新日本プロレス クーデター事件

 タイガーマスクが登場し、藤波辰巳と長州力が「名勝負数え唄」を展開、メインを務める猪木は気力、体力ともに充実し、新日本プロレスは黄金期を迎えていた。
 金曜8時のテレビ中継は20%の視聴率をキープ。世間ではプロレスブームといわれたが、関係者は「プロレスブームではなく、新日本プロレスブーム」と豪語した。
 しかし、新日プロの売り上げの大半が猪木のアントン・ハイセル業につぎ込まれているという噂が選手や社員の間に広まり、クーデーター未遂事件へと発展した。
 昭和58年8月11日、タイガーマスクから内容証明書付きの契約解除通告書が届けられた。その時日本を離れていた猪木が20日に帰国。21日に猪木は新日プロ事務所に出向き、そこで望月和治常務取締役と山本小鉄取締役から退任を迫られる。24日には同じく日本を離れていた新間寿営業本部長も帰国、猪木と対面するが、この時、猪木はすっかり弱気になっていたという。
 25日に東京・南青山の新日プロ事務所で緊急役員会が開かれ、猪木は社長のポストから降ろされ、新間は3ヶ月の謹慎という名目で新日プロから追放された。翌26日には坂口も副社長から退き、テレビ朝日からの出向役員であった望月和治、大塚博美に山本小鉄の3人によるトロイカ代表取締役体制が29日に発足した。
 勝利したかに見えたクーデターだったが、テレビ朝日の重役の「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?猪木が新日プロを辞めたらテレビ朝日は放送を打ち切るよ」の一言でクーデター派の新体制はたちまち力を失った。11月1日に新日プロ事務所で臨時株主総会が開かれ、猪木は代表取締役社長に復帰。坂口も取締役副社長に復帰。またテレビ朝日から岡部政雄取締役副社長、永里高平取締役専務の両氏が出向。大塚博美と山本小鉄は取締役に降格。望月和治はテレビ朝日に戻された。
 クーデターを推進したのはタイガーマスク(佐山聡)とその友人、山本小鉄、藤波辰巳、永源遙、大塚博美らであったが、タイガーマスクとその友人、そして山本、藤波、永源、大塚は別グループで行動の足並みが合っていなかったこともクーデター失敗の原因と言われている。
 こうして元のさやに収まったかに思えたが、火種はくすぶり続け、新日本プロレスは混迷期へと向かっていくことになる。
 結局、タイガーマスクと新間寿は新日プロを去り、それが後のUWF旗揚げにつながる。11月20日には大塚営業部長と腹心の加藤、玉木の両営業部員とともに退社し、株式会社新日本プロレス興行を設立。これが後にジャパン・プロレスとなり長州らの大量離脱へとつながることとなる。