ブラジル移民生活と力道山との出会い

 ブラジルでの生活は貧しく、過酷なものだった。朝5時から夕方5時まで、畑仕事の毎日であった。そんなある日、兄(快守)が砲丸を買ってきてくれてからは、畑仕事の合間に砲丸投げの練習をするようになった。そして陸上のオール・ブラジル大会に出場し、円盤投げと砲丸投げで優勝した。この活躍がもとで、ブラジルの大都市であるサンパウロに出ることになった。
 サンパウロでは昼間は高校に通い、砲丸や円盤の練習をし、夜は青果市場で「かつぎ屋」と呼ばれる仕事をした。仲介人が市場で買った野菜をかついでトラックに乗せるものであった。このブラジルでの過酷な生活が、猪木の強靭な肉体と精神を作るもととなっているのだろう。
 オール・ブラジル陸上大会での活躍は、遠征に訪れた力道山の目にもとまった。たまたま、猪木が働いていた青果市場の社長が力道山と知り合いで、その紹介で猪木は力道山と対面することとなった。
 力道山は言うまでもなく、日本プロレスの祖である。大正13年11月14日、長崎県大村市に生まれた。昭和15年2月、二所ノ関部屋に入門。昭和25年、関脇を最後に廃業。その後、アメリカに渡り、プロレス修行。昭和29年2月19日、蔵前国技館で柔道の木村政彦と組み、シャープ兄弟と初の国際試合を行った。その後プロレス・ブームが起こり、まだ家庭にテレビは普及していなかった頃で、街頭テレビに黒山の人だかりができた。戦後の復興期における国民的ヒーローであった。
 力道山は猪木に、いきなり服を脱ぐように言い、その肉体をじっと見つめた。そして「よし、日本へ行くぞ!」と怒鳴るように言ったという。
 猪木はこのときの力道山の迫力に飲まれるような形でプロレスラーになることを決意していた。小さい頃から力道山に憧れて、プロレスラーになることを夢見ていたわけではない。「よし、母国でプロレスというものに挑戦してやろう!」これが猪木のプロレス人生の始まりであった。力道山との出会いは、運命の出会いであった。