「ヴェネチアに星降る」(あくたむらさき著:集英社コバルト文庫)
プロローグ
窓の下に静かな波音。
羽枕におしつけた耳に響くリズム。
涙が流れてとまらない。枕がこの涙の受け皿。
いつもとかわらない小運河リオ・アポストリの流れなのに少年にとっては違う。
無邪気な心で聞いていたゴンドラ漕ぎの歌はもう二度と戻らない。
──ジャックがあんなことをするなんて……!
昨夜のジャックは別人のようだった。
兄のように慕っていた聡明で美しい医師、ジャック。
ずっと信じ続けていたのに……。
ベッドに横たわり、熱にうかされて少年は何度も目ざめる。
歩くどころか起きあがることもできないほど衝撃を受けていた。
のどがからからに渇き、言葉さえ失ってしまったようだ。
彼はベッド脇のサイドテーブルに手を伸ばした。
飲み物を探して白い指が力なくさまよう。
目当ての杯は見つからず、書類がなだれ落ちる。
ああ、と嘆息した。
彼はテーブルから舞い落ちた羊皮紙を目で追った。
つたない文字がけんめいに思いをつづっていた。
幼い日の──哲学者の書簡のまねごと。
裏切られた思いのために、今はその幼稚な日記までが憎い。
体が回復したら、真っ先に火にくべてしまいたいと思った。
第一の日記 ソクラテスの家
──ミケーレがヴェネチアにやって来た日のこと
『一五三七ねん、十がつ二十にち。
ゴンドラこぎがろをこぐ。
木のきしむような音にぼくの心はどんどん沈んでいった。
ソクラテス先生の大きな手がぼくの背中をぽんぽん、とたたいたけど、ぼくはいっこうに元気になれなかった。
ソクラテス先生のほんとうの名前はジョヴァンニだ。
でも丸顔ではげ上がっていてお腹が出ているところがソクラテスに似ているからついたあだ名だっていってた。
ぼくは船というものに乗ったのははじめてだった。
はじめて見たりやったりすることは嫌いじゃないけど、ぼくは体が弱くてすごくつかれた。
とうさんは病気で死んで、かあさんは別のだれかと逃げてしまったときんじょのベッキーニおばさんが言ってた。
かあさんはじょゆうだ。
よくたびに出かけたりするから、ぼくはまたもどってくるとばかりおもってた。
ベッキーニおばさんは「ミケーレや、こんなにぼんやりした子が残されて──、
おまえはなんてかわいそうな子供だろう」と泣いていた。
ぼくは「ぼんやりしたかわいそうなこども」らしい。
こうしてゴンドラという船に乗っている間にも、かあさんがぼくを置き去りにしたことをこうかいして追いかけてきてくれるんじゃないかなとずっと考えていたので、生まれ育った町パドヴァから遠くなればなるほどぼくは泣きたいような気がしてきた。
こんなに遠くては、せっかくかあさんが追いかけても、もうぼくを見つけられないんじゃないかな。
そしてぼくが新しい家についたら、もうぜったいにかあさんは来ないとおもうんだ。
そういうふうに決まっているんだと、なぜかぼくはおもった。ぜったいにそうなんだ。
新しい家につく前にどうかかあさんがぼくをつかまえてくれますように。
ぼくは船のへりにつかまって後ろのほうばかり見ていた。
むねがどきどきして、ゆびさきが青白くなるくらいだった。
船が古い木の橋の下にさしかかった。
幅のせまい川をゆっくりと進んでいるらしい。
右と左にコケのはえた石塀やかいだんやまどが見えた。
この先にぼくの新しい家があるんだって。
「向こうに見えるのはリアルト橋だよ」とソクラテス先生が言った。
でもぼくは橋の名前なんてどうでもよかった。
新しい家についたらおしまいだ。
水面に夕日がうつってオレンジがかった紫になった。
波がそれをくだいてたくさんの光のつぶみたいに見えた。
なかなかきれいだったけど、それくらいではたのしい気分にはなれなかった。
全然知らない所にきてしまった。
これから住む新しい家や家族とうまくやっていけるかすごく心配だったし、この水だらけの町ともうまくやっていけるか心配だった。ぼくは体が弱くて、人とうまくしゃべれない十才の子どもだ。ベッキーニおばさんによれば、その上「ぼんやりしたかわいそうな子ども」だって。こんなぼくが「うまくやって」いけるか……いけるわけないと思う。
かあさん、早くきてくれないかなあ。早く、早く──!
かみさまにいっぱいおねがいしたけど、そのねがいはきゃっかされた。
ゴンドラはリアルト橋へいくてまえのほそい運河にはいって、ついに止まったのだ。
ぼくは後で思ったのだけど、ぼくの名前が大天使ミカエルからもらったミケーレなのだから、かみさまじゃなくて大天使ミカエルにおねがいしなくちゃいけなかったのだ、きっと。
ちょっとまちがえてしまった。
「さ、ついたよ。心配いらんよ、ここが新しい家だ」
ソクラテス先生がとどめをさすように言った。ゆらゆらゆれる船のかたすみでちぢこまっているぼくを、先生はふわりとだきあげて、そのまま低い石のかいだんを上がった。
やめて。
でも声に出してそれを言うゆうきはなかった。
そのかわりに、家の中にはいってしまうまで、こんどはちゃんと大天使ミカエルにおねがいした。かあさん、まだ間にあうから、いそいで──って。
ソクラテス先生がかいだんをひとつ、ひとつのぼるたびにぼくは卵のカラの中にはいってしまいたいような気持ちになった。そうしてぼくは鶏かガチョウの卵になってしまうのだ。
「ただいま」と先生が言った。
新しい家にとうとう入ってしまった。ひどくがっかりした。
中庭があるのはわるくないけどはじめに目に入ったのはうすぐらい部屋だ。
草のにおいがして壁いちめんに瓶が並んでいる。
部屋のまんなかにいすがあって、だれかがすわっていた。
茶色のかみの毛だけがぼんやりと明るく見えた。
ぼくはどきっとした。かあさんだ。
かあさんもよくじぶんのかみを茶色にそめていたもの。
ぼくとおなじきんぱつだからほんとうは染めなくてもいいんだけど、かあさんはじょゆうだからときどきかみの色をかえる。
大天使ミカエルがねがいをきいてくれたんだ。
追いかけてはこなかったけど、かあさんはさきまわりしてぼくをむかえに来ていたんだ。
ぼくはきゅうに元気が出て、ソクラテス先生のうでからぴょこんととびおりると、かあさんめがけてはしった。
布ばりのいすにとびのって、かあさんにだきついてキスした。
いきおいがつよすぎて、かあさんの体が後ろにかたむき、つくえの上に手をついてがちゃがちゃといろいろなものが落ちた。でもそんなことはいまは気にしてられない。
「ママ!」
船にのってから出したいちばん大きな声で、ぼくはさけんだ────
ふう、つかれたのできょうはここまで。
ミケーレ 』
* * *
「薄暗くなっちまったな」とジャックは独りごとを言って、机の上のランプに手を伸ばした。
形よい長い指が火打ち石を鳴らした。
油臭いにおいが立ちのぼり、小さな火があたりを照らす。
うつむいたジャックの頬に濃い褐色の髪がはらりと垂れかかる。
首筋で束ねた髪からこぼれた緩いウェーブだ。
カン、カンと軽やかな足音が聞こえる。
「若先生、お食事どこで食べなさるかね」
お手伝いのナネットだ。白い頭巾とエプロンをつけた中年の女で、額の真ん中で分けた前髪を頭巾でぴっちりとおさえつけて、長い黒髪は後ろで丸く束ねている。太っていて陽気で、彼女が現れただけで周りがぱっと明るくなる。彼女の先祖は南イタリアの出身らしい。
「お部屋にお持ちしますかね? 大先生のお帰りが遅くてお寂しいですねえ」
「いや、静かでいいさ。おやじが帰った日には間違いなく汚らしい猫だの犬だの拾ってくるからな。ガキみてえに。おれは人間の医者だってのに」
「そういえば、この前拾ってきなさった猫は最近どうしたんでしょ」
「ああ、あれ──皮膚病が治ったから橋向こうのパン屋にやった」
「大先生に言わずにやっちまいなすったんですか! お嘆きでしょうよ。ああいう小さいものがたいそうお好きなんですから」
「拾うだけ拾って世話は全部おれまかせじゃねえか。旅に出たきり帰らねえんだから仕方ないだろう。パン屋にやったのは穀物倉庫にネズミが多いと嘆いていたからだ。適材適所だぜ。……メシは中庭に頼むな。──お、ちょっとこっち来いや、ナネット」
「あれ、まあ、何ですか、若先生。わたしの頭巾がどうかしましたかね」
「頭巾にしわが寄ってる。どうも落ち着か──」
「よしてくださいましよ。若先生のお気に召すようにしようと思ったら、考えすぎて病気になっちまいますよ。これでわたしがおばあちゃんになって顔中しわだらけになったりした日にはさぞや不服をお言いでしょうよ」
ははは、とジャックが豪快に笑った。
「わかったわかった、あんたのことはもう文句言わねー」
降参、というように彼は布張りの椅子にどっかりと腰をおろした。
机の上には磨かれたナイフや鉗子やピンセットが整然と並べられている。
きっちり縦横そろえて一糸乱れぬように──。
ガラスの薬瓶、素焼きの乳鉢、薬を調合する時に使う天秤、傷を縫う針……、ジャックは慎重に点検した。
九月の大運河に市民あげて繰り出すレガッタのレースが終わり、今ではけが人や病人もここの所少し落ち着いた。祝祭は活気を呼ぶが、その分けが人も出るというわけで。
「完璧だぜ。仕事の終わりはこうでないとな」
たとえそれが急患によってかき乱されるのが常だとしても。
ナネットは太った体をゆすって階段を上がっていった。
厨房は最上階、屋根の下にあるのだ。
ジャックの住んでいるのはアポストリ小運河に面した小さな家だが、裏手の小路側には中庭もある。小運河を挟んだ向こうには赤い屋根のサン・カンチアーノ教会が、中庭からは今にも朽ち果てそうな古いサンティ・アポストリ教会の鐘楼が見える。
弓なりの高窓から夕日が射して床に長い影を落とした。
質素な室内の白い天井からは干した植物が吊されている。
逆光に目を細めて彼は窓を見やる。
外は小運河リオの流れ。
静かな水音に混じって焼きかぼちゃを売るユダヤ商人の声が聞こえる。
もうすぐ鐘楼がけたたましく時を知らせるだろう。
「ただいま」
ふいに耳に入ったのは聞き慣れた声だ。
──おやじ。……帰って来たのか。
今度はどんな動物を拾ってきたのやら。
布張りの椅子を引いてジャックが立ち上がろうとした時、突然何かがぶつかって来た。
そしてそいつは──「ママ」と言ったのだ。
決してひ弱ではない、むしろほどよく鍛えられた体躯をもつジャックだったがその勢いに勝てず、後ろによろけて机にしたたかに肘をぶつけた。
きっちり並べた道具が乱れて机から落ちた。
唇に柔らかいものが触れる。
首筋に巻きついているのはなんだかぷにぷにした小さい手だ。
──な、なんだ、こいつはぁ?
彼は慌てて自分の体から引きはがす。
青白い顔をした子どもだ。
金色の巻き毛で、痩せていて目ばかりアンバランスに大きくて間抜けヅラな──。
一瞬言葉も出なかった。
遅れてやってきたジョヴァンニが笑いをかみ殺して立っていた。
──おやじ〜。
今度は猫でも鳥でもなく……人間拾ってきやがったか。
* * *
『 つづき。
ソクラテスせんせいの家にとうとうついた。
ぼくは大天使ミカエルがねがいをきいてくれたとばかりおもって、そしてかあさんにだきついた。
でもかあさんは──かあさんじゃなかった。
かみの色はかあさんがよく染めていたのと同じだったけど、顔はもっとほっそりしていたし、茶色の目はきれながでちょっとおこったようにつり上がっていた。
かあさんはいつもかみをゆいあげていたけど、目の前にいるひとはくびすじのところでたばねている。かあさんはよく青いドレスを来ていたけど、今目のまえにあるのは白いシャツと緑の上着と黒いズボンだ。
かあさんはじょゆうというだけあってけっこうびじんだという評判だったけどぼくの見ているのは──、つめたいかんじの、でもやっぱりびじんだった。あ、びじんというのは女の人だけにつかうことばなのかな?
とにかくかあさんと思ったのはどうみてもまちがいだった。
ぼくがあわててキスしてしまったくちびるは、かあさんのように紅をぬってなんかなかった。そのくちびるはすこしいじわるそうにゆがんだ。そして──。
男の人の声で、こう言った。
「いってぇな、このクソチビ!」
──それが、ぼくとジャックの出会いだ。
ジャックはじゅうぶんに大人だったけどことばづかいがらんぼうだった。
ほんとうの名前はジャコモ・サヌートなのだけど、自分ではジャックだと言いはっている。
ジャコモという名前が「だっせー」からフランスふうなよびかたをしてるんだって。
びょうきやけがをなおすしごとをしているんだって言っていたけど、あんなにらんぼうでだいじょうぶなのかなと思った。
ぼくはよくねつを出すんだ。でももう出さないように気をつけることにした。
そしてジャックは──ジョヴァンニせんせいにソクラテスというあだ名をつけたのも彼だったのだけど──ぼくにもあだ名をつけてくれた。
「おまえはミケだ。ミケーレなんて、大天使の名前を名乗ったりしたら大天使に失礼だろう」
ジャックはあたまがいい。
ぼくが今まで大天使にしつれいなことをしていたなんてぜんぜん知らなかった。
つみぶかいことをひとつやめさせてくれて、ジャックはしんせつなのかもしれない。
とにかく、こうしてぼくはとうとう新しい家に住むことになったんだ。
十がつ二十にちのにっき おわり
ミケーレ 』
* * *
「うむ、よく書けておるのう」
ジョヴァンニが羊皮紙を眺めて笑った。
ミケーレが描写した通りの大きな腹をゆすってゆったりと笑う。
文法教師であるジョヴァンニはソクラテスと呼ばれている。
つるりとした額は血色がよく、太って張り切った肌は笑うといっそう赤らむ。
ミケーレがこの文法教師に引き取られて数日経った。
ヴェネチアの北東部、カンナレージョ区にジョヴァンニとジャックの住処がある。
S字を裏返したような形の大運河カナル・グランデをはさんだ東側がサン・マルコ地区で西側がリアルト地区、さらにそれぞれが三つの区に分かれている。
この水の都はよく魚の形に例えられるが、カンナレージョ区は「魚」のちょうど背中の部分にあたる。
ジョヴァンニの家は貴族の所有している借家で、一年に六十ドゥカートの家賃を払っているが、これはヴェネチアの教師の平均的住居よりはるかにグレードが高い。
実の所、ジョヴァンニもサヌートという貴族の血筋ではあったが何代か前にすっかり落ちぶれて、今では貴族という自覚はない。
ジャックは療法医で、気難しくてぞんざいな態度にも関わらず上客がついているのだった。
一階はジャックの仕事場、つまり診療所となっており、その上が彼らの居住部分だ。
最上階は厨房と開廊、お手伝いナネットとその亭主の料理人の寝室になっている。
ジャックは中庭か、屋上階のテラスのような開廊で食事をとるのが好きだ。
文法教師のジョヴァンニは生徒を求めてフィレンツェ、ボローニャ、パドヴァ、トレヴィーゾを転々としていたので、ほとんどこの家にはおらず、ジャックが留守を預かっていた。
「へったくそな字。よくもまあ高い羊皮紙にこれだけくだらんことを……だけどここだけは気に入ったぜ」
ジャックがジョヴァンニの後ろに立ち、その頭越しにつたない文面を読んだ。
それから真面目な顔で羊皮紙を指さして言った。
「丸顔ではげ上がっていてお腹が出ているところがソクラテスに似ているからついたあだ名だっていってた──、ここんところ、最高だな! それと──ぼんやりしたかわいそうな子ども……うまい表現だ。おまえはなかなかよく物を見ているな、ミケ。ついでに間抜けヅラの、とも書いておけ」
ジャックがミケーレの頭をぽん、とたたいた。
彼より頭二つ分も背の低いミケーレが照れたように立ってふたりの言葉を聞いていた。
皮肉たっぷりなジャックの物言いの本当のニュアンスは、幼いミケーレには伝わっていない。純粋にほめてもらったと思っている。
頬を赤くしてミケーレはにやにやしていた。
「これ、苛めるんじゃないぞ、ジャック。小さいのによく書けているじゃないか」
「そうでございますよ。たいしたものですよ、ミケーレ坊ちゃん。こんなお小さいのにたくさんの文字を書いたんですもの。今度このナネットにも教えてくださいましな」
黒い目をした陽気なお手伝いのナネットがあやすように言った。
「苛めてなんかない。ほめてやってるんだろうが」とジャックが不服顔で言った。
「ソクラテス先生、ジャックはほめているのになぜおこるの?」
おもいがけずミケーレがジャックの味方につき、ジョヴァンニとお手伝いのナネットが顔を見合わせる。.
「まあ、ミケーレがそう言うならそういうことじゃな」
あっけらかんと笑ってジョヴァンニが言った。
「よし、それじゃあ明日、この家の子どもになったといって町の神父さんに紹介しような、ミケーレや」
うん、とミケーレは従順にうなずいたが、それは日延べすることになった。
その夜、熱を出してしまったからだ。
(以上「ヴェネチアに星降る」より抜粋)
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