詩想


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2004年11月分

自分の中心地


私はこの歳になってようやく自分の個性が分ってきた気がする。
ようやく自分の(コア)というか、私の一番深いところで稼動している
ベクトルを理解できた気がする。分類できた気がする。

元来、私はどうにも自分が、どうしようもなく無個性な人間であるような気がしていたのだ。


私は「何か」が理解できていないことがすごくプレッシャーになる。
だから、それはもう鬼気迫る勢いで、「全て」を理解しようとする。
Aさんの立場。Bさんの意見。Cさんの価値観。Dさんの考え方。Eさんの物の見方……
あらゆるものを理解、それも表層だけではなくて、深いレベルで共感しようとする。

そして、「よし全て分った。じゃあ私のしたいことは何なのか!」「私の好きなことって
なんだろう?」といった時に、何も思い浮かべることができなかったりする。
いつの間にか他人の思惑に振り回されたり、他人の視線ばかりが気になってしまったりする。

それがずっとコンプレックスだった。
何故、自分には、自分らしさの源泉になる“こだわり”がないのだろう?
なぜ自分には全ての価値観の中心に、確かな、自分のよってたつ足場がないのだろう、と。
振りたい旗が何もない。
何のために生きるのか? 何のための知恵なのか。
こつこつと打ち込んできた、一見くだらない趣味が大ブレイクして、一躍 脚光を浴びるような、
そんな自分の「好き」が全然ない、と。


しかしだな。
どうも大変な思い違いをしていたのではないか、と気付いたのだ。

あらゆるものが移り変わっていく中で、不変の真理を見つけようと、そう「自分の心」は
していたのだと。あらゆる可能性をあらゆる立場から疑ってみて、疑っていて、それでも
なお“ある”と認めざるをえない、そんな‘価値’を探していたのではなかったのかと。
自分の魂は……。

錯覚じゃない感情。
死ぬまで変わらない“好き”。
古びない服。
いらなくならない道具。
捨てたり売ったりすることに、ならない本やメディア。

そんなものが、元々そんなにあるわけがなかったのだ。
何もないように見えて当たり前だったのだ。


結局、ドイツのマイスターだかクラフトマンだか、なんかそういう人が丹念に作り上げ
たような(あくまでイメージです) 耐久消費財と、無印良品な生活必需品と、100均で
買ったような雑貨があれば、生活は回るのだ。
それだけで、十分だったのだ。

食事はリーズナブルに各種栄養素がとれていればそれでいい。
芸術は、子供のころに鮮烈な印象を受けたあれとこれとが、きちんと大人買いして
揃えてあれば大丈夫。


そう。
それこそが私の価値観で。
それこそが、私の“こだわり”だったのだ。
何もないと思っていた場所に、実はちゃんと、確かにあったのだ。
ずっと昔から。
ちゃんと変わらずに……


これが私の個性だった。
これからはこれをかかげていこう。
この光で道を照らして行こう。
地味でもいいのだ。
あやうさや色気はなくてもいいのだ。
極端に健全で、それでいて洗練された、

それこそが私のstyle。


<2004.09.26>