IWGP時代

1981年(昭和56年) 9月23日 田園コロシアム
アントニオ猪木(9分20秒 反則)タイガー戸口
 
 遂に動き出したIWGP構想。伝説のハンセン対アンドレが行われた田コロ決戦のメインで、アジアゾーン予選リーグとして、全日を主戦場としていた戸口と対戦。
 試合は猪木が戸口を圧倒し、最後は卍固めで勝利した。

1981年(昭和56年)10月 8日 蔵前国技館
ラッシャー木村(10分35秒 反則)アントニオ猪木
 
 猪木とラッシャー木村の関係は東京プロレスにまで遡る。東プロ崩壊後、木村は猪木とは行動を共にせず、国際プロレスに活路を求めた。国プロでIWA王者となった木村は猪木に挑戦を表明するが、猪木は「格が違う」と一蹴。プレ日本選手権で新日プロと国プロの対抗戦が行われたが、ここでも対戦は実現しなかった。そして国プロ崩壊後、浜口、寺西との国際プロレス軍団を率いて新日マットに乗り込んで来た木村と遂に一騎打ちが実現した。
 猪木が異常なエキサイトで、ロープブレークとなっても腕ひしぎを離さず反則負け。ラッシャーはその後の姿からは想像もつかない大ヒールであった。

1981年(昭和56年)11月 5日 大阪府立体育会館  ランバージャックデスマッチ
アントニオ猪木(15分 8秒 TKO)ラッシャー木村
 
 初対決では反則暴走してしまった猪木だったが、舞台を大阪に移しての第2戦は、ランバージャックデスマッチで木村を大流血させ、TKO勝ちを収めた。

1982年(昭和57年) 1月 1日 後楽園ホール
アントニオ猪木(3R3分16秒 反則)ローラン・ボック
 
 昭和53年のヨーロッパ遠征で猪木と対戦、慣れないラウンド制と連戦の疲れはあったものの、猪木を判定で破り、一躍日本のファンに「墓堀り人」の名を轟かせたボックだったが、ようやく来日したときには交通事故の影響もあり当時のインパクトは色あせていた。3度目の来日でようやくシングル対決が実現した。
 猪木の延髄斬りを受け、エプロンにエスケープしたボックは、ロープ越しにスリーパーを決める。高橋レフェリーの制止を聞かず、割って入ったレフェリーを場外に叩き落としたボックが反則負けを喫した。

1982年(昭和57年) 1月28日 東京体育館
アントニオ猪木(14分52秒 反則)アブドーラ・ザ・ブッチャー
 
 全日からブッチャーを引き抜き、夢の対決実現が期待されたが、対決は温存され、ようやく実現した一騎打ちだったが、かみ合わないまま凡戦に終わった。
 セコンドの介入などもあり、猪木の反則勝ちに終わった。

1982年(昭和57年) 9月21日 大阪府立体育会館  敗者髪切りマッチ
アントニオ猪木(11分34秒 体固め)ラッシャー木村

 敗者髪切りマッチで勝利するが、木村は髪を切らず、逆に国際軍団に髪を切られ、逃走されてしまう。遺恨が更に深まった。


1982年(昭和57)年11月 4日 蔵前国技館 1対3ハンディキャップマッチ
ラッシャー木村 アニマル浜口 寺西勇(27分7秒 リングアウト)アントニオ猪木
1.猪木(13分3秒 逆十字固め)寺西
2.猪木(9分27秒 体固め)浜口
3.木村(4分37秒 リングアウト)猪木

 猪木プロレスの真骨頂ともいえる名勝負。因縁の国際軍団を「3人まとめてやってやる」と豪語した猪木だったが、寺西、浜口は倒したものの、最後は力尽き、木村にリングアウト負けを喫した。「2対1で猪木の勝ちだと言いたいですね」という桜井さんの言葉に誰もが同感であることは試合後の猪木コールが現していた。猪木が木村に足4の字固めを決めたところにカットに入った浜口、寺西をタックルで必死に阻止したレフェリーの山本小鉄の姿も印象的だった。


1983年(昭和58年) 2月 7日 蔵前国技館 1対3ハンディキャップマッチ
ラッシャー木村 アニマル浜口 寺西勇(21分16秒 反則)アントニオ猪木
1.猪木(10分10秒 体固め)木村
2.猪木(5分10秒 コブラツイスト)寺西
3.浜口(5分56秒 反則)猪木
1983年(昭和58年) 5月27日 高松市民文化センター  IWGP決勝リーグ戦
アントニオ猪木(12分57秒 体固め)前田明
 
 遠征先のヨーロッパ代表としてIWGPに参加、成長株として注目を集め始めた前田と猪木の最初で最後のシングル対決が実現した。
 張り手合戦にたじろいだ前田はリング下にエスケープ。しかしリングに戻ると、キック、ドロップキック、スロイダー、逆エビ固め、腕ひしぎ逆十字、首4の字、ニードロップ、ギロチンドロップと畳み掛け、ジャーマンを決める。これを返した猪木がバックドロップで反撃を開始。弓矢固めから卍固めを決める。辛うじて脱出した前田が強引にドラゴンスープレックスを見舞うも、返した猪木が延髄斬りを一閃し、フォールを奪った。

1983年(昭和58年) 6月 2日 蔵前国技館  IWGP決勝戦
ハルク・ホーガン(21分27秒 KO)アントニオ猪木
 
 遂に迎えたIWGP決勝の大舞台。決勝リーグ戦の本命は猪木、対抗はアンドレ、ホーガンはまだダークホース的な存在だったが、同点首位となった猪木とホーガンがリングで相対した。
 バックフリップを狙って、ホーガンをかつぎ上げた猪木がバランスを崩し、場外に転落。立ち上がった猪木の背後からホーガンがアックスボンバーを叩き込み、前のめりになった猪木の前頭部が鉄柱に激突した。フラフラとエプロンに上がった猪木を助走をつけてのアックスボンバーが襲う。場外で舌を出して失神する猪木。そのまま病院に担ぎ込まれるという大失態を演じ、「闘魂神話崩壊」といわれた。念願のIWG決勝戦の晴れ舞台が一瞬にして悪夢に変わり、逆にホーガンは一気にスターダムを駆け上がっていく。
 <第1回IWGP決勝リーグ 星取り表>

1984年(昭和59年) 4月19日 蔵前国技館  正規軍vs維新軍5対5勝ち抜き戦
アントニオ猪木(13分44秒 レフェリーストップ)長州力
 
 激化する維新軍との抗争の中で行われた5対5勝ち抜き戦。副将の藤原喜明がアニマル浜口と場外無理心中し、無傷のままの大将対決が実現した。
 猪木相手に互角の勝負を展開した長州だったが、2度目の卍固めは返すことができず、ギブアップはしなかったもののレフェリー・ストップとなり、猪木は卍固めを解いたが、長州は立ち上がることはできなかった。

1984年(昭和59年) 6月14日 蔵前国技館  IWGP優勝戦
アントニオ猪木(17分15秒 両者リングアウト)ハルク・ホーガン
延長戦(2分13秒 両者エプロンアウト)
再延長 猪木(3分11秒 リングアウト)
 
 2回目のIWGPも優勝決定戦は、リーグ戦を勝ち上がった猪木と前年優勝でシードとなったホーガンの対戦となった。両者リングアウト、エプロンアウトとなった後の再延長戦も、リング下の両者に、突如乱入した長州がリキラリアートを見舞い、混乱の中で猪木がリングアウト勝ちという不透明決着となった。猪木は初優勝を果たしたものの、観客が激怒し、暴動騒ぎとなった。
 <第2回IWGP王座決定リーグ 星取り表>

1984年(昭和59年) 8月 2日 蔵前国技館
アントニオ猪木(29分39秒 グラウンドコブラ)長州力
 
 最後の蔵前国技館で、維新軍の首領として大きく成長した長州と白熱の名勝負を展開した。クラシカルなレスリングの応酬となり、3年振りとなる原爆固めも見せた。最後はリキラリアートを交わしてグラウンドコブラで勝利した。

1984年(昭和59年) 9月 7日 福岡スポーツセンター
アントニオ猪木(7分19秒 無効試合)ストロング・マシン
 
 突如現れた謎の怪覆面とマネージャーのKY若松。マスクマンは増殖し、マシン軍団と呼ばれる。そのマシンと猪木がシングル対決したが、無効試合に終わった。

1985年(昭和60年) 2月 6日 大阪府立体育会館  賞金15000ドル争奪ボディースラムマッチ
アントニオ猪木(8分38秒 体固め)キングコング・バンディ
 
 ボディスラムで投げた方が賞金15000ドルを獲得するという、巨漢のバンディと明らかに不利なルールで闘った。試合には勝利したが、ボディスラムで投げられ、賞金は失った。

1985年(昭和60年) 4月18日 両国国技館
アントニオ猪木(26分20秒 両者リングアウト)ブルーザー・ブロディ
 
 長州、前田らの大量離脱で低迷していた新日本が、全日からブロディーを引き抜き、両国国技館に初進出。一気に人気挽回を狙った大一番である。試合前、ブロディが猪木の控え室を襲い、猪木が左腕を負傷するという波乱の幕開けとなった。
 猪木は延髄斬り、卍固めを決め、ヘソで投げるバックドロップも復活し、ブロディの巨体を完璧に投げきった。ブロディは不完全だったが、珍しいジャイアント・スイングも見せた。白熱の名勝負を展開し、最後は両者リングアウトとなったものの「闘魂神話復活」といわれた。

1985年(昭和60年) 6月11日 東京体育館 IWGP決勝戦
アントニオ猪木(13分50秒 エプロン・カウントアウト)アンドレ・ザ・ジャイアント
 
 3度目のIWGPはトーナメント形式で行われた。猪木は前年優勝のためシードとなり、決勝戦でトーナメントを勝ち上がったアンドレと対戦したが、延髄斬りを食らった反動からアンドレの腕がロープにひっかかり、身動きが取れなくなったところでエプロン・カウントアウト。猪木が2年連続優勝を果たしたが、またもスッキリした結末にはならなかった。

1985年(昭和60年) 6月13日 愛知県体育館 IWGP防衛戦
アントニオ猪木(11分25秒 リングアウト)ハルク・ホーガン
 
 アメリカで超売れっ子となっていたホーガンは予選トーナメントには参加せず、優勝した猪木がIWGPの防衛戦としてホーガンと対決した。因縁の相手にリングアウトながら、ようやくスッキリと勝利し、IWGPのベルトを腰に巻いた。
 <第3回IWGP予選トーナメント 結果>

1985年(昭和60年) 7月28日 大阪府立体育会館  3番勝負第1弾
ブルーザー・ブロディ(16分38秒 反則)アントニオ猪木

1985年(昭和60年) 8月 1日 両国国技館  3番勝負第2弾
ブルーザー・ブロディ(21分24秒 反則)アントニオ猪木

1985年(昭和60年) 8月 3日 米ハワイ州アロハ・スタジアム  3番勝負第3弾
アントニオ猪木(8分40秒 両者リングアウト)ブルーザー・ブロディ

1985年(昭和60年) 9月19日 東京体育館
アントニオ猪木(35分29秒 レフェリーストップ)藤波辰巳
 
 猪木と肩を並べるまでに成長した藤波と、ゴッチから寄贈された伝統のベルトを賭けた一戦で、ルー・テーズがレフェリーを務めた。
 新日本の原点ともいえる名勝負の末、卍固めによるレフェリーストップで猪木が藤波を撃破。「紙一重の差」を見せつけた。

1985年(昭和60年)10月 4日 札幌中島スポーツセンター
アントニオ猪木(21分41秒 両者リングアウト)ブルーザー・ブロディ

1985年(昭和60年)10月31日 東京体育館
アントニオ猪木(27分4秒 反則)ブルーザー・ブロディ
 
 6度目の対決で反則ながら、ようやくブロディから初勝利。

1986年(昭和61年) 2月 6日 両国国技館
アントニオ猪木(19分37秒 裸締め)藤原喜明
 
 新日マットに戻ってきたUWF勢同志が猪木への挑戦権を賭けて争ったリーグ戦を制した藤原との頂上対決として行われた一戦。藤原のアキレス腱固めを「角度が違う」と指差して余裕のポーズを見せた。
 下腹部へのキック、頭突きにきたところに打ったエルボーを急所蹴り、反則のパンチと勘違いした前田日明が「猪木なら何をしても許されるのか」と激怒、試合後リングに上がり、猪木にハイキックを見舞った。

1986年(昭和61年) 6月17日 愛知県体育館  IWGP決勝リーグ戦
アントニオ猪木(9分30秒 腕固め)アンドレ・ザ・ジャイアント
 
 IWGP決勝リーグの最中、猪木は写真誌に浮気現場をスクープされ、男のケジメとして丸坊主にして試合に臨み、世界で初めてとなる、アンドレからのギブアップを奪った。そのフィニッシュとなったのはアンドレの左肩に馬乗りになって腕ひしぎの要領で極める腕固めだった。

1986年(昭和61年) 6月19日 両国国技館  IWGP優勝決定戦
アントニオ猪木(30分7秒 体固め)ディック・マードック

 4度目のIWGP決勝で、伏兵マードックと対戦。30分を超える熱戦の末、最後はジャーマンが決まったかに見えたが、惜しくもカウント2。しかし、すかさずフォールを奪い、3年連続優勝を果たした。
 <第4回IWGP王座決定リーグ 星取り表>


1986年(昭和61年) 9月16日 大阪城ホール
アントニオ猪木(60分時間切れ 引き分け)ブルーザー・ブロディ
 
 昨年末のIWGPタッグリーグ戦決勝戦をボイコットしたブロディが、ハワイで猪木を襲撃。実現した7度目の対決は60分フルタイムドローとなった。ブロディとの対決はこれが最後となり、遂に決着は着かなかった。

1987年(昭和62年) 3月26日 大阪城ホール
アントニオ猪木(25分34秒 反則)マサ斎藤
 
 全日マットに参戦していた長州率いるジャパン・プロレスに新日Uターンの噂が流れる中、参謀格のマサ斎藤が新日マットに上がり、猪木と対戦した。
 何の脈略もなく突如として海賊男が乱入し、マサ斎藤に手錠をかけて連れ去る。手錠を引きちぎって戻った斎藤は、腕にはまったままの手錠で猪木の額を連打。レフェリーのミスター高橋にも手を出し、猪木が反則勝ちしたが、不可解な結末に暴動寸前となる。

1987年(昭和62年) 4月27日 両国国技館
アントニオ猪木(26分2秒 TKO)マサ斎藤
 
 マサ斎藤のセコンドにはスーパールーキーの馳浩、そして長州らジャパン軍団も来場して客席に陣取った。
 マサ斎藤が猪木に手錠をかけ、自らの手とつなぐ。猪木はロープを外せと主張。試合は途中からノーロープ手錠デスマッチとなった。猪木がナックルを連打。斎藤がグロッキーとなり、馳がタオル代わりにTシャツを投げ入れた。エキサイトした長州が立ち上がるが、場外フェンスを越えることはなかった。

1987年(昭和62年) 6月12日 両国国技館  IWGP王座決定戦
アントニオ猪木(14分53秒 体固め)マサ斎藤

 5度目のIWGPは王座決定戦として行われた。猪木対前田の実現が期待されたが、決勝のリングに上がったのは猪木と斎藤だった。
 その現状に長州が決起。藤波、前田らに呼びかけ、世代闘争が勃発する。
 <第5回IWGP王座決定リーグ 星取り表>


1987年(昭和62年)10月 4日 山口県下関市巖流島特設リング
アントニオ猪木(2時間5分14秒 TKO)マサ斎藤
 
 猪木の首を誰が取るかで、ニューリーダーズに不協和音が流れる。そんな中、猪木がぶち上げた、同世代のマサ斎藤との巌流島決戦で、世代闘争は空中分解してしまう。観客、レフェリー不在で行われた男の浪漫。猪木のそしてプロレス史上最長試合となった。
 猪木は14時31分に島に到着。斎藤は15時59分に到着した。立会人の山本小鉄が試合開始を宣言したのが16時30分。斎藤が待つリングに猪木が上がったのは17時7分だった。シビアな関節技の応酬を展開し、17時38分には戦場はリング外の芝生に移り、野試合の様相を呈す。リングに戻って、猪木がバックドロップ。激しい殴り合いが続く。17時58分にリングの四方に設置されたかがり火が点火される。両者は額から流血。斎藤がバックドロップ、猪木が延髄斬りを見舞う。斎藤が頭突きの3連発で猪木を倒し、勝利の門に向かうが、背後から猪木が裸絞めで斎藤を絞め落とし、勝利の門をくぐったのは18時35分だった。

1988年(昭和63年) 7月29日 有明コロシアム  IWGPヘビー級王座挑戦者決定リーグ戦
アントニオ猪木(2時間5分14秒 TKO)ビッグバン・ベイダー
 
 4月22日に沖縄で藤波が飛龍革命ののろしを上げ、髪を切って、ベイダー戦を直訴。猪木は翌日、ランニング中に左足甲を骨折し王座を返上した。藤波はベイダーを破って王座を獲得。猪木は挑戦者決定リーグ戦に出場するが、長州にフォール負けを喫する。追いつめられた猪木だったが、それでもTPGの刺客として登場し、因縁の相手となったベイダーと優勝の賭かったリーグ戦で対戦することとなった。
 猪木は序盤からベイダーの左腕に狙いを絞って猛攻撃をかける。最後は腕固めを決めて、藤波への挑戦権を獲得した。

1988年(昭和63年) 8月 8日 横浜文化体育館  IWGPヘビー級選手権
藤波辰巳(60分時間切れ 引き分け)アントニオ猪木
 
 「負けたら引退」と囁かれ、IWGP王者・藤波に猪木が挑戦した一戦は、白熱の名勝負の末、フルタイムドローとなった。
 私はそれまで、猪木が年を取るとか、引退するなどということは考えもしなかったが、このとき初めて猪木も引退するときが来るのだということを思い知らされた。藤波が猪木に並んだ嬉しさ、猪木が藤波と引き分けてしまった悲しさ。まだこんなにやれるのかという思い、これで精一杯なのかという思いが複雑に入り混じった、何ともいえない思い出の試合である。私にとってはこの試合が事実上の猪木の引退試合である。

1989年(平成 1年) 2月22日 両国国技館
アントニオ猪木(15分29秒 体固め)長州力
 
 時代は昭和から平成に変わり、猪木は藤波と引き分け、王座奪回を逃した。再起を期すも、結果的には徐々にリングから遠ざかっていくことになる。自らソ連で交渉に当たり、サルマン・ハシミコフらソ連のプロレスラーが初登場した。
 その両国のリングで、ファイターとしての猪木は長州のリキラリアートの連発に完敗を喫した。新日本プロレスの主役交代の儀式という意味あいの試合だったと思う。