大道橋から見沼代用水西縁沿いに北に進みます。すると、ちょっと行くと住宅街の中に入ってしまいます。 ここらあたりは、見沼田んぼの開発規制がかかる前に開発が進んだ地区で、もう田んぼというよりもただの住宅街です。 昭和54年当時の田んぼが虫食い状態のように宅地化されて行く様子が、そのまま残っているっていう感じです。 そして、住宅街を抜けてもうちょっと行くと、北袋河岸場跡にでます。掲示板がなければ河岸場跡があったなんてまったく気がつかないように、当時の面影はありません。 |
【歴史】 北袋河岸場跡
見沼代用水は、江戸時代中頃の享保13年(1728)に“米将軍”と呼ばれた八代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛のもと完成、見沼の新田開発が始まります。用水路は農業用水として主に利用されますが、享保16年に見沼通船掘(浦和市)が掘られ、当地域を流れる見沼代用水西縁、春岡、七里、片柳地区を流れる東縁と見沼の中央を流れる芝川とが閘門式の運河で結ばれることで、舟の航行が可能となり、農業用水が不要となる秋〜冬期は舟による物資の輸送、人の往来に利用されました。用水沿いの要所には、舟の割あて、積荷の監視、通船料を徴収する会所が置かれます。大宮市内では唯一北袋河岸に会所が設けられ、当地がその場所だといわれています。通行した舟は大きなもので長さ14m、幅2mもあり、米俵約200俵を積めたといいます。陸上交通の主役・大八車を大人1人が引いていくには3俵積みでしたので、舟一艘の輸送量がいかに多かったかがわかります。 明治時代後半に鉄道、馬車などの陸上交通が整備されると共に、舟の利用は徐々に少なくなり、昭和6年には舟歌にのって上下していた舟の姿を見ることができなくなりました。 〜お問い合わせは〜 大宮市教育委員会社会教育課 TEL:048−647−8268(直通) (北袋河岸場跡の掲示板から) |