闘いの原点

1960年(昭和35年) 9月30日 台東体育館  デビュー戦
大木金太郎(7分6秒 逆腕固め)猪木完至
 
 同年春ブラジルから帰国した猪木は、日本橋浪花町の力道山道場での5ヶ月のスパルタ教育に耐え、デビューを果たした。相手は昨年11月にデビューしていた先輩で実力者の大木金太郎。力道山道場では新人に派手な技を教えておらず、猪木に勝ち目はなかった。
 試合は基本に忠実なグラウンドレスリングでスタート。猪木はヘッドロックスローを連発したが、大木が十八番の頭突きを繰り出すと大木のペースとなる。最後は逆腕固めを決められ、ギブアップするしかなかった。

1961年(昭和36年) 5月25日 富山市体育館  馬場との初対決
馬場正平(10分0秒 羽交い絞め)猪木完至
 
 同日入門、同日デビューを果たし、共に将来を期待された両者の直接対決はなかなか実現しなかった。ようやく実現した初対決は、第3回ワールドリーグの前座試合15分1本勝負で行われた。
 まだ両者ともにこれといった得意技はなく、体が大きく、パワーで勝る馬場が猪木を上回り、力任せの羽交い絞めでギブアップを奪った。
 これを機に両者の対決は解禁され、馬場が7月に初渡米するまでに6度、38年3月に帰国し再渡米するまでに10度対戦しているが、猪木の0勝16敗に終わっている。
<猪木vs馬場 全シングル対戦成績>

1962年(昭和37年) 5月 3日 鹿児島県体育館  第4回ワールドリーグ公式戦
ルー・テーズ(1R4分45秒 体固め)猪木完至
 
 猪木は19歳、キャリアは1年7ヶ月余。対するテーズは46歳で無冠だったが、まだまだ全盛期の強さを維持していた。
 猪木が何を仕掛けても通じず、最後はテーズのバックドロップと並ぶ必殺技のパイルドライバー(現在のパワーボムの原型といわれる技)に沈んだ。
 ワールドリーグ戦は8分3Rという形式で、日本人と外人が対戦するシステムだった。若手ながら日本プロレスの看板シリーズに抜擢された猪木は、多くの超大物外人レスラーと対戦した。
<第4回ワールドリーグ公式戦 猪木全戦績>

1963年(昭和38年) 3月23日 蔵前国技館  第5回ワールドリーグ公式戦
サンダー・サボー(3R2分0秒 体固め)アントニオ猪木
 
 20歳の猪木は昨年に続き、馬場、大木らと共に第5回ワールドリーグ戦に出場。再び超大物外人レスラーと対戦の機会を得る。
 サボーはこの時55歳ながら、アマレスでオリンピックに参加、第30代NWA世界王者にもなった実力者。フロント・ネック・チャンスリー・ドロップを鮮やかに決めて勝利した。この技は後に猪木がアントニオ・ドライバーとして会得する。
<第5回ワールドリーグ公式戦 猪木全戦績>

1966年(昭和41年)10月12日 蔵前国技館  東京プロレス旗揚げ戦
アントニオ猪木(31分56秒 リングアウト)ジョニー・バレンタイン
 
 東京プロレスの旗揚げ戦で初めてメインのリングに立った試合である。まだ23歳、海外で修行は積んでいたものの日本のファンの間では「あの若手が・・・」としか思ってもらえなかった頃である。しかし「これぞストロング・スタイルの原点」として今でも語り継がれる名勝負を展開した。
 「金髪の妖鬼」と呼ばれ、当時、全米でトップレスラーだったバレンタインはスリーパーやエルボースタッブで猪木を責めたてる。猪木も水平チョップ、そしてこの日初めて見せた弓を引くパンチで応戦。最後はアントニオ・ドライバーの連発でリングアウト勝ち。

1966年(昭和41年)10月25日 宮城県スポーツセンター  USヘビー級選手権
アントニオ猪木(1−1)ジョニー・バレンタイン
1.猪木(30分15秒 コブラツイスト)バレンタイン
2.バレンタイン(23分30秒 リングアウト)猪木 
3.60分時間切れ引き分け             

 東京プロレスではUSヘビー級王座を巡って、バレンタインと熱戦を繰り広げることになる。王者バレンタインに猪木が初挑戦した試合は60分引き分けに終わり、王座奪取はならなかった。
1966年(昭和41年)11月19日 大阪球場特設リング  USヘビー級選手権
アントニオ猪木(2−1)ジョニー・バレンタイン
1.猪木(0分15秒 体固め)バレンタイン    
2.バレンタイン(17分55秒 腕固め)猪木   
3.猪木(7分55秒 コブラツイスト)バレンタイン

 大阪球場に約8千人の観衆が集まった。バレンタインは阿部修レフェリーを拒否して、ラッキー・シモノビッチに特別レフェリーを依頼しての王座戦となった。猪木はゴングと同時にラッシュし、水平打ちの連打からバックドロップ、そしてネックブリーカードロップで先制のフォールを奪った。2本目は場外乱戦からリングアウトで敗れるが、3本目はコブラツイストでギブアップを奪い、王座を奪取した。


1966年(昭和41年)11月22日 大田区体育館  USヘビー級選手権
アントニオ猪木(2−1)ジョニー・バレンタイン
1.バレンタイン(19分55秒 腕固め)猪木   
2.猪木(8分55秒 コブラツイスト)バレンタイン
3.猪木(9分20秒 体固め)バレンタイン    

 王座を奪われたバレンタインがリマッチを要求し、猪木も応じた。ベルト奪回の執念で、1本目はバレンタインが攻め、ブレーンバスターと呼ばれていたエルボーバット攻撃で先取。2本目は猪木が反撃し、コブラツイストでタイに。最後はアントニオドライバーで初防衛に成功した。闘い終えた2人は互いの健闘を称えながら抱き合った。


1968年(昭和43年) 4月20日 福島県立体育館
アントニオ猪木(1−1)キラー・コワルスキー
1.コワルスキー(22分51秒 体固め)猪木   
2.猪木(13分5秒 コブラツイスト)コワルスキー
3.45分時間切れ引き分け            

 日本プロレスに復帰した猪木は、馬場と並ぶエースとして、BI砲でインタータッグ王座を獲得したが、馬場に次ぐ2番手の印象は拭えなかった。第10回ワールドリーグでの活躍を期して、優勝候補の大物コワルスキーと対戦。互角に渡り合った。
<第10回ワールドリーグ公式戦 猪木全戦績>


1969年(昭和44年) 5月16日 東京体育館  第11回ワールドリーグ決勝
アントニオ猪木(17分45秒 卍固め)クリス・マルコフ
 
 第11回のワールドリーグは公式戦を終了し、猪木、馬場、ボボ・ブラジル、クリス・マルコフの4選手が6勝1敗1分けで並び、決勝トーナメントが行われることとなった。日本人同士の対決を避ける時代で、クジにより、馬場対ブラジルが決定し、時間切れ引き分けに終わった。これにより第2試合の勝者が優勝となることが告げられた。
 マルコフのラフファイトにより、猪木は額から流血しながらも、マルコフをコブラツイストで捕え、ロープに逃げたマルコフをリング中央に引きづり出し、卍固めで勝利した。猪木が遂に馬場に肩を並べた瞬間である。
 これまでの猪木はどちらかというと技巧派というタイプだったが、この試合では喧嘩ファイトを展開。「魔性の闘魂」の原点といわれる。
<第11回ワールドリーグ公式戦 猪木全戦績>

1969年(昭和44年)12月 2日 大阪府立体育館  NWA世界ヘビー級選手権
ドリー・ファンクJr(60分時間切れ 引き分け)アントニオ猪木
 
 26歳の若さでNWA世界王者となったドリーの初来日で、猪木のNWA王座初挑戦の試合。猪木は前日にドリー、ハリーレイス組のアジアタッグ王座挑戦を退けたが、左手中指を骨折しており痛み止めの注射を打ち、テーピングをして試合に臨んだ。
 クリーンファイトから場外乱闘まで、激しい攻防の末、猪木がコブラツイストでドリーを捕えたが、時間切れのゴングが鳴った。

1970年(昭和45年) 7月28日 横浜文化体育館
アントニオ猪木(2−1)テリー・ファンク
1.テリー(11分0秒 体固め)猪木
2.猪木(4分5秒 体固め)テリー 
3.猪木(4分16秒 反則)テリー 

 NWAワールドチャンピオンシリーズに王者ドリーが実弟のテリーを伴って来日。猪木とテリーのたった1度だけのシングルマッチが実現した。
 若く荒っぽいテリーがラッシュしてテキサススープレックス(人間風車)で先取。波に乗るテリーを冷静に受け流し、リバーススープレックスで切り返してタイに。最後はテリーが反則暴走した。


1970年(昭和45年) 8月 2日 福岡スポーツセンター  NWA世界ヘビー級選手権
ドリー・ファンクJr(1−1)アントニオ猪木
1.ドリー(30分38秒 体固め)猪木
2.猪木(7分4秒 原爆固め)ドリー 
3.60分時間切れ引き分け      

 もう一つのNWA世界戦といわれ、試合内容は初挑戦時と大きな違いはないが、当時のNWA王者からフォールを奪ったこたに価値があるとされている。
 ドリーとは意外な名勝負を展開したが、これが両者の最後のシングルマッチとなった。
1971年(昭和46年) 3月 6日 群馬県スポーツセンター
アントニオ猪木(2−1)ミル・マスカラス
1.マスカラス(14分19秒 体固め)猪木   
2.猪木(4分13秒 コブラツイスト)マスカラス
3.猪木(5分3秒 リングアウト)マスカラス  

 ミル・マスカラスの初来日でたった1度のシングルマッチが実現した。マスカラスはシリーズ人気を独占し、シリーズ終盤にルチャリブレ殺法とリズムの合う日本人メインイベンターの猪木と対戦した。
 フライングクロスアタック、トップロープからのダイビングボディープレスで、マスカラスが華麗に1本を先取。密着しての攻防となった2本目は猪木がコブラツイストを決め、最後は場外での攻防からリングアウト勝ちを納めた。試合後、マスカラスは潔く猪木の右手を高々と上げた。


1971年(昭和46年) 5月19日 大阪府立体育会館  第13回ワールドリーグ決勝
アントニオ猪木(21分20秒 両者リングアウト)ザ・デストロイヤー
 
 第13回ワールドリーグは、日本人は猪木と馬場、外人はブッチャーとデストロイヤーが同点で首位となった。第11回と同じケースで抽選により、猪木とデストロイヤーが第1試合で対戦した。
 当時のデストロイヤーは「白覆面の魔王」と呼ばれ、凶器入りの頭突き、急所攻撃などを得意としたが、この試合はクリーンにファイト。デストロイヤーの足四の字固めが決まったまま、両者はリング下に転落。そのままリングアウトとなった。
 第2試合で馬場がブッチャーを下して2連覇を達成。猪木は馬場のインター王座への挑戦を表明した。
<第12回&13回ワールドリーグ公式戦 猪木全戦績>

1971年(昭和46年) 8月 5日 愛知県体育館  UN選手権
アントニオ猪木(2−1)ジャック・ブリスコ
1.ブリスコ(21分2秒 体固め)猪木    
2.猪木(7分6秒 原爆固め)ブリスコ    
3.猪木(1分37秒 コブラツイスト)ブリスコ

 日本プロレス復帰後の猪木の代名詞となったUN王座の防衛戦。ブリスコは42年11月以来3年8ヶ月振りの来日だったが、その間の成長ぶりは目をみはるものがあった。それでも猪木は自信満々で勝負に挑んだ。
 1本目は不覚を取ったが、2本目は原爆固め、3本目はコブラツイストで2度目の王座防衛を果たした。


1972年(昭和47年) 3月 6日 大田区体育館  新日本プロレス旗揚げ戦
カール・ゴッチ(15分10秒 体固め)アントニオ猪木
 
 日本プロレスを追放された猪木は、新日本プロレスを旗揚げ。日本プロレス、国際プロレスに外人ルートを押さえられ、外人レスラーのブッキングは師と仰ぐゴッチに頼るしかなかった。そしてメインは猪木とゴッチ自身の対戦となった。
 ゴッチが、当時48歳だったことを考えると信じられないような強さであった。対する猪木は旗揚げ準備の心労でコンディションが悪いのは明らかだった。
 原爆固めはロープに逃れたものの、卍固めも難なく外され、最後は見事なリバーススープレックスで、猪木は師匠の前に敗れ去った。

1972年(昭和47年)10月 4日 蔵前国技館  世界ヘビー級選手権
アントニオ猪木(27分17秒 リングアウト)カール・ゴッチ
 
 旗揚げ戦で師匠に敗れた猪木は、1年以内に必ずゴッチに勝ってみせると誓う。ゴッチは猪木の再度の挑戦を受け、ゴッチが持つ伝説のチャンピオン・ベルトを賭けた。レフェリーはルー・テーズが務め、東京12チャンネルが放映した。
 激しいバックの取り合い、場外にもつれ、ゴッチはジャーマンを仕掛けたが、猪木が体を回転して自爆。リングに滑り込んだ猪木が勝利した。師匠超えを果たし、幻の世界チャンピオンベルトを手にした。