【中山神社】
(なかやまじんじゃ)
 
県道浦和岩槻線を北浦和方面に進み、バンビ時計バンド前のバス停から一つ目の信号を右に曲がります。そしてちょっと行った一つ目の角をまた右に曲がっていくと、中山神社にでます。
中山神社は別名、中氷川神社とも言われ、父が大宮市の氷川神社、母が浦和市の氷川女体神社で、中山神社は王子社となります。
不思議なことに三社は一直線上に位置し、中山神社は、ほぼ中央にあります。冬至の日には太陽は氷川女体神社の真上から昇り、夏至の日、太陽は氷川神社の真上に沈むそうです。

 
中山神社
写真写真

 
中山神社旧社殿
写真

 
【歴史】
中山神社

中山神社は、かつて中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守である。創建を人皇十代崇神天皇の御代二年と伝えられる古社である。明治四十年七月、神社合祀の際に社名を現在の中山神社に改められたが、今でも通称は「中氷川神社」で通っている。「中氷川」の由来は一説には、見沼に面した高鼻・三室(浦和)・中川の地に氷川神社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀り、当社が高鼻(男体)、三室(女体)の中間に位置したところから付けられたという。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康から社領十五石の御朱印を賜った格式のある神社である。
当社の祭礼の中でも、毎年十二月八日に行われた鎮火祭は特に有名で、焚き終わった炭火の上を素足で渡り、無病息災及び火難がないよう祈願するものである。ただし、近年は事情によりこの行事は中断している。
現社殿の裏側に旧社殿が保存されているが、これは桃山様式をもつ市内最古の建造物として大宮市指定文化財となっている。

(中山神社の掲示板から)
 

【歴史】
大宮市指定文化財建造物「中山神社旧社殿」

中山神社は、古くは氷川社と称し大己貴命を祀る旧中川村の鎮守で、大宮市高鼻町の氷川神社と浦和市三室の氷川神社の中間に位置するため、中氷川神社とも呼び慣わされてきました。明治の終わりに山の山村神社などを合祀して現在の社名に改めました。境内では十二月八日に神事の「鎮火祭」が執り行われていましたが、現在は社殿前に建立された「御火塚」と記された小さな石碑がその名残を留めているにすぎません。この鎮火祭の火によって「中氷川」の氷が溶けてしまい、この地を中川と呼ぶようになったともいわれています。
旧社殿は、板張り床の外陣に至る階段を設け、祭神を安置する母屋前方の屋根を、角度を変えて軒先よりさらに長くして、反りを付した板葺の二間社です。また、社殿側面の床板には脇障子や端の反り返った欄干がついていた痕跡が見受けられます。このような造りを「流造り」といい、一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものを「見世棚造り」といい社殿のもとになる型です。この旧社殿は簡素な板葺きの「見世棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過渡期の建造物といえます。桃山期のものと考えられ、県内に現存する社殿でも古い型式に入り、市内では最古のものであり、建築学上大変貴重な資料です。

(中山神社の掲示板から)

 
【BACK】 【詳細地図D】 【NEXT】
 
見沼たんぼの散策スポットへ ホームページへ