11,111,111円の契約書、作成の経緯(抜粋)

私、寺西慶祐と菱田嗣久氏の「11,111,111円の契約書」について作成の経緯は以下の通りです。

【−不安−この当時の状況について】

◎95年々末〜96年はじめ

その1(菱田氏と音信不通)
95年12月、実行委員会は大会アドバイザー(*1)菱田氏への連絡を急いでいました。なぜなら実行委員会がSF大会参加者に発行する印刷物作成に必要な原稿の入稿が菱田氏からストップしたまま、氏との連絡が突然に途絶えてしまったからです。(*2)

菱田氏は今大会(=第35回日本SF大会コクラノミコン)のアドバイザーとして、N旅行と実行委員会とのパイプ役、すなわち折衝役を一人で担当しておりました。その為、印刷物に掲載予定だったN旅行の詳細な折衝内容・情報などは、当時菱田氏でないとわかりませんでした。

中でも年内発行予定の"プログレス2号"は、大会の宿泊等に関する情報について参加者にいち早く案内をする必要があるために年内発行を予定していましたし、協賛団体の企画内容と細やかな調整(擦りあわせ)が必要な事柄(*3)もあり、ゆえに旅行会社との交渉を単独で行い必要な情報を唯一知っている菱田氏への連絡は急がれました。

菱田氏への連絡は、電話はもちろんの事、FAXやe-mail、留守番電話などにもメッセージを残すなど対応をしました。また、まれに夫人が電話に出る事などもありましたが、「わかりません」「伝えておきます」という言葉だけでその後も依然、菱田氏本人への連絡はいっこうに取れない状態が続いていました。

その2(プログレス2号)
印刷物とは"プログレスレポート"、または通称"プログレス"と言い、SF大会を運営する組織である実行委員会が、SF大会参加者に向けてイベントが開催されるまでに、刻一刻と変わる様々な情報や新たに決定した事項などを盛り込んで定期的な"情報提供・発信"を主目的として発行される、いわばSF大会では慣習的な発行物です。
コクラノミコンではその2号目(=以下プログレス2号)が95年々末(年内)発行予定でした。

'95年の年内中の発行に向けて準備が進められていたプログレス2号は、主として今大会に必要な宿泊・交通の案内(旅行会社の料金表等を含む)情報、そして新たな参加者を募る告知案内、協賛団体の参加案内情報などの掲載を予定しておりました。

このプログレス2号を95年の年内に発行するとした理由は、プログレス1号の発行(95年10月頃発行)からあまり時期を空けずになるべく定期的に発行したいという当時の実行委員会サイドの希望と、菱田氏曰く「この時期までに旅行会社から大会の宿泊・交通等の案内や料金に関する詳細なデータが出る」とのことであった為、95年12月の発行が適切と判断したからです。

*        *        *

しかし、プログレス2号は当初の予定であった95年々末の発行はなされず、年内の公知の機会を逸し、告知活動に支障を来たしてしまったことで、併催企画を主宰する協賛団体等に大変なご迷惑をおかけしてしまう結果となりました。

また、この時、告知の時期を逸してしまいプログレス2号の発行が先の見通しの立たない延期となってしまった為に、その影響で大会の各種企画申込や参加者の獲得が著しく遅れ、さらに協賛団体からのクレームなどが重なって、実行委員会スタッフ達は不安な思いをし始めていました。

続けて、当時の実行委員会にとって、追い討ちをかけるかのような不安が発生します。
後述の96年2月18日に行われた話し合い(寺西他,一部スタッフと菱田氏による会議)の席で、今大会開催において『1千マンの"赤字"が発生することになる』という菱田氏の言葉は、私のみならず、主要なスタッフの不安をさらにいっそう掻き立てる事となりました。

これが95年の末〜96年はじめコクラノミコン実行委員会の状況であります。

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(*1)菱田氏は大会準備期間中、自らを「大会アドバイザー」「プロデューサー」「オピニオンリーダー」他様々な呼び名で呼び、経験者として相談役のような立場で、95年の大会開催準備・運営が本格的になる以前より深く関与しておりました。

(*2)このプログレス2号の旅行会社からの情報を掲載した案内ページに関しては、大会アドバイザー菱田氏が原稿を作成し入稿するという「専任担当者」となっておりました。

ところが、前述の様に菱田氏とはいっこうに連絡が取れず、必要な情報の提供がなされぬまま、刻刻と時間が経過していくばかりで、時期はもうすでに12月も半ばになっておりました。
実行委員会サイドとしては、これ以上原稿の入稿が遅延すると年内の発行ができなくなる恐れがあると判断せざるをえず、菱田氏への連絡を引き続き行いつつ、それでも出来うる限りの方法で対応を試みました。

菱田氏が作成を担当する原稿の入稿をギリギリまで待ち、あるいは最悪間に合わない場合は菱田氏の作成ページのみ差込み(別表)にすることとして、表紙や他の案内に関して先に印刷を行い、菱田氏からの連絡と情報の提供を待ちました。

(*3)大会開催に向けての実行委員会内での様々な情報や参加案内、菱田氏の作成する旅行会社の情報、協賛団体の参加に関する情報の提供、この3つを足並み揃えて2号とする為、細かい調整が必要でした。
中でも協賛団体との調整に旅行会社の情報は不可欠なものでした。


【赤字額は1千万円】

◎96年2月18日

95年末、そして96年の年明け早々に予定していたプログレスの発行が出来なかったため、当初の予定が大幅に狂ってしまった事、宿泊・交通関係の案内が出来なかった事で協賛団体の告知にも影響が出てしまっている事、また現在発行にストップがかかったまま、先の発行の見通しが立たないプログレス2号の事…「それら問題をどうするか?」という話し合い(=対策)が私と当時は実行委員会の副実行委員長であった林田氏、それと実行委員会スタッフ数名、協賛団体スタッフ1名と菱田氏を交え、菱田氏の滞在するホテル(北九州内)にて話し合われました。

この時、昨年より連絡の取れなかった菱田氏がようやく九州に来て話し合いに加わっていました。

菱田氏は「このままでは大きな赤字になる」「大会をこのまま続けても、中止しても赤字は1千マンになる」と断定した予測を何度も口にし、話し合いは"赤字になることを前提とした"大変厳しいものとなりました。

それを聞いた実行委員会の皆はより一層不安を感じているようでした。

私は「(続行しても中止しても)同じ赤字ならば、私が被る(負担する)ので大会は続行したい」と意見を述べました。

ここで菱田氏は「寺西クンは本当に1千マン用意できるのか?」と皆の前で確認するように聞いてきました。私は「すぐに用意出来る額面ではないが、必ず用意するのでしばらく待って欲しい」と、この時皆の前でいいました。

集会解散後、菱田氏の部屋に残った私に、菱田氏は↓

「本当に1千マン用意出来るの?」
と再度確認するように私に聞いてきました。私は大会に赤字が発生した場合は何としてでもお金を用意する覚悟でいました。
それは自分自身が言い出して、始めた大会ですし、スタッフや参加者に迷惑をかけないように何としても無事に終わらせる為には、それは当然のことであると固く認識していましたので、もちろん「はい。用意します」と言いました。

そうしたら菱田氏は↓

「ボクを"使えば"ホテルやその他、色々な業界との交渉などで大会の赤字をなくすことが出来る。
そして赤字がなくなったらプラマイゼロや。
そうしたらお前さんの持ってきた1千マン浮くやろ?
どうせ元々赤字にうめるつもりのカネやったら、その減らした分を経費として"ボクに渡して"みいひんか?」
と関西弁交じりでと言ってきました。加えて菱田氏は↓
「すぐに要るというワケではないが、保証がないとスタッフも恐くて動けんやろ?まあ、1千マンは"見せ金"みたいなもんや。」
そして、さらに↓
「赤字が減らんかったら最悪2千マンになるけどそれでも大丈夫なんかい?」
とも言いました。

私は「大会が赤字で、建て直しに掛かる費用が必要という事であるならば、なんとか1千万円までは用意できるが、それ以上は今は無理です」いう事を菱田氏に伝えました。

ただ、この1千万円の経費という件についてはかなりの高額である、つまり以前に菱田氏の関与したSF大会において、私が聞き及んでいた経費の額からはあまりにかけ離れている思ったので、私は「補える部分はスタッフ全員で取り組む覚悟であるので、少しは安くならないだろうか?」という相談を菱田氏にしました。すると菱田氏は↓
「それは林田クンがリサーチしてきたソチラの提示価格であるし、これは相場的におかしくはない」(*4)
といって、あくまで↓

「ジブンの休業補償の事もあるし、マケられん。1千マンです。」
と言いました。また菱田氏は↓
「浮かせた分丸々"取る"形になるのだからギャラ(労働報酬?)みたいなもの」
とも言いました。

1千万という額が"林田氏がリサーチしてきた"ものであるという氏の言葉にはカナリ疑問を感じましたが、この当時は双方(菱田氏・林田氏)を強く信用していましたので、ここでお互いの意見が部分的に食い違ったのもきっと"何かの行き違い"だとこの時は思いました。

また、この時私は『今ここで菱田氏に抜けられても困る』とも思いました。それは今迄にも活動経費と称して大会準備期間中(95年頃より)、私から幾度もお金を持っていっている菱田氏はこの時点でも、実際に大会運営に深く関与しており、その発言力はすでに実行委員会内でもかなりの影響力を持っていたからです。その菱田氏にこれまでの様な連絡の無い事がたびたび続いたり、また中途半端な形でいわば実行委員会を放る様な事をしてもらっても困ると思いました。

しかし、とにかく今は『大会の建て直し』に、そしてスタッフの皆に一刻も早く安心してもらう為に、早急に金策をする事が先決であるという認識を強めました。

そして私は菱田氏に「最悪の場合菱田さんの経費に関しては大会の後、それこそ何年か後になるかもしれないが、お待ち願えませんか?」と言い、菱田氏はこの時了解してくれました。

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(*4)96年2月に入って早々、まだ菱田氏が九州入りをしていぬ頃、林田氏らしからぬ、不可解な言葉を聞きます。
林田氏は『菱田氏を雇うべきだ。雇えないなら大会は中止したほうがいい』そしてその理由は、当時林田氏は大会開催の運営経験が皆無に等しい実行委員会だけの運営能力では無理なのではないか?という判断によるものでした。

ところが、この「雇う」なる耳慣れぬ言葉を林田氏が口にした理由は、大会開催直前、すなわちこの当時よりさらに何ヶ月も後の96年8月中旬頃に明らかになります。
この事は【後に判明した数々の事実と食い違う事柄】に記します。


【再び連絡不通の為、寺西金沢へ】

◎96年3月2日

2月18日の集会の後、菱田氏は再び金沢に戻りました。
…が、しかしこの後またしても菱田氏との連絡は、途絶えてしまいます。そのため、多くの事柄(大会中止か続行かに関する相談、お金を用意する具体的な方法の事、未だ発行の見通しの立たないプログレス2号の作成について等)が宙に浮いたままになっており、菱田氏に再び早急に連絡を取る必要がありました。

集会後の約十日程、電話やe-mailを含め、菱田氏と話をするべく何度も連絡を試みましたが、やはり菱田氏と連絡することはできず、そこで、私は最終手段として直接金沢に赴き、菱田氏と直接コンタクトを取るべきと考え、早急に一路金沢へ向かいました。

それは、このまま、またしても昨年の年末の様に菱田氏と連絡が取れぬ状態が延々と続き、プログレス2号が発行出来なかった時の様な事になっては、それこそ大会の開催そのものに致命的な支障を来たすかもしれない…という深刻な不安があったからです。

とは言っても、金沢で必ず菱田氏と会えるかどうかは、正直判りませんでした。しかしこのまま連絡がつかずにいたのでは実行委員会の現状がより悪化する恐れがあり、なんとか一刻も早く、遅くとも数日うちに連絡を取り、現状の改善策について話し合いをせねばという、なかば焦りのようなものもあり、私は金沢にある菱田氏の自宅を訪れるつもりでおりました。

その1(菱田氏との連絡が取れた日)
◎96年3月3日

金沢駅に到着し、まず菱田氏の自宅に電話をしてみました。
すると、今まで全く連絡の取れなかった菱田氏に連絡がつきました。
私は菱田氏に金沢に来ている事を伝えました。
そうすると「金沢市内で待ち合わせをして、直接話をしよう…」という事になり、私は菱田氏との待ち合わせに金沢市内のホテルのロビーにて氏の来るのを待ちました。

菱田氏に会った私は、先月(2月18日)の集会の折、菱田氏の発表した『このままでは大きな赤字になる』『大会をこのまま続けても、中止しても赤字は1千マンになる』という事柄について、若い学生スタッフが中心であったコクラノミコン実行委員会の内部に、動揺しているものが多く、また不安と不満で、今や実行委員会内のまとまりさえ危うくなっているという窮状についても伝え、相談をしました。

そして、菱田氏に私の決意として「今ここで大会を不本意な形で終わらせたくない」そして「他の協力してくれている方達にも、これ以上の迷惑は掛けたくない…」と誠心誠意、訴えました。

すると、菱田氏は
「それにはまず(すぐに使うわけではないが)最初にスタッフを安心させるための"見せ金"として1千マン必要です」
と言いました。

先日の話の中でもこの菱田氏の言う『見せ金』なる言葉の意味が良く分からず、どうにも釈然とはしていませんでしたが、私は菱田氏の事を過去に大きなSF大会を開催した経験者「先輩」として尊敬しておりましたし、あえてここではその場の雰囲気を壊すような事には触れず、私は菱田氏に「若いスタッフの多い実行委員会にお力を貸してください」となんとかより親身に協力をして欲しい旨、何度もお願いをしました。

*        *        *

その2(架空の債務)
次に私は、お金を用意する具体案として「父に相談し必要なお金を用意する事にしました。」と菱田氏に伝えました。
私がお金を用意してくれば、少なくとも金銭的な負担で他の人に迷惑をかける事はないと考えての事で、それは現在スタッフとして協力してくれている皆にも「赤字などになっても、けっして金銭的負担はかけないから…」と前々から言っていることからも、自分の役割として必要なことでした。

すると菱田氏は↓
「現状を示して理解を求める為にも『契約書が有り、既に債務がある』という事にしておいたほうがイイ」
と私に言いました。

私は父の性格について、菱田氏に説明をし「小細工をするような事は良くないのではないか?」という事を言いましたが、菱田氏はあくまで"ニセの契約書"を作る事にこだわりました。

私は、借金をするにあたっては正直に現状を話すべきだと考えていましたので、菱田氏の提案を奇異に思い、真意を測りかねました。
しかし、過去のSF大会においてこれまで数多くの交渉を手がけてきた、いわばこの種の業界における"熟練者"である菱田氏のいう事だから、私の考えが及ばないだけで、「何か深い考えがあるのかもしれない」と私はこの時思ったのと、たしかに菱田氏の言う通り、「お金が借りられなくなっては元も子も無い」とも思い、あえてそれ以上の反論をすることはしませんでした。

確かに菱田氏のSF大会の開催実績・手腕は私もよく伝え聞いておりましたし、前述の様に尊敬の念をいだいていたことも事実です。
ですが、同時にこの時不安を感じていた事も確かです。
氏は今までにも連絡が取れなくなる事など頻繁にあり、また『大会の為に必要』との氏の言葉を信じて菱田氏に預け入れた金銭の事、そして金策の為とはいえ、この上この様な小細工まで用いらねばならぬのか…と、画策めいた事を平然と促す菱田氏の態度に正直、暗い気持ちにさせられる事もありました。
また、もし「ここで菱田氏に抜けられでもしたら…」それが現実のものとなった時の実行委員会の皆の動揺を考えると、とにかく今はなんとしても菱田氏の言う通り「大会の為に」予想される赤字を私がリカバーせねばならないと、この時思いました。

そして3月4日に大阪入りをし、父に時間をとってもらうべく連絡をとり、3月6日の夜に相談をすることにいたしました。


【金策のはじまり】

◎96年3月6日

その1(菱田氏の作ったニセの契約書)
いよいよ、私が大阪の実家に行き、父と交渉するという事になりました。
菱田氏は「(交渉の時に)必要ならば自分も交渉に加わるから」ということで、大阪に宿を取り、待機しておりました。
父との話し合いの前に、私は打合せのために菱田氏が滞在しているホテルの部屋に行きました。すると菱田氏は私に対して、先日話のあった「ニセの契約書」を初めて提示してきました。菱田氏はワープロで既にそれを作成済みだったのです。

内容に関しては、3月3日に菱田氏が口頭でいっていた話とは違っておりましたし、ニセモノとはいえ通常では考えられないような厳しい内容が含まれており、正直戸惑いました。しかし、あくまで菱田氏は↓
「(寺西の)オヤジさんを説得するため、材料としての"小道具"です」
と言っており、私も氏の言う通りフェイク(=便宜的に用意した偽物に過ぎない)という認識でありました。

それに「厳しい内容でないと説得力にかける」という氏の言葉に釈然としないながらも、ここで氏の提案に従いましたのは、大会の為に今も一生懸命頑張ってくれている実行委員会スタッフの為に、一刻も早く不安を取り除き、皆が安心して大会の運営に専念出来る様に、私が努力をせねばならないと思ったからです。

2月の集会で菱田氏の言った 『このままでは大きな赤字になる』『大会をこのまま続けても、中止しても赤字は1千マンになる』との予想は、私にとって大変な精神的重圧でした。

そして今もなお九州で大会の為に力をかしてくれているスタッフや林田氏から、実行委員会内の状況が芳しくないとの報告を受ける度、焦りがつのっていきました。
しかし、そんな中でも激励してくださる方々の声を聞くに付け、私は「何とかしなければ」という気持ちで一杯になっていきましたし、「今、私に今出来うる限りの努力をするべきだ…」と、自分に言い聞かせていました。

私はとにかく「大会を無事、成功させたい」そして「他の誰にも迷惑が及ばぬようにしたい」と、背に腹は代えられぬという一心で、私がなんとかしなければならないと思いました。

*        *        *

この「11,111,111円の契約書」に署名捺印する際、菱田氏に↓
「契約の日付が今日ではまずいので、前の日付にするように」
「うん…テキトーでいいよ」
と指示されましたので、「1月27日付」にしました。
私はそれに署名捺印して、父親との交渉に向かいました。



その2(父より500万円借用)
◎同日夜、実家にて

その夜私は父に大会実行委員会内の窮状と金銭借用の必要性を打ち明け理解と協力を求めました。

しかし、結局、この父との交渉においては、架空債務である「11,111,111円の契約書」を見せることはせず、また父との交渉に菱田氏を呼ぶ事もせずに、父に金銭の借用について正直に事情をはなし、相談をしてみる事にしました。

私がここで父に「契約書」を見せなかったのは、それは用意したこの「契約書」の内容が傍目からみても極めて酷く、抵抗を感じたからです。

またその際に菱田氏は↓

『必要ならば自分も交渉に加わるから』

とは言ってくれたものの、父にこの菱田氏なる人物を引き会わせるのは、なにか余計に逆効果のような気がしたからで、やはりこの様な「ニセの契約書」を用いて小細工をし、父を騙すことは良くない事だと思い、最後まで見せる事はしませんでした。

相談の末、父からは500万円を借用する事が出来ました。

しかし、用意予定額である1千万円にはまだ及ばず、私はこの日からひたすら金策に奔走する毎日がはじまりました。

*        *        *

【「これは、とりあえず預かります」】

◎96年5月はじめ、北九州にて

父から借用した金銭を大会の会計に入金した後も私は、「大会の為に必要」と菱田氏の提示した用意予定額の金策に奔走しておりました。
私は資金が調達出来次第、順次に大会の会計に入れていく事にしていました。
4月30日に私が新たに金策をして、大会の口座にお金を入れたすぐ後に、菱田氏から「大会の為、300マン必要なので、渡して欲しい」と急に言われ、私はすぐに大会の口座から300万円を引き出して、菱田氏の滞在している北九州のホテルへ向かいました。

私は以前にも1996年2月のはじめに菱田氏に対してやはり大会会計から300万円を渡しておりました上に、この度またしても急な入用とのことで、菱田氏にあらためて念をおして「300万円もの大金を一時的にせよ大会会計から抜いてしまっても大会の会計は大丈夫なのですか?」と聞きました。
それに対し菱田氏は↓
「大丈夫です」
と答えました。そして、このとき私は菱田氏に用途について、あらためて聞いたのですが
「これは、とりあえず預かっておきます」
とだけ言い、このお金が大会の現状において一体何の用途に必要なのかは明確には答えてくれませんでした。私は「大会の為に必要」という菱田氏の言葉を信用しておりましたし、菱田氏ならばしかる後に報告をしてくれるであろうと、この時認識していました。

そして私は、菱田氏に手渡しで300万円を渡しました。

「大会の為に必要」と菱田氏が提示した金額は1千万円でしたので、まず父から500万円、その後別の人から200万円金策し、大会の口座に入れたお金は、この時点で合計700万円。その中から菱田氏へ300万円を渡しました。

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【後に判明した数々の事実と食い違う事柄】

◎96年8月中旬頃

その1(「8/10文書」をみる)
林田氏より「8/10文書」を見せられたのは私が金策と大会併催企画(コクラノミコンマーケット=通称名「ノミケット」)の準備に追われているさなかでした。大会開催をもう目前にしていたこの時期、「8/10文書」は「プログレス最終号」と一緒に同封されており、全ての参加者に向けてアナウンスされたものでした。

この文書は林田氏をダシに使っている上に、事実とは異なる、大変酷い内容の文書で、それを見た林田氏は大変な心痛であるだろうと私は思いました。

例えば菱田氏は私が「大会開催に立候補し、九州でSF大会を開催する事になりました」としらせると、早速「N旅行」という旅行代理店を熱心に斡旋し、自らも専任担当者となって積極的に大会に介入してきました。
また、必要経費あるいは「大会の建て直しの為に」と称して何度も金銭を渡す事を要求し、私は菱田氏にそれを託していたからです。それはあの「ニセの契約書」を作成するずっと以前からでした。

しかも、自らを「大会アドバイザー」または「プロデューサー」と言い、コクラノミコン実行委員会のほぼすべての事柄においての最終的な決済権と発言力を持っていたにも関わらず、その内容は↓

「とは言っても、私も自分の仕事の都合があります。
8/10以降からでないと専従できません。
この間にどれほどのことが出来るかはわかりません。
スムーズな運営には皆さんのご理解とご協力が必要です。」

「本来楽しんでやるべき委員会の運営が苦痛にしかならない。
この状況が近年目立っています。
収拾がつかなくなるたびに泣き付いてこられる私も、毎回こうでは
少々疲れてしまいました。」

「このままでは、SF大会が開催不能になってしまうかもしれないのです。」

などと、数々の虚偽が並べ立てられているばかりか、仮に大会が失敗に終わったとしても自らに責任の及ばない様に巧みに書かれており、私は菱田氏のこのなんとも言い知れぬ卑劣かつ不可解な行動に本性を垣間見て誠意を疑いました。

また、このほかにも菱田氏は私が『大会の建て直しの為に』と金策してきた250万円を林田氏に渡す様命令した後で、一方林田氏に対しては↓
『大会の通帳には入れずキミが預かっておいてください』
『そのことは寺西クンや大会の皆(スタッフ)には言わない様に』
と言って、林田氏に預かり置くように命令を出していたと、この時林田氏は私に包み隠さず教えてくれました。

そして私が長らく疑問に感じていた事柄についても林田氏は教えてくれました。

それは前述の96年2月に林田氏が口にした『菱田氏を雇うべきだ。』なる言葉で、何故唐突に、しかも『雇う』なる言葉を林田氏が言うのか?
大変疑問に感じておりましたが、林田氏の教えてくれた事によると↓
「寺西クンに『ボクを雇った方が良い』と、キミの口から寺西クンに言ってくれる?」
と、菱田氏は言い、また↓
「寺西クンはあの通りイイ加減なので、カネをもって来ない可能性が高い。でもボクを雇うことにしていれば必ずカネを持ってくるだろう。」
「このカネはボクがもらうのではなくて結局は『大会の運営費』にするから、最後は"活動経費"だけ貰えればボクは構わないんだよ」
と菱田氏が言っていたことを林田氏は教えてくれました。

*        *        *

しかしそれを知ったからと言って、大会開催を目前に控えた現在(いま)ではどうする事も出来ず、ここはひとまず林田氏を信頼し、その250万円の件は林田氏に託す事にしました。


【-総会にて…-『700マンの貸し付けがあります』】

◎96年 9月15日

9月15日、この日はコクラノミコンスタッフ・関係者の集う最終スタッフ集会「総会」の日でした。私はこの「総会」で菱田氏に思いも寄らない形で侮辱を受ける事になります。
 「寺西クンは大会から700マンの貸し付けがあります!」
菱田氏は集会中、出席していたスタッフ全員の前で言いました。

菱田氏の口からこの言葉を聞いた瞬間、私はまったく訳が解らず、まるでいきなり平手打ちを喰わされたかのようなショックを受けました。
菱田氏が言うところの、大会会計から無断で"抜いた"とするこの700万円について、私として一つだけ心当たりがあるとするならば、それは大会開催前、96年5月に菱田氏から「大会の会計から300マン、持ってきてください」と言われて菱田氏の滞在しているホテルの部屋で私が手渡したあのお金の支出の事でした。確かに一時的に会計から渡したものでしたが、菱田氏は↓
『大丈夫です』
と言っていたし、私はお金を菱田氏に渡したその後も金策をして補填を行なっていました。ですから私に貸し付けなど存在するはずも無いのにです。

しかし、菱田氏のその言葉を聞いた総会参加者からは当然私に対する非難の声・追求の声が上がりました。

そのことを私が反論をしなかったのは秘密裏に預かり置くように林田氏に命令を出していた「250万円」の事を事前にすべて林田氏や現管理委員会スタッフに予め聞いており、今迄の数々の不可解な行動をしていた菱田氏の真意をこの時知りたいと思ったからです。

*        *        *

これが私と菱田氏間に存在した「11,111,111円の契約書」作成についての経緯です。

以上
寺西 慶祐


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