東京プロレス設立

 力道山の死後の日本プロレスは、豊登、芳の里、吉村道明、遠藤幸吉の4幹部合議制でスタートした。社長に推されたのは豊登で、力道山不在を感じさせない繁栄だった。
 しかし、昭和41年1月5日、日プロは豊登の社長辞任と現役引退を発表。理由は持病の胆石の悪化なっていたが、真相は放漫経営の責任を問われての失脚であった。事実上、日プロを追放された豊登は、日蓮宗感通寺住職で新間寿の実父である新間信雄との協議によって東京プロレスの設立を決め、そのエースとして新人時代から目をかけていた猪木に白羽の矢を立てた。新間寿は取締役営業部長に選任され、このときから猪木との因縁が始まった。
 当時アメリカで修行中だった猪木はそんな日本の状況をまったく知らなかったが、説得に訪れた豊登とハワイで対談、東京プロレス入りを決意した。これは「太平洋上猪木略奪事件」と呼ばれる。
 豊登が猪木を獲得して、新団体を旗揚げするという情報は日本プロレスもつかんでいた。これ対して日プロも猪木をアメリカから呼び戻し、第8回ワールドリーグ戦に参加させることとなっていた。ハワイでは、豊登と会う前に、吉村道明、ジャイアント馬場と合流し、合同練習も行っている。しかし、猪木は日プロが本当に自分を必要としているのか分からなかったという。
 日プロの徹底的な妨害に合い、また豊登の浪費癖は治らず会社の金で競馬に明け暮れる状態で東京プロレスの前途は多難だった。豊登が「7月頃にやりたい」としていた旗揚げ戦も10月12日までずれ込んだ。
 東京・蔵前国技館で行われた旗揚げ戦のメインで猪木はジョニー・バレンタインとストロング・スタイルの原点ともいえる名勝負を展開、海外武者修行の成果をファンに示した。東京プロレスには猪木、豊登の他に日プロから木村政雄(ラッシャー木村)、斎藤昌典(マサ斎藤)、永源遥、寺西勇、引退していたマンモス鈴木らが参加している。
 旗揚げ戦こそ大成功だったが、その後の地方興行は惨憺たるものだった。日プロの妨害により、有力プロモーターの協力は得られず、素人同然のプロモーターのしきりでキャンセルと中止が相次ぎ、「旗揚げビッグマッチ・シリーズ」は11月22日の東京・大田区体育館における最終戦まで全34戦の予定だったが、20戦しか行われず、赤字の連続だった。
 そして12月14日の仙台大会から19日の東京体育館まで、規模を縮小して「チャンピオン・シリーズ」が強行されたが、結果は赤字が増えただけだった。そんな中でも豊登の浪費癖は続き、シリーズ終了直後に猪木は豊登との決別を決意し、東京・新宿にあった東プロ事務所から荷物と書類を持ち出し、東京・港区北青山の新事務所に移してしまい、別会社の東京プロレス株式会社を設立した。このとき新間ともたもとを分かつこととなった。
 翌昭和42年、猪木は木村政雄、斎藤昌典らとともに1月5日から開幕した国際プロレスの「パイオニア・シリーズ」との合同興行に参加した。猪木と豊登、新間の関係は悪化する一方で、遂に1月8日、猪木が豊登と新間を業務上横領で告訴すると発表、豊登と新間は猪木を背任容疑で逆告訴するという泥沼状態となった。そんな中行われたシリーズもふるわず、国プロとも金銭面でトラブルを起こし、東京プロレスは僅か3ケ月で悲惨な最後を迎えた。