先になったりするうちに、自然と親しくな り話をするようになった... )
これは、子供の頃、摂津国/東成郡/毛馬村(大阪市都島区)の堤(つつみ)で出会っ た少女がモデルの...フィクションのようだということです。 俳句と漢詩を組み合わせた俳詩は...大阪から蕪村の故郷/毛馬村への道 行きの姿をとり、少女の望郷の思いに託して、蕪村自身の思いを述べていいるよ うだということです。 私は少しのぞいてみただけですが、興味のある人は、インターネットで検索し、 本文を読んでみてください。私はもう少し蕪村を知ってから、読むことにしましょう。 ともかく... 還暦を過ぎた蕪村には、故郷への深い思いがあったようですね。 位置づけなどは分かりませんが、こういう作品があるということだけを、紹介して おくことにします。 ちなみに、萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう: 1886〜1942年/群馬県に生まれた詩人。口語自 由詩による近代象徴詩を完成)は...蕪村を、“郷愁の詩人”と呼んでいたそうですよ。こ の作品から、それを読み取ったのでしょうか。うーん...何と言っても、朔太郎の 言葉ですから、重いですよね... あ...ええと...それでは、蕪村の句の方を見て行きましょうか。今回は、9句 を取り上げてみました...」
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春の海 ひねもすのたりのたりかな 「季語は...もちろん、春の海/春ですね。 蕪村の非常に有名な句ですが...“ひねもす”とは、1日中という意味 です。“のたりのたり”は、うーん...辞書を引いてみると“緩やかに、ノン ビリと動くさま”だそうです。
句意は...春の穏やかな日差しの中で、風も凪ぎ、一日中のたりのた りと時が過ぎて行く...というほどの意味ですね。蕪村の句で、雄大さとい う視点を1つ提案しておきましたが、これもその雄大な句の部類に入るで しょうか。 これと比べると、一茶の句には海を詠んだ句は少ないのでしょうか。ま た、雄大な句というよりも、構造的には非常に小さくまとめられているよう ですよね。こうした比較は、全体を見渡したうえで本格的に行うつもりです が、今回はその“雄大さ”という視点を課題にするということで、触れておき ます。 あ、そうそう...一茶には、“木曽山へ流れ込みけり天の川”という雄大 な句があります。でもこれは、芭蕉の、“荒海や佐渡によこたふ天の川”と いう句を意識したものですよね。つまりこれは、あくまでも、句の傾向/個 性としての話です。
うーん...“春の海 ひねもすのたりのたりかな”...ですか... 子供には子供の、若者には若者の、そして老人には老人の...穏やか で/飽き飽きするほど退屈で/振り返った時には限りなく貴重な、“人生 の中の春時間”が流れて行きます... それは、昔も今も変わらないようですね...人生の中で...本人はそ れと知らず...静かな、無為の時間が流れて行きます...」
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春の暮 家路に遠き人ばかり
「季語は...春の暮/春ですね... 句意は...ようやく寒い冬が去り、花も咲き、春がやって来た。日も長 くなったので、人々はそれを楽しみ、それ惜しむかのように、家路につくの も遅くなっていることだ...というものです。人々のほのかな共鳴は、まる で春のぬくもりのようですね。 うーん...蕪村の、言語によるスケッチのキレが冴えわたります。また、 蕪村という俳人の、世の中を見る視線/人間性というものの豊かさと清浄 さが感じられます。 こんなコメントを、あえてしたくなるのも...現代社会のあきれるような “モラルハザード/陳腐さの雲”が...社会全体をおおっているからでしょ うか。東日本大震災の未曾有の大混乱の中で、不謹慎な政治/軽薄な文 化が続いていますよね...
あ、申し訳ございません...ええと、これと同じような句に...
...というものもあります。これも春の暮れ...暮れようとしながら、い つまでも雨が降っている...という、“現在の覚醒/心境”を、詠んだもの すね。そこに、人生の充足感が感じられます。
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「季語は...菜の花/春ですね... これも、蕪村の非常に有名な句です...これは、昭和の時代の流行歌 の歌詞にもなっていて、私はそっちの方から、“月は東に日は西に”という フレーズ(句・・・音楽で楽句)を知りました。
句意は...見渡す限り菜の花の咲く頃...日が西に傾き、東の空には もう月が昇っている...というものです。菜の花畑は、うっすらと赤く、夕日 に染まっているのでしょうか。 その情景が目に浮んできます。その季節には、こんな天体現象もあるわ けですね...これも、蕪村の“雄大な句”と数えてもいいと思います... それから...丹後地方(/京都府北部)には当時...
月は東に、 すばる(おうし座/ブレアディス星団/6連星)は西に、 いとし殿御(とのご)は真ん中に (/不明)
...という、盆踊り歌があったようです。これは、蕪村の時代 (/明和年間)に出版された、『山家鳥虫歌(さんかちょうちゅうか)』...という本に載って いるのだそうです... それとも母親が、丹後/与謝の出身でしたから、そうした関係から耳に 入ったのでしょうか。ともかく蕪村は、この歌を知っていたようですね...」
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さみだれの
大井越たるかしこさよ (五月雨)
「季語は...もちろん五月雨/夏ですね...
大井とは、大井川のことで、駿河の国/静岡県にあります。江戸時代に は、天下の要衝(ようしょう: 軍事・交通・産業の上で、重要な地点)である東海道の 大井川などは、軍事戦略上、橋を架けることは御法度(ごはっと: 禁じ事)とさ れていました。 “越すに越されぬ大井川”...などとうたわれ、東海道の難所となってい ました。そこで旅人は、川越人足の肩車に乗ったり、馬や輿に乗って“川越 (かわごし)”をしました。その金を惜しむ人々は、荷物・刀・衣服などを頭の 上にくくりつけ、褌一丁で川を渡ったわけですね...ホホ... そのために、増水で危険になると“川止め/川留”をしました。強制的に 渡渉を中止し、大名でも渡河を許さなかったという、強権的なものでした。 もし、無断で渡河しようものなら幕命違反で、厳しい処罰を受けたようです よ。
そこで...“川越”のための大きな宿場ができ、梅雨時などは何日も足 止めを強いられて...宿場は喜び、旅人は難儀したようですね。 何故...こんな合理性のなことをしたかを、もう少し詳しく説明しましょ う。この大井川は、江戸/関東の軍事防衛に加え...家康の隠居城/駿 府城の外堀ともなっていたようです。そのために、“橋”や“渡し舟”は厳禁 とされていました。箱根の関所と同様に、軍事的な要衝ともなっていたので す。 そして、もう1つ...参勤交代の制度と同様に、これは幕府の威圧だっ たわけです。同時に...徳川家・発祥地/駿府城下の下々に...宿場 形成の莫大な富をもたらしたのです。大名行列さえ、大井川を渡る時には 馬や人足を強制 したようです。そして、“川止め”になれば、何日も足止め を喰らいました。
増水二尺/合計四尺五寸になると、一般人は川留となりました。5尺で、 公用も含め、全て禁止となったようです。 参考までに、次のような句もあります...
みじか夜や 二尺落ちゆく大井川 (蕪村)
五月雨の 雲吹き落せ大井川
(芭蕉) ...いずれも、往時(過ぎ去った時)の大井川の様子が偲ばれますね。み じか夜/夏の夜には、2尺も水位が下がっているのが詠まれています。ま た芭蕉は逆に、“五月雨の雲吹き落とせ”と、その諦めにも近い、人々の 願いを詠んでいます。
句意ですが...“さみだれの大井越たるかしこさよ”...とは、とにもか くにも、五月雨の季節にうまく渡河できれば、“非常にかしこい/要領がい い”というわけですね。 後は、梅雨の晴れ間に、富士を見ながら江戸へ上って行くのも、尾張の 方へ下って行くのも、難儀を1つ通り越したというわけですね。旅のご無事 をという所です。芭蕉・蕪村・一茶も...皆この東海道/大井川を、何度も 超えているわけですね。 そうした難儀もまた、古(いにしえ)の郷愁を誘う風景ですね。新幹線や飛 行機で、ビュッ、と超える現代にはない、趣深い人生の旅路が望見されま す。本当に昔の人々にとって、旅が大きなロマンだったことが分かります」
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<14> さみだれや 名もなき川のおそろしき (五月雨) 「季語は...もちろん五月雨/夏ですよね...
句意は...五月雨の増水は、“川越”のある大井川などの名の知れた 川ばかりではなく、名もなき幾多の川が、非常に恐ろしい...と詠んでい ます。実際に、かつては、川の増水というのは非常に恐ろしいものだった ようですね。あ、もちろん、今でもそうなのですが... 五月雨/この季節の長雨は...稲作には必要なものですが、旅人に はつらいものでした。しかし、それをも風雅として...芭蕉や蕪村は... 俳句に詠んでいるわけです。いいものですね...」
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さつき雨 田毎の闇となりにけり (たごとのやみ) 「季語は...さつき雨/五月雨/夏ですね...
まず、“田毎の闇(たごとのやみ)”ですが、これには説明が必要ですよね。 “田毎の月(たごとのつき)”というは、信州/姨捨山(おばすてやま)の麓の棚 田...千枚田に映る月のことです。 ここは月の名所の1つで、芭蕉・蕪村・一茶ともに俳句に詠んでいます。 時代の順から行くと、蕪村は芭蕉に習ったのでしょう。でも、冗談好きな蕪 村は、“田毎の月”を“田毎の闇”にかえて詠んでいるわけでしょうか。 ここでも、蕪村は芭蕉を深く敬慕していたことが分かります。したがって、 芭蕉の人格である、“風雅の求道者・・・風雅に深く恋をした苦悩”...とい うものも、知り抜いていたと思われます。その上での、蕪村の戯言(ざれご と)/ジョークですね...蕪村という人は、面白い人ですよね。
句意は...さっき雨の時期には、“田毎の月”も、“田毎の闇”になって いることだ...と詠んでいます」
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雲の峰に 肘する酒呑童子かな (ひじ) (しゅてんどうじ)
「季語は...雲の峰/・・・積乱雲、入道雲/夏ですよね...
この句で説明を要するのは、“酒呑童子(しゅてんどうじ/・・・酒顛童子、酒天
童子、朱点童子、とも書く)”という固有名詞でしょうか。酒呑童子は、京都と丹波
の国境に住んでいた、鬼の頭領だそうです。
本拠は大江山で、龍宮ような御殿に棲み、あまたの鬼たち従えていたと
いいます。1説では、盗賊とも言われています...うーん...
あ...また1説では...酒呑童子は、越後国の蒲原郡中村で誕生した
と伝えられるようです。伝説の大蛇/八岐大蛇(やまたのおろち)が...スサ
ノオ(日本神話の神: イザナギとイザナミの子で...天照大神/アマテラスオオミカミの弟。
多くの乱暴を行ったため、姉の天照大神が怒って、天の岩度にこもり、高天原から追放した)
との戦いに敗れ...出雲国から近江へと逃げ...そこで富豪の娘との間
で子を作ったといわれます。つまり、その子供が酒呑童子という説です。神
話の世界となると、真偽のほどは分かりませんよね...
京都の周辺では、丹波の方向に出る入道雲を“丹波太郎”と呼ぶことが
あると言います。つまり...雲の峰/入道雲/“丹波太郎”であり...大
江山/酒呑童子となるわけですね...
句意は...丹波/大江山に棲んでいる、鬼神/酒呑童子が、雲の峰に
肘を当て、酒を呑んでいることだ...と詠んでいます。
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であり、 蕪村は「雲の峰」→「丹波」→「大江山」→「」と
それに肘をかける酒呑童子(しゅてんどうじ)とは、与謝蕪村
手間がかかるというか、地元の人でもわかりにくいというか、 ところで、入道雲の太郎は各地にいるらしく、
安永六年の句である。丹波大江山に棲んだ鬼神の酒呑童子が、雲の峰に腕の肘を当てて、あぐらをかき酒でも呑んでいる姿を連想した句らしい。
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曠野行く 身にちかづくや雲の峰 (あらの)
雲の峰 いくつ崩れて月の山
これは芭蕉の『おくのほそ道』にある句です。 蕪村にこういうわかりやすい句はないのかと探してみたら、
廿日路(はつかぢ)の 背中に立つや雲の峰
というのがありました。 |