【大間木氷川神社】
(おまぎひかわじんじゃ)
 
東浦和駅を降りて、駅前の赤山街道を左に進み、一つ目の信号を右に曲がります。
道なりに150m位進むと、左手に鳥居が見えます。ここが、大間木氷川神社です。
大間木氷川神社は、江戸時代前期の建立といわれていますが、残念なことに1993年(平成5年)の不審火で本堂は焦げてしまいました。
現在、本堂は完成し、外回りの工事を行っていました。(平成9年3月1日)

 
大間木氷川神社
写真写真

 
【歴史】
「赤山街道」

赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永六年(1629)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道であった。街道の起点は与野市あたりと考えられ、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。
伊奈氏は、清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んだことから伊奈氏を称した。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石を領し、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。
三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し、赤山に陣屋を移した。忠治は治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永六年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手した。
現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。

(大間木氷川神社の掲示板から)
 

【歴史】

浦和市指定有形文化財(建造物)「大間木氷川神社本殿」
この本殿は、「神社明細帳」には、寛文七年(1667)、武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したとある。さらに、平成七年の修理の際、寛文七年二月、氷川大明神一宇を造立した旨が記された棟札が見つかり、この地での建立時期を明らかにすることができた。
本殿は、一間社流造り、屋根、旧・こけら葺き(現・こけら葺き形銅板葺き)で、桁行2.56メートル、梁間2.45メートルの身舎に奥行1.96メートルの向拝がつく。土台上に立ち、身舎柱は円柱(縁より下は八角形)で、長押、頭貫、腰貫で固め、柱上は連三斗組となる。中備は蟇股で、正面は鳳凰、左右は牡丹の彫刻である。柱間は、正面が幣軸に板唐戸、他の三面が横嵌板となる。正面および両側面は浜縁がめぐり、脇障子、高欄がつく。妻飾りは、虹梁・太瓶束式である。向拝柱は、大面取りの角柱で、身舎柱とは海老虹梁で繋がれている。向拝柱には、絵様木鼻のある水引虹梁を架し、柱上連三斗組、中備は蟇股で、竹に虎の彫刻がある。正面に五級の木階を設け、向拝柱の前面に大床を張る。軒は二重の繁垂で、飛軒垂は先端に反り増しが見られる。
平成五年七月、拝殿の火災で罷災し、大きく焼損したが、平成七・八年にかけて浦和市の補助事業として根本修理を施し、寛文期の姿に復した。
この本殿は、武蔵国一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構であり、建立年代を明らかにし、規模大きく、意匠も優れた建築として、きわめて保存価値が高いと言える。

(大間木氷川神社の掲示板から)

 
【BACK】 【詳細地図A】 【NEXT】
 
見沼たんぼの散策スポットへ ホームページへ