★オオムラサキ恋歌★


情熱PART2「オオムラサキ」(1989年8月)

 幼稚園に通っていた頃、女の子としか遊ぱなかった(正確には、遊んでもらえなかった)私は、アレルギー性結膜炎をわずらっていた。逗子のT眼科では、「この子は、まもなく小児喘息になるでしょう」と言ったそうだ。其のありがたくない予言は、私が小学校に人学するとともに、見事に的中することになる。私はひどく臆病だった(いや、現在でもそうだ)ので、セミをさわることができなかった。しかし私の祖父は、私にセミとりを教え、どうにかセミをさわれるようにしてくれた。下手をすると週に1回しか学校に行けずに、ふとんの中で苦しそうに咳をする孫に、祖父は「昆虫の図鑑」を買い与えた。私はこの図鑑がひどく気に人り、毎日lぺ一ジずつ暗記していった。高校生の時、北杜夫の本を片っ端から読んでいて、「どくとるマンボウ昆虫記」の中に、全く同様の記述が出てきて、私は狂喜したことがある。彼も小さい頃病弱で、ふとんの中で図鑑をながめていたらしい。彼が健康を回復して、昼下がりの縁側の、空中で静止する小さな生物を発見したとき、彼はそれがビロウドツリアブであることをすぐに認識し、自分自身で、自分の物知りに驚いたという。開話休題(この言葉も、北杜夫が好んで使った言葉だ)、その図鑑は、蝶のぺ一ジから始まっていた。その羽の美しさと、そのはかなさ(ここに私は、異性への憧れを見出すことができるのだが・・・)に、私は次第にひかれていった。7才の私が、もっとも激しく心を動かされたのは、国蝶オオムラサキの存在だった。私はその動機として、「禁じられた遊び」への、名状しがたい魅力を指摘できると思う。つまり第一に、喘息もちの私にとって、りん粉をまき散らす蝶との接触は、母親の心配をおおいに刺激した。第2に、母親がいうには(若干眉つばものだが)、病気持ちの人は紫色を好むということで、私は紫色を好きになることを、竪く禁じられていた。そうすると当然の結果として、私は紫色が好きになった。また、「むらさき」という言葉自体も好きになり、決して紫色をしていないオオムラサキに対しても、関心を抱くようになった。コムラサキの方は本当に紫色をしているが、1982年に初めて見たこの蝶は、モルフォ蝶のように見る方向によって著しく色を変え、ある方向からはまっ黒に、またある方向からは、あざやかな紫色に見えた。

 私は喘息の発作に苦しめられながらも、毎日のように捕虫網をかついで、家のまわりを飛び回っていた。体が丈夫になるに従い、私の行動範囲は広くなり、つかまえられる昆虫の種類も、少しずつ増えていった。しかしあのオオムラサキだけは、つかまえることはできなかった。オオムラサキは世界最大のタテハチョウで、1957年、日本の国蝶に指定された。もちろん、国枠主義とはなんの関係もない。学会では他に、ナミアゲハを国蝶にという意見もあったそうだ。なぜならぱ、オオムラサキはあまりポビュラーな蝶ではなく、一般の国民のほとんどは、その存在を知らないからである。しかしナミアゲハではあまりにありふれていて、威厳というものが感じられない。だからこそ、すべてのマニアと学者が、オオムラサキを国蝶として認めているのだと思う。オオムラサキは、全国すべての1000メートル以上の地域に生息していることになっているが、都市部でその存在を確かめることは、不可能であろう。神奈川県内では、丹沢山系と川崎市北部の山間部にのみ生息しているようだ。しかし私は、池子の森にオオムラサキが乍息していることを、ひそかに夢みている(過去数回の学術調査では、オオムラサキは発見されていない)。オオムラサキは、年1回だけ発生し(小さい頃私はこの意味がわからず、1年に日本じゅうで1匹しか生まれないのかと思っていた!)、幼虫で越冬する。幼虫はエノキの葉だけを食べる。タテハチョウは、アゲハに比べると原始的で、ガに近く、羽を開いてとまることもある。もっともポピュラーなキタテハやアカタテハは、羽の縁がギザギザになっている。私ははじめ図鑑で見たとき、ヒョウモンチョウの羽がボロポロになったものだとぱかり思っていた。それにしては見事に左右対称になったものだが、少年はそんなことまで考えはしなかった。ところが初めてつかまえたキタテハは、羽が全然傷ついていないのに、図鑑と同じように羽がギザギザなので、私は大層驚いた。タテハチョウの仲間は、カボチャのような卵を産み、幼虫はトゲや毛を持ち、さなぎはお尻の一点でぷら下がる。成虫が飛ぷときは、激しいはぱたきと、羽を広げて静止したままの滑空をくり返す。特にコミスジはこの滑空が長いので、羽の模様がよく見える。いずれにしても、アゲハやシロチョウの、優雅で夢をみるような飛び方に比べれば、かなり原始的な雰囲気をもっている。オオムラサキの幼虫は、頭に2本のつのを持ち、背中に4対のトゲを持つ。ゴマダラチョウの幼虫も、エノキを食草とし、オオムラサキそっくりの形をしているが、背中のトゲは3対である。私は、8才の時に、ゴマダラチョウをつかまえた。その年の晩秋には、エノキの枝にゴマダラチョウの幼虫をみつけた。その後何回も、ゴマダラチョウをつかまえ、またその幼虫をみつけたが、オオムラサキは、決して見ることはなかった。エノキの枝にも、トゲが4対の幼虫をみつけることはなかった。

 私の夢は、ただオオムラサキをつかまえることだけではなかった。まず、その羽の裏面(りめんとよむ、マイナーでいい響きだねえ!)を見たいと思った。だから、博物館などでオオムラサキの標本をみつけると、一生けんめい羽の裏面を見ようと努力したが、しょせんは無駄なことだった。また、私の持っているおびただしい図鑑の中で、1枚だけ、オオムラサキが羽を閉じてとまっている写真があった。しかしその写真は、羽化したてのオオムラサキで、羽の裏面はただ黄色みがかっているだけで、まだなんの模様も浮かびあがってきていなかった。
 次に、オオムラサキの幼虫を飼育したいと思った。実際、私が飼育した蝶は、モンシロチョウ、モンキチョウ、ナミアゲハ、クロアゲハ、キアゲハ、アオスジアゲハ、アカタテハと、かなりの数にのぽる。何が楽しいかというと、もちろん羽化の瞬間である。というよりも、羽化の前日に、さなぎに羽の色と模様が浮かびあがってくるのが、たまらなく好きだった。それをオオムラサキで味わいたかったのだ。
 8才のとき、「採集と標本の図鑑」を買ってもらい、高尾山がオオムラサキのメッカであることを知った。私は、自分の名前との関係からも、高尾山に憧れるようになっていった。しかし喘息持ちの少年には、高尾山は、地の果てにあるように思えた。
 9才になると、私の興味は蝶の雑種づくりに傾いていった。それがうまく行けぱ、きっとテレビに出られるだろうということも、一つの動機だったようだ。はじめは、全く荒唐無稽な方法を考えていたが、9才にして、直感だけで生殖の秘密を理解してしまい、ナミアゲハとクロアゲハの雑種づくりという、かなり具体的なプランを持つに至った。ただ、まだオスとメスの遺伝子が対等であることが理解できす、母親の方が子供に大きな影響を持つと考えていたので、少しでも綺麗な蝶を作るために、メスのナミアゲハとオスのクロアゲハを使おうと考えていた。もし今なら、逆の組み合わせにするだろう。なんとなれぱ、大きなクロアゲハのオスの生殖器を、小さなナミアゲハのメスの生殖器に挿入するのは忍びないからである。閑話休題、蝶の雑種作りの野望は、実行にうつす機会に恵まれないまま時が流れ、10才になった私は、もっと激しく心をゆさぶられるもの一天文学一へと傾倒していった。同時に、オオムラサキヘの憧れも棚上げとなった。

 高校へ進学したとき、私はいわゆる5月病になった。というよりも、人ぎらいがひどくなった。女ぎらいが、いちぱん激しい時期でもあった。私は、クラスメイト達が将来のために、必死に勉強する姿を、うさんくさいと思っていた。高校には「いじめ」がなかったので、昆虫兵器や毒薬、爆薬、核兵器の聞発で、奴等に復讐しようとは考えていなかったが、反物質爆弾を太陽に打ち込み、超新星爆発を起こさせ、太陽系ごと人類を皆殺しにして、奴等の努力を水泡に帰してやりたいと考え始めていた。松本零士の漫画から強烈な影響を受け、「復讐こそが人生最大の目的であり、ヒトラーの失敗は世界を破壌しようとはせず、世界の制服を持続しようとした所にある」と考えていた。毎日が憂鬱で、漫画や音楽へと現実逃避を繰り返していた。ある日、ここまでだらけた生活をするのなら、今までもっとも汚らわしいと思っていた行為である読書にでものめり込んでやろうかなと考えた。理系の私は、文系の人間が寸暇をおしんで読書をするのが、たまらなく嫌いだったのだ。しかし、読書そのものはそれほど嫌いではなく、現国の授業中は、よく教科書の、授業とは関係ない部分を読みふけっていたりした。だから、中学時代に名前を聞いたことがある本を片っ端から買い揃え、それを読み始めたとき、完全にのめり込んでしまった。授業中も読書を続け、最盛期には、1日に2冊読破した。また、1か月の本代が1万円をこえる時もあった。、そんな中でひときわ興味をそそられたのは、北杜夫のエッセーだった。特に、彼が昆虫少年だったことに共感を覚え、小山内龍の本(大学時代に私も読むことになる)に啓発されてオオムラサキの幼虫を飼育するところなどは、まさしくむさぼるように読んだ。私のオオムラサキヘの撞れが、少し呼び覚まされた。
 高校時代は、非力な少年からの、脱皮の時期ともなった。特に高校2年の9月20日に運の大転換が起こってからは、まさに破竹の勢いで自分の記録を塗り変えていった。まず12.5cmの反射望遠鏡を完成させ、それまで逗子の空で、6.8cmの屈折では、どうしても見えなかった7等級以上の星雲を、次々と見ることができた。ついに私が見たメシェ天体は、100をこえた。カノープスも水道山の上で見ることができた。金属ナトリウムは、食塩の溶融電解で、一瞬ではあるが、この目に納めることができたし、さらに、化学の実験の時に、 数グラムくすねてくることに成功した。不敗の勇者フッ素は、液体フッ化水素にフッ化カリウムを溶かして電気分解をすれぱ、単離できることを考えつき、のちにその方法は、1886年にアンリ・モアサンが、初めて単体のフッ素を得た時の方法と全く同じであることを知って狂喜した。しかしモアサンは、白金の容器を用いたにも関わらず、彼が学会に報告した時には、彼の片目は、黒い眼帯で理われていたという! 閑話休題、私がどうしても見たいもの、努力すれぱ見ることができそうなものは、クロダイをのぞけぱ、あとはオオムラサキだけになっていた。
 大学に入学して親元を離れ、さらに自由になった私は、いよいよオオムラサキに挑戦すべく、高尾山に向かうことになった。高尾山自体は、高校卒業後の春休みに友人と登ったので、勝手はわかっていた。もう「地の果て」ではなくなっていた。1979年6月23日、私は計画を実行に移したが、オオムラサキを見ることはできなかった。オオムラサキは6〜7月に発生するというので、ちょうどまんなかの6月下旬をえらんだのだが、本によっては7〜8月に発生するとなっているので、次の年は7月下旬に高尾山に登った。しかし結果は同じだった。
 大学4年のとき、前述の、北杜夫に影響を与えた本を読んだ。小山内龍の「昆虫放談」という本である。そこには、はじめてオオムラサキをとらえたとき、あまりの力強さに、ただオロオロしてしまって、どうしていいかわからなかったことや、幼虫を飼育した時の、緊張惑あふれる描写があった。また、オオムラサキは、八ケ岳山系に多いことも知った。だから、以前エッセーでオオムラサキのことを書いたとき、「30代になって暇ができたら、八ケ岳にオオムラサキを捜しに行こうと思う。」と書いている。




つづき