「岡田です...
私たちは人生の中で、不慮の事故に遭ったり、不意の偶然が重なり、重い感染症
にかかったりします。また、何かの加減で、自らの内部から、病気を発症することも
あります。
あるいは、自分自身という個体を超越した所...超個的(トランスパーソナル)な
領域から、自分の肉体に病気が発現するような場合もあります。親の代からの遺伝
因子等が色濃くからんでいる病気などは、これに当ります。それから、地域特有の風
土病なども、やはりその生態系における、運命的な要素というものを感じます...
さて、私たちはまさに、そのような海の中で、“私が私であり続けるために!”、エ
ントロピーの増大(熱力学の第2法則)と戦っています。それが“命の姿”の、1つの側面で
す。“私とは何か?”と考える以前に、“すでに、私はここに存在していた!”のです。
この眼前の事実は、私たち自身には、如何(いかん)ともしがたいものがあります...
そして...その、“人生の旅路”では、様々な艱難(かんなん/つらいこと)が、私たちに
降りかかって来ます。特に、中高年になれば、色々な身体的な不具合が出てきます。
ここでは、私自身のこと、私の身の回りで起こっていることを中心に、独自の視点か
ら、病気について考察して行きます...
むろん最後には...私たちは、1人残らず、その寿命を受け入れる事になりま
す。まさに、千差万別、様々な想いの中で、個体の死は、確実にやって来ます。それ
は、ちょうど、木の葉が毎年生れ変るのに似ています。人間社会の中で、猛烈なスピ
ードで、個体が新陳代謝しているわけです。
孔子(こうし/中国の春秋時代の、儒学の祖)は...
“逝(ゆ)くものは斯(か)くの如きか、昼夜を舎(お)かず”
...という、有名な言葉を残しています。まさに、膨大な数の命が、その数々の尊
い想いが...私たちの日常的な感覚以上に、轟々たる大河の流れとなって...歴
史の彼方へ、そして波動関数の闇へと沈んで行きます...私たちは、その大河の
淵で、ただひたすら、呆然と立ちつくすのみです...
一方...個体の命にたとえる木の葉は、このように激しく新陳代謝していても、
樹木の本体の方は、安定した命を守り続けています。木の葉から、しっかりと光合成
によるエネルギーを補給し、静かに実を結んで行きます。この“プロセス性”の中にこ
そ、“命の本質”があります。
命は、“失われて行くもの”であると同時に、“継承されて行くもの”でもあるので
す。そして、また、生態系のヒエラルキー(階層組織)の中で、樹木という個体もまた、確
実に新陳代謝しているのです。つまり、我々の住むエントロピー増大宇宙の中では、
この“新陳代謝”が、“命!”のカギの1つになります...
新しい構造物やエネルギーを自らの中に取り入れ、エントロピーを排泄することに
よって“同調”し、安定を保っているわけです。現在観測されている命とは、“この形
式”のみです。
それを、さらに広い視野で眺めれば...樹木というものの上位には、“種”という
ものがあります。そして、生態系の中では、その“種”も、確かに新陳代謝している
のです。“生きた化石”などと呼ばれる“種”は、非常に希なケースと言えます。
それにしても、“生命体”、“生態系”、“生命圏”という解放系システムは、明らか
に“進化というベクトル”の上を流れているように見えます...その、“命!”の本質
は何なのか...
私は、その“プロセス性”と、“高次元宇宙への広がり”ゆえに...不可分の命と
いうものに、“36億年の彼”という“人格”を与え、“方程式”に入れてました...現
在は休止していますが、いずれこちらの方の考察も、進めたいと思っています」
「さて...『チベットの死者の書(/バルド・ソドル)』の巻頭文に、こう書かれてあり
ます...
“彼の意思に反して人は死ぬ...死ぬことを学ぶことなく...
死ぬことを学べ...そして汝(なんじ)は、生きることを学ぶだろう...
死ぬことを学ばなかった者は、生きることを何も学ばないだろう...”
.........『死ぬ技術の書』より
このページでは、“健康と病気の管理”というタイトルとは別に、もう1つ、非常に
重要なテーマがあります。それは、“死を学ぶ!”ということです。むろん私も、まさに
それを学びながら、この時、この時代を生きているわけです。どうぞ、今後の展開に
ご期待ください!」