Menu 仏道無門関・草枕洞山三頓
    < 無 門 関・第15則>  <洞山、痛棒六十をたまわる・・・頓とは、1頓=20 3頓=20×3=60>

             洞 山 三 頓   ( どうさんさんとん )   wpe54.jpg (8411 バイト)  
 
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            ここに登場する 洞山守初・禅師 は、曹洞宗始祖/洞山良介・禅師 とは別人物です。

                           双方とも 洞山・禅師 と呼ばれることがありますが、住した場所も、時代も異なります。

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆 : 高杉 光一

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No.10  洞山三頓( どうさんさんとん )... <無門関.第十五則>

           <3>...... 無門の評語

2000. 2. 6

2000. 2.13


 

    <1> 公案                      

  洞山が雲門に参謁した時、雲門は問うた。

「最近お前はどこに居たのか、」

「査渡(さど)におりました」と洞山は答えた。

  雲門

「夏(げ)はどこで修行していたのか、」

  洞山

「湖南の報慈寺です」

  雲門

「いつそこを発ってきたのか、」

  洞山

「8月25日です」

  雲門

「お前に60棒を与える」

 

  翌日、洞山は再びやって来て師に問うた。

「昨日、和尚に60棒打たれましたが、どこに過(とが)があったのか分かりません」

  雲門は叫んだ。

「この穀つぶしめが!江西湖南を、そのようにしてうろつき回っていたのか!」

  ここにおいて洞山は大悟した。

 

  さあ、またまた、古来より有名な、超面白い公案の登場です。禅らしいと言えば、こ

のいきなり“痛棒”をくらったという、チンプンカンプンな公案がもっとも禅らしいかも知

れません。

 

  洞山は、中国北西部の西(せんせい)省から南東部の広東(かんとん)省まで、何千キ

ロもの旅をして、雲門禅師に参謁(さんえつ)します。何千キロと一口に言いますが、こ

の唐時代・末期には、むろん鉄道などはなく、徒歩で旅をしたわけです。

  しかも、山賊も虎もいたという時代です。さらに、病気や怪我、毒虫などでも、たち

まち致命傷になってしまう時代でした。したがって、この中国を横断する旅は、何年

もかかる命がけの旅だったのです。しかし、洞山は僧侶ですから、托鉢で乞食(こつじ

き)をし、寺から寺へと渡り歩いていったのだと思います。いずれにしても、壮大な求

道のロマンを感じさせる旅でもあったのでしょう。

 

  さあ、そしていよいよ、雲門山にたどり着き、光奉院の雲門禅師に参謁します。そ

の初対面が、上記の公案の場面になるわけです。しかし、雲門禅師はごく普通の質

問を3つほどし、洞山は問われるままに答えます。

  すると、いきなり60棒を与えるというわけです。この60棒というのは、“痛棒”とい

って、要するに棒で叩きのめすわけです。1頓は20であり、3頓は60になります。表

題の“洞山三頓”とは、60回棒で打ちのめされたという意味になるわけです。もっと

も、正確に60回というよりは、それぐらい多くの回数といった意味にも取れます。

  それにしても...人生をかけた求道数千キロの旅というのはすさまじいものです。

っては三蔵法師の、ヒマラヤを越えての“天竺(インド)への旅などもありました。ま

た、インドより海路から南方中国へ上陸した、初祖/菩提達磨の旅も壮大なもので

した。さらに、日本から大陸へ渡った遣唐使船の学僧の旅も、初期の頃には命がけ

のものでした。

 

  さあ...ともかく、雲門山にたどり着き、師に参謁してみたら、いきなり60棒をくら

ったというわけです。洞山としては、まさに泣くに泣けない状態です。さあ、こんなバ

カげた場面になったら、私たちは一体どうしたらいいのでしょうか。むろん、当の洞山

も、いきなり真っ暗な崖から突き落とされたようなものでした。

 

求道も真っ暗、人生も真っ暗、絶望の断崖・・・

    それにしても何故か???

           西省にまで名の轟いた大禅匠が、

               何故いきなり、私を叩きのめしたのか???

                     私の何が間違っていたのか???

 

  洞山は、この一夜は、まんじりともせずに考え込んだものと思われます。しかし、

この...“心路を窮(きわめて絶した・・・この一夜”...こそが、彼の生涯でもっとも

貴重な一夜だったのです。

 

     うーむ・・・何とも愉快な時代です。

        まさに、禅宗に勢いのあった、その時代の空気が感じられます

 

  さて、しかし結局...洞山は何も分かりませんでした。ただ悶々と一夜を明かした

だけでした。この空虚な無力感、達成感の無さは、私たちも大なり小なり経験してい

るのではないでしょうか。そこで、洞山は翌日再び師のもとへ行き、何故三頓を賜っ

たか分からないと言ったわけです。これも、いかにも私たちにもありそうな、間の抜け

た話です。そこで案の定、さらに厳しい一喝を食らったわけです。しかし、洞山の偉い

ところは、ここで大悟したということです。

  それにしても、なぜ洞山はここで大悟できたのかといえば...

 

“心路を窮(きわ)めて絶した・・・一夜”

 

  ...があったからです。また、さらには長い間の求道の修行があったからでもあり

ます。

 

  <2> 公案の分析        

<再度、公案を掲載します・・・>

  洞山が雲門に参謁した時、雲門は問うた。

「最近お前はどこに居たのか、」

「査渡(さど)におりました」と洞山は答えた。

  雲門

「夏(げ)はどこで修行していたのか、」

  洞山

「湖南の報慈寺です」

  雲門

「いつそこを発ってきたのか、」

  洞山

「8月25日です」

  雲門

「お前に60棒を与える」

 

  さあ...ようやく参謁できた師との初対面の挨拶ですが、雲門禅師は3つほど質

問しています。それに対して、洞山はきまじめに答えています。しかし、これでいきな

“痛棒”を与えるとは、どういうことなのでしょうか。

  ここで、もう一度、禅の原点>に立ち帰って考えて見て下さい。この、“無門関・

第十五則”は、単なる参詣の言葉ではなく、禅問答だということです。そして禅問答

では...

 

「最近お前はどこに居たのか、」

 

  ...というのは、よく使われる常套話なのです。俳人の松尾芭蕉が、その禅の

師である仏頂和尚と同じような対話をしています。以下に、そのようすを書きます。

 

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  ある日、江戸深川の芭蕉庵に、芭蕉の禅の師匠である仏頂和尚が訪ね

てきました。その時、和尚の供の者/六祖五平が、こう言ったと言われます。

 

    「如何なるか是れ閑庭草木中の仏法」

 (この閑静な中での仏法は、如何なるものか・・・と尋ねました。)

「葉葉大底は大、小底は小」

 (大きい葉をもっているものは大きいし、小さいものは小さい・・・と芭蕉は答えています

     つまり、このように禅的心境をうかがうのは、挨拶のようなものなのです。

                                                                            <俳句コーナーへジャンプ>

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  この...芭蕉仏頂和尚の対話も、「最近お前はどこに居たのか、」という雲門禅

の質問も、いずれも禅問答であり、同じ意味を含んでいるのです。つまり、内面的

な禅的境涯を問いただしているのです。それに対し、芭蕉はむろん禅的な境地を述

べています。ところが洞山は、この禅問答の意味を解していません。まず、ここが問

題となるわけです。

  そこでさらに、「夏(げ)はどこで修行していたのか、」と、もう一度質問します。しか

しこれにも洞山は、「湖南の報慈寺です」と、ごくありきたりの会話を返してくるだけで

す。そこで再度、「いつそこを発ってきたのか、」と、質問します。が、それでも洞山は

気づかず、「8月25日です」などと返答しています。

  もっとも、洞山が答えていることは、全てが真実であり、この答えでも立派な禅問

答の返答なのです。しかし、これを、“直下に見た真実”と知って答えたのでなけれ

ば意味がありません。そこで、「この、たわけ者め!」となり...「お前に60棒を与え

る」となるわけです。

  また、これによって、洞山の...“心路を窮(きわ)めて絶した・・・一夜”...実現

するわけです。

  雲門禅師は、何千キロも歩いて訪ねてきた若者に、見事に...“心路を窮めて絶

する・・・断崖”...を与えてやることが出来たわけです。また、洞山も、まさにこれを

求めて、故郷の西省を出てきたわけだったのです。

                                                     

   <3> 無門の評語...口語訳        (2000.2.13)

 

  もし、雲門がその時に洞山に本分の草料(痛棒)を与えて、生きた禅旨にはっきり

と目覚めさせていたならば、雲門宗は衰微しなかったであろう。

 

  是非の深淵で洞山は一晩苦悶した。夜が明けて彼が再び師のところにやってきた

時、雲門は彼の透関を助けた。洞山は直ちに大悟したが、彼は十分に怜悧だとは言

われない。

 

  さて、お前たちに尋ねたい。

「洞山は打たれるべきであったか、打たれるべきでなかったか...」

  もし打たれるべきであった、と言うならば、木も草も全て打たれねばならぬ。もし打

たれるべきでなかったと言うならば、雲門は偽りを言ったことになる。ここのところが

はっきりうなずき得るならば、洞山と同じ禅に生き得るであろう。

 

   この無門禅師の評語は、3つの段落に分かれています。最初の段落は、無門禅

師の活躍した宋の時代には、すでにこの雲門宗の法系が衰退していたことを挙げ、

雲門を非難しているように見えます。

  しかし、これは例によって激しくけなしながら、実は雲門の気概の大きな禅風を褒

めたたえているのです。が、一読しただけでは、どうも意味が錯綜しているように感

じてしまいます。しかし、ただそれだけの話だとしたら、無門禅師もわざわざ“無門関

・第十五則”として取り上げることもなかったはずです。

 

  さて、かんじんなのは第2段目です。

 

  是非の深淵で洞山は一晩苦悶した。夜が明けて彼が再び師のところに

やってきた時、雲門は彼の透関を助けた。洞山は直ちに大悟したが、彼は

十分に怜悧だとは言われない。

 

  無門禅師はここで、“是非の深淵で洞山は一晩苦悶した”と指摘しています。この

公案の最も重要な部分です。しかし、洞山は真理の真っ只中にありながら、なかな

かそのことに気付きませんでした。

  そして翌朝、さらに激しい叱責にあい、ようやく悟ります。このことで、彼は十分に

怜悧だとは言われないと指摘されたようです。しかし、この間抜けさは、何故か私達

にも近いものが感じられ、親近感さえ覚えます。

  うーむ...このあたりの呼吸は、意見も分かれるでしょうし、それぞれに味わい

深いものを感じます...

 

  さて、第3段目を考察する前に、“無門の頌(じゅ)”を先に考えて見ます。

                          ( “頌”とは・・・褒めたたえると言ったような意味です。)

 

   <4> 無門の頌(じゅ)/...口語訳               

 

獅子にはその児を教育する方法がある。

前に進むと見れば蹴倒してたちまち身を翻す。

意に反して洞山は再び打たれねばならなかった。

第一の矢はかすっただけだが、第二の矢は深く当たった。

 

  百獣の王の獅子は、わが児を千尋の谷に突き落とし、そこを登ってきたものだけを

わが児として鍛えると言います。雲門禅師も、この獅子のように洞山に対処し、60棒

を浴びせました。ところが洞山は、ただむなしく、その“痛棒”を受けるだけでした。つ

まり、獅子の児のように、千尋の谷を登って来る度量が無かったのです。

  そこで、洞山は再び打たれなければならなかったのです。つまり、一の矢はかすっ

ただけでした。しかし、幸いなことに、二の矢は見事に深く命中しました。

 

  さあ、これをどう考えたらいいでしょうか。確かに洞山は、無門禅師の一の矢をは

ずしています。数千キロを旅してきた、求道の激しさは分かりますが、もう一面では

凡庸な鈍さがあります。むろん、無門禅師は手厳しく指摘していますが、私のような

者には、むしろこの洞山の実直さ、凡庸さには親近感を覚えます。

  さあ、無門の評語の第3段に戻ります。

 

「洞山は打たれるべきであったか...打たれるべきでなかったか...」

  もし打たれるべきであった、と言うならば、木も草も全て打たれねばならぬ。もし打

たれるべきでなかったと言うならば、雲門は偽りを言ったことになる。ここのところが、

はっきりうなずき得るならば、洞山と同じ禅に生き得るであろう。

 

  さて、こう言っているわけですが、この“洞山の禅”とはどのようなものなのでしょう

か...伝記によれば、この大悟の後、洞山は喜び勇んで、雲門禅師にこう言ったと

伝えられています。

 

      この後...遠く人里離れた所で...

           一粒の米も、ひとかけらの野菜も、蓄えることなく暮らし...

                そこで、世界中の人々を導きます...

 

  洞山の喜びの大きさと、その意気込みが感じられる一語です。ここから、彼の禅

的な境涯を汲み取ってください。

  また、雲門禅師は洞山の大悟の証として、こう言ったといいます。

 

      お前は体は...

           椰子の実ほどの大きさにすぎないのに

                なんと大口を叩くわい...

 

  この雲門禅師の言葉にも、彼の人柄を感じ取ってください。さらに、仏道における

真理の体験的伝承という一事で、この師弟がなにものにもまさる固い絆で結ばれた

ことを知っておいてください...

 

     

       
    寒さの真っ盛りです。そして、春はもうすぐそこまで来ています...寒風も、桜の

季節も、春のそよ風も、全て禅でないものはありません。

  “直下に見よ!”とは、この“寒風”も“桜”も“そよ風”も、内外打成一片の自己の

内に見よということなのです。その真実があまりにも身近すぎて、その真っ只中にあ

りながら、なかなかそれが理解されません...           

  それにしても、また春が巡ってきます。春は命の季節です。頑張りましょう!

             ( 高杉 光一  2000年2月13日/4:45' )  wpe54.jpg (8411 バイト)   house5.114.2.jpg (1340 バイト)