ソ連レスラーと東京ドーム

 ソ連の格闘家の登場は、今では当たり前のこととなっているが、当時としては画期的な出来事だった。東京ドームでの興行も同じである。
 ソ連レスラーの誕生のきっかけは、台湾で興行したとき新聞社から「ソ連の選手は結構プロレスが好きみたい」という情報を得たことだった。ある人の紹介でソ連側と話しができるようになり、すぐに先発隊として倍償鉄夫(新日取締役)とマサ斉藤を派遣、倍償から「何も言わないですぐに来て下さい」と連絡が入った。
 モスクワに飛んだ猪木は「四つの柱」という猪木流のプロレス定義を説明し、ソ連の選手もそういうものならば是非やりたいということになった。

 猪木流プロレス定義「四つの柱」
一.受け身は己を守るだけではない。優れた受け身の技術はかけられた技をより美しく見せられる。
二.攻撃は見る者に力強さと勇気を与える。攻撃した相手にケガをさせないのもまたプロの技術だ。
三.プロレスの持つ最大の魅力は、人間が本来持っている怒り、苦しみという感情を直接、人に訴える
  ことができることである。
四.人とは、漢字では二つの棒が支え合っているという意味だ。感動的な試合、激しい試合はレスラー
  同士の信頼から生まれる。

 ソ連との交渉は国家レベルのもので、武道館や国技館での興行では、契約金をペイできない。そこで5万人を集めようということになり、東京ドームでの興行という発想が生まれた。無謀といわれたが、5万人の観客を動員し、大成功を収めた。
 猪木はショータ・チョチョシビリに異種格闘技戦で初の敗北を喫するが、このとき猪木はファイターとしてよりも、この空前のイベントを成功させたプロモーターとしての立場の方が強くなっていた。また、試合に負けた原因として、ソ連の関係者に大酒を飲まされて三日酔い状態だったと飛んでもない発言をしている。
 後にボクシング世界チャンピオンとなった勇利アルバチャコフも、このときの副産物である。