第二章 カルタゴ


1.カルタゴ

 カルタゴとは、スペルアウトすると「Carthage」となる。これは現在でも変化していない。フェニキア人が西方の拠点としてここを建設した時、彼らはこの街をフェニキア語で「新しい街」、すなわち「Quart Hadacht」と呼んだことから来ている。英国人がアメリカ大陸に入植した際に、「New〜」と名付けた街が多かったのと類似した現象と言えよう。
 現在では、チュニジアの首都、チュニスの北東、電車で20分の距離に位置する閑静な高級住宅街になっている(*地図3)。最寄り駅や通りに使用されている呼称の中には、名将ハンニバル(*1)の名も見え、歴史的、叙情的、懐古的な雰囲気を感じさせるのに十分である。さらにそこを訪れる観光客にとって嬉しいことには、カルタゴのあの伝説的な港、商港と軍港の跡の地形が見事なまでに残されていることである。フェニキア人が伝統的に築いた円形と矩形を組み合わせた独特な形(写真1)が残されているのである。紀元2世紀のギリシャの歴史家、アッピアノスがカルタゴの港に関する記述(*2)を残して以来、何世紀にも渡って、そのいかにもという地形が少なくとも直感的には、そこを訪れる者に「カルタゴだ、港だ」という確信を抱かせ続けたのである。そして、1974年のイギリスの考古学隊の調査によって、そこが実際に港として使われていたが証明されたため、現在では”直感的”という留保を付ける必要なくなっている。古代、地中海交易の覇者として君臨したカルタゴの中枢であるはずの港が、これほどの大きさで済んでしまうのか、というのが私の最初の印象であった。周囲に観光客もなく、従って観光客相手のうるさい現地人がいるわけでもないシンプルな港の跡は、カルタゴのたどった栄華と滅亡という歴史を感じさせるのに十分であった。

2.歴史

 カルタゴの歴史は以下のような伝説的な寓話によって幕を開ける。
 テュロスにはその頃、エリッサ(*3)という王女がいた。王女にはピグマリオンという弟(一説に兄)とアケルバスという叔父がいた。叔父は裕福で、王女は彼を結婚相手に選んだ。弟は王位と叔父の財産を狙って叔父を暗殺した。王女は弟に殺されると思い、部下と財産を船に積み地中海へ乗り出した。キプロスに立ち寄りそこの神殿娼婦(*4)を乗せ、数日の航海の後、現在のカルタゴの地へ着いた。エリッサは土地を得ようと、現地のリビア人にこう言った。「この牛皮と牛皮で囲えるだけの土地を交換しましょう。」相手は喜んで申し出を受けた。エリッサは牛皮を細く細く刻んで広大な土地を「囲んだ」という。
 富の都として栄えることになるカルタゴの建国伝説として相応しい、たくましい狡猾さをも表現に組み込んだ寓話である。現在でも地名として残っている「ビュルサの丘」の「ビュルサ」は「牛皮」の意味だという。とすると話しのオチが見事につくところだが、実際は、牛皮を意味する「ビュルサ」はギリシャ語であるから多少おかしい。彼らはフェニキア語で新都市の地名をつけたはずだからである。それで、フェニキア語で「本拠」という意味の「bozra」が長い間に訛ったと考えられている。
 カルタゴの建設の年代は814 B.C.ということになっている(*5)が、特に確定的ではない。が、西地中海沿岸に位置する他のフェニキア系植民都市の建設時期が10〜9世紀のものが多いので、カルタゴの場合もこれに準えることが可能であろう。カルタゴの歴史については建国後しばらくは不明な点が多いが、前500年頃からは次第に明らかになってくる。
 前550年、カルタゴはシチリアの領有を目的として大軍を送り出す。島のかなりの部分を領有したが、サルディニア島領有にまで手を伸ばしたために、ギリシャ・サルディニア連合軍に敗れた。ローマとシチリアを争う以前にも既にギリシャと争っていたのである。
 その後、前530年頃からマゴ家の支配が始まる。マゴ「王朝」と表現する研究者もある。マゴは実際には将軍で非常に裕福な貴族の家長であったと考えられている。以後150年ほど軍事指導者を中心とした「王朝」が生まれた。しかし、王政が現実にあったとして、マゴがカルタゴの王位に就いたかどうかという点は疑問視されている。そもそもカルタゴの「王」については、(1)古くから王政はなかった、(2)古くは王はいたが廃止された、(3)王政は昔から続いていた、の三説に別れ、今なお定説はない。正確には「ショフェット」(*6)と呼ばれているその王は、現実には行政長官のようなものであったと考えられている。当時のギリシャ系都市では数多くの僭主が登場していたが、カルタゴでは全歴史を通じてその成立への試みさえ三例を数えるのみであり、しかも一つも成功していない。ギリシャ系都市と比較すると大変興味深い。カルタゴ史を通じて国政の大変革はあまり見られないだけに、マゴ家が軍政改革を行いそれにともない軍指揮権を持ち続けたということは、国政に関わる問題として注目に値しよう。
 カルタゴの傭兵制を創設したり艦隊を建造したのはマゴだと言われている。傭兵制はカルタゴ人の絶対的人口の少なさ(*7)から結局の所必要であったろう。艦隊に関してもマゴが推進した対外拡張政策に必要不可欠であった。対外的な拡張政策は、カルタゴの側から帝国主義的な発想から行われたのではない。この頃から、ギリシャ人の地中海沿岸への植民活動がさらに盛んになり、西フェニキアとしてのカルタゴの勢力範囲に食い込んで来るようになり、カルタゴは半ばそれに対抗する形で外に出て行かざるを得なかったのである。すなわち、この頃から純粋な交易都市国家から西フェニキアの盟主として、国際社会の中に組み込まれていくのである。それとは、別の側面として、有名なハンノの巡航(*8)は425B.C.に行われている。これ以前にも600B.C.頃に紅海を南下してアフリカ大陸づたいにさらに南下して、喜望峰を回って北上し、ヘラクレスの柱(*9)を過ぎて3年かかって帰国したという記録をヘロドトスが残している(*10)。この中には、この周航中に日の出や日没の位置が自分たちの位置より北側に見える、という記録があり、彼らが南半球に到達したという強力な証拠を与えてくれる。カルタゴの大航海時代と言われる時代である。アフリカ周航の逸話はにわかには信じ難いが、その他にも、フェニキア人がアメリカ大陸へ進出していたという話もあるくらいだから、偉大なる航海者を象徴する逸話としては許されるべきであろう。
 話しを元に戻すが、カルタゴの拡張主義は特にシチリアで繰り広げられた。シチリア島部はギリシャ系都市となり、西部はフェニキア系という図式が完成していた。カルタゴはシチリアへ侵略を繰り返し、405B.C.にはシラクサを除くシチリア全島の支配を確立している。同時にこの頃マゴ家の支配の終焉を主張する学者が多い。次いで、345〜337年までシラクサのティモレオンと戦い、前4世紀末にはシラクサの僭主アガトクレスとの抗争を繰り返している。このように他にも細かくシチリアを舞台とした勢力争いが続くが概してカルタゴは優勢で、本国を戦火にまみえさせることもなく、前3世紀頃はカルタゴ文化の華の開いた頃とする論者もいるほどである。
 古代地中海史における一大契機となったポエニ戦争(*11)も、このシチリアにおけるカルタゴの権益の問題と密接に関連して引き起こされるのである。誤解を恐れずに極めて端的に言えば、ローマとカルタゴがシチリアで衝突したことが契機となっているのである。将軍ハンニバルがアルプスを越えたのも、ローマ軍がそれまでノウハウのなかった海軍を創設する羽目になったのも、両国がシチリアを挟んでいたためだと言って過言ではないだろう。ローマは当初カルタゴほど有力な国家ではなかったが、周囲の都市を取り込んでいくに従って急速に勢力を伸ばし、地中海沿岸諸国の中でも覇権を狙える国になりつつあった。カルタゴの過ちはローマが大きくなろうというときに強大であったことだ、と評した歴史家もいる。イタリアとシチリアは近い(ご存じの通り、現在は列車がまるごと船に乗って海を渡るので、イタリア本土から直通で行ける)。カルタゴとシチリアも近い(フェリーで6時間ほどである)。両者が勢力拡大を図る場合、単純に地理的な問題として、衝突するのはほとんど回避不可能であったろう。
 265B.C.、シチリアの都市メッシーナ(*12)の代表者は、同じくシチリアの都市シラクサの攻撃にさらされ、ローマに援軍を求めた。カルタゴに求めるか、ローマにお願いするか、迷ったあげくの決断であった。ローマは、(1)海外へ軍を派遣するのが初めてであること、(2)メッシーナと同盟関係になかったことを考慮して迷ったが、結局、翌年派遣することにした。カルタゴはローマのシチリアへの進出を懸念して軍を派遣し、第一次ポエニ戦争が始まった。ことに長年カルタゴ側についていたアグリジェント(シチリアの一都市国家)がローマに攻め落とされてからはカルタゴも後に引けなくなり、全面的な戦争になった。結局この戦争は23年も続き、ローマに海軍と初の海外属州を創設させることになった。カルタゴの方もそれまで自信のあった海軍をして敗れたことは大きな転換点となり、また、シチリアを破棄せざるを得なかったのは大きな代償となった。
 これに続く、第二次ポエニ戦争の原因についてはローマ側に帰するかカルタゴ側に帰するか議論が分かれるところである。第一次ポエニ戦争でシチリアを失ったカルタゴはスペインに進出した(238B.C.)。瞬く間に勢力を拡大して一大拠点とすることが出来たのはさすがカルタゴというべきであろうか。ともかくカルタゴとローマはスペインにおける勢力範囲に関してある取り決めをしていた。それは「エブロ以南は(ローマ)は関与しない」(*13)というものであった。当時、スペインの総督であったハンニバルは、エブロ以南のローマの同盟都市という、地理的にも政治的にも非常に微妙な立場にあった同盟都市サグントを攻略したのである。当初ローマは軍を派遣することなく抗議をするに止めたが、ハンニバルがこれを入れずサグントが陥落すると、ローマはカルタゴに対して宣戦を布告する。こうして第二次ポエニ戦争が始まるのである。
 218B.C.、ハンニバルは全軍を率いてカルタヘナ(*14)を出発した。有名なハンニバルの遠征である。特にカエサルの時代(*15)には、既に彼の侵攻ルートについて様々な議論がなされていたほどで、古くから歴史に関心のある者の好奇心をかき立ててきたのであろう。日本の話しで言うとちょうど、邪馬台国の位置を比定するとか、義経の伝説を追う作業にも似た”古代ロマン”だったのではないだろうか。
 ルートの話しは別にして、ともかくハンニバルはアルプスを越えてイタリアに「北から」現れた。象を連れていたと言うから驚異的なことである。イタリアではカンネーの戦いをはじめ勝利をおさめ、一時はローマの有力な同盟都市であるカプアを離反させるほどであったが、都市ローマ本体には侵攻することが出来ず、膠着状態が続いた。結局、スペインでハンニバルへの援軍が敗れたりローマがカルタゴ本土に軍を派遣したことから、ハンニバルもイタリア半島から退却せざるを得なかった。カルタゴ本土に戦いの場を移してからは早かった。ザマの会戦でスキピオ(*16)がハンニバルを破ったことが、決定的な敗因となってカルタゴは降伏した。202B.C.のことである。
 カルタゴは莫大な賠償金と軍備の大幅な縮小、植民地の破棄、ローマに無断で武力を行使しない、などの条件を飲んで降伏したが、50年も経つと少なくとも経済的には復興した。ローマの元老議員でタカ派のカトー(*17)はカルタゴに全く関係のない議題で演説した後でも、「とはいえ、私はカルタゴは滅ぼすべきだと思う。」と付け加えたというエピソードは有名であるが、これはいかにローマがカルタゴを潜在的に恐れていたかを象徴している。カルタゴは既に海外領を破棄しアフリカの経営に専念していた。以前の戦争で結んだ条約は確実にカルタゴの動きを束縛していたはずである。そういう意味で、ローマにとってカルタゴは現実的にはそれほど脅威であったとは思えないが、塩見七生氏は著書の中で「過去への強迫観念から自由になれない(ローマ)」を指摘している。ハンニバル以降、イタリア半島本土を外的勢力に荒らされることなかったローマにとって、最初で最後の屈辱だったのであろう。だが、だからといってローマがそれだけのことでカルタゴに軍を派遣することは出来ない。最後の正当性はカルタゴの方から与えてくれる必要があった。
 カルタゴは第二次ポエニ戦争の講和条約によって、武力行使に際しては、ローマの承認が必要となっていた。しかしたびたび国境を脅かす隣国ヌミディア(*18)に、カルタゴも我慢できなくなり、軽率にもヌミディアに侵攻してしまうのである。これは客観的に明白な条約違反であった。
 ローマはすぐさま軍を編成しカルタゴも直ちにローマの許しを請う使者を派遣した。しかし、ローマは許さず全ての武器と攻城器の提出を求めた。カルタゴは応じるしかなかった。するとローマはさらに首都カルタゴの破壊と海岸から10ローママイル(=約15キロ)離れた地点への移住を命じた。船舶による交易を生業とする彼らにとっては、飲めない条件だったのだろう。カルタゴは町中で女性の髪の毛まで利用して武器を作り反ローマに燃えたという。149B.C.のことである。驚くべきことにそれから3年間も、市民を総動員してカルタゴは持ちこたえたが、ついに146年陥落する。
 ローマ軍は城壁も神殿も住居もことごとくを破壊し尽くし、後に人が住めないように、この地で作物が実らないように、呪われた地となるように、土には塩が撒かれた。それ以後しばらくはウティカに駐在する総督に統治される属州の一部になった。カルタゴの名前は表に出てこなくなり「属州アフリカ」と呼ばれるようになるのである。


3.社会

 カルタゴの国としての制度は歴史家の称賛を浴びるところである。王政、貴族政、民主政の混交体と表現されるその体制は、元老院があり、民会があり、任期を一年とする二人の行政官が存在した。国全体を危機におとしめるような内乱は生じなかったと言える優秀な国体であった。ローマでよく見ることになる、貴族と平民の対立という構図も見られなかった。カルタゴでは貧富の差が非常に激しかったことを考えると、非常に不思議なことではある。軍隊を掌握する将軍は民会で選出された。傭兵軍が反乱を起こしたことはあったが、大事に至っていない。また、遺跡の発掘結果によると、家々は同じ形のものが多く、またビュルサの丘の住居は斜面に沿って計画的に建てられたことが見て取れる。後背地で行われた農業に関する知識は、ほとんどカルタゴが残した唯一の著作と言っていい、いわゆる「マゴの農業書」に集約され、フェニキア人から受け継いだ彼らの技術的な関心の高さを強力に証明している。
 また、その社会全体を見渡す時、彼らの大きな特徴としておおむね禁欲的である点が指摘できよう。結婚と言えば一夫一妻が主流だったようで、墓地には夫婦二人が一緒に入っていることが多い。さらに、例えば、ハーレムのようなものがあったとする記録はなく、かなり性的な面で強い倫理が働いていたと考えられる。ギリシャでは若い健康的な肉体が礼賛される一方で、カルタゴでは東洋的な雰囲気を維持して裾まである長い服を着た上に、頭も帽子や日よけ布で覆っていたという。実際は、気候上の問題からそうしたのであろうが、他国人にとっては大いに異国情緒と感じる光景であったであろう。また、少なくとも上流階級では、女性の地位はかなり高かった。禁酒という社会的制約もあったとされている。
 教育については彼らは熱心で、「カルタゴの子供たちは、早いうちから世の中に出る訓練を受け、勤勉に働き、過ちを犯さないようにと躾けられる。」(*19)と皇帝ユリアヌスは語っている。人口の少なさをカバーする目的で傭兵軍が主流となったが、カルタゴを担う貴族たちはその子弟を軍隊に入れることを厭わなかった。
 こうして見てみると全体的にかなり文化的と言える。文化的という語が多少曖昧であれば、少なくとも野蛮な要素が排除されている、と表現した方がよいかも知れない。洗練されたと言っては言い過ぎかも知れないが、政治制度から技術的な側面に至るまで、合理的で、静的な印象を受ける。静的なというのは、文字通り静かなという意味であって、何か、強い倫理的な基準に従って行動しているかのようである。つまり、個人個人の強い欲望であるとか、勝手気ままな振る舞いは全く許されないような印象を受けるのである。ギリシャ人を始めとする同時代人がそうした印象をさらに強く受けたであろうことは、記録にも表れているし、想像にも難くない。
 問題はこうした個人個人の勢いの感じられない社会にあって、何故、個人個人の欲望が原動力となっているはずの交易に熱中していたかである。フェニキアの時代には語られない社会の様子を、カルタゴの様子から想像することができるだろう。フェニキア人もカルタゴ人のそれとそれほど違った生活をしていたとは考えにくい。


注釈



(*1)ハンニバル、Hannibal、247−183 B.C.:
 カルタゴの将軍、政治家。父親に伴われてカルタゴからスペイン(当時スペインはカルタゴの有力な植民地であった)に行き、父親と義兄ハスドルバルの後を受けて、221年、スペインの指揮官となる。218年にローマの宣戦布告を受けて、ローマに向かって進軍を開始。これが第二次ポエニ戦争である。その行軍でのアルプス越えは特に有名である。イタリア半島に侵入した後も大いにローマを悩ませたが、補給が思うように行かず、ローマの反撃を受けて敗退した。彼は古代においてはアレクサンドロス大王にも並ぶ戦略家として知られているが、その一生は必ずしも恵まれたものではなかった。

(*2)2世紀のギリシャの歴史家アッピアノスの記述は以下の通り。
「軍港と商港は互いにつながっていて、外海から入港するには、幅70ピエ(約23メートル)の水路を通る。この水路は鉄の鎖で閉ざされるようになっている。最初の港は商船用で、ここには種々雑多な係留用ロープがある。この奥にあるもうひとつの港の中央には島があって、この島と港は大きな突堤で囲まれている。この突堤には220隻分の船台と、索具用の倉庫が取り付けられている。各船台の前にはイオニア式の円柱が2本ずつ建っているので、港と島の周囲は柱廊のような趣を呈している。島には提督の宿舎があって、ここからラッパでさまざまな合図を送る。」

(*3)「エリッサ」とはセム語で「女神」あるいは「愛すべき」という意味であるという説がある。また、他の記録では王女の名は「ディドー」と語られているが、これは現地リビア人の付けた渾名で、「漂泊の人」「旅人」という意味だそうである。いずれにせよ、いかにも伝説的な名前である。

(*4)「神殿売春」あるいは「非処女化儀式」とも言われた儀式のために、神殿にいた巫女。見知らぬ男性と交わることが制度化されていたので、我々の価値観からすれば「娼婦」的と言えるが、生殖という自然現象を儀式にまで昇華させた神聖なものだと考えられている。

(*5)ギリシャの歴史家、ティマイオスによる数字でかなり広範に流布しているが、考古学的な結果、放射性炭素年代決定法では、前735年ごろ以前の遺物は得られていない。

(*6)フェニキア系都市の最高権力者については、王政であったとするのが有力であるが、よく分かっていない。アリストテレスによると、カルタゴの国家元首は「シュフェーテス」と呼ばれていた。フェニキア語の「シュフェーテス」はヘブライ語の「schofet」と同じ語で、ヘブライ語では判事、法官という意味である。

(*7)カルタゴの人口は最大に多く見積もられた例で70万である。しかし、ローマ軍に滅ぼされたときに生き残ったのは、5万人とされ、城壁で戦ったのは3万人程度とされているため、全体でも20万人くらいであったというのが妥当ではないだろうか。そこから考えてカルタゴの最盛期(前3世紀)であっても、外国人、奴隷を含めて40万程度であったと思われる。帝国的な拡張を維持し、ローマを相手に戦争をするには絶対的に少なかった。

(*8)ハンノの巡航として知られている。前425年頃、ハンノは50のオールをつけた船60隻に3万人の男女と食糧を積み込んで出発した。カルタゴを西に向かい、ジブラルタルを過ぎて、西アフリカ海岸沿いに南下、現在のカメルーンまで達したと考えられている。その記録の現実性を巡っては、考古学的な見地からだけでなく、人間の思考や想像力の研究という立場から研究がなされるほどである。(*地図参照)

(*9)現在のジブラルタル海峡のこと。ジブラルタルには一目見てそれと分かる大きな岩がある。古代ギリシャ人は、ヘラクレスが地中海世界の境界を示すために建てた2本の柱の一つと考えた。対岸モロッコ側にもそれらしい丘があって、そちらは「ジャバル・ムーサ」と呼ばれている。

(*10)カルタゴ人は、嵐の季節になると上陸し、麦の種をまき年を越し、麦の取り入れが済むと再び航海を始める、というパターンを繰り返し、出発してから3年かかって再び地中海に戻ったという。ヘロドトス自身、「余人は知らず私には信じ難いことであるが」と断った上で記述している。(ヘロドトス、『歴史』中巻、松平千秋訳、岩波文庫、p28参照)

(*11)「ポエニ」はラテン語で「フェニキア」を意味している。それで、ローマ人がカルタゴ人のことを呼ぶときに用いられることになり、彼らとの戦争もそう呼ばれるようになった。通例、カルタゴなどの西地中海沿岸に位置するフェニキア植民都市群が、フェニキア本土の勢力を凌駕するようになった後のフェニキアを「ポエニ」と呼んでいる。

(*12)シチリア東北部にある都市。イタリア半島から来るとまずこの街に着く。

(*13)この協約は226B.C.に結ばれたものである。当時、ローマとスペインカルタゴは直接に勢力が接していたわけではないが、ローマはマルセーユを始めとするギリシャ系植民都市と同盟関係を結んでいたために、こうした協約が成立したのである。それによれば、エブロ川以北にカルタゴは侵入してはならないことになっていた。同時にハンニバルが攻略したサグントはローマの同盟都市であって、エブロ川以南に位置していたのである。この微妙な位置が問題を複雑にしていた。塩野七生氏はこのハンニバルのサグント攻略は、ハンニバルがローマ側からの宣戦布告を狙ったものであると解釈している。(→「ハンニバル戦記」p103)

(*14)スペインにあるカルタゴの植民都市。「Carthage Nova」すなわち「新カルタゴ」が変化してそう呼ばれるようになった。当時、イベリアのカルタゴの本拠地であった。

(*15)カエサル、102/100-44 B.C.
 ローマの政治家、軍人。歴史に登場するのは、ハンニバルがアルプス越えをしてから一世紀ほど隔てた時代である。

(*16)ローマの政治家、将軍。若い頃より頭角を表し、第二次ポエニ戦争のザマの戦いでハンニバルを破ったことは有名。その征服した領土にちなんで「アフリカヌス」の尊称を与えられている。政治家としては当時のヘレニズム的風潮に傾倒し、タカ派のカトーと激しく対立した。

(*17)234-149B.C.。カトーは歴史上もう一人登場するので、こちらは大カトーと呼ばれている。ローマの政治家で、古人の質実剛健の生活を好み、スキピオに代表されるギリシャ文化礼賛する勢力、風潮を嫌い、激しく対立した。カルタゴに関しては、その経済的復興力の強さを実感し、演説の度に「ところで、カルタゴは滅ぼさなければならない」と締めくくったという逸話や、カルタゴ産のイチジクを議席に持ち込みカルタゴの繁栄を議員達の視覚に訴えたというエピソードは有名である。

(*18)ヌミディア:現在のアルジェリアにあった王国。カルタゴと国境を接し、度々国境問題が生じた。

(*19)アラン・ロイド、『カルタゴ』、p137参照。




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