【見沼通船堀−鈴木家住宅】
(みぬまつうせんぼり−すずきけじゅうたく)
 
芝川に架かる八丁橋から少し東浦和駅方面に戻ったところに、運河の通船権を幕府から与えられた鈴木家の住宅があります。国の史跡にも指定されています。

鈴木家住宅
写真

【歴史】

享保12年(1727)、鈴木家は高田家とともに井沢弥惣兵衛為永に従って、見沼干拓事業に参加しました。享保16年の見沼通船堀の完成と同時に、鈴木、高田両家は幕府から差配役に任じられ、江戸の通船屋敷で通船業務をつかさどり、八丁堤などには通船会所を持っていました。
鈴木家は、各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの船割りを行い、文政年間以降は八丁会所において船割りにあたり、住まいも八丁に移しました。
現在残る鈴木家住宅は、この頃の建立になり、見沼通船堀の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物です。

(鈴木家住宅の掲示板から)
 

【歴史】
「八丁堤」

八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤である。この堤は、長さが八町(約870メートル)ほどあるのでその名がつけられた。
徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽し、利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池をつくるなど関東地方の治水事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。
寛永六年(1629)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八丁堤を築き灌漑用水池をつくった。その面積は1200ヘクタールに及ぶ広大な溜井であった。この溜井は、下流地域221か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと氾らんしたり、旱ばつのときは水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保十二年(1727)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。
また、この八丁堤は寛永六年に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部でもある。

(八丁橋の掲示板から)

 
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