ライバル列伝

   ジョニー・バレンタイン

 東京プロレス時代の最大のライバルであり、旗揚げ戦での死闘は猪木のストロング・スタイルの原点である。「金髪の妖鬼」と呼ばれ、エルボー攻撃を得意とした。新日プロにも参戦したが、体調を崩しており、名勝負再現は果たせなかった。飛行機事故の怪我がもとで引退。猪木の30周年記念イベントには不自由な足で必死にリングに上がり、ファンの声援を浴びた。息子のグレッグもレスラーとなり新日プロに来日している。元USヘビー級王者。
 1929年ワシントン生まれ。190センチ、115キロ。2001年心臓発作により死去。


   ルー・テーズ

 「鉄人」のニックネームを持ち、936連勝の記録を保持、6度に渡り世界王者に君臨した。力道山の挑戦も退けている。猪木との初対決は日プロ時代の1962年、当時テーズは46歳、猪木は19歳だった。猪木対ゴッチ戦のレフェリーを務めたのをきっかけに現役に復帰。50代後半で全盛期は過ぎていたが猪木と互角の勝負を展開した。ヘソで投げるバックドロップの使い手No1である。元NWA世界ヘビー級王者。
 1916年セントルイス生まれ。191センチ、110キロ。2002年心臓疾患により86歳で死去。


   カール・ゴッチ

 ライバルというよりは猪木のレスリングの師匠であり、猪木だけでなく、藤原、前田らUWFの選手にも大きな影響を与えた。卍固めはもちろん、長州のサソリ固めもゴッチの直伝である。あまりに頑ななレスリングのため、現役時代に輝かしい実績は残していないが、全盛期は過ぎても若き猪木を翻弄する程の実力者で、日本のファンには「プロレスの神様」と呼ばれる。新日旗揚げ戦での対戦時は、ゴッチ47歳、猪木29歳だったが、リバーススープレックスで猪木が敗れた。
 1922年西ドイツ生まれ。188センチ、110キロ。2007年82歳で死去。


   ビル・ロビンソン

 「蛇の穴」の名で有名なビリー・ライレー・ジム出身のイギリス正統派レスラー。人間風車ダブルアームスープレックスの使い手として名高い。猪木とは1度きりの対戦だが、世界1、2のテクニシャン同士の夢の対決として注目を集めた。試合内容も猪木の名勝負中の名勝負と呼べる素晴らしいものだった。元大英帝国ヘビー級王者。晩年は日本に定着し、UWFスネークピットジャパンで後進の指導に当る。
 1939年イギリス生まれ。191センチ、118キロ。2014年75歳で死去。


   ドリー・ファンクJr

 日本プロレス時代の若き猪木と2度のNWA世界ヘビー級選手権試合を行い、いずれもフルタイムドローの名勝負を展開した。ドリー・ファンク・シニアを父に持ち、なるべくしてレスラーとなった。弟のテリーとのタッグで一世を風靡した。ファイナルカウントダウンの相手としても噂になった。元NWA世界ヘビー級王者。
 1942年インディアナポリス生まれ。190センチ、110キロ。


   ニック・ボック・ウインクル

 「帝王」バーン・ガニアからAWA世界ヘビー級王座を奪取。その後4年8ケ月に渡って王座を保持した。猪木との接点は日プロ時代で、猪木が星野勘太郎と組んで優勝した弟1回NWAタッグリーグ戦では、ビッグ・ジョン・クイーンと組んで決勝で対戦。延長戦となり、72分の死闘を展開した。猪木の30周年記念イベントにも参加した。元AWA世界ヘビー級王者。
 1934年ミネソタ生まれ。188センチ、120キロ。2015年80歳で死去。


   モハメッド・アリ

 猪木と世紀の対決を展開したボクシング史上最大のスーパースターで、最大の敵であり、戦友でもある。「炎のファイター」は元々アリのテーマ曲であり、猪木にプレゼントされたものである。晩年は病に冒され体調を崩し気味だが、北朝鮮の平和イベントにはゲストとして参加。また、アトランタ・オリンピックでは聖火ランナーを務め、世界中から喝采を浴びた。猪木の引退試合にも来場し、旧交を暖めた。元プロボクシング世界ヘビー級王者。
 1942年ケンタッキー州ルイスビル生まれ191センチ、102キロ。2016年死去。


   ウイリエム・ルスカ

 ミュンヘン・オリンピックの柔道金メダリスト。猪木対アリ戦を聞きつけ、挑戦を表明した。猪木の初の異種格闘技戦の相手である。その後も猪木を執拗に追いかけ、プロレスラーに転身。現役を退いた後にカムバックし、ファイナルカウントダウンでも対戦している。引退試合にもゲストとして来場した。
 1940年オランダ生まれ。196センチ、120キロ。2015年死去。


   ローラン・ボック

 妥協なきストロング・ファイトでヨーロッパの帝王となった。全盛期にはアンドレをスープレックスで投げたこともある。ドイツ遠征した猪木をレスリングで翻弄し、日本のファンに衝撃を与えた。その独特な風貌から「墓掘り人」と呼ばれる。その後、来日した際には、交通事故の後遺症で往年の迫力は失われていた。ベストコンディションでの再戦が望まれたが、引退し、別事業に従事している。
 1944年西ドイツ生まれ。192センチ、120キロ。


   ジョニー・パワーズ

 「死神」と呼ばれ、「4の字固め」の2倍痛いという「8の字固め」を得意とした。新日プロ初期、NWF王座をめぐって、猪木と名勝負を展開し、IWGP以前の新日の看板タイトルをもたらした。元NWFヘビー級王者。
 1941年カナダ生まれ。192センチ、118キロ。


   タイガー・ジェット・シン

 「狂虎」と呼ばれる狂乱ファイトで猪木を再三苦しめた。一方、反則なしでも猪木と互角のレスリングを展開できる実力を持つ。新宿路上乱闘、腕折り事件など数々の因縁を持つ。数多い猪木のライバルの中でも最大のライバルといえよう。猪木の30周年記念では因縁を超え、タッグを結成した。
 1944年インド生まれ。190センチ、120キロ。


   アンドレ・ザ・ジャイアント

 「人間山脈」と呼ばれるその巨体と怪力には猪木といえども苦しめられた。腕固めでギブアップを奪ったことはあるが、遂にフォールを奪うことはできなかった。一連の異種格闘技戦シリーズでも対戦。レスラーで出場したのはアンドレのみであり、プロレスラーの規格を超えた格闘家と判断された。元WWF世界ヘビー級王者。
 1946年フランス生まれ。223センチ、256キロ。1993年急性心不全により46歳で死去。


   スタン・ハンセン

 必殺のウエスタン・ラリアートで新日、全日でともにトップ外人レスラーとなった。猪木の最後のNWF戦の相手である。アンドレやベイダーとの対決はド迫力の名勝負としてファンの心に残っている。元AWA世界ヘビー級王者。猪木がWWEの殿堂入りした際にはプレゼンテーターを務め、旧交を暖めた。
 1949年オクラホマ生まれ。192センチ、135キロ。


   ボブ・バックランド

 「ニューヨークの帝王」と呼ばれ、ショーアップ路線を歩む前のWWFのトップに君臨した。猪木とストロング・スタイルで互角に渡り合える実力者だった。WWFヘビー級のタイトルをめぐって名勝負を展開。猪木はバックランドを破り、日本人初のWWF世界ヘビー級王者となっているが、公式記録には残っていない。引退試合にもゲストとして来場。Uインター、バトラーツ、ドラディションなどにも参戦した。
 1949年ミネソタ生まれ。190センチ、115キロ。


   ハルク・ホーガン

 初来日したときはでくのぼうの感があったが、猪木との闘いを通じて大きく成長。アメリカのトップ・スターに登りつめた。弟1回IWGPの優勝戦で猪木の夢を打ち砕いた斧爆弾は今だに強烈な印象を残している。WCWではヒールに転向。人気爆発NWOの大ブームを巻き起こした後、再び正統派に戻る。元WWF世界ヘビー級王者。
 1955年カリフォルニア生まれ。201センチ、145キロ。


   ブルーザー・ブロディ

 全日プロで「超獣」として大暴れしていたが、新日プロに転戦、猪木と名勝負を展開し、ホーガンに打ち砕かれた「闘魂神話」を見事に蘇らせた。1年半の間に7度シングルで戦ったが、ピンフォール決着は一度もなかった。契約問題のこじれから無断欠場し、新日プロ追放処分となった。プライドの高い男で、トラブルが絶えず、遠征先のプエルトリコでレスラーのホセ・ゴンザレスに刺され帰らぬ人となった。
 1949年ペンシルバニア生まれ。198センチ、135キロ。1988年死去。


   ビッグバン・ベイダー

 たけしプロレス軍団の刺客として新日プロに登場。猪木との初対決で、その日2戦目となった猪木を秒殺したが、納得しないファンが暴動を起こし、両国国技館が1年間の使用停止となった。その後、徐々に実力が認められるようになり、新日のトップ外人レスラーとなった。後にUインターに転戦、ファイナルカウントダウンで再び猪木と名勝負を展開した。Uインター、全日本でも活躍。
 1956年コロラド州デンバー生まれ。195センチ、185キロ。2018年死去。


   リック・フレアー

 ミスター・アメリカン・プロレスでNWA王者だったフレアーと猪木の接点はないかに思われたが、新日プロとWCWの業務提携が実現し、猪木がWCWの大会に出場。試合後のパーティーで意気投合し、北朝鮮の平和のイベントのメインで対決。思いがけない名勝負を展開した。娘のシャーロットもWWEで女子王者となり、マネージャーとして登場した。元NWA世界ヘビー級王者。
 1950年テネシー州メンフィス生まれ。185センチ、110キロ。


   ストロング小林

 国際プロレスのエースとして活躍。猪木との対決は力道山対木村政彦以来の日本人エース対決として、注目を集めた。敗れた小林は新日プロに入団、初期の新日を支えた。坊主頭のストロング金剛としてテレビにも出演。
 1941年東京生まれ。188センチ、125キロ。2021年に81歳で死去。


   ヒロ・マツダ

 単身アメリカに渡り、フリー・レスラーとして活躍。海外遠征に出た若き日の猪木の良きパートナーであった。新日プロにはフリー・レスラーを集めた「狼軍団」のボスとして参戦。プレ日本選手権の決勝を猪木と闘った。晩年は新日本のブッカーとしても活躍。
 1937年横浜生まれ。186センチ、105キロ。1999年死去。


   坂口征二

 柔道での輝かしい実績を引っ提げて日本プロレスに入団。新日プロに移籍してからは常にNo2として猪木を支えた。豪快なアトミックドロップが得意技で、「世界の荒鷲」と呼ばれる。その強さは誰もが認めるところで、引退は早過ぎるように思われた。新日プロ社長、会長にも就任した。
 1942年福岡県久留米市生まれ。196センチ、130キロ。


   ジャイアント馬場

 ご存じ「世界の巨人」、全日プロ総帥である。猪木と同日に力道山に入門した。日本プロレス界の両巨頭で、馬場なくして現在の猪木はない。生涯現役を貫き、1999年1月31日に61歳で他界したが、その偉大さは永遠に語り継がれることだろう。
 1937年新潟県三条市生まれ。209センチ、135キロ。


   ラッシャー木村

 崩壊した国際プロレスのエースとして新日本になぐり込み「こんばんは」と言ってしまったのはその後のキャラクターを想像させる。しかし、当時は大ヒールで、1対3マッチは猪木の「負けの美学」を引き出した名勝負。猪木の敵ではないとの評価もあったが、試合前の公約どおり猪木の腕ひしぎに最後までギブアップをしなかったのは立派。
 1941年北海道中川郡生まれ。185センチ、125キロ。2010年肺炎により死去。


   マサ斉藤

 日本プロレス出身で、東京プロレスの設立メンバーでもある。東プロ崩壊後は、単身アメリカに渡って活躍。長州の心の師として維新軍の参謀格で日本マットにUターン。猪木とも巖流島の決闘など名勝負を展開した。引退後はテレビ解説などで活躍でも活躍した。
 1942年東京生まれ。180センチ、115キロ。2018年死去。


   長州力

 ミュンヘン・オリンピック出場の実績を引っ提げ新日プロに入団。維新軍を結成して、猪木ら新日正規軍と激しい闘いを展開した。藤波との「名勝負数え唄」は新日の黄金時代に大きく貢献した。その後、ジャパン・プロレスを旗揚げして、全日プロに参戦後、新日プロにUターン。87年に猪木より先に現役引退したが、復帰し、2019年に引退。
 1951年山口県徳山市生まれ。184センチ、115キロ。


   藤波辰爾

 長州とは対照的に、常に猪木のもとで新日プロを支えてきた。猪木対ゴッチをプロレスの原点として、自主興行「無我」も行う。新日ストロングスイルを継承するレスラーである。腰の負傷による長期欠場や、プロレスに対する行き詰まりなどを乗り越え活躍。新日本の社長にも就任した。2006年に新日退団後も現役として活躍する。
 1953年大分県国東郡生まれ。185センチ、108キロ。


   前田日明

 新日プロを離脱してUWFのエースとなり「新格闘王」と呼ばれる。従来のプロレスそして猪木を否定することで人気を集めた。最後はリングスで自分の目指す格闘技を追求し、引退。その後もアウトローを手掛けるなど理想の格闘技像を追い続ける。猪木との対戦は一度だけ実現している。1983年高松でIWGP決勝リーグ戦としてアジア代表の猪木とヨーロッパ代表の前田が戦った。前田は入団7年目で海外武者修行から凱旋帰国したばかりで猪木が勝利した。
 1959年大阪府大阪市生まれ。192センチ、115キロ。