FINAL COUNT DOWN

1992年(平成 4年) 1月 4日 東京ドーム
アントニオ猪木(10分9秒 卍固め)馳浩
 
 国会議員となった猪木はリングの上がる機会が激減し、1年3ヶ月振りの試合となった。参院選に同行したことをきっかけに馳が猪木との対戦を熱望、同じく対戦を希望していたタイガー・ジェット・シンとの巖流島決戦を制して実現した一戦で、猪木が久々に見せた名勝負となった。
 馳の裏投げの連打を耐えた猪木は、このとき脚光を浴びる魔性のチョーク・スリーパーで反撃、最後は卍固めで勝利した。

1994年(平成 6年) 1月 4日 東京ドーム
天龍源一郎(15分56秒 エビ固め)アントニオ猪木
 
 平成4年7月に天龍が猪木への挑戦を表明。平成5年1月4日の東京ドームで猪木がこれを正式に受諾した。それから1年、ファイナル・カウントダウン宣言直前に夢の対決が実現した。
 天龍のパワーボムに敗れはしたが、チョーク・スリーパーで天龍を締め落とすなど猪木の凄みを見せつけた名勝負となった。

1994年(平成 6年) 3月16日 東京体育館
アントニオ猪木 1−0 蝶野正洋
安田忠夫        木戸修 
木戸(14分27秒 反則)猪木

 ファイナル・カウントダウンを宣言し、いよいよ闘魂の終焉が近づいた。第1弾となる5月1日のムタ戦の前哨戦の意味合いが強かったこの試合でパートナーにはデビューしたばかりの安田を抜擢した。
 蝶野は猪木に真っ向勝負を挑む。エキサイトした猪木が木戸をチョーク・スリーパーで絞め続け、反則負けを喫した。


1994年(平成 6年) 4月 4日 広島グリーンアリーナ
アントニオ猪木 1−0 藤原喜明
馳浩          石川雄規
猪木(13分34秒 裸絞め)石川

 国会会期中でコンディションが上がらない中、馳をパートナーに、たった2人となってしまった藤原組の師弟コンビと対戦した。
 猪木に憧れ続けた石川は果敢に挑んだが、力量差は歴然だった。最後は魔性のスリーパーで一瞬のうちに絞め落とした。石川はこの猪木初対戦を機に藤原組を卒業し、バトラーツを設立する。


1994年(平成 6年) 5月 1日 福岡ドーム  INOKI FINAL COUNT DOWN 1st
アントニオ猪木(20分12秒 体固め)グレート・ムタ
 
 2回目のレスリングどんたく、ファイナル・カウントダウンの第1弾で、ムタとの超異色対決が実現した。
 さすがの猪木もムタ・ワールドに戸惑い、ペースをつかめない。毒霧から場外乱戦に誘い込み、花道でのブレーンバスター、延髄ラリアット、猪木の額をフェンスに打ち付け、記者席の上でパイルドライバー、鉄柱攻撃で流血した。緑の毒霧と赤い血で顔を染めた猪木が、ムタの側転エルボーを交わして、一気にチョーク・スリーパーからのフォールで大逆転勝ちした。

1994年(平成 6年) 8月24日 米アイオワ州シーダーラビッツファイブシーズンズセンター
アントニオ猪木(8分36秒 裸締め)ロード・スティーブン・リーガル
 
 WCW「クラッシュ・オブ・チャンピオンズ」に招かれて参戦。ここでも魔性のスリーパーが冴え、リーガルを締め落としてカウントダウン番外編を飾った。
 試合後のパーティーで猪木はこれまで接点のなかったフレアーと談笑。フレアーは息子に「イノキとだけは戦わないで。殺されちゃう」と言われたという話しをする。これまで「大嫌いだった」というフレアーを猪木もこのとき見直したという。これが平譲での名勝負につながる。

1994年(平成 6年) 9月23日 横浜アリーナ  INOKI FINAL COUNT DOWN 2nd
アントニオ猪木(11分37秒 裸締め)ウイリエム・ルスカ
 
 ファイナル・カウントダウン第2弾の相手は、異種格闘技戦の原点となった柔道王ルスカだった。猪木51歳、ルスカ54歳、18年振りの対決となった。
 ルスカの場外でのスリーパーに締め落とされた猪木だったが、担架に乗せられて退場というときに長州が登場、カツを入れて猪木が蘇る。意識もうろうとしながらも最後はチョーク・スリーパーで猪木が辛くも勝利した。

1995年(平成 7年) 1月 4日 東京ドーム  INOKI FINAL COUNT DOWN 3rd 格闘技トーナメント
アントニオ猪木( 6分37秒 裸締め)ジェラルド・ゴルドー
 
 ファイナル・カウントダウン第3弾の対戦相手の決定は難航した。当初はホーガン、フレアーの名も上がっていたが、白紙となり、代わってキモ、フランコ・シカティックの名も上がったが、交渉が不成立に終わった。結局、4選手による格闘技トーナメントの開催となり、猪木は連戦を強いられた。
 1回戦の相手は喧嘩屋ゴルドー。猪木はゴルドーのキックで足を負傷し、苦しい闘いとなったが、チョーク・スリーパーで辛勝した。

アントニオ猪木(10分26秒 裸締め)スティング     
 
 1回戦でモンスターマンの弟子で格闘家のトニー・パルモアに勝利したスティングと決勝戦で対戦となった。ゴルドー戦で左足にダメージを負った猪木は、入場時にドームの長い花道でかがみ込んでしまう。
 気力を振り絞って決勝戦を闘うが、スティングのSTF、逆エビ固め、サソリ固めに5度のロープエスケープを喫する。最後はアバランシュホールドに来たところを切り返し、チョーク・スリーパーで満身創痍となりながらも勝利した。試合後のインタビューでは「もう潮時かも」という弱気な発言も飛び出した。

1995年(平成 7年) 3月19日 愛知県体育館  INOKI FINAL COUNT DOWN 4th
アントニオ猪木(18分5秒 体固め)藤原喜明
 
 開始から1年が経過し、第4弾を数えるファイナル・カウントダウンの対戦相手は、直弟子の藤原喜明だった。
 猪木のいきなりの浴びせ蹴りからスタートするが、その後は2人らしいグラウンドの展開に。猪木のローキック3連発から試合が動く。藤原も一本足頭突きを繰り出す。猪木はパンチからローキックで藤原の体勢を崩し、延髄斬り。馬乗りになってグレイシー柔術ばりのパンチを叩き込み、瞬時のフォールを奪った。
 試合後は正座して一礼。肩を叩き抱き合った。恩執を乗り越え、師弟の目は涙で赤かった。

1995年(平成 7年) 4月29日  平和のための平譲国際スポーツ・文化祝典
アントニオ猪木(14分52秒 体固め)リック・フレアー
 
 19万人の観衆がスタンドを埋め尽くした。プロレスを知らない北朝鮮の人たちが、初めて目にする猪木に魅了された。相手はアメリカン・プロレスの代表格フレアーだったが、意外な名勝負を展開した。
 フレアーの足4の字固めを耐えた猪木は、パンチ、キックで反撃。浴びせ蹴りからニードロップと畳み込み、延髄斬りでフォールを奪った。

1995年(平成 7年) 5月 3日 福岡ドーム
アントニオ猪木 1−0 天龍源一郎
北尾光司        長州力  
猪木(10分25秒 体固め)長州

 平成2年に東京ドームでデビューした北尾は、同年7月に長州との確執で新日本を去った。5年振りの新日マットで猪木とタッグを結成。長州、天龍と対戦した。
 北尾を狙い、イレ込み過ぎた長州を、猪木が延髄斬りから卍固めで追い込み、最後はスリーパー・ホールドでマットにはわせた。


1995年(平成 7年)12月30日 大阪城ホール
アントニオ猪木 1−0 藤原喜明
高田延彦        山崎一夫 
1.猪木(5分11秒 体固め)山崎
2.山崎(8分16秒 体固め)猪木
3.猪木(5分39秒 卍固め)藤原

 猪木自身がプロデュースした「突然、卍固め INOKI FESTIVAL」でU系の弟子3人との異色のタッグマッチが実現した。大晦日の猪木祭りのルーツである。
 UWFインターを離脱したばかりの山崎と高田が噛み合ない中、猪木の一人舞台という感じで1−1となった。決勝の3本目で、カットに入るか入らないかで注目されていた高田が遂に動く。猪木に見舞った藤原の脇固めをカット。猪木はすかさず延髄斬りから卍固めで勝利した。


1996年(平成 8年) 1月 4日 東京ドーム  INOKI FINAL COUNT DOWN 5th
アントニオ猪木(14分16秒 腕ひしぎ逆十字固め)ビッグバン・ベイダー
 
 ファイナル・カウントダウンの第5弾は、宿敵ベイダーとの8年振り、5度目の対決となった。
 ベイダーは容赦のない攻撃で畳み掛ける。投げ放しジャーマン、ボディープレス、ムーンサルトを次々と受け、満身創痍となりながらも、最後はベイダーのボディアタックを交わしてボディスラム。腕ひしぎ十字固めに捕え、奇跡の勝利で、闘魂不滅を示した。

1996年(平成 8年) 6月 1日 米ロサンゼルス・スポーツ・アリーナ
アントニオ猪木 1−0 オレッグ・タクタロフ
ダン・スバーン     藤原喜明      
スバーン(9分15秒 体固め)藤原

 新日本、WCW、AAA、EMLL、女子プロの各団体がロサンゼルスに集結。猪木プロデュースの「平和の祭典」が開催された。米国のスバーンとロシアのタクタロフはともにアルティメット王者の異色の顔合わせだった。
 猪木が藤原に延髄斬り2連発を決めてスバーンにつなぐ。スバーンは藤原を水車落とし、脇固めでねじ伏せた。


1996年(平成 8年)12月 1日 国立代々木競技場第2体育館
アントニオ猪木(4分58秒 腕ひしぎ逆十字固め)ザ・ガスパー
 
 格闘技専門の衛星放送「サムライTV」の開局イベントとして「猪木フェスティバル」と銘打ち、行われた試合。当初、猪木は出場の予定がなかったが、因縁の海賊男の挑戦を受けて出場した。
 猪木はガスパーの海賊マスクを着けて入場。最上段からのニードロップ、腕ひしぎ十字固めで圧勝した。

1997年(平成 9年) 1月 4日 東京ドーム  INOKI FINAL COUNT DOWN 6th
アントニオ猪木(4分13秒 グランドコブラ)ウイリー・ウイリアムス
 
 猪木がガスパーと闘った「猪木フェスティバル」の代々木第2体育館に、ウイリー・ウイリアムスが現れて対戦を迫る。ファイナル・カウントダウン第6弾で17年振りの対決が実現した。
 当日になって、猪木はコブラツイスト、ウイリーは正拳という決め技限定マッチとして行われることが発表された。異種格闘技戦とはいえかつての殺伐とした雰囲気はなく、同窓会といった趣の中、猪木がグラウンド・コブラであっさりと勝利した。

1997年(平成 9年) 4月12日 東京ドーム  INOKI FINAL COUNT DOWN 7th
アントニオ猪木(6分46秒 コブラツイスト)タイガーキング
 
 小川直也のプロ転向、UFOの旗揚げを機に師弟関係が完全復活した。猪木54歳、佐山39歳、全盛期には考えられなかった夢の対決が時を超えて実現した。
 佐山は100キロ以上あった体重を93キロまで落とした。セコンドには宿敵、小林邦昭が着く。軽快なキックを見せるタイガー、猪木もインディアン・デスロック、弓矢固めで返す。最後はフライング・メイヤーに来たタイガーを猪木がガッチリとコブラツイストに捕えた。
 翌年4月4日の引退試合に向けてのファイナル・カウントダウンはこの第7弾で打ち止めとなった。

1997年(平成 9年) 5月 3日 大阪ドーム
アントニオ猪木 1−0 藤原喜明      
タイガーキング     獣神サンダーライガー
猪木(10分42秒 裸絞め)藤原

 IWGPを賭けて橋本が小川と再戦し、顔面蹴りで雪辱した大会。猪木はタッグマッチに出場。藤原に裸絞めで勝利した。


1997年(平成 9年) 7月 6日 札幌真駒内アイスアリーナ
アントニオ猪木 1−0 佐々木健介
タイガーキング     藤田和之 
猪木(9分34秒 体固め)藤田

 ファイナル・カウントダウンで対戦した猪木と佐山がタッグを結成。佐々木健介と初対戦した。
 健介のケサ斬りチョップ、一本背負いを受け、猪木がフラフラになりながらタイガーとタッチ。タイガーが若い藤田をキックで追い込み、猪木が延髄斬りで押さえ込んだ。


1998年(平成10年) 4月 4日 東京ドーム  引退試合
アントニオ猪木(4分9秒 グランドコブラ)ドン・フライ
 
 カウントダウンが始まって6年後、4月4日午後4時、遂に猪木引退試合の時を迎えた。最後の相手としてトーナメントを勝ち抜いてきたのは、小川ではなく、フライだった。
 グラウンドでフライを圧倒し、魔性のスリーパーで追い込む。さらにマウントパンチを見舞い、強烈な顔面蹴り。延髄斬り、弓を引くストレートで、フライは戦意喪失。最後はコブラツイスト。そのままグランドコブラに移行して、ファイナルマッチを締めくくった。

通算成績(新日本プロレス旗揚げ以来)  
 シングル  612勝 41負 50分 
 タッグ  1466勝104負130分