This is a Japanese translation of "Steepside" by Anna Kingsford.

以下は "Steepside" by Anna Kingsford の全訳です。


II. 崖端館
幽霊譚

著: アンナ・キングスフォード
訳: The Creative CAT

私がこれから読者諸氏に語ろうとしている奇妙な話は、この手の奇譚によくあるように大伯父に起きたことでも、二番目の従兄弟に起きたことでも、祖父に起きたことでさえなくて、私自身の身の上に起きたことである。それは数年前、古い学友からクリスマス・ウィークを北ウェールズとの境にある自分のカントリーハウスで一緒に過ごさないかという招待が届いた時だった。当時私は気楽な独身者だったし、だいぶ長いことこの学友と会っていなかったので、招待を受けることにして、約束した日にロンドンを後にした時は、心うきうき、最高の気分だった。

朝の列車でシティの住処を離れ、午後の早いうちに友人宅に最寄りの駅に着いた。この「最寄りの」というのが全然近いという意味じゃないことがそこで判った。宿屋にいけば簡単に「何でもいいから速攻で乗れる貸し馬車やバスやその他の乗り物」をつかまえられるだろうと思っていたのだが、宿屋の女将は卑屈な微笑を浮かべながら弁解がましくこんなことを宣うのだ、大変申し訳ございませんが、今ちょうど最終便が出てしまった所で、深夜にならないと戻って参りませんのです、などと。時計を見た。もうすぐ四時だ。十一キロ(*1)、おまけに大きな旅行鞄を持っていた。

「ここから――へはいい道かね?」と女将に尋ねた。

「ああ、はい、とても。」

「じゃあ」私は言った「歩くことにするよ。汽車に乗ってるとどうも足が痺れてね、がっつり歩けばいい感じに戻るだろう。」

それで私は勇ましく旅行鞄を手に取り友人宅に向かって足を踏み出したのだ。ああ、望まれし天国に至る前に自分がどんな目に遭うことになるのか、私にはちっとも判っていなかった! 三キロ(*2)ばかり歩いたろうか、後の方にどえらい黒雲が沸き上がり風を吹き付けて来たではないか。周りは何もないど田舎で、酷い吹雪になりそうなのがはっきりしていた。とうとう降ってきた。はじめはこんなの屁でもない振りをしていたのだが、二十分もすると雪の勢いが激しくなって、前がよく見えない程になった。生まれて初めて歩く道でこんなに降られたのでは迷子になること必定だ。ついでに、雲が厚くなった上に日が暮れ、風が不愉快な程沁みるようになってきた。旅行鞄は堪え難い程重くなった。持つ手を替え、肩に掛け、腕に下げ、ありとあらゆる方法を試してみたが、どうやっても束の間楽になるだけだった。更に不幸なことに、どうやら道を間違えたに違いない。この時にはもう歩道が全然見分けられない程雪が積もっていたからだ。窮地に追い込まれた私は、どこか一夜の「ドヤ」(*3)になりそうな宿屋か家でもないかと真白い風景中に切ない視線を彷徨わせた。運良く(それとも悪く、だったのか?)やっとのことで、募り行く薄暮の中にぽつんと光が瞬いているのが見えた。それほど遠くない所に私道があって、その入口の小屋から漏れているのだ。できるだけ早くそこに行こうと必死になって雪を掻き分け、こじんまりとした小屋の門の前に立ち、愉悦の態でベルを鳴らし、やっと休める場所を見つけたぞと喜んだ。呼び出しに応えて出てきたのは灰色の髪をした爺さんだった。私は我が身の不運を詳しく説明し、ロッジに一晩泊めてもらえると助かる、あるいは少なくとも体と服が乾くまで炉端に上がらせてもらえないものかと頼み込んだ。爺さんは機嫌良く私を迎えたが、では私を泊めてくれるかというとなんとも雲行きが怪しかった。

「へえ、旦那」と彼は言った「オラん家にはちっくい部屋が一つあるきりで、そこに女房とオラが寝とります。旦那をどうやって世話すればいいもんだか、判らんのですよ。とはいえ、旦那、今夜は出ん方がいいですよ。――様のお宅にお行きなさるなら道をちっとばかり外れてますし、嵐は酷くなる一方ですけ。嫌な晩になりますわ、旦那、歩いて行くのはちょいと骨の折れ過ぎることですだ。」

そこに人の良さそうな奥さんがやってきて口を挟んだ。

「ウィレム、こちらの紳士に例のお屋敷(*4)の部屋で泊っていただくのはどんなもんじゃろ。ジョージがこの前オラどもんとこに顔を出した時寝たとこだ。ベッドはまだ置いたままじゃけに。えれえいい部屋ですよ、サー」こう言うと、私に向かって「いま直ぐ毛布を二枚用立てますんでお使いになってくだせぇ。」

「ですが、」私は言った「その屋敷のご主人は私のことを知りませんよ。ここでは全くの余所者なんです。」

「神さまの恩寵がありますように、旦那!」主人が応えた「あすこには誰もいやしません。あのお屋敷はオラの知る限りこの十年放ったらかしでね、オラどもがここに来て八年になるけんど、その頃にゃもうあのお屋敷とこのロッジは両方とも長いこと空っぽでしたよ。オラはこのちっくい小屋を向こうのホートンさんから借りてますので。」

「なるほど」私は答えた「それで、頼める相手は貴方がただけということなら、その屋敷で寝られたら十分ですよ。ご親切にありがとう。」

というわけで、私は来るべき宵を空屋敷の壁に囲まれて過ごすことになり、そちらに引っ込むまでの間、気のいい老夫婦との友好的なおしゃべりを愉しむと同時に我が徳性を涵養したのである。十時になって、私と主人は屋敷に向かった。それはロッジのすぐ側にあった。私は鞄を持ち、連れは前述の毛布、蝋燭、薪とマッチを運んだ。主人が案内してくれた部屋は十分快適だったが、調度があまり多くなかった。足車つきの小さくて低いベッド、椅子が二脚、洗面台があるだけで、絵や記念品の類いは一つもなかった。どう見たって即席の寝室だ。

何分かするうちに愉快な老人は古風な暖炉に気持ちの良い火をおこした。ベッドを整え、マントルピースの上にロウソクを置き、老人はおやすみなさいと慇懃に言って引き上げた。主人が去ってしまうと、私は椅子の一脚を引き摺って炉端に持っていって腰掛け、炎の煌めきを楽しんだ。今日一日のことを思い返し、妙な行きがかりでただ一人で寝ることになったこの古屋敷の来歴に思いを巡らした。さて、今私の心は詮索好きなターンに入っていて、ちょっとやそっとのことでは例の不愉快な感覚には陥らなかったのだ。そんな感覚の犠牲者ならそれのことを神経に障る感じと言い、そうでない人なら臆病風と呼ぶだろう。で、いま私はこんな立場に置かれた人なら尻込みするだろうあることをやってのけようとしている。就寝前の探検だ。この古い空き屋敷の一部だけでも見てやる。それゆえ、私はロウソクを取って廊下に出た。部屋のドアは開けっ放しにして、暖炉の明かりが暗い廊下の入口の所にまでどんどん漏れるようにし、行く手を照らすようにした。こうして二十メートル弱(*5)歩いた所で大きな赤いベーズのドアにぶつかって立ち止まった。明らかにこのドアは私の部屋がある翼を屋敷の他の部分から閉め出し、私が今立っているこの通廊から誰も抜け出せないようにしていた。私はちょっとの間躊躇った。ドアに鍵が掛かっていたからだ。だが、その時壁龕の錆びた釘から同じように錆びた古い鍵が下がっているのが目に止まった。周囲に漂う荒廃の気を胸一杯吸って栄えてきた蜘蛛の住処を一ダースばかり壊しながらその鍵を手にした。錠前が古くなっていたので、然るべき力をこめて解錠するには若干手間がかかったが、忍耐は格言通りにちゃんと報われ、ぎしぎし軋みながらドアはゆっくりと蝶番を中心にして開いた。私はロウソクを手にしたまま、第二の廊下に入っていった。そこには文字通り埃のカーペットが敷かれており、多分主人が言っていたようにこの十年の間に積もったのだろう。

辺りは墓窖のように陰気でひっそりしていた。時折、歩く足元で緩んだ板材が軋み、いつにない足音に驚いた人間嫌いな小動物が住処から逃げ出す音がするだけだった。動物が通路を駆けて行くと厚い綿埃の上に小さな跡が残った。幾つかの廊下が中央の廊下から河の支流のように左右に分かれていたが、私は中央の廊下をそのまま行くことにした。そして辿り着いたのは古風で大きな部屋で、腰板には彫刻が施され、板張りの壁には風変わりな昔の絵がいくつか掛かっていた。部屋の中央にあるテーブルの上にロウソクを置いて、その脇に立ち、ざっと辺りを見回した。一角には黴臭そうに見える古い書棚があり、何枚かの棚板の上には同じくらい黴臭そうな本がぎゅうぎゅう詰めになっていた。下の方は三日月形に刳り貫かれて、彫刻のあるオークのドアを部分的に隠していた。このドアは昔、隣室と行き来するために用いられたに違いない。好奇心に唆されて、目の前の棚にある一番近い所の本を何冊か取り出して開いてみた。「スペクテイター」誌(*6)――少なからず興味のある本だった――の初めの頃の号で、十分後にはもう最も偉大な文豪の作品に没頭していた。部屋のその辺に転がっていた高い背もたれのある奇妙な椅子を一つテーブルの前に引き寄せて腰を下ろし、「理性の響宴と魂の上げ潮」(*7)を楽しもうとしていた。黴の生えたページをめくった時、突然何かが一滴「ぼたっ」と紙の上に落ちた。血だ! それをじっと見ながら、私は恐怖と驚愕が綯い交ぜになった奇妙な感じを受けた。めくる前からそのページに着いていたのだろうか? いや、滴りは濡れて艶々していたし、ある程度高い所から液体が垂れた場合常に見られるような不均一で切れ切れの円盤の形をしていた。そればかりか、それが落ちる所を見も聞きもしたのだ。私は本をテーブルの上に置いて天井を見上げた。年代相応の灰色の汚れがあるだけだった。おぞましい斑点に顔を近づけると、それは古くなって柔軟になっていた紙にしみ込み、素早く広がっていった。もちろんこんな出来事の後ではアディソンとスティール(*8)の研究を続ける気にはなれず、本を閉じて棚板に戻した。ロウソクを取ろうとテーブルの方に振り向いた時、書棚に直接向き合う形で置かれていた等身大のポートレートに目が留った。きりりとした顔立ちの若い美人で、緑の黒髪を頭に巻き付けていたが、顔と影のある目の表情に何か高慢で冷酷な感じがあって好きになれなかった。私は明かりを頭上に掲げてその絵をもっとよく見ようとした。その時、絵の表情が変わった気がした。というか、ものが私と絵との間に入り込んだ感じだった。一陣の風がポートレートの前を吹きすぎて顔の輪郭を乱したかのように、一瞬絵が歪んだのだ。方法も理由も判らなかったが、顔は変わった。そんな風に見えた時に突然感じた恐怖を一生忘れることはないだろう。熱に魘されて見ることがある、ぞっとするような亡霊じみた顔――悪夢の迷路の中でこちらに振り返る顔、はっと目覚めればそこは暗闇で、額を冷たい汗でびしょ濡れにしながら、恐怖に息を潜めて横になっている、そんな顔だった。私は男のくせに頭の先からつま先まで震え上がり、恐ろしいポートレートから目を離すことができなかった。一分の間にそれはただの絵画に戻った――死んだ着色済みのキャンバスに――そこにある表情といえば一世紀近く前に画家が描き込んだものだけになった。先ほどの異様な見かけはロウソクのきまぐれな揺らめきのせいだろう、あるいは自分の目が生んだ幻想だと当時は思っていたが、今ではそうではないと信じている。絵にこれ以上妙なことが起こらないのを見て、私はそれに背を向けてドアに向かって数歩進んだ。こんな恐ろしい謎めいた部屋からはさっさと出たかったからだ。そこに第三の、更におぞましい現象が出来し、私の足はそこで釘付けになった。隅にあるオークのドアの方を見たら、その下から何かがじんわりと沁み出し、こちらに這い寄ってくるのに気が付いたのだ。ああ天よ! その「何か」を見極めようとじろじろ見るべきではなかった:――血のように赤く、どろどろで、こそこそしていた! そいつは恐ろしい濁流となって部屋にうねり込み、高価なカーペットにしみ込み、今私の足元に黒い溜まりを作っていた。それが流れ込んでくるのは隣室から、例の書棚で入り口のドアを塞いである部屋だった。そのドアの前の床には何冊かの大型書が置いてあったが――分厚い埃で覆われていたため、この部屋に入った時に気づいていたものだ。それらは今や澱んだ血溜まりの中だった。その時の自分の気持ちはとても書けるようなものじゃない。何かはっきりした心の動きだって起きなかったくらいだ。私の脳は痺れてしまい、息をすることも――動くこともできなかった。見る間に菌類に塗れた腐った木組みの割れ目から恐怖の流れが漏れ出し――ドアの脇では雨だれのように大きな滴となって膨れ――音も無く彫刻のあるオークの瘤を垂れていった。それでも私は立ち尽くしたままそれを見つめていた。それはゆっくり、ゆっくり、生き物みたいに這って、近寄るに連れ大きくなりつつ、足元まで来た。もし、突発したある出来事に驚いたせいで正気を取り戻さなかったら、それに引き込まれたままどれだけの長さ突っ立っていたかはわからない。その時、気の滅入るような重苦しい音とともに、右手の甲に血の二滴目が落ちてきたのだ。それは融けた鉛でもあるかのように私の肉を刺し、鋭い痛みが走って私は腕と肩を振り上げた。それは一瞬で私の脳に入り込み全身を浸した。私は甲高い叫びを上げながら身を翻して恐怖の場所から逃げ出した。叫び声は虚ろな廊下と人のものならぬ幽鬼の部屋に響き渡った。余りに異様な響きなので自分の声とは思えず――いつもの響きとは似ても似つかなかった。今思い出してみると、まともな生き物(*9)の叫び声ではなかった気がする。それはポートレートの前を通り過ぎ、私一人しかいない部屋の中ですら脇に立っていた、知られざるあるものの声だったのだ。谺を返すその叫びの中には、間違いなく何か名状し難く悪魔的なものがあり、死んだように陰気なこの屋敷じゅうに、数多ある目に見えない隅や側廊に至るまで入り込み反響してきた。ちょうど私は元の部屋に戻る途中で、長くて幅の広い窓の脇を通り過ぎなければならない所だった。それは小さな四角い窓枠からなる一世紀前流行ったタイプで、主階段の明かり採りになっていて、鎧戸も日除けも降りていなかった。そこを通り過ぎる時、何かぞっとしてちらりと後ろを振り返った。すると、ぼやけて汚れた窓ガラスを通してさえ、二人の女の姿がはっきり見えたのだ。外の厚く積もった白い雪の上で、一人がもう一人を追いかけていた。ちらりと見えた限りでは、最初の方はピストルのような物を手にし、長い黒髪を背後になびかせ、背景の死んだような白さと暗いコントラストを見せていた。追う側の女は相手を呼び止めようとするかのように両腕を伸ばしていた。だが完全なる夜の静寂の中で、それらの姿がこれほど近くに見えるのに、私の耳には何の声も聞こえなかった。次の窓は一度は板張りになっていたが、時間の経過とともに板材が弛み、一部が落ちていたので、そこで一旦立ち止まって外を眺めてみた。まだ雪はちらついていたものの、明るい月影のおかげで窓際のものがよく見えた。ガラスに付いた埃と蜘蛛の巣をコートの袖で払い、外を覗いた。二人の女はまだ走っていたが、両者の間の距離はかなり近づいていた。そして今はじめて私はそれらに関するあることに気付いてショックを受けた。どんなことかというと、その姿には実体がなかったのだ。走る二人の姿は炎そのもののようにちらちらと揺らめいた。先の方の女が振り返って追う女の方を見たと思ったら、私の目の前でつまずいて倒れ、消えてしまった。まるで断崖から落ちたかのように一瞬ですっかり消え失せてしまったのだ。もう一つの姿は立ち止まり、両手を握りしめ、さっと振り向くと馬車門の方に逃げて行き、すぐに遠ざかって見えなくなった。この羽目板張りの部屋で今見た光景は勇気を鼓舞する態のものではなく、窓際から逃げ出しひっそりとした通路を駆け抜け一番上にあるベーズのドアの所まで着いた時、はっきり言って私の膝はがくがく笑い歯はがちがち鳴っていたと告白しなければならない。こんなドアさえ開けなかったら! こんな鍵なんてなくなってさえいたら! いや、こんな嫌ったらしい館にさえ足を踏み入れなかったら! 慌ててドアを閉め直し、錆びた鍵を壁龕に掛け、急いで自分の部屋に戻って失神しそうになりながら椅子に倒れ込んだ。血糊が落ちた部分の手を見た。私の肉の中にしみ込んでしまったようで、皮膚の表面にはもう見えなかったが、それが落ちた所には回りに輪っかのある丸い紫色の斑点ができ、丁度火傷の痕のようになっていた。その痕は今でも私の手に残っているし、多分一生消えないのだろう。私は懐中時計を見た。マントルピースの上に置いておいたものだ。十二時五分だった。寝るべきだろうか? 消えかかった暖炉の火を掻き起こすと、気になってロウソクを見た。暖炉の火もロウソクも、そんなに長くはもたないだろう。じきにどちらも消えてしまい、私は暗闇の中だ。暗闇の館の中で一人きり。こんな風に一人きりで夜を過ごすなんて怖過ぎて願い下げだ。私は自分の恐れを笑い飛ばそうと試み、この弱虫の小心者めと自分を叱責した。そしてこういう場合によくあるステロタイプなやり方に舞い戻って自分を宥めては「私は悪くないんだから邪悪な力を恐れる必要はない」と我と我が身に言い聞かせたのだ。だが駄目だった。頭の先からつま先までブルブル震えて、燻る燃えさしを最後にかき集め、汽車旅用の膝掛けを周りに敷いて――とてもじゃないが服を脱ぐことなんてできなかったから――ベッドに横になり、まんじりともしないまま朝を迎えた。しかし、ああ、私がどんなに心細い数時間を耐え忍んだか、誰にも想像できやしない。一つ一つ消えて行く残り火を見つめ、灰が少しずつ炉床にこぼれ落ちる音を聞いた。ロウソクの炎が十回も燃え上がっては暗くなったろうか、それが消えた後は音一つしない真っ暗闇の中に私は残されたのだ。時折、回廊を下ってこちらに近づく幽霊の足音が聞こえた気がし、羽目板張りの部屋で出会った謎の存在がベッドサイドに立ってこちらを見下ろして、見えざる手で私の手に触れた気がした。額に汗が滲んだが、拭う勇気もなかった。恐怖の為にたった数時間で髪の毛が真っ白になったという人たちのことを考えて、朝になったら自分の髪の毛はどんな色になっているのだろうと思った。そしてやっとの――やっとのことで窓の日除を通して外が白み始めたのが見えた時、私はその光景を熱烈に歓迎した。間違いなくその時の感情は、砂に焼かれ喉の渇きに倒れそうになっている沙漠の旅人が、遥か遠くに水豊かなオアシスを見いだした際のものと全く同じだった。私は日が昇るずっと前にカウチから跳ね起き、急いで顔を洗うと、凍てつく外気の中へと飛び出した。途端に私はしゃっきりとして勇気が蘇るのを感じた。ゆうべ二人の女が走っているのを見た広い芝生は雪に覆われていたが、足跡は一つも見えず、きらきらとした結晶のような表面に何の乱れもなかった。私は歩いてロッジへの私道を下った。見るからに早起きの老人は、私が現れた時ちょうどドアの閂を外している所だった。

「お早うごぜえます、サー、これはお早いお目覚めで!」老人は声を張り上げた。「お入りになって何か食べますかい? ウチのバァさんが朝飯を用意しとりますよ。ゆうべはよくお休みになれましたかい、サー?」私が小さな居間に入ろうとすると、こんな風に聞いてきた。「あすこのベッドはちっと堅くって、ねぇ、ですが、オラの息子のジョージが泊まった時ゃ十分でしたな、そんなしょっちゅうじゃありませんが。旦那はなんか今朝お疲れのようですな、あんまりよく寝られなかったようで。あ、いいとこに来た、ベス、もう一皿追加だ、バァさんよ。」

私は朝食の間あまり口をきかなかった。主人が明らかに何も感づいていないのに、さっきの経験のことを何か話したものだろうか、それともやめておくか。程なく私は自分がその恐怖の館について「息子のジョージ」並に好奇心がないというふりができたらいいのにと思った。どう見ても彼はあてがわれた宿所に満足していたようで、空き屋敷を巡る深夜の遠足に出た様子もないからだ。

「あの、伺いますが、」私はついに口を開いた「私がゆうべ泊まった場所に関わる話の類いが何かあるのでしょうか? いえ、」弱々しく笑顔を作って加えた。一度は元気いっぱいだった微笑が化けて出たような笑顔だった「いろんなお話を聞くのが好きなもので、それだけなんですが。ほら、古いお屋敷には伝説みたいなものが付き物ですし。」

「はぁ、旦那、」老人はゆっくり答えた「何にも聞いたことがありませんなあ。誰かに訊いてみたこともありませんでしたな。オラどもがこっちに来て八年になりますが、そん時もあのでかいお館に住んでた人を覚えてるもんはこの辺にゃ居ませんでした。まあ、二十年くれぇは空っぽでさ――オラが知ってるだけでも十年以上は――もっとかも知れませんな。誰の持ちもんか本当に知ってるもんもおりませんで。訴訟だかなんだか、わんさかありましたが、どうにもなりませんでしたよ。」

「あれの来歴について誰か話してくれたりしなかったのですか?」私は聞いた「それとも、今までそのことを誰にも聞いたことがなかったとか。」

「特別に聞いたことはなかったと思いますなあ」老人は物思いに耽る様子で答えた

ちょっとの間をおいて、老人は急にこんなことを付け加えた「あ、あ、そうだ、いま思い出しました、五ヶ月ばかり前にここにきた男がいましてな、フランス人で、あん屋敷を見てオラに一つ二つ質問をして行きましたが、オラには旦那に言った通り何も話せませんでした。カトリックのお坊さんで、あん場所に何か興味がありそうでしたな。あれのことをお知りになりたいなら、そのお坊さんにお会いなさるといいでしょう。ここを下った村に居ますよ、二キロちょっと(*10)行ったとこです。クラウン・インて宿屋で。」

「おかしな人でしたよ」朝食の洗い物をしていた奥方が割り込んだ「どっから来ただか誰も知らなくて、判ってたのはフランス人だってことだけで。オラは何度も見たけんど、ステッキと嗅ぎ煙草入れ持ってうろちょろしてました。いつも一人きりでさ。すれ違うとたまにオラにもちょこんと頭を下げて『お早う』と声をかけてくれました。」

当然の成り行きとして、この情報を得た私は早速その僧の住まいに向かうことにし、その宿のある方角をよく教えてもらい、主人に別れを告げると再び鞄を肩にした。空気は清々しく鮮烈で、田舎道を歩いていくに連れヘッセンのブーツの下でサクサク鳴る雪の音が愉快だった。雲はその姿を一片だに留めず、さんざめく陽光が私の上に落ち来たり、朝のそぞろ歩きは私をすっかり元気にし、爽快な気分にさせた。やがて私はM.ピエール師なる人物が住んでいるという宿屋に到着した――古い切り妻とポルチコのある、瀟洒でアットホームな宿だ。建物のドアの所で声をかけると、それに応えて年かさの女性が現れ、私は自分の名を名乗り、M.ピエールさんに会いたいのですが、と言った。すると、「中でお待ちください」という丁寧な返答があった。長く待たされることもなく、すぐさまM.ピエールが現れた。背の高い痩せぎすの男で、日焼けした顔と鋭く落窪んだ目をしており、薄い髪の毛には白いものが混じっていた。彼は丁寧に頭を下げながら怪訝な様子で部屋に入ってきた。私は体を休めていた暖炉の側の椅子から立ち上がり、彼に向かって歩くと思い切り愛想よく自分の名を名乗った。彼は首を傾げてますます怪訝そうな面持ちになった。私は切り出した「いきなり朝からお宅に伺いまして誠に申し訳ございませんが、私が探しているものについて、貴方が何かご存知だと耳にいたしましたもので、少々教えていただけないものかと。それはこの地方に立っている古い屋敷のことなのです、『崖端館』スティープサイドという名前の。わたくし、昨夜そこで過ごしまして。」

最後の数語を聞くや否や、老僧の顔は慇懃な無関心から興味津々なそれに転じた。

彼は言った「ムシュー、私の理解は正しいのかな、貴方は昨夜崖端館でお休みになった、とおっしゃったのですね?」

「休んだ、とは言いませんでした」きっぱりと言い返した「そこで一夜を過ごした、と申し上げたのです。」

乾いた口調で彼は言った「Bienなるほど、わかりましたよ。昨夜そこで愉快な目にお会いにならなかったわけだ。そういうことですよね、違いますか、ムシュー――違うのですか?」彼は興味深そうに私の顔を見て繰り返した。そこから私の考えを読み取ろうとするかのように。

「おっしゃる通りです。あそこで非常に特異な出来事があったればこそ、こうして貴方のような紳士を煩わすことになったのです、残念ながらよく存じ上げない方なのにも拘らず。」

彼は微かに俯くと静かに立ち止まったままこちらをじっと見つめた。聞きたがっている話をしてもいい相手か考えているのだと思った。さて評決は「可」となったようで、目を私の顔から外すと、私の横に腰掛けた。

彼は言った「ムシュー、貴方のご質問に答えます前に、昨夜あの崖端館で何をご覧になったか伺わねばなりません。」

彼はポケットから小さな時代遅れの嗅ぎ煙草入れを取り出し、黄色い小鼻の先でひとつまみのラピーをくゆらして、私が異様な経験の全てを語る間、くつろいだ感じで顎に手を当てながら、こちらをじっと見ていた。話が終わっても、彼は数分の間座ったまま何も言わず、そして独特のぼそぼそとした感じで再び語り出した。

「これから話します件ですが、貴方のようなことを行ったことも、貴方が昨夜ご覧になったようなものを見たこともない人には打ち明けるつもりがありません。ああ神よ、あなたがこんな年の瀬に――十二月二十二日に――あの屋敷で一晩過ごしたというのは、なんと奇妙なことでしょう!」

彼は私にというより、自分に向かって話しかけているようだった。そしてチョッキのポケットから小さな鍵を取り出しながらこう続けた。

「フランス語はよくおできになりますか、ムシュー?」

「とてもよく判ります」すかさず私は答えた「フランスとは仕事の関係でたくさんやり取りしています。毎日フランス語を話したり聞いたりしていますよ。」

これを聞いた彼は愉快そうに微笑むと、椅子から立ち上がり、手に持った鍵でマントルピースの横の整理箪笥にある小さな引き出しを開け、丸めた手稿と葉巻を取り出した。

「ムシュー、」葉巻を差し出しながらこう言った「こんな朝っぱらから葉巻をおやりにはならないかな。お吸いになるならこれはいかがでしょう。私はラピーの方が好きなのですが、貴方はお若いから。」

こんな風に私をほっとさせて、老僧は再び座り、それ以上の弁明を入れることもなく、手稿を広げて以下の物語をフランス語で読んで聞かせた。

前世紀の後半、サー・ジュリアン・ローリントンなる人物が崖端館周辺スティープサイドの地所を所有することとなった。家族は僅かに妻のレディ・サラと娘のジュリアだけで、ジュリアは美貌に加え莫大な財産を相続する点からも注目されていた。

サー・ジュリアンの家には長いことフランス人の老給仕長とその妻が雇われていたが、二人ともこの准男爵の奉公人として一生を終え、一人娘のヴィルジニーを遺した。両親の忠勤に鑑み、レディ・サラはこの娘の教育と保護を約束した。

この孤児はサー・ジュリアンの家で育ち、暫くすると跡取り娘の付き添い役として選ばれた。一家がスティープサイドに崖端館を建てた際、ジュリアが幼い頃から勉強と遊びにつき合ってきたヴィルジニー・ジローは、一家の希望たる跡取り娘の、相談相手兼女中として同行する運びとなった。

崖端館での生活が落ち着いて間もなく、サー・ジュリアンは、婚姻に絡んで当時広く行われていたやり方に則って、娘を血統が良い土地持ちのウェールズの郷士に下賜したいとの旨を公表した。サー・ジュリアンはプラクティカルな男で、婚姻関係を見るに当って富と財産以外の光を当てようとは金輪際しなかった。結婚とは金持ち同士が手を結んで共に生きることだったのだ。そのようにして彼は結婚し、今度は自分の娘をそのようにして結婚させようとしていた。愛だの情熱だのは、それが仮にいかがわしくないとしても、無意味である。もちろん一人娘にとってもそれ以外の意味など持ち得ない。レディ・サラはというと、冷淡な人物で、ジュリアを誰か地位の高い紳士とめあわせようという野心しか持っていなかった。そうすれば素晴らしい社会的な成功と名声を得られるというわけだ。

それで、これらの社交的な両親と彼らの未来の義理の息子との間で婚約に関係する全ての事項が然るべく手配されて後、初めて、許婚は彼女のために用意された財産のことを知らされることとなった。

ところが、弁護士達が結婚の合意書を作成しているまさにその間に、フィリップ・ブライアンという名の若い文無しの紳士がジュリアのハートを射止めてしまい、二人は堅く結婚の約束を交わしたのである。これがサー・ジュリアンとレディ・ローリントンが娘の婚姻についての計画を公式に本人に告げる僅か数日前の出来事だった。フィリップと婚約したジュリアはこのニュースを聞いて憤り、地上のいかなる権力が働こうと、自分を妻と決めた若者を裏切るような真似をするものかと反発した。この決意表明は両親にとって大いに不満なものであり、サー・ジュリアンは怒って口汚く罵り、レディ・サラは皮肉を漏らし、フィリップ・ブライアンは当然ながら出入り禁止となって、恋人同士の手紙も伝言も全て禁止され、ジュリアは忠実かつ従順な跡継ぎ娘として振る舞うように強要された。

さて、サー・ジュリアンの娘の付き添い役であると同時に友人だったヴィルジニー・ジローは、この叛乱が勃発した後、フィリップに想い人からの警告を伝える役目を負って派遣された。当然、恋人は同じ手段で返事を寄越し、この時以来ヴィルジニーは二人を繋ぐエージェントとして手紙をやり取りし、助言を与え、密会を手配した。そうこうするうちローリントン夫妻の手で結婚の日取りが決まり、上流階級の驚嘆と賞讃の的になるべく豪華な式典が準備された。朝食室は豪奢に飾られ、最高級の花嫁衣装が仕立てられ、両家の富裕で名誉ある親戚が一人残らず式に招待された。フィリップとジュリアは傍観していたわけではなかった。二人の間に、政略結婚の前夜十一時、若者がジュリアの窓の下にやってくる、ヴィルジニーは監視すると同時に恋人二人の逃走に付き添う、という手筈ができていた。三人はその後夜陰に紛れてこっそりと馬車門に向かい、灌木の門から脱出するという寸法だ。門の鍵は既にヴィルジニーの手中にあった。約束の夜が来た――十二月二十二日。雪が地面を厚く覆い、明け方までに更に深く積もりそうだったが、フィリップはどんな天候になっても馬をやると約束していたし、この企てには夜が暗い方が好都合だった。主人であるジュリアは日中からヴィルジニーの様子がどこかおかしいと感じていた。女中の顔は青ざめ、奇妙な不安と懸念の表情を見せていた。ジュリアの視線を浴びると表情を曇らせて震え出し、約束の時刻が近づいてジュリアがフードと外套を羽織ろうとしたとき、それを助ける彼女の手は激しくブルブルしていた。それでもこんな状況ではヴィルジニーが興奮したり神経質になったりしても当たり前だと自分に言い聞かせながら、ジュリアは優しい言葉と仕草で彼女を元気づけ、支えようとした。だが、慰めたり諭したりすればする程ヴィルジニーは動揺し、とかくするうち十一時になった。

ジュリアの部屋の窓は地面から一メートルの高さもなかった。彼女はその窓際で待った。フードと外套を纏って、恋人の声を早く聞きたいと焦がれながら。フランス娘はその背後で締切ったドアに凭れ、先ほどポケットから取り出したばかりの紙を神経質にちぎっていた。暖炉は赤々と燃え、彼女が紙片をそこに放り込むのをじっと見るでもなく、ジュリアは窓を開けた。一陣の風が吹き込んで、まだ燃え切っていなかった紙切れを吹き上げ彼女の足元に落とした。何気なく眺めた彼女は、突然その上に書かれた文字に目を惹き付けられ、屈んでそれを拾い上げた。

そこには彼女の名前が何度も何度も書き直してあり、初めのうちはぎこちない模倣だったのが、段々上達して、最後にはジュリア自身も本物の署名ではないかと見紛うばかりの完璧ぶりになっていた。その先はLとJとの繰り返しで、あたかも模倣者がこれらのイニシャルはまだ十分オリジナルに似ていないと考えていたかのようだった。

ジュリアは不思議に思ったが、疑念は持たなかった。彼女が紙片を放った時、丁度振り向いたヴィルジニーがその動作に気づいた。その瞬間女中は酷く紅潮した顔で警告の叫びを上げながらいきなりこちらに駆け寄ってきた。彼女が絶叫した直後、窓の下でピストルの発砲音が鋭く響き、次いで雪に覆われた地面の上に誰かが倒れたかのような鈍い音が聞こえた。驚いたジュリアは恐怖の眼差しを外に向けた。窓から漏れる暖炉の明かりの中に、一人の男が白い雪の上に倒れている姿が映った。男は身動きすることなく、顔を雪の中に突っ伏し、伸ばした腕にピストルを握っていた。ジュリアは取り乱し、金切り声を上げながら窓から飛び降りて男の横に跪いた。

「フィル! フィル!」彼女は言った「なんて事をしたの? 何が起きたの? 教えて!」

だが返ってきたのは、微かな低いうめきだけだった。

フィリップ・ブライアンはピストル自殺を図ったのだ!

悲しみと恐怖にもがきながら、ジュリアは彼の頭を腕に乗せ心臓を手で押した。この動作のおかげで彼の命は少しだけこの世につなぎ止められた。彼は目を開け、彼女を見、二言三言切れ切れに呟いた。彼女はそれを聞き取ろうと必死に身を屈めた。

「手紙!」彼は喘いだ「君がくれたあの手紙! ああジュリア、君は僕の心を打ち砕いた! あんなに酷いことをするなんて、全身全霊で君を愛し――信じているのに! 君が選んだ男と結婚するのを見るなら生きていたくない。僕は今夜ここに死ぬために来たんだ、君のいない人生なんて我慢できないから! 自分がしでかしたことを見るがいい!」

絶望に声もなく彼女は腕を彼に回し、唇を重ねた。痙攣が彼の全身を走り、両の眼は上を向き、末期の息を吸うと、狂おしくも自ら望んで止まなかった死へ旅立っていった。最後の口づけの中で迎える死へと!

ジュリアは座ったまま身じろぎもせず、恋人の死体を腕で支え、手を握っていた。涙を流さず、何か恐ろしい魔法の力で石になってしまったかのように固まったままだった。チョッキの胸の所に隠れるようにして一通の手紙があった。破られた封印には彼女自身の組み合わせ文字があった。ちらつく暖炉の明かりの中、彼女は隠し所から引っ張り出した手紙に急いで目を通した。レディ・サラの筆跡で、こう書いてあった:

「我が親愛なるブライアン殿――、
 最後の別れしなには今夜の再会を期するものとしておりましたが、その後の思慮及び両親からの明確な禁止勧告のために変更を余儀なくされました。このように書けばお判りのように、私は父母の願いに従って両親が選んでくださった方と結婚する旨約束いたしました。従って私どもの間の文通は以降とりやめとし、貴殿も私のことを思い煩うのをお止めくださりませ。今晩貴殿と会う意志のないことは言わずもがなでありましょう。貴殿の良識と名誉にかけて、私の願いに反する計画を実行なさることのありませぬように。またこれ以上の説明をお求めにならぬよう、冷静な熟慮の結果であり、最終的な決定である旨ご理解いただけるよう願い上げます。
「この署名を差し上げますのも、これが最後ですわ。
ジュリア・ローリントン

「追伸――
私が母と意見の一致をみましたことをお疑いになりませんよう、署名と宛名を私自身が書き、配達を引き受けてくれたヴィルジニーにもこの書状の真正なることを誓ってもらいます。彼女はこの手紙を書く場面を見、全ての内容について理解しているからです。」

「署名と宛名を私自身が」! そう、確かに、署名と宛名書きはジュリアの筆跡の完璧な模倣だった! これではフィリップが彼女の裏切りを信じてしまったのも当然だ。手紙を二度読み通した彼女は恋人の体を雪の上に優しく横たえ、口を結んだままきっと立ち上がった。その顔には彼女の脇に眠る死人以上の死相が浮かび、幽霊じみていた。

恥ずべき構図全体がひとときに頭に浮かんだのだ。ヴィルジニーの背信と巧妙な欺瞞。たった数分前に見た紙片を考え合わせればそうなる。慎重に企まれたこの裏切り行為の黒幕はレディ・サラで、多分ヴィルジニーに袖の下を渡して抱き込んだ。私の恋人にむごたらしい失望を与え責めさいなむために。こういった全てが彼女のよろめく脳裏に浮かび、狂気へと至る種子を植え付けた。

彼女は屈んで、柔和な手を死んだ男のベルトに置いた。思った通りそこには二丁目のピストルがしまってあった。自殺に用いたのと組になっているものだ。ジュリアは装填済みのそれを取り出し、外套で包んで、開いたままの窓に登って音もなく部屋に戻った。部屋を通り抜けその先の廊下に出て、影のように素早く静かに足を運び、父親の書斎の隣室までやってきた――そこは板張りで、オークのドアを開ければ書斎に出られるようになっていた。

壁際の暗い凹みに隠れて庭で起きた一部始終を聞いていたヴィルジニーは、ジュリアが手紙を開けて中を読むのを見、ピストルを取ろうと屈んだときの表情を見、これから起こることになんとなく感づいた。女主人に続いて窓から這い込むと、暗い廊下で彼女を追った。今ヴィルジニーは板張りの部屋の外の廊下で再び身を縮め、恐れに震えながら悲劇の第二幕を待っていた。ジュリアが乱暴に書斎のドアを開けると、父親はテーブルの前に座って書き物をしていた。部屋を照らすランプの光を浴びながら、彼女は框に立ってピストルを構え、撃鉄を起こして狙いをつけた。サー・ジュリアンが叫び声を上げて椅子から逃げるが早いか、彼女は引き金を引き、次の瞬間左のこめかみに銃弾を受けて父親は倒れ、娘の足元に転がった。銃声と人が倒れる音を聞いて、ドレッシングルームにいたレディ・サラが取り乱した態で書斎に駆け込んできた。彼女が見たのは血の海の中に死んで横たわる夫と板張りの部屋の入り口に立つジュリアの姿だった。狂った殺人者の目をしていた。だが、ジュリアはそこに長く立ち止まってはいなかった。レディ・サラが入ってくるのを見て、動転した娘は弾切れになった武器を捨て(*11)、母親に飛びかかると怒りのありったけをこめて首を絞めた。二人の女は死に物狂いになって、上になり下になり、部屋中を転げ回った。一人は殺してやろうと、一人はなんとか生き残ろうと。二人とも声を上げなかった。それほど必死の格闘だったのだ。ついに襲撃者は体力が尽きたレディ・サラにのしかかった。彼女の顔は窒息してどす黒く変色し、腫上がった眼窩から両眼が飛び出した。ジュリアはこれでもかと腕に力を込め、レディ・サラの胸の上に膝をついて、犠牲者の両耳から血が噴き出し見開いた目が曇って行くのも構わず、鬼畜のような力と決意でその体を床に押し付けた。復讐が完全に成し遂げられたのを知って初めて殺人者はその無情なる指を緩めたのだ。そこで彼女は跳ね起き、床からフィリップのピストルを拾い上げて、荒々しい金切り声を上げながら廊下を駆け、階段を下り、庭園に出た――風が吹き雪が舞う寒空に飛び出し、ほどけた髪を肩にこんもりと纏わりつかせ、サテンのロングドレスを血に染めて。恐怖のため負けず劣らず気の狂ったヴィルジニーがその背後を追って走った。不幸せな逃亡者をなんとか足止めしようという無駄な足掻きだ。ところが、ヴィルジニーがもう一歩でジュリアを捕まえられるところまで追いすがった時、ジュリアは台地になった芝生の縁に辿り着いてしまった。そこは高い崖になっており、これが「崖っぷち」スティープサイドという名前の由来だったのだ。ジュリアは追う者を見ようと振り返ったが、芝生の境になっている低いかさ石のところでたたらを踏んで、裂け目の底の雪の吹きだまりに頭から落ちた。

ヴィルジニーはジュリアが足を踏み外した地点に駆け寄り、下を見た。「崖」スティープは実に高く急峻で、裂け目の底は暗くジュリアの姿は全く見えなかった。疑いなくローリントン家の惨めな跡取り娘は、雪が柔らかく降り積もった深き裂け目の底をその奥津城としたのである。

女主人の手を血で染めさせた狂気の呪いを心と頭にすっかり受けてしまったヴィルジニー・ジローもまた、あまりのショックに芝生を横切って逃亡した――馬車門を通り――その先の闇の公有地へ。そして消息を絶った。老僧は手稿を脇にやると、銀の嗅ぎ煙草入れからラピーを一掴み取った。

「ムシュー」白髪を慇懃に傾けながら言った。「聞いていただけて光栄ですよ。お聞きになりたかったのはこういうことでしょう。」

私は答えた「ご親切を心から感謝しております。その上で恐れ入りますが、もう一つだけ伺わせていただけますか?」

老僧の目に同意の光を見、口角に私の質問を期待するような皺が寄るのを認めた私は勇気を奮って質問した。「それでは、ピエール師、御僧がこの原稿を手にされたのはどのような経緯だったのでしょう、また、誰がこれを書いたのですか?」

「疑問に思われるのは尤もです、ムシュー、」いくらか間を置いて彼は答えた「個人的にこの悲劇に関わった人たちは疾うの昔に一人残らず鬼籍に入っていますから、話しても差し支えないでしょう。私はね、若かった時分にベリー州で神父をしていたのですよ。信者が二百人ばかりの小さな教会でした。随分昔のことですが、地元の者が誰も見たことのない奇妙な老婆が村にやってきました。老婆は私どもの教会から三キロ(*12)ほどの所に粗末な小屋を借りて住着き、毎週の市場の日に必需品を買っていく以外はうちの教区の人たちと一切関わりを持たずに暮らしていました。どうみても正気でなく、誰かを傷つけるといったことはなかったのですが、奇矯な態度のせいで、よく厄介がられたり不思議がられたりしましたね。間歇性の強迫神経症では、犠牲者はしばしばある特定の対象をきっかけにして狂気の発作をおこすものなのです。そういった対象の持つ何かがいつでも牙を剥いてしまう――そうでない場合には常人と変わりなく振る舞えるのですが。この老婆の弱点というのは、書いてある文章を目にすると、それを複写したくてたまらなくなるというものでした。市場の日に村を訪れた時などですね、通りがかりに教会のドアに出ている掲示板を目にしたが最後、即座に立ち止まってポケットから鉛筆と紙を取り出し、ぶつぶつ独り言を言いながら掲示板を全部そっくり書き写すまでそこから動けなくなってしまうのです。それが済むとやっと黙ったまま紙をポケットに戻して元の行き先に向かったものでした。

教会の指導者として、この哀れな人物と知り合いになるのは自分の責務だと思いました。我が羊の群れの一人となったのですから。私は折々老婆の許へ足を運びました。奇妙な精神障害の原因(若い頃何かの災厄に見舞われたことが発端なのだと見ていました)をなんとか見つけられるかもしれない、そうすれば老婆が必要としているかもしれないアドヴァイスや慰撫を提供できるのではないか、と思っていたのです。最初二・三回訪問した時は、何も起きませんでした。私どもの信仰の持つ神秘と慰安について説く私のことを老婆は石像のように座ったまま不機嫌そうに見るだけで、告解して心の平安を得ないか、そのような安らぎは悔悛の秘跡のみが齎し得るのだから、と勧めても無駄でした。そう、そんな訪問活動のある時です、祈祷書に挟んで聖書の一節を書いた小さな紙の束を持って行ったのは。老婆の魂を救うのに最適だと思う聖句を私自ら抜粋して書き写しておいたのですよ。例によってむっつりして他人行儀だったのですが、祈祷書から筆写した紙を取り出してその手に渡した瞬間、老婆の様子が一変したのです。目の中に狂気が光り、せかせかと鉛筆を探し始めました。「私にはできる!」老婆は叫びました。「私の筆跡はいつでもあの娘そっくりだった。子どもの頃から一緒に勉強したから。私があれを書いたなんて彼が気づくはずがない。彼を騙すのは簡単でしょうね。これまで何度も何度もあの娘のサインを練習してきて――もうちょっとで真そっくりにできるわ。そうしたら、奥様、あの娘に言ってやるの、貴女は彼に騙されていたのよ、他の娘に心移りしたのよ、って――彼は嘘つきで――卑劣で――恥をかいて国を捨てて逃げるのよって。そうよ、そうよ、あたしたちはあの二人を騙してやる。」

こんな風に何分か熱に浮かされたようにまくしたてた所で、私はまずいと思い、肩を揺すって正気を取り戻させようとしました。「おばあさん、どこか具合が悪いのですか?」と私は叫びました「私は貴女の『奥様』ではなく、貴女の教会の神父ですよ。『主の祈り』を唱えなさい、『アヴェ・マリア』を唱えなさい、そしてサタンを追い払うのです。」

私が掛けた言葉が良かったのか、不幸にも見せてしまった原稿を引っ込めたのが良かったのか、どちらかは判りませんが、老婆は理性を取り戻しました。とにかく、老婆はすぐに回復しました。なんとか他の話題に移るようにしてなだめ、落ち着かせた後で、私は一安心して小屋を辞したのです。」

「この出来事から時を経ず、ある朝、近所の人が私の家にやってきて、例の老婆が毎週開かれる市場に来ていないというのです。老婆が毎週毎週市場に来ていたことを知っていたその近所の人は、老婆の住処に足を運んでみました。すると老婆は病気で寝込んでおり、私に会いたがっているとのことでした。もちろん、私は即座に老婆の求めに応じることとし、老婆が赦祷式と臨終の聖餐を心配しているなら、私の手でそれを施すつもりでした。小屋に直行すると、老婆は私を脇に招き、低い声で口早に言うのでした:――

『神父様、今すぐ告解したいのです。もう長くないのが判っていますから。』

「老婆が、少なくともその時点では完全に正気なのを知って、私は喜んで老婆の頼みを引き受けることにし、惨めな魂が痛ましくも次第にその重荷を下ろしていくのを聞き取ったのです。

「ムシュー、ヴィルジニー・ジローが私に託した言葉が、告解の秘跡の中でだけ語られたものなら、それをここで貴方に繰り返してはならなかったでしょう。ですが落ち着いた様子で最後の言葉を話し終えたところで、老婆は枕の下から紙の包みを取り出し、私の両手に乗せてこう言ったのです。『神父様、ここに私の歴史があります。私の死後はご随意になさってください。私を打ち負かしてしまった大きな誘惑から誰かを守る警告になるかもしれません。』

「『賄賂という誘惑ですか?』と私は問いました。老婆はかすみゆく目を私の顔に向け、弱々しく首を振りました。

「『賄賂ではありません、神父様』と老婆は応えました。『あんなこと、この私がたかが小銭のためにやったと?』

「私は返事をしませんでした。言っていることが謎めいていますし、さりとて興味本位の質問で今にもこの世を去ろうとしている魂を苦しめるのもどうかと考えたからです。そこで私は黙って椅子に腰掛けたまま、礼拝に疲れた老婆が少し眠れたらいいのにと思っていました。ですが、間違いなく私の最後の質問が調子外れになった精神に働きかけたのですね、ほんの暫しの間鳴りを潜めていた狂気をぶり返させてしまいました。老婆は突然枕の上に起き上がり、皺だらけの両手で頭を抑えて、大声で叫んだのです:――

「『かねだって!――金がなによ、あの人と一日でいい、愛し合えたら魂でも売り払ったのに! あぁ! 金なんて本当はあいつらの顔に叩き付けてやることもできた――あの馬鹿どもは私が黄金目当てだと信じていたけど! フィリップ! フィリップ! 跡取り娘を妻に迎えようなんて、あなたは気違いよ。私のことを見ていてくれたならずっと良かったのに――あなたをあんなに愛していた私を! そうしたら私はあなたを破滅させずに済んだ――あなたのことをサラ奥様に告げ口することもなかった! でも私はあなたがよこした酷い言葉を許せなかった。あなたがジュリアに寄せた愛情を許せなかった! 私は天国に行くのでしょうか――聖人達がいる天国に。聖人達は私を入れてくれるでしょうか――私の魂を仲間にしてくれるでしょうか? そうでなければずっと煉獄かしらね、不浄なものをいつでも燃やして燃やして燃やしている所。だって、ああ! 千年後に同じ過去が蘇るとしたら、私は同じことをするはずだもの。フィル・ブライアン、あなたへの愛のためなら!』

「老婆はベッドから起き上がり、譫妄状態で歩き出しました。その時ごぼごぼという音が喉から聞こえ――突如押し殺した叫びとともに――彼女の胸も枕もキルトも朱に染まったのです! 発作のせいで血管を破ってしまったのですね。私は飛び出して煉瓦の床に仰向けに倒れかかる彼女を抱きとめ、腕で支えるとその歪んだ顔を見つめました。真っ赤になった唇からもう息は漏れませんでした。ヴィルジニー・ジローは死体になっていました。

「こうして、正気の間は告解の場ですら明かされなかった彼女の生涯の秘密と罪は、狂気によって暴かれたのです。金に対する貪欲さのためではなく、愛情を軽蔑されたことを根に持っていたのですね。それが彼女が関わった恐怖劇全体の底流となっていたのです。地上での生活が彼女にとってどれ程の地獄だったかが何となく判った私は、この哀れな死者を心から悼みました。

「彼女から委ねられた崖端館の悲劇に関する手書きの資料を幾分簡潔な言葉にしたのが、たった今お聞きになった物語です。特に重要な細部の多くは、後に私自ら他の情報源をあたって確認をとりました。ですからこの書類の中身は、法的な証拠であるばかりか、真実の目撃証言なのです。

「ヴィルジニーが亡くなって四十年程経った時、ムシュー、家庭の事情で私は一時教会の仕事を離れてイギリスに来なければならなくなり、しばらくこちらに滞在することになったのです。そこで私はここに来て、例の館を見に行きました。しかしロッジの借り主も館は何年も前から空き家だったということしか知りませんでした。調べてみると恐怖の十二月二十二日以降、占有者はいなかったことがわかりました。その建物を購入して所有者となったサー・ジュリアンは直系の遺産相続人を残さなかったので、親戚たちは遺産を巡って互いにいざこざを起こしたのですが、競争相手は次第に減り、今では訴訟沙汰を蒸し返そうとする程がめつい人はいません。」

親切な老僧の葉巻を戴こうと腰を上げながら、この僧は崖端館に出現した異様な姿の素性について、きっと傾聴するに足る意見を導き出しているに違いないと閃いた。そこで私は質問してみることにした。

彼は言った「それについての私の見方に何かの価値があったり、あるいは貴方の興味を惹くというなら、喜んで説明しましょう。カトリック教会の聖職者として、私は幽霊の出現について巷間行われる話を受け容れるわけにはいきません。私にとって、例の不幸な屋敷で貴方が体験したような現象を説明する仮説は一つしかあり得ません。邪悪なる力を越える一つのが、悪魔をすら屈服させる一つの意志があるのです。次のように考えてもキリスト教の教義と矛盾することにはなりません。つまり、いま私どもが論議しているような恐ろしい犯罪の場合、それを唆したかもしれない邪悪な精神が、時期の長短はおくとして、幽霊の形で陰謀のシーンに取り憑くように強いられ、その幽霊はかつて現実世界で引き起こした恐怖を再活性化するわけです。自然なことに――あるいは多分、」ここでちょっと微笑を浮かべて間を取った「むしろ超自然なことに、というべきかもしれませんが――これらの悪魔は、自分がどんな罪に関わったかを何か目に見える姿で表さないと出現することができません。この事件の場合――遂行された犯罪の性質からして、人間の犠牲者たち――被害者や殺人者――の幽霊となって現れる以上に相応しいやり方があるでしょうか? まあこれは素人の意見に過ぎません、ムシュー。教会に所属する聖職者としてではなく、個人として話したのです。ですが、実際の難問に対する説明になるでしょうし、こういった説明が不信心の誹りを受けることもないでしょう。少なくともキリスト教徒として確信を持つべきことは、死者の魂はそれが聖人のものであろうと罪人のものであろうと神の御手に守られているのであり、もはや地上を歩くことがない、という点です。」

私はM.ピエール師と握手して別れた。その後は、読者よ、友人宅に行き、クリスマス・ウィークを愉快に過ごしたのだ。


翻訳について

底本は Project Gutenberg の Dreams and Dream Stories By Anna Kingsford の第二部 Dream Stories の第二話 Steepside; A Ghost Story です。この翻訳は独自に行ったもので、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。

Steepside は「急斜面の側」という意味なので、house of Steepside を「崖端館」としてみました。崖っぷちトリオという名前が浮かんだ貴方、歳がバレますよ。

この訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。TPPに伴う著作権保護期間の延長が事実上決定した現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。

固有名詞:Willum、George、Mr. Houghton、Crown Inn、Rev. M. Pierre、Sir Julian Lorrington、Lady Sarah、Julia、Virginie Giraud、Philip Brian、Berry

第一部 Dreams の中から、短い詩集 Dream Verses を除いた部分を「夢日記」として訳出してあります(誰か Dream Verses を訳してくれませんか……)。第二部 Dream Stories「夢の物語」には、以下の八編が収められています。いくつか邦訳を試みておりますので。興味をおもちでしたらどうぞ。

  1. A Village of Seers:「千里眼の村」
  2. Steepside; A Ghost Story:「崖端館」(本作)
  3. Beyond the Sunset:「夕映えのむこうの国」
  4. A Turn of Luck : 「幸運のターン」
  5. Noémi:「ノエミ」
  6. The Little Old Man's Story:「小さな老人の話」
  7. The Nightshade:「犬酸漿」
  8. St. George the Chevalier:「騎士・聖ジョージ」


17, Apr., 2016 : とりあえずあげます
18-19, Apr., 2016 : ちょっと修正
23, Apr., 2016 : ちょっと修正
3, May, 2016 : ちょっと修正
8, May, 2016 : 第三話へのリンク
16, May, 2016 : ローリングトン→ローリントンに統一
2, Jun., 2016 : 第五話へのリンク
3, Jul., 2016 : 第七話へのリンク
11, Jul., 2016 : わずかに修正
6, Sep., 2016 : 第一話へのリンク
4, Mar., 2017 : 第六話へのリンク、Noemi → Noémi
18, Apr., 2020 : 第八話へのリンク
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