考謙天皇と弓削道鏡について
07-6-5
 5月のNHK「その時歴史が動いた」番組で東大寺大仏を創建した聖武天皇ー考謙天皇(称徳女帝)および弓削道鏡の歴史が放映され、最後に石橋の考謙天皇神社と薬師寺近くの「龍興寺」にある弓削道鏡の墓が紹介されました。
  石橋の「考謙天皇神社」
  由来書きでは道鏡とともに下野に配流された女官篠姫と笹姫が天皇崩御後分骨を頂きこれを舎利塔に納めて
 西光寺に安置して供養した。その後西光寺が廃寺になった時に村人が舎利塔を御神体にして、ここに神社を
 造ったとの事、その碑が(写真中央-明治13年製)ここにある。
    
  龍興寺の「弓削道鏡の墓」
     
 
 NHK「その時歴史が動いた」の放送概要(NHKの番組ホームページより抜粋)

第290回
悲しき女帝 許されざる恋
〜道鏡事件の真相〜

放送日
(本放送) 平成19年5月23日 (水)
22:00〜22:43 総合 全国
出演者
キャスター 松平定知アナウンサー
スタジオゲスト  漫画家 里中満智子(さとなかまちこ)
『アリエスの乙女たち』『ギリシア神話』などのほか、代表作には飛鳥時代から
奈良時代に題材を取った『天上の虹』『長屋王残照記』がある。
『女帝の手記−孝謙・称徳天皇物語』は、番組の主人公・孝謙/称徳天皇の生涯を
描いた作品で、1992年刊行。
番組概要
その時: 神護景雲3(769)年10月1日
出来事: 道鏡を皇位につけるように告げた神託が覆る
古代最後の女帝・孝謙天皇。彼女は皇位継承の責任を負いながら、一生結婚することが許されない悲しき女帝だった。
華麗な仏教美術が花咲いた奈良時代の天平期。その頂点にあるのが東大寺大仏だ。しかし大仏を発願した聖武天皇は男子に恵まれず、遺言を一人娘の孝謙に託した。「天下はお前に授けた。王を奴婢にするのも、奴婢を王にするのもなんじの自由だ。」孝謙に託された聖武の遺言は、仏教政治の発展と皇位の継承という二つの宿題だった。
女帝を認めない貴族社会の風潮と、国を二分した藤原仲麻呂との対決を乗り越えたとき、孝謙は称徳天皇として再即位し、ついに僧・道鏡への譲位という結論にたどり着く。それは、父の宿題を合理的に解決する彼女なりの究極の選択だった。しかし、その選択をめぐって再び貴族たちが内乱を起こそうとの動きを示したとき、彼女が下した決断とは…?
孝謙・称徳天皇は、後世、堕落した女帝として悪評がたつが、最近の研究からは、政権をほしいままにする藤原氏に対抗して国政を守り、仏教興隆に努めたことが再評価されている。
奈良時代の衣装や、平城宮大極殿での即位式の様子、東大寺大仏殿をセットやデジタル技術を用いて再現。華麗なる天平の朝廷絵巻…。時代の舵を大きく切った、女帝の数奇な運命を描く。
番組の内容について
番組で紹介した孝謙・称徳天皇の言葉について
「天下はなんじに授けた。王を奴婢にするのも、奴婢を王にするのもなんじの自由だ。」
天平宝字8(764)年10月9日、淳仁天皇を淡路島に配流したときに、孝謙上皇が残した詔より。かつて聖武上皇が自分に語った言葉として紹介している。

「私の子供は、この皇太子一人。」「私だと思って二心無く仕えよ」
神護景雲3(769)年10月1日、和気清麻呂を大隅に配流した後に称徳天皇が残した詔より。同じく聖武の言葉として紹介している。

「仏法僧の三宝を盛んにせよ。」
同じ日の詔より。聖武が孝謙/称徳に大切にせよと言い残した筆頭に仏教を挙げ、「天神・地祇の祭祀」「天下の諸人民を慈しめ」と続く。

「私が新しく立てた天皇なのに、淳仁は私に恭しく従うことがない。」
「暴言を吐き、無礼を働いた。」
「祭礼など小さいことは今の天皇が行え。国家の大事と賞罰は私が行う。」

天平宝字6(762)年6月3日の孝謙上皇の詔より。孝謙上皇と淳仁天皇は改修中の平城宮から出て、仲麻呂が、根拠地の近江に築いた離宮に住んでいた。上皇は保良宮を出て、法華寺に別居した理由を述べ、淳仁から実権を取り戻す宣言を行う。

「今回の神託について、清麻呂らと謀った者がいることは知っている。謀りごとをたくらんだ者は心を改めて以後は仕えよ。」
「そもそも君主の位というものは、願い求めても得ることは難しい。」
「やはり仏や神がお許しにならないならば…かえって身を滅ぼし災いを蒙り、自分も人も罪に陥ってしまう。」

神護景雲3(769)年10月1日の詔。道鏡を皇位につけることを否定した。この日に「恕」と書かれた長さ8尺の帯を、5位以上の臣下と藤原氏全員に配った。

CG復元した天平時代の大仏殿について
大仏殿の構造は年代によって変化している。今回は、757(天平宝字1)年、聖武上皇の一周忌が行われ、大仏と大仏殿が完成したときの姿を、専門家の考証に基づいてCG復元した。

回想シーンの影絵について
大阪・高槻市在住の影絵作家・宇津木秀甫さんに依頼。宇津木さんは影絵集団「アクト座」を主宰している。

聖武天皇の肖像
聖武天皇遠忌1250年の昨年、小泉淳作氏が東大寺の依頼で作成したもの。衣装は今回の番組で使用したものと同じ冕服で、京都橘大学教授・猪熊兼勝さんの監修で復元された。聖武天皇の肖像画として、従来は同じく東大寺所蔵の四聖御影が知られていたが、衣装は平安時代のもので時代考証的には奈良時代のものといえない。

孝謙天皇の肖像
西大寺所蔵。江戸時代の住吉派の絵師が描いたもので、装束は天平時代のものではなく江戸時代のもの。

聖武上皇崩御の年号 天平勝宝8(756)歳5月2日
天平勝宝7(755)年正月4日、孝謙天皇は詔を出し、天平勝宝7年を改め天平勝宝7歳としている。理由は定かではないが聖武上皇の病気の平癒を願ったとも考えられ、聖武崩御後の天平宝字元(757)年にもとに戻されている。中国風に倣った改革の一環だった。

史跡 下野薬師寺跡
かつては広大な敷地を誇った寺だったが、平安時代に廃絶している。その後、旧境内跡地に、南北朝時代に安国寺が建てられた。番組で紹介したお堂は、かつての下野薬師寺の戒壇跡に、江戸時代に建てられたもの。また近くに歴史館があり、最近の発掘調査の成果を展示している。
所在:栃木県下野市薬師寺1636 下野薬師寺歴史館 Tel.0285-47-3121

道鏡塚
下野薬師寺の境内の一角に塚があったが、現在は龍興寺の境内になっている。
所在:栃木県下野市薬師寺1416 下野薬師寺別院 龍興寺 Tel.0285-48-0115

孝謙天皇神社
無住の神社で、5つの家族の人々が輪番で祀っている。孝謙/称徳天皇の命日は8月4日だが、月命日の毎年9月4日に法要が行われる。番組で紹介した五輪塔は神社のご神体で、法要の時に拝むことができる。
所在:下野市石橋町上大領

総国分尼寺 法華寺
本尊は番組で紹介した国宝「十一面観音立像」で、普段は御前立ち(レプリカ)を拝むことができる。3月20日〜4月7日、6月4〜8日、10月22日〜11月14日、本尊も公開される。
所在:奈良市法華寺中町 TEL:0742-33-2261

 以上

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以下筆者の記事

07-3-18 天智朝と天武朝の歴史 
 天智天皇はあの有名な「乙己の変」で中臣鎌足(後の藤原氏)と共に曽我入鹿を倒した中大兄皇子「大化の改新を実施」である。その後朝鮮の僚友「百済」が「新羅」に攻められていたので。この救済に軍事介入したが新羅と唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。
その後は新羅と唐の日本侵略に恐れて各所に防御城を造った。そんな中で天智天皇の弟と言われた後の天武天皇(実は異父兄と言われている)が天智天皇の病死(又は行方不明死亡、暗殺?)後、「壬申の乱」(内戦)で天武天皇が皇位継承になった。
 天武朝はその後、持統女帝−元明-文武-聖武(あの東大寺大仏を創建した)-その聖武天皇の娘が考謙天皇(称徳女帝)である。結局皇位の継承者が無く、藤原一族の息の掛かった天智系子孫の白壁王(光仁天皇)に受け継がれた。その後、桓武天皇へとつながる。
 ところで中臣鎌足(後の藤原氏)とは誰か。一説には百済の王子「豊しょう」(日本に在住していた)ではないかと言われている。藤原とは百済国と倭国の「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」から姓を授かったとされている。この藤原一族が奈良時代から平安時代(鎌倉幕府に成るまで)まで日本の政治に大きく影響を与えた。(「天孫降臨の謎」関裕二著より)
 
07-3-9 道鏡事件について−2
 考謙天皇(称徳女帝)と道鏡についていろいろ調べてくると、当時の歴史上の問題が明らかになってきた。記紀は「続日本紀」が基になり、弓削道鏡は称徳女帝の寵愛を利用して皇位を狙った悪僧として書かれており、和気清麻呂が英雄扱いに成っている。これはつい戦前まで連綿と伝えてこられた。しかし戦後の歴史研究では逆に当時の藤原一族の謀略説が真実ではないかと言われている。「続日本紀」は当時の政界(藤原一族)の都合で書かれたからである(日本書記、古事記も同じ)。道鏡は孤独な称徳女帝を必死に支えた立派な僧侶だった、また先祖は物部守屋と言われている由緒ある家系。決して皇位を狙う人では無かったと言われている。
(皇位の跡継ぎが無い称徳女帝は天智系に皇位が移されるなら道鏡に皇位を譲っても良いと考えていたとも言われている)。ところが藤原一族(藤原百川)の罠にはまり。宇佐八幡宮まで利用されて左遷された。
又、考謙天皇(称徳女帝)が病気(天然痘といわれている)で政治力が無くなってから、もしかしたら生前中に病没したことにされて(暗殺されたという説もある)、次の天智系の光仁天皇が即位したとも考えられる。その後天皇は最後の力を振り絞って女官(篠姫と笹姫)とともに既に左遷された下野国の道鏡の元にたどり着き病没した、と言うストーリも成り立つ(筆者の仮説)。このほうが石橋の考謙天皇神社の存在や伝説に現実味が出てくる。
尚、称徳女帝が病気になってから病没するまでの4ケ月は誰も近づけられなかった(女官のみ)と言う、又、病没後の埋葬場所も定かでない。考謙天皇墓と言われる古墳は後世に名付けた物で正しくない。

07-3-3 道鏡事件について−1
 八世紀称徳女帝(聖武天皇の娘ー考謙天皇46代が再度即位して称徳天皇48代)が弓削道鏡に皇位を譲る神託があったと伝えられ、これを確認のために宇佐八幡宮へ和気清麻呂を使いに出したが、和気清麻呂が宇佐八幡宮は道鏡を排除せよの神託を持ち帰り、天皇の逆鱗を受け左遷される。
 これは藤原一族らが和気清麻呂を利用して法王の道鏡を左遷させる謀略か又は皇位を天武系から天智系に変える為の謀略であったという説がある。即ち皇位を藤原一族が天智系に変える理由付けにした。
  いわゆる弓削道鏡事件である。その後道鏡はここ下野国薬師寺(小金井に薬師寺跡の史跡あり)に配流された。その後考謙天皇がこっそりと道鏡の後を追ってここ下野国に来て病没したと言う伝説がある(考謙天皇神社の由来書きに記述)。しかしこれは「記紀」が正しいならばつじつまが合わない。天皇の病没は770年8月4日、その後同月21日に道鏡が下野国薬師寺別当に左遷され、772年4月7日に没したと言われている。しかし別の伝説では考謙天皇が東国に行幸(天皇が外出する事)この下野国に来たらしいその時の内表領が後に大領と呼ぶようになったとか。現在石橋に上大領、中大領、下大領の地名が残っている。よって考謙天皇とここ下野国は何らか接点があったと思われる。いづれにしても生涯独身で政治の世界に翻弄された女帝であった。又道鏡を信頼していたと言われている。

参考文献--「逆説の日本史-3」(井沢元彦著)、「古代史の謎」、「ウイッキペディア-称徳天皇」その他