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    < 無 門 関・第4則>      ・・・ダルマさんにはヒゲがない

              胡 子 無 鬚 ( こすむしゅ     

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 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆 : 高杉 光一

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No.5  胡人無鬚(こすむしゅ) ........<無門関・第4則>

           <2>  ...... 無門の評語

1999. 8. 6

1999. 8.16

 

 

   <1> 公案                        house5.114.2.jpg (1340 バイト)          

 

  或庵(わくあん)は言った。

「西から来た胡人(こじん)にはなぜ鬚(ひげ)がない。」

                        

                ・・・ 或庵曰く、西天の胡子(こす)、甚(なん)に因ってか鬚なき ・・・

 

  ここも、趙州狗子<無門関・第1則>のように、いきなりこんなことを言われても、何のこ

とかさっぱり分かりません。まず、或庵禅師と胡人(胡子/こす)とは何者なのかから考

察します。

  或庵禅師は、1108年に生まれ、1179年に71歳で没しています。無門禅師は、

或庵禅師が没してから4年後の1183年に生まれ、1260年に78歳で没していま

す。したがって、歴史的なスケールで見れば、或庵禅師は無門禅師とほぼ同時代

の、先輩といったところでしょうか。時代は、唐から宋の時代の末期(/南宋)に移って

います。

 

  ちなみに、正法眼蔵の著者/永平道元が中国に渡ったのは1223年の春、24歳

の時でした。ちょうど無門禅師が40歳の時であり、二人は同時代の中国の大地と禅

風を体験しています。学僧の道元はこの後、正師の天童如浄(てんどうにょじょう)と出会って

大悟し、修行のかたわら諸国を歩き回り、4年後に帰国しています。

  一方、無門禅師は46歳の時に“無門関”を刊行しています。道元が日本に帰って

から、二年後のことになります。ちなみに、この鎌倉時代になると、大陸の中国へ渡

るのはそれほど危険な大航海ではなくなり、かなりの学僧が海を渡っています。

 

  次に、“西から来た胡人(胡子/こす)とは何者なのでしょうか。これは西から来た外

人の意味ですが、インドから中国に渡った禅宗の“初祖・菩提達磨”のことを指して

います。

  さて、或庵禅師は...“ダルマさんには、何故鬚がないんだ”と聞いています。

かし、ダルマさんには、立派な黒々とした鬚があったはずです。ここでは何やら、

<趙州狗子/無門関・第1則と同じような匂いがします。この公案の命は...

     “甚(なん)に因ってか・・・何故・・・”

  ...にあると言われています。つまり、“何故、鬚が無いんだ”ということです。うー

む、それにしても或庵禅師も困ったことを言う人です。誰もが、ダルマさんには鬚が

あることを知っているのです。或庵禅師も、それを十分承知の上で、なぜ鬚が無いん

だと詰問しているわけです。

 

  ただし、これは禅問答です...或庵禅師の真意は、鬚が有るとか無いとかとい

う、二元論的な分別心を超越しろと言っているのです。“趙州の無字”のように、有無

を越えた「無」になれと言っているのです。

 

  ならば、自分自身が、ダルマさんの鬚になってみることです。そうなれば、有るも無

いもなく、ただ自らがそれ自体を、風のように吹き抜けていくだけです...

 

                                                 (1999.8.16)

   <2> 無門の評語...口語訳            

 

  禅の修業は、実践的な真の修行でなければならない。悟りは真の悟りでなければ

ならない。ここで、この胡人を自ら親しく明瞭に見得しなければならない。その時初め

て本当に彼を知り得るであろう。しかしもし、「親しく明瞭に(親見)」などと言えば、既

に二元に落ちる。

 

  ここは文字通り、禅の修業は、実践的なものでなければならないと言っています。

つまり、理論的解釈や、知的解釈に留まってはならないということです。

 

                    “二元的概念を越えよ...”

           “無になれ...”

“内外打成一片となれ...”

 

とは、言葉の上の話ではなく、実践せよということです。それが哲学的解釈に留まっ

ているならば、それは禅ではなく、単なる思想に過ぎないということです。

 

   <3> 智慧の道         

  宗教には、よく3つのタイプがあるといわれます。

       < また、宗教に接する人間にも、この3つのタイプがあるように思います。>

 

<1> 儀礼の道  (儀礼的宗教...犠牲、礼拝、苦行...)

<2> 智慧の道  (智慧や知識を中心としている宗教...)

<3> 信仰の道  (献身と愛...)

 

  これは古くはインドの思想家の分類に始まるといわれますが、よく言い得ているよ

うに思います。むろん、宗教とは多面性を持つものであり、一概に割り切る事は出来

ません。しかし、キリスト教が愛を説いていることはよく知られていますし、神道のよう

に礼拝や儀礼を重んじている宗教の風景もしばしば目にします。

  こうした中で、仏教とは“智慧の道”だと言われます。特に、釈尊が実在しておられ

た原始仏教においては、もっぱら“智慧の道”が説かれています。

 

<大乗仏教と小乗仏教>

 仏教とは、仏の教えであり、私たちが自ら悟りを開いて仏/仏陀の心境

を体得する教えです。しかし、そうなるためには出家し、非常に厳しい修行

をしなければなりません。しかも、そうしたからといって、全ての出家者が悟

りを得られるというものでもありません。つまり、仏教は比類のない素晴らし

い“智慧の道”を説く宗教ですが、それは同時に非常に難解なものでもあっ

たのです。

  さらにまた、大多数の出家することの出来ない人々、あるいは苦行に耐

えて悟りを得る能力のない人々は、一体どうすればいいのかという問題も

出てきました。つまり原始仏教では、超エリートの出家者集団の中からしか、

悟りに至る人は出てこなかったのです。しかし、釈尊の仏法がいかに素晴

らしい究極の教えでも、これでは大衆はついていけません。また、全員が出

家したのでは、社会が成り立ちません。

 

  さて...釈尊の入滅後、400年から500年を経た頃、大衆を同時に救

済するという考え方から、“大乗仏教”が興ってきます。この大乗仏教を説

く人々は、それまでの出家主義の仏教を、小乗仏教と呼んで非難しはじめ

たのです。大乗とは、“大きな乗り物”、“すぐれた乗り物”という意味であ

り、小乗とは、“小さな乗り物”の意味です。

  一方、小乗仏教の側は、自分たちの方が、釈尊の教えに忠実だと主張

しました。そして、自らを小乗仏教などとは呼ばず、“上座部仏教”と規定

し、その主張を譲りませんでした。こちらの主張も、理にかなっているように

思います。

 

  大乗仏教は、シルクロードをへて中国に渡り、日本に到達しています。

一方、小乗仏教は、タイ、カンボジア、ビルマ等の東南アジアで拡大しまし

た。

 

  私のように、出家者でもなく、たった一人で仏道を独学している者には、自力本願の

上座部仏教/原始仏教の方に親近感を覚えます。ただし、出家者でない身であってみ

れば、宗教的信仰心というものが極めて希薄であり、寺も神社も一緒に拝んでいます。

むろん、時の熟成を待てば、身も固まってくると思いますが。

 

  この大乗仏教と小乗仏教の違いは、“釈尊”の捉え方にもあらわれてき

ます。小乗仏教では、原始仏教における“人間・釈尊”をそのまま捉えてい

ます。しかし、大乗仏教では、仏陀を超越的な存在に据え、釈尊はその化

身と考えます。いずれにしても、大乗仏教は出家できない在野の信者を中

心に結成されてきた仏教であり、弱者をも一緒に救済して行くものです。

 

  ところで、禅宗の初祖・菩提ダルマは、海路で南方中国に入りました。イ

ンドを出発して3年余りの苦しい航海の後、梁(りょう)の国の広州に到着して

います。西暦520年9月21日と伝えられています。そして、南方中国から

北方中国へのぼり、魏(ぎ)の国に至っています。ダルマはそこの嵩山(すうざ

ん)の少林寺にとどまり、終日壁に向かって座禅していたといわれます。こ

れが“壁観バラモン”と呼ばれ、“9年面壁”といわれます。この間、禅宗の

2祖・慧可を得ているわけです。    <無門関・第41則/達磨安心>

 

 

  さて、“智慧の道”ということですが、晩年における釈尊は、しばしば弟子たちにこ

う言っています。

 

「比丘たちよ、ここに汝らは、自らを州とし、自らを依拠として、

他人を依拠とせず、法を州とし、法を依拠として、他を依拠と

せずして、住するがよい...」

 

  これは、あえて説明する必要はないと思います。そして、これこそが<智慧の道>

なのです。つまり、釈尊が最後に、くり返し弟子たちに言ったのは、神の前にひざま

ずき、許しを請う道ではありませんでした<儀礼の道>。また、神に献身し、その神

によって救われようという道でもありませんでした<信仰の道>。求めるものはた

だ1つ...自らに依拠し、法に依拠し、智慧を用いて、ただ一人で歩んで行け、とい

“智慧の道”だったのです。

 

( これは素朴な原始仏教の姿であり、大乗仏教では膨大な大河となり、全てが含まれます )

 

 

            次回は、<無門関.第5則/香 厳 上 樹>です。ご期待下さい。