第三章 交易活動


 フェニキア人の交易活動を見ていく時、現代に生きる我々としてはそれほど異常な印象は受けない。むしろ地中海を舞台にして、勇ましい商人、市場の活気などを連想して、彼らの活躍ぶりに称賛の声をあげたいくらいである。しかしながら、これは現代に生きる我々が「利潤」や「経済的に合理的」な思考パターンに馴染んでいるために過ぎない。営利行為を全くの是とする価値体系に浸かった人間が考えるからそうなのであって、さらにそうした価値体系というのは人類の歴史において決して多数派ではないのだから、その時代の人間として彼らの特徴を浮き彫りにするためには、むしろ現代の方が特殊な形態にあるということを改めて認識する必要がある。見方をフラットにしなければならない。


1.古代地中海の交易

 古代にあっては、交易活動において価格差をその源泉とした利潤を志向して行動するのは主流ではなかった。交易活動は、領主なり王なり何らかの権威によって依頼された結果として行なわれたのであって、現代のように自由な貿易が繰り広げられ、商人たちが市場で商品をさばくという形態はきわめて少なく、交易はもっと限定的な形態で行なわれていた。それを裏付ける事実をいくつか挙げてみよう。
 第一に、海外からやってくる品物は基本的に皆一様に非常に高価であって、支配階級に属する人々にしか手が届かなかった。例えば、フェニキアの代表的な輸出品は、その名前の由来とも言われている紫の布や木材であった。これらは非常に高価であって(*1)、しかも常識的に考えて、一般民衆の生活には通常必要のないものである。さらにエジプト産のパピルス(*2)やフェニキア産のガラス製品や金細工製品は、多少なりとも大衆的な性格を持ち得ないわけでもないが、それでも日常的に必要な製品では決してない。要するに”贅沢品”である。
 そのような状況の中では、海外の製品を大量に輸出入して利ざやを稼ぐというのは、現在とは比べられないほどの交易における危険性から考慮しても、現実的でないことが見て取れる。特に船舶を使った交易には非常に大きなリスクが伴った。後に偉大な航海の民と言われたフェニキア人でさえ、沿岸を1日航海して夜になれば陸に上がって安全を確保したくらいである。海賊行為も頻出していた。それよりはむしろ、王に保証を受けて品物を運び、その手数料を収入とした方が確実であったと考えることが出来る。言い換えれば、ポランニーの言う所の身分動機による交易への参加が主流であったと言うことである(*3)。古代の人々はこの種の合理的な思考パターンを必要としないほどに、交易に関して現代風に言えば管理的な要素を受け入れていたのである。
 第二に、これは考古学的な調査で明らかになったことだが、パレスチナ地域における都市においては、我々が考える市場を構成するような広い空き地が存在しない。470-460B.C.頃バビロンを訪れたヘロドトスは、「ペルシャ人たちは市場に通わない。実際彼らの国には市場が一つもない」と言っている(*4)。一般的庶民を相手に活発な商売が行われたのであれば、自然、市場が、少なくともそれに準ずる空間が必要と思われるが、遺跡にそのようなスペースが存在しないのである。そのような市場がないということは、継続的な商品の確保が必要ないということであり、そこから彼らの具体的な交易活動が散発的なものであったことが伺える。つまり、まず依頼があって目標が決定されてから彼らは目的的な行動をとったのであって、定期的に決まってある特定の場所へ行ったというようなことは無さそうだ、という予想がつく。全てが決定されてから出港したのである。
 第三点は貨幣の使用の問題である。貨幣が必要となる一つの契機として、市場における交換の発達があると考えられる。すなわち、端的に言えば、権威によって依頼された交易をしている限りにおいて、鋳造貨幣は特に必要とされない。貴金属や農作物が現実的にはそうした交換の尺度となる貨幣的機能を有していたのであるが、それはそれで鋳造貨幣とは別問題である。鋳造貨幣が出現する一つの背景として、市場のような空間があってそこで盛んに交換されるという状況があるだろう。しかし、貨幣が出現するのは、フェニキア系都市の代表であるシドンでも前400年頃になってからである(フェニキアがコインを使用するのは比較的遅い、ギリシャ人の方が早かった)。それまではそうした必要が無かったか、あるいは他の要因で使用されることがなかったのである。
 こうした点から、少なくとも我々が想像しているような市場の喧噪や顧客としての一般庶民は、古代の交易人にとっては必要ではなかったのではないかと考えざるを得ない。つまり交易は諸国の領主や王に依存していたということになる。街に市場的なものが全くなかったと言うつもりもない。日用品を交換する場としてそのような機能は必要だからである。しかしながら、ここでいう交易に限定して見れば、そうした市場とは直接関係がなかったのだと主張するに留めるものである。また、いくら利潤動機によらないからと言って、彼らが貪欲でなかった、というわけではないことは確認しなければならない。
 動機自体は、純粋に市場取引における価格差が生む利潤によるものではなくても、それは彼らの収入が利潤に依存していたわけではない、ということを表すのみである。彼らは依頼主からの報酬によって十分潤ったために行動したのである。その点において彼らの行動は商人として整合性を欠くものではない。むしろ、合理的であり、それは古代にあって自然である。我々が無意識に利潤至上主義という価値観を用いて彼らを見る時、我々自身の行動と古代における彼らの行動が、偶然的に合致するが故に、理解できてしまうのである。


2.フェニキアの交易

 フェニキア人の交易に関する具体的な資料は少ない。それは彼らが交易をする際に記録を残さなかったということでは、決してない。逆に、交易するためには記録が不可欠である。それでも記録が残っていないのは、そうした通常の業務における記録というものが、紙、当時で言えば、パピルスに残されたためである。王を記念したり、神に捧げたりする目的であれば、粘土板など比較的後世に残りやすい材質に碑文として記録することになり、従って現に残っているが、日常においてはパピルスが使用されたと考えられる。残っていないのはこのためである。結果として、彼らの交易の様子を知るためには、諸王の碑文、聖書などに当たるしかなく、出来る限り具体的にするために、そうした資料にあたっていこうと考える。
 彼らの取り扱った品物のリストが知りたいのであれば、エゼキエル書がいいだろう。エゼキエルはこのリストを「諸処の市場やバビロンの記録保管所で入手したのではないかと思われる。というのは、彼はほぼ紀元前600年ごろにバビロンに住んでいたからである。」(*5)ちょっと長いが彼らの扱った品数の豊富さを表す貴重な記録なので、以下に引用したい。
 「あなたはそのすべての貨物に富むゆえに、タルシシはあなたと交易をなし、銀、鉄、すず、鉛をあなたの商品と交換した。ヤワン、トバル、およびメセクはあなたと取り引きし、彼らは人身と青銅の器とを、あんたの商品と交換した。ベテ・トガルマは馬、軍馬、およびラバをあなたの商品と交換した。ローヅ島の人々はあなたと取り引きし、多くの海沿いの国々は、あなたの市場となり、象牙と黒たんとを、みつぎとしてあなたに持ってきた。あなたの製品が多いので、エドムはあなたと商売し、彼らは赤玉、紫、縫い取りの布、細布、さんご、めのうをもって、あなたの商品と交換した。ユダとイスラエルの地はあなたと取り引きし、麦、オリーブ、いちじく、蜜、油、および乳香をもって、あなたの商品と交換した。あなたの製品が多く、あなたの富が多いので、ダマスコはあなたと取り引きし、ヘルボン)の酒と、さらした羊毛と、ウザルの酒をもって、あなたの商品と交換し、銑鉄、肉桂、菖蒲をもって、あなたと取り引きした。デダンは乗り物の鞍敷をもって、あなたと取り引きした。アラビヤびと、およびケダルの全ての君たちは子羊、雄羊、やぎをもって、あなたと取り引きし、これらの物をあなたと交易した。シバとラアマの商人は、あなたと取り引きし、あなたの商品と交換した。ハラン、カンネ、エデン、アッスリヤ、キルマデはあなたと取り引きした。彼らは、はなやかな衣服と、青く縫い取りした布と、ひもで結んで、じょうぶにした敷物などをもって、あなたと取り引きした。タルシシの船はあなたの商品を運んでまわった。
 あなたは海の中にいて満ち足り、いたく栄えた。」(*6)
 引用中の地名が正確にどこに比定できるかという問題は、若干議論の余地が残る点もあるが、彼らがまさにどこにでも現れて何でも取り引きしたという様子が、非常にイメージしやすい記述になっている。
 交易は船で行われていて、当時の船はそれほど大きくなかったと考えられているので、当然のことながら交易品は軽くて高価なものの方が好ましい。フェニキア人もこのことをよく理解していたらしく、交易品はそのようなものが多かった。有名なフェニキアの布、パピルスなどは特にそうした性質に適っている。さらにフェニキアで加工された金細工、象牙細工なども非常に好まれた(*7)。ガラス製品も彼らの発明品では無かったが、優れた加工技術でフェニキアの発明品かのような風評を呼んだ。彼らは運んだだけでなく、まさに商業に特化していたと言えるだろう。ポランニーもフェニキアの民を「その交易には直接、間接に全人口が携わっていた。」(*8)と評している。
 あるいは、フェニキア系諸都市が交易を依頼された記録がいくつか残されている。ここでは、まず、テュロスのヒラムがユダヤ王ソロモンに神殿の建造を依頼された例を引用する。
 「主が父ダビデに「おまえに代わって、おまえの位に、わたしがつかせるおまえの子、その人がわが名のために宮を建てるであろう」と言われたように、わが神、主の名のために宮を建てようと思います。それゆえ、あなたは命令を下して、レバノンの香柏をわたしのために切り出させてください。わたしのしもべたちをあなたのしもべたちと一緒に働かせます。またわたしはすべてあなたのおっしゃるとおり、あなたのしもべたちの賃金をあなたに払います。あなたの知られるとおり、わたしたちのうちにはシドンびとのように木を切るに巧みな人がないからです。」(*9)
 「そしてヒラムはソロモンに人をつかわして言った、「わたしはあなたが申しおくられたことを聞きました。香柏の材木と、いとすぎの材木については、すべてお望みのようにいたします。わたしのしもべどもにそれをレバノンから海に運びおろさせましょう。わたしはそれをいかだに組んで、海路、あなたの指示される場所まで送り、そこでそれをくずしましょう。あなたはそれを受け取ってください。また、あなたはわたしの家のために食物を供給して、わたしの望みをかなえてください。」こうしてヒラムはソロモンにすべて望みのかなうように香柏の材木と、いとすぎの材木を与えた。」(*9)
 フェニキアとイスラエルは、フェニキアが紅海に抜けて交易を行なう際にどうしても通らなければならないという地理的な状況からも、友好関係が続いていた。上に引用した記録はそうした情勢を反映している。当時はフェニキアの方が先進的で、イスラエルは誕生したばかりの後進国であった。フェニキアが交易に突出していただけでなく、技術的な側面でも非常に頼りになる存在であったことが分かる。また、この神殿を建築するためにユダヤ王は、3万の木こり、7万人の運搬者、8万人の石工を用意したと言われるが、テュロスの方も単独では技術者を揃えきれずにビブロスやシドンにも協力を仰いだと考えられている。
 このように彼らを優れた航海者、技術者として描く資料は、具体的な記録ではないにせよ、存在する。いずれも彼らの偉大さを褒め称える内容と言ってよいだろう。ギリシャ人によってイメージが歪められるまではそうしたポジティブな側面から見られていたのである。偉大なる航海者として、フェニキア人はエゼキエルが書いたようにまさに地中海世界のどこにでも現れた。一説には、ジブラルタル海峡を越えて大西洋に進出し、イギリス南部にまで錫を確保しに行ったとされている。当時、既に鉄を扱う技術は知られており、当然フェニキア人も知っていたいが、それでも日常的に使用される金属としての青銅は不可欠であった。そのため、銅と混ぜ合わせて青銅を作り出す錫は貴重な金属であり、しかも地中海世界ではスペインを除いて産出する場所が無かった(銅はキプロスなどで産出された)。彼らはまさに地の果てまで交易品を求めて航海したのである。
 またもう一点、沈黙交易に関する記録が残されている。この記録はカルタゴ人の行動の記録として取られているが、この方法は言葉の通じない他民族と交易を行う一つの有力な方法であったろう。ヘロドトスが伝えている。これも多少長いが、省略して私が説明するよりはずっと簡略でより分かり易いと思うので引用する。
 「カルタゴ人はこの国に着いて積荷をおろすと、これを波打際に並べて船に帰り、狼煙をあげる。土地の住民は煙を見ると海岸へきて、商品の代金として黄金を置き、それから商品を並べてある場所から遠くへさがる。するとカルタゴ人は下船してそれを調べ、黄金の額が商品の価値に釣合うと見れば、黄金を取って立ち去る。釣合わぬ時には、再び乗船して待機していると、住民が寄ってきて黄金を追加し、カルタゴ人が納得するまでこういうことを続ける。双方とも相手に不正なことは決して行なわず、カルタゴ人は黄金の額が商品の価値に等しくなるまでは、黄金に手を触れず、住民もカルタゴ人が黄金を取るまでは、商品に手をつけないという。」(*10)

 以上のように、彼らが交易に熱中した要因の一つとして、古代的な報酬による利潤が指摘できよう。しかしながら、フェニキア人の広範な活動、交易に熱中する様を見る限り、それだけが、彼らを交易へと走らせる要因であるとは考えにくい。古代の固定的な交易に対して、彼らはより自由な交易を行なっていたのではないだろうか。彼らは何しろ売るために大量に作り出すくらいなのである。そういう意味で、プリニウスが言うところの「フェニキア人は商業を発明した」という言は的を得ている。基本的には、古代の他の交易と変わるところが無かったはずであるが、彼ら一人、地中海に進出し、商業に特化したのかは別の理由があるように思われる。他の民族における商人たちが右から左に運んで得られる手数料で満足している時代に、売るために他の民族の様式をコピーし、当時は地名ですら明確でなかったイギリスまで交易に出かけ、沈黙交易のような手段を用いてまでも「稼ぐ」というのは、異色どころか異常ではないだろうか。そこには、古代的な商業とは一線を画した姿が見受けられる。そうした点は当然のことながら、カルタゴにも受け継がれている。カルタゴ人の稼ぎ具合を知ることは容易ではないが、ポエニ戦争で敗れたカルタゴが、その都度易々と賠償金をローマ側が指定した年数よりも短い年数で完済してしまう様は、彼らの交易による利益、そして交易に励む彼らの姿を推察させて余りあるというものである。そして、そうした異常なまでの復興の仕方がローマ人を心情的に刺激したのであり、カルタゴの章で見たカトーの立ち振る舞いは、そうしたローマ全体の感情を象徴していると言えるだろう。


注釈



(*1)ある試算によれば、テュロス風の深紅色に染めた布(多くの場合中国産絹)は、現代の通貨で表すとすれば、布地1ポンドにつき約28000ドルに達したという。(ホルスト・クレンゲル、『古代オリエント商人の世界』、p275:M.A.Edey、The Sea Traders、New York、1974), p61)

(*2)原産地はエジプトであったが、それを商品として諸国に広めたのはフェニキアであった。ギリシャ人はパピルスがビブロスから出荷されるのを見て、その街を「ビブロス」と呼んだのである。我々が北京の外港にあたる天津から栗が出荷されるのを見て、「天津甘栗」と呼んでいるのと同じ現象と言えよう。天津近郊に栗がとれるような山はない。

(*3)ポランニーは「「遠方からの財の獲得」が行われるのはつぎの動機のいずれかによる。一つは交易人の社会内での身分に付随する動機で、通例、義務、もしくは公共の仕事という要素を含む場合である(身分動機)。他は、自分で行う売買取引から生じる個人的な物質的利得の追求のためになされる場合である(利潤動機)。・・・(中略)・・・こうして、義務や名誉のために交易するものは富み、汚れたもうけのために交易するものは貧しいままである。これは古代社会で利得のための動機が陽の目をみなかったもう一つの理由である。」(カール・ポランニー、『経済の文明史』、p280)と述べている。

(*4)カール・ポランニー、『経済の文明史』、p171参照。

(*5)ゲルハルト・ヘルム、『フェニキア人』、p122参照。

(*6)エゼキエル書 第27章12節−25節

(*7)象牙製品は家具に取り付けられたものが好まれた。家具は残っていないが、象牙の部分だけは残されている。金製品に関してもエジプトやエーゲ世界のデザインを取り入れて、一説によると、流れ作業方式で大量に製造した。金を”粒状”にする加工技術が特徴的で、1920年代に至るまでその方法が再発見されることは無かった。

(*8)カール・ポランニー、『経済の文明史』、p282参照。

(*9)列王紀上、第5章5節−6節
列王紀上、第5章8節−10節

(*10)ヘロドトス、「歴史」松平千秋訳、岩波文庫




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