詩想


MindMinority トップへ
最新ページへ
:>

2004年11月分

攻撃的睡眠時間


今日はもう寝よう♪


今日はもう寝よう。さっさと寝てしまおう。
何事も腹八分目が大切ってね。

まだ体力はのこってる。
時間も1時間か30分か、使えないことはない。それほど眠くもないし。
でも、もう寝ちゃうの。

人間の体力の回復量は決まってるんだから! いつもいつも限界まで使い切ってから
寝てたんじゃそのうちジリ貧になっちゃうぞ♪
と言うわけで今から寝る。私は寝る。今日残ってる体力を明日にまわすのだー。

でもさ、こうやって明日を、早く早くに来させるようにしていた方が、気持ちも前向きに
なっていかないかな?
疲れた頭はろくなことを考えないしね。
早く寝た分、朝は早く起きられるんだし。
やり残したことがある分、明日が待ち遠しいのだし。
今日やれなかったことは明日やればいいのだ。

だから。
今日には、もう、十分に感謝して満足して、そうしてさっさと寝るのだ。

<2004.11.05>




株式会社藤海日之輪


私はそろそろ小説執筆の世界に舞い戻らねばな、と考えている今日この頃なのですが、
皆様はいかがお過ごしでしょうか……

このサイトを見に来てくれている方は、ほとんどの人が私の小説を読んで
そこから興味を持ってくれた方だとは思うけれど。
それでも、このサイト自体にもある程度はおもしろさを感じているからこそ、頻度の
差は人それぞれあっても見てくれているのだと、私は思っています。

だから執筆モードに入ってしまって、サイトの更新がほとんどできなくなる、
という状況が、実は結構、心苦しい。

すいません、また半年以上は氷付けになると思います……


更新の遅いサイトで申し訳ない。
ただ、私の側では実はこのスピードはそれ程、理想とかけ離れたものではなくて、
ある意味では予想どおりに運営されているとも言えるのですね。

日記ですら、更新が遅いことを前提に書かれている。
私だって(いくらこんな人間だといっても)身の上にちょっと変わったことがあった時、
誰かとそれを共有したくなることもあるのだけれど。
それを一度やってしまって、一回あたりの内容が薄くなってしまうのは「コンテンツ
としての日記」、としてはどうなのだろう、ということでそれは控えてきた、という裏も
あるわけです。(寂しかったよ〜)


そして、今から書く小説は新人賞投稿用として書くわけですけど、これは
一発で通る保証はどこにもなくて、一発で無理なら二発・三発といくしかない。
よしんば書いた小説が新人賞を受賞したとしても、しばらくは兼業作家なわけで、
かえって今よりも忙しくなる。
仮にプロ一冊目二冊目が順調に売れて専業作家になれたとしても、専業転向
一・二年目なんて地位固めのために鬼のように書きまくらないといけない時期な
わけで、このサイトの更新速度が今より上がるなんてことは、たぶん、当面
考えられない。

もしこれが加速することがあるとするなら、それは私の小説が「一発当たって」
その収入で藤海プロ、というか「メモリー・メーカー!」が有限or株式 会社化
した場合だろうな、などと思っています。
勿論、会社とは言っても、事実上その収益は私の小説の売り上げのみで上がって
いるわけで、その収益の中で、社長である私を含めた全社員の給料をひねり出さ
なくてはいけないわけですから、そんなには人は増やせないでしょうけどね。




それでも、サイトの運営、スケジュール管理、法律関係、経理関係、資料の収集とその
管理、絵のスタッフ、サブライター、対外交渉、等々、切り離していきたい業務は色々と
あると思うのですね。ここにどう人を割り振り、どこを自分でやるのか。
あるいは、どこは出版社の人がやってくれるのか(笑)
まあ、このサイトの運営をやってはくれないだろうなあ(笑)


さて、そのように一つのクリエイティブを多人数で分担するとなったときに
ここで問題になるのは価値観の統一がスタッフ間で取れるのか、ということです。
ちょっと考えただけでも、無難な物しかできなくなったりするのではないかとか
作品世界の純度が著しく汚されたりするのではないかとか、色々な懸念が思いついてくる。
が、しかし。
私はけっこうこれには夢を見ている。

というのは……
今ここでしゃべっている「藤海日之輪」というのは、一種の仮想人格だと言えると思います。
この名前はもちろんペンネームです。一般的に作家さんというのは、社会的にはペンネー
ム=人格 という扱いで捉えられていますが、私の場合はこの「藤海日之輪」と「○○
○○○○」(本名)の間にあきらかに距離があるのは間違いないと思います。

ネット上では恐くてしゃべれないようなことも、幾つか私は持っている。
(対面でだったらどってことない内容です。ただ不特定多数を相手とするとなると……)
読者様の、読後感を損なわないようにと考えて、後書きには書かないようなおもしろおかしい
(もっと言うと間抜けな)制作秘話が、全ての小説にあったりもする。

なにより、その小説の作風がかなり絞りこまれた物になっている。
私は、読む方でだったら、もっと色々な作風の作品を楽しく読みますけど、書くのは
読むより大幅に時間がかかることもあって、自分にとって本当に重要なことしか書きません。
そうするとね。
私の人格の中で、外界に表現されない部分、切り捨てられている部分というのがかなり
あるということになる。


そう。
「藤海日之輪」というのは「○○○○○○」よりも間違いなくデータ量の少ない
人格プログラムだということが言えると思います。
だとするならば。
どうして仮想人格「藤海日之輪」を完全に内包できる人間が、私、こと「○○○○○○」
の他にもいないと言い切れるだろうか。

一個の人間より小さい仮想人格だ。
それを最大公約数にもつ、それぞれに少しずつ異なる人間が、出会わないとどうして
言えるのか。


私の見ている夢というのはそういうことなのだ。
「藤海日之輪」の精神を最大公約数に持つ、異なる能力の人間の集合としての、組織。
そんなものを会社化できないだろうか。


そういう、共有化した意志のことを、世間一般の企業では「経営理念」と言っている。
それよりも、ちょっとだけ根源的で、ちょっとだけ困難なデータ。

……ちょっと明文にするにはデータ量が多過ぎるのだけどね。


<2004.11.05>




心の処理


私の日常は、考えうるかぎり限界近くまで平穏である。

派遣に近い形で職場には勤務しているから、立場は弱いものの、その権限および
「されている期待」を正しく把握していれば、そうそう首にはならない。
なったとしても、それなりに次の仕事はいつもある。

仕事はある程度 楽な物が割り振られていて、かつ組織の中での出世がその構造上
ありえないから、管理業務が発生することもない。
それらのことから考えて、勤務時間はほぼ定時で、休日出勤もまず発生しない。

友人の数も少なく、彼らとも会う頻度・話す頻度は極小で(精神的に親しくない訳では
ないと思っている……んだけどね)、職場でも人間関係に深入りはしていない。
趣味もこれと言ってない。
インドア派……と言うよりは出不精で、「何かのおいしいお店」や「遊びの種類や
スポット」にも詳しくない。映画にも TV ドラマにもヒットチャートにも詳しくなく
なっている。

それで退屈じゃないの?
と聞かれることもある。
それが、退屈じゃないのだなあ。

私は外っつらはともかくとして、内面ではけっこう感情が不安定で浮き沈みする。
もう20代も半ばをすぎて、体の調子が集中力や気合いにダイレクトに影響するように
なってきている。
私の目下の関心事は、そんな変動しやすい体調を、常に一定のレベルに、さらに言うなら
可能な限り頂点に近いポイントに維持する、ということだ。

休みの日に、少し頭の回転が鈍かったとする。そしたら「なるほど、朝起きる時刻が1時間
遅れた場合の気合いのノリはこれ位減るのか」とか、
「でも感情に偏りが少なくて安定しているな」とか、そんなことを考えて、脳内データ
ベースに蓄積する。
その他にも、カフェインの量と効力、入眠への影響、アルコールの量と二日酔いの大きさ、
栄養素、天候と体調の相関、睡眠時間が少なかった日の影響とか。
さらにここに感情面のケアが加わる。
どうしてもぼんやりしてしまって、気分が散漫になってしまう時、どんな「セリフ」を
つぶやいてみたら気分が上向くのか?
ネガティブな考えが渦巻いて夜眠れなくなってしまった時、どんな音楽を聞いてみるか?
そもそもじっとしているのと、一回起きてしまうのと、眠れるようになるために行動
してみるのと、どれが一番正しいのか?
いらいらしてしょうがない時、落ちつく音楽を聴いてみるのと、一度発散させてしまう
のでは、どちらが効率がいいのか?

そんな事ばかり考えている。
はっきり言って、情報量が多過ぎて退屈どころではないのだ……






それに、こうしたことに対して正確なデータを取ろうとしたら、一度に変化させる要因は
一種類ずつの方が、データに確実性も出てくる。

まあ、そんな言い訳をしながら、私はインドア派を生きているわけだが。
そうやって心の処理を日々繰り返しているうちに、どうも私は大変な思い違いをして
いたのではないかと、最近思うようになった。


それは、前向きであるためには、心の一喜一憂を抑えなくてはならないのではないか?
ということだ。

例えば一日の始まりに、今日一日に処理しなくてはならない山積みの案件に、
さぁ 立ち向かおう、とする時。
「あー、いやだなぁ」は、論外としても。
「なにくそやるぞ!」と、リキむのでもなく、「やらなきゃダメだ、出来なきゃだめなん
だあ!」でもなく「仕事って、ないよりはある方が幸せだよね」とか考えるのでもなく。
初心を思い出してみるのでもなくて。

ただ淡々と、自分が大きな流れの中の部品の一つとして、機能的であることだけに
集中した方が、結局は能力を高い比率で顕在化できるのではないかと。
少年漫画のように、火事場の馬鹿力が出ることなんて本当はなくて、感情というのは
昂ぶらせても本当は足を引っ張ることしかなくて、ただただ意志と意識と体にのみ
集中していた方が、力を発揮できるのではないかと思い始めたのだ。

つまり、思考は脳に・感情は体に、とかではなくて、理性と思考と感情と本能と体は
相互に全く別なんじゃないのかと。

似たような疑念はもう一つある。
それは「励ましや好感を他人から貰えることは、本当に何かに対してのモチベーションに
なりえるのか?」と、いうこと。

そりゃあ確かに、自分がそれまでこつこつ打ち込んできた仕事を誰かに評価してもらえたら
嬉しい。それこそ目の前がクラクラとするくらいに。
でも、一度褒めてもらったらもう一度。次には、何度でもいつでも、誉めていてもらいたく
なってしまう。最終的には感心が仕事そのものから、その人の方へと移ってしまうのでは
ないのだろうか。

さらに言うなら、誰かに対して感想を求めるという態度は、他人の目を意識してしまう
ことなわけで、どうしても他人の一挙手一投足、小さな噂やヒソヒソ声に一喜一憂して
神経をすり減らしてしまうし、
なんとなくやる気の出ない時に、誰かの嬉しい言葉で劇的に気分を切り替えたい、という
気持ちは、どうしても気持ちを受動的にさせて、ますます時間を無為に消費させてしまう。

退屈にまかせて雑誌をめくるように、退屈にまかせてウェブやスレッドをブラウジング
していくように。気付けばすごい時間ばかりがたっている、ということに、ならない
のだろうか。

それだったらもう、一から十まで自分でやる、全てをきちんと計画通りにやる、と決意して、
自分の感情や、他人の存在をシャットアウトしてしまった方が、能動的に、ひいては
活動的になれたりするのではないのだろうか。
そんな風に考えている自分がいるのだ。


だから……
人を誉めたり、本の感想を送ってあげたりする時には、
『(藤海さん)の感性が好きです。応援している人間がここに一人いますので
頑張って下さい』
くらいのトーンが一番いいのかな。( )内を置き換えることで文章テンプレート化可。
そうしたら、たぶん一番、自分が自分の人生に向きあう上で、前向きな姿勢になれると
思うから。
少なくとも、私はたぶんそう。


……などと、感想をほとんど貰えないわが身をなぐさめてみた。
けど、まあ実際のところ、「この作品好きです!」と言ってもらって『私が』うれしい
気分になることよりも、それぞれの本がその人にとって大切な本になって、ちゃんと
愛される、愛されている、ということの方が大切なことだものね。

そうであってくれたらいいなあ、と少しだけお祈りをして。
私はまた次の作品をはぐくむことに心を砕けばいいのだな。


<2004.09.26>