アメリカ武者修行時代

 今では海外修行にそれほどの意味はなくなっているように思われるが、当時の海外修行には出世の切符という意味あいがあった。三羽鳥と呼ばれた大木、馬場はすでに海外で活躍しており、猪木には遅れをとっているという焦りがあった。特に馬場はメーンイベンターとして全米にその名をとどろかせており、それを強く意識しての出発だった。
 サニー・マイヤースが猪木の実力を認め、アメリカでもトップを取れると誘ったことがきっかけと言われる。力道山が急死し、以前から猪木に目をかけていた豊登が日本プロレスのトップに立ったことにより与えられた渡米のチャンスだった。
 豊登に伴われて、まず到着したのがハワイのホノルルだった。3月11日、シビック・オーデトリアムで行われた渡米第1戦は、豊登の代役として当時のハワイのチャンピオン、プリンス・イヤウケアに挑むタイトルマッチであった。1本目は猪木が、2本目はイアウケアがフォールを取っての3本目は場外乱戦の際、セコンドの豊登が乱入し、ノーコンテストの結果に終わった。
 豊登が帰国した後、猪木は単身セントラルステーツ地区に渡り、ミズーリ、オクラホマ、カンサスの3州で試合を行った。この地区は当時のNWAの本拠地である。空港には誰も迎えが来ておらず、たまたまプロレスファンだった黒人のポーターの世話になり、ようやくオフィスと連絡が取れたという、不安を抱えたスタートだった。
 ここでのリング・ネームはトーキョー・トム。元NWAジュニア王者のサニー・マイヤース、パット・オコーナー、モンゴリアン・ストンパー、ハリー・レースなどと戦った。
 その後、猪木はロサンゼルスを中心とするWWA地区に転戦。ここでのリングネームはリトルトーキョー・ジョー。ディック・ザ・ブルーザー、ザ・デストロイヤーらと対戦した。
 次に猪木はサンフランシスコ、シアトルを経てポートランドに入る。再びロサンゼルスを経由して、当時、無法プロレス地帯といわれていたテキサス州に乗り込む。ここでのリングネームはカンジ・イノキ。デューク・ケオムカと組み、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックスを破り、当地のタッグタイトルを獲得している。
 そして猪木はテネシー州に転戦。ここで猪木はヒロ・マツダとタッグを組み、NWA認定世界タッグ選手権も獲得した。
 テネシーでの第1戦のみ、荷物が届かなかったため、トージョー・ヤマモトのコスチュームを借りて、田吾作スタイルに下駄履きという当時の日本人レスラーの定番スタイルも経験している。
 またこのときスパニッシュ系の女性ダイアナ・タックと一度目の結婚(入籍はしていない)もしている。文子という女の子も生まれているが、小児ガンで幼くして亡くなった。ダイアナ夫人とも後に離婚している。
 海外修行の2年余りが経過したある日、豊登からの国際電話で、アメリカ武者修行に突然のピリオドが打たれることになる。