SFオンライン 書籍レビューの件に関して

「滅びの都」に対する小説としての評価

 渡辺氏のレビューは,SF的な部分のみ捉え,評価している。この姿勢が正しいのかどうかはわからないが,個々人の読み方に意見をする資格は誰にもない。
 今回,あえてこのような試みを行う理由は,レビューは読書ガイドとして読まれることが多いという点にある.もし,その本の本質を知らないまま,もしかしたらその人にとってかけがえのない本になる可能性のあるものを読みのがしてしまうことになったとしたら,それは非常に不幸なことだからである.
 SFオンラインからのリンクで飛んできているのでなければ,本文を読む前にSFオンライン5月18日付発行分の書籍レビュー「滅びの都」の項を見ていただきたい。
 また,ストーリーに関しては,ロシアSF研究同人「トロイカの会」会報「蝸牛月刊」19号に示しているので,そちらを参照いただきたい。


本書のテーマ

 まず,本書のテーマは序文であからさまに示めされている。
 本書の序文においてボリス・ストルガツキイは「理想を失い,目的を探し求める精神的な彷徨」であると語っている。
 以下ではストーリーを追いながら,上記のテーマを当てはめてみる。
 本書は大きく二つの部分に別れている。
 まず,第四部までは,<都市>と呼ばれる場所で話が進む。そこは,猿が大量に発生し,幽霊屋敷が町中を徘徊し,太陽が停電を起こす不思議な場所である。そこでは,主にやっかいな騒動の渦中に中に置かれてしまった主人公の狼狽する様が描かれるのだが,その様は時にはコメディ,時には不条理劇,時には余りにも悲劇的すぎる喜劇である。また,同時に主人公の思い込みの激しさ,病的なまでに価値観に支配された行動,価値観そのものの脆さが示されるが,最後には主人公の価値観は見事に崩壊し,体制の中に取り込まれてしまう。ここまでが本書のテーマの半分「理想の喪失」である。
 そして残りでは,渡辺氏が,
 特に<都市>を離れて<世界の果て>に調査隊が送り込まれる第5部の流れはスリリングで、今までの地味な展開がまるで嘘のよう。廃墟と化した神殿、鉄頭人の伝説、古文書が一杯の図書館、動き回る謎の像など、傑作「ストーカー」の<ゾーン>ほどではないが、豊富にちりばめられた小道具と荒れ果てた滅びの風景が読者の想像力をちくちくと刺激する。
と語るような冒険物語となる。
 同書評においては,SFとしてのみの観点から評価するという姿勢から,第四部までのストーリーと,それ以降のストーリーを切り離して評価してしまっている。確かにこの部分だけでもSFとして評価できるかもしれないが,全体のストーリーの中では,前半とは不可分だ。目的を求める精神の彷徨という,ある種の聖杯探求物語ともいえるストーリー構造は,第四部までの内容まで含めて解読しなければ見えてこない。


本書のストーリーは完結している

 最終的に主人公は彷徨の末,個人の精神やイデオロギーを捕らえ,動けなくする存在だとも言える<都市>の世界を脱出する。本書ではこれを「第一圏」の脱出だと称しているが,彷徨の末に呪縛を逃れ,新たなる理想の追求が始まるところで話は終る。テーマとしては見事に完結しているわけだ。
 渡辺氏は,
 ストルガツキーのファンならおわかりだろうが、答えはない。主人公はまだ「第1圏」を終了しただけであり、この先にまだいくつもの「圏」があることしか示唆されていないため、読後感としては曖昧なものが残る
と書いているが,渡辺氏が無いと指摘している「答」は確かにある。
 本書は,渡辺様の表現を借りるならば「個人の精神はどこへゆくのか?」というテーマで終始一貫している。
 また,「第一圏」が最終目的地などではないと示唆してはいるが,この示唆そのものも答の一つである.「精神的な価値(観)を高めてゆくという行為に終りはない」と書くといささか陳腐になってしまうが,つまりはそういうことだ.
 これは同書中に示される「病める良心」が芸術を産み出すという主張,つまり良心や正義感といった言葉に代表される社会的価値観に縛られないということ,すなわち高貴で純白な精神,裏を返せば良心が病んで機能しないというある種の欠落した状態が芸術を産み出すという主張と無関係ではない。なお,ヨシフ・ブロツキイがノーベル文学賞受賞時に行った講演の記録「私人」(群像社)では,本書とほぼ同じ意味で作家の精神が深く考察されている。参考として読まれてはいかがだろうか。


本書の現代性

 本書が示す「切実な問題」とは,ソ連社会が抱えていた共産主義の矛盾というだけの問題ではない。本書の序文にも書かれているが,「切実な問題」とは,「これまでの理想はことごとく消え,足元を支えるイデオロギーは消滅した」という現象のことだ。
 ストルガツキイの小説は,共産主義下のソ連で書かれたという事情もあるため,ソ連社会特有の問題を扱った小説だと捉えられがちだ。しかし,数あるストルガツキイ作品の中で,ソ連社会のみの問題を取り上げたものはまず無い。それは本書も同じだ。
 日本において,ことに最近,何らかのイデオロギーを行動の規範として生活している,目的と理想を持って生活していると我々は確信を持って断言できるだろうか。数十年前,ソ連で示された問題は,今日の日本に住む我々の「切実な問題」となって立ちはだかっているのだ。今日のアメリカは明日の日本だとは良く言われることだが,同じ意味において昨日のソ連は今日の日本なのである。
 また,渡辺氏は,
あからさまに共産主義を皮肉った<都市>の様相があまりにリアルなのだ
と書いているが,同書中であからさまにあてこすられているソ連社会の不条理さと,現代の日本で生活していて感じる不条理さと,どれだけの違いがあるだろうか。渡辺氏は<都市>の様子をリアルだと評しているが,なぜリアルだと感じたのだろうか? もしソ連社会で長い期間生活した体験を踏まえてこう表しているのではないとしたら,なぜそう感じられたのだろうか。
 本書の中で起こる出来事はどれも異様なものばかりである。日常では決して起こり得ない,常識を大きく逸脱した笑ってしまうほどのものばかりだ。そんな異常な事態を渡辺氏の感覚がリアルだと感じたのは,日本で過ごす日常生活の中に,これら異様な出来事をリアルだと感じさせる原因があるからではないだろうか。
 本来の目的を全く失いながらも,官僚が決定したという一点のみで,魚や貝は塞き止められ干上がりつつある海岸で死んでゆかなければならない。私は連日報道される不条理なニュースの中に日本がソ連化してゆきつつある事実を発見し,同時に本書の現代性を確認する。
 渡辺氏は,
個人的にはSFとしての醍醐味も本書の持ち味の一つになっているのではないか、と感じた。そういう意味でも本書はまったく古びていない
と記しているが,SFとしてだけではなく,小説としても,内容的にも全く古びていないのである。

(大野典宏)


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