南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第三章  「 南部 」 と 「 黒ん坊 」 ( 中 )


* ネル・アーヴィン・ペインター ( Nell Irvin Painter ) *


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 W・C・ハンディは後に 「 ブルースの父 」 として知られるようになった人だが、カレッジで教育を受けた音楽家であった。  アラバマ州生まれで1903年に或るミシシッピの列車の駅で疲れた一人の黒人が自らギターで伴奏しながら歌っているのを聞いた。  この曲はハンディにとって全く初めてというわけではなかったが−−この種の歌い方をアラバマで少年の頃聞いたことがあった−− その全体としての効果は異様に、また力強く彼の心を打った。  ゴスペル唱法同様、ブルースは古い何かであると同時に新しい何かでもあり、 20世紀の斬新さがアフリカ系米国人の古い伝統をまとったものと言える。  ブルースの発祥を追及して行くとアフリカにまで遡るとも言えるし、 同時に1902年までしか遡れないとも言える。 かつてある年老いたブルース演奏家が起源を探る質問に対して 「 ブルース? 最初のブルースなんてものは無いよ。 ブルースは常に在ったのさ 」 @1と言っている。

 蓄音機とレコードがない頃のブルースの初期の発展を辿る試みは、個人的回想に頼るか、 たった1枚作られた楽譜によるかでのみ可能であり、後者はたかだか、 黒人の民謡に対する不正確な判断基準として使える程度のものである。  ハンディが最初に作曲したブルースは1912年の 「 メンフィス・ブルース ( Menphis Blues ) 」 であり、 有名な 「 セントルイス・ブルース ( St.Louis Blues ) 」 はその2年後に発表されている。  まだ名前の分かっていない他の多くのブルースやゴスペル音楽の作者同様、 ハンディも北部に移って行った。 彼は1918年ニューヨークに落ち着き、作曲と黒人音楽史の著作を続けた。

 初期のブルースの歌は1920年までは録音されなかった。  この年、マミー・スミス ( Mamie Smith ) による "You Can't Keep a Good Man Down" や "This Thing Called Love" がニューヨークで発表された。  1920年代、古典的ブルースの有名な演奏家は、女性、とくにシッピー・ウォーレス ( Sippie Wallace ) ( テキサスのナイチンゲール )、 テネシー人のベッシー・スミス ( Bessie Smith )、およびマ・レイニー ( ブルースの母 ) の3人だった。  これらの古典的ブルースのスターたちは南部に生まれ育ったが、故郷を後にして先ず南部各都市に、 次いで北部の都市にと移って行かざるを得なかった。 彼女らの音楽はカントリーブルースと呼ばれるものとは違うものである。

 マ・レイニーは最初の偉大なブルース演奏家であり、彼女の人生の波乱と独特の芸術的才能の二つのゆえに、 今も思い出に残る人であった。 というのは、古典的ブルース演奏家として、 彼女は南部の田舎のブルース ( すなわちカントリーブルース ) の荒々しさと伸び伸びした点とを取り入れたのである。  20世紀初頭のカントリーブルースは 「 テキサスの 」 アルジャー・アリグザンダー ( Alger Alexander ) や、 「 ミシシッピの 」 ジョン・ハーと ( John Hurt ) や、「 盲の 」 レモン・ジェファソン ( Lemon Jefferson ) や、 チャーリー・パットン ( Charlie Patton ) などのような男たちのものだった。 彼等の地域ごとのスタイルには非常な差があったが、 ギターで自ら伴奏するカントリーブルースの歌手として、多くのテクニックを共通に持っていた。  彼等は裏声をたくさん使ったキシむような、擦れるような声を出した−−唸ったり、鼻歌を使ったり、ぶつぶつ言ったり、 叫んだりしながら、ベント音程やブルーノート*72を使った。 平手打ちをしたり、足を踏み鳴らしたり、自分の体を叩いたりすることにより、 これらの演奏者は自分自身の体やギターを打楽器にしてしまうのだった。

 古典的ブルースの歌手たちは、もっと洗練され抑制の利いた演奏者だったが、カントリーブルースの演奏家たち同様、 自分と聴衆とのあいだに体験の共有−−痛みの共有−−と言う絆を作り出そうと努めた。  ある一人のブルース歌手がマ・レイニーについての彼女の思い出を次のようにまとめている。

 おお主よ、マについては何も言わないでくださいな。 あの人には黄金の飾りが沢山ぶら下がってた。  マは大した人だったよ。 あの人ほどに 「 ヘイ・ボウ・ウィーヴィル 」 ( "Hey Bo Weevil" ) *74 と叫べる人はこの世にいなかったさ。  マのような人はいなかったよ。 誰もさ。 皆がやろうとしたのを聞いたけど、誰も出来なかった。  「 ヘイ・ボウ・ウィーヴィル 」 ああ結構だった。 何故ってボウ・ウィーヴィルは南部までやってきて何も彼も食い尽くそうとしてたんだ。  あの虫めは私らの食い物も何も彼も食い尽くしたもんだった。  「 ヘイ・ボウ・ウィーヴィル、おまえはすべてを食い潰してどこかへ行っちまった 」 って彼女は叫ぶんだ。  これには二つの意味が有ってさ。 あたしも結構頭の良い若い教養のある女だったからさ、 彼女がどっちのボウ・ウィーヴィルの事を言いたかったのか知ってるよ。@2

 米国の美の基準からすれば魅力のない事だが、マ・レイニーは黒い肌で肥っていた。 彼女のスタイルは旧式のショウビジネスの伝統に属する部類のものだった。 金歯をはめ、キラキラしたガウンに身をつつみ、 ダイヤの頭飾りをした。 レイニーは髪の毛を真っ直ぐに直し、白っぽい色の粉を体に塗ったが、 これは彼女や他の同様のスタイルを採用した婦人たちが白人になりたいと思っていたからではなかった。  レイニーの独自の人柄は黒人の文化に根ざしていたのだが、演技者としての彼女は富と美の印象を伝えようと努めたのだった。 高価な衣装は彼女の富をズバリ宣伝するものだった。 しかし、 女性美と言う事になると、何ともどっちつかずなものとされていた(し、今でもそう思える)。

 1920年代の米国では人口の大部分は白人だった。 金持ちは事実上全員白人だった。 そしてここでは、 よそと同様、金持ちに見えると言うことは美しく見えると言うことと同じと言って良かった。 加えて、 白人は美のイメージを作り上げ取り扱うにあたり、部分的には、黒人婦人の体の色と形を悪い例として用いた。  ブラックパワーとか、黒は美しいとかいう運動より2世代も前なので、殆どの黒人を含む米国人は、肌の白さを美と同一視していた。  数十年後彼女を真似した黒人のエンタテイナーたちと同じく、 マ・レイニーは黒人の民衆文化の泥臭さを保った黒人のイメージを作り上る一方では、 米国の美の象徴すなわち肌の白さと真っ直ぐな髪の毛とを採用したのだった。

 1920年代の古典的ブルースの歌手たちは南部を広く旅行したが、 音楽産業の要請に応じてシカゴやニューヨークでも録音を行った。 録音事業が北部に、後には西海岸に集中していたことが、 南部の芸術家たちの評判に長期的には影響を与えた。 ベッシー・スミスのようにニューヨークで録音した人たちが最も有名になった。  ベッシー・スミスは映画にさえ出演した。 彼女の高い評判は、彼女の特別な才能と南部人のファンとを反映し、 また、ニューヨークが全国的な情報媒体の中心として際立っていた事をも反映しており、 この点、シカゴで録音したマ・レイニーの評判とはまったく対照的である。

 特定人種用のレコード−−特にアフリカ系米国人向け市場のために生産されたレコード−−のお陰で、 古典的ブルースの歌手たちに全国的な聴衆が生まれたのだが、1920年代のブルースのスターたちは、 自分のバンドを引き連れて広く国中を旅行することもした。 1920年代中頃のマ・レイニーのピアノ伴奏者は、 奔放なトム或いはジョージャのトムの名で知られた、才能豊かなブルース弾きのトーマス・A・ドーシーであった。  彼は今日では 「 ゴスペル音楽の父 」 と言われている。

 ジョージャ州の片田舎に生まれたドーシーの父は田舎の説教師だった。  アトランタで成長するうちにブルースの多様な伝統や黒人の教会音楽と、 またビリー・サンデイ ( Billy Sunday ) のような白人の信仰復興運動者と出会った。 教会で若い時代を過ごした後、 ドーシーはブルースの世界に迷い込み、それから、1921年にまた宗教界に立ち戻った。 彼にとっての作曲の手本は、 霊歌の民謡的イメージや聖書の故事を、ドクター・ワッツ唱法の強烈な感情と結合させたあの "Stand by Me" のような愛唱曲を書いたフィラデルフィアの黒人牧師チャールズ・A・ティンドリ ( Charles A.Tindley ) であった。  ティンドリも歌の各節の第一行を繰り返すブルース的な楽句区切り法を初期には利用していたけれど、 この二つの偉大な黒人音楽の伝統を結び付けたことで知られるのはやはりドーシーである。  ブルースの音楽的しきたり−−特にリズムと楽器の伴奏−−を、 黒人のペンテコスタル派の宗教のドラマや感情と融合させたのはドーシーの偉大な功績である。  彼がゴスペル唱法の本家と認められたずっと後に、彼は 「 ブルースは私の一部だ。 私がピアノを弾くやり方だ。  私の作曲のやり方そのものだ 」 と言っている。@3

 1926年にドーシーは、彼がゴスペルソングと呼んだものの最初の一つ 「 あなたが救い主に会ったら私に会ったと言ってくれ ( If You See My Savior,Tell Him That You Saw Me. ) 」 を作った。  その歌を作るきっかけになったインスピレーションは病気と貧乏と言う個人的体験から彼に授かったのだが、 これはひと口にブルースインスピレーションと言われる典型的な体験である。 1932年に彼の妻と子供を亡くした後、 彼を襲った悲しみの中から、彼は 「 尊き主よ、我が手を執り給え ( Precious Lord,Take My Hand. ) 」を作った。  ドーシーがもし単に、その多くが黒人同様白人にも愛好された約千曲ものゴスペルソングを作曲しただけだったとしても、 彼は思い出に残る有名な人であり得ただろう。 ( 彼は 「 私が最善を尽くし切った時 ( When I've Done My Best ) 」、 「 主の御胸に我を隠し給え ( Hide Me in Thy Bosom ) 」、「 主よ、我を探し給え ( Search Me,My Lord, ) 」、 「 谷間には安らぎ有らん ( There'll Be Peace in the Valley. ) 」 その他多くを作った )

 しかしドーシーはゴスペルコーラスの創始者でもあったし、何人もの才能ある独唱者の優れた指導者でもあった。 彼は1931年に最初のゴスペルコーラスを組織し、 その翌年には彼の永年の協働者であったサリー・マーティン ( Sallie Martin ) と共にゴスペル聖歌隊および合唱団協議会を結成した。  ドーシーはまた、ゴスペル音楽出版社も作った。

 1910年代にドーシーはシカゴに移ったが、この事は1920年代に広く南部一帯を巡業する妨げにはならなかった。  しかし彼が中西部に腰を据えると、南部からやってきた彼の子分たちも北部に根拠地を置く傾向となった。  サリー・マーティンは1940年、50年代には彼女自身のゴスペルグループを持ち、 「 主のみそばを歩ませ給え ( Just a Closer Walk with Thee ) 」 を発表した。  ( マーティンは後にダイナ・ワシントン ( Dinah Washington ) と名乗ってリズムアンドブルースのパイオニアとして知られるようになった或る若いゴスペルピアニストを育てた )   マーティンはジョージャ州の小さな黒人入植地に育ち、成人後、若くしてアトランタに引っ越し、そこでホーリネス教会に出会った。  1920年代には彼女と夫と息子とはクリーヴランドに移り、さらにシカゴに移った。

 今日ではサリー・マーティンよりも有名なマヘリア・ジャクソン ( Majalia Jackson ) も、ドーシーのもう一人の仲間だった。  十代の彼女にとってのアイドルは古典ブルースの歌手ベッシー・スミスで、 ベッシーのスタイルを彼女は自身のゴスペルの演出に採り入れた。 ジャクソンは1927年にニューオリンズからシカゴに移住し、 30年代後半にはドーシーと合流したが、1937年、彼は特に彼女の為に 「 谷間には安らぎ有らん 」 を書いた。  40年代後半には、ジャクソンは録音で生活するようになり、これが彼女を世界的に有名にした。 ゴスペル音楽を捨てること無しに非黒人の聴衆を獲得できたという事実が、このジャンルがいかに魅力あるものであったかの証拠である。

 ドーシーと結んだ合唱団とマーティンのゴスペル演奏会はたちまち全国的な力を得た。 その原動力は南部か来たものだが、 その著名な演奏者の多くは中西部に住んでいた。 しかし、もう一つの黒人教会音楽の伝統は、南部にしっかり根をおろして動かなかった。  それはゴスペル四重唱である。 サンクティファイド運動が合唱によるゴスペル唱法の基礎を築きつつあったのと同じ時期に、 黒人たちは四重唱を洗練して、教会に根ざした一つの精緻なかたちの娯楽を作りあげたのであった。  多くの場合四重唱はすべて男声であり、良く合ったハーモニー、振り付けされた動作、配慮の行き届いた衣裳や身嗜みなどを売り物にした。

 サウスカロライナ州グリンヴィルに1929年結成されたディクシー・ハミングバーズ ( Dixie Hummingbirds ) は、 ゴスペルコーラスと関係はあるが別物の、南部黒人教会音楽の一形式が現れたことを示すものだった。  ゴスペルコーラスは殆ど聖歌隊の衣裳をつけた婦人が楽器の伴奏で歌うというものだったが、 ゴスペル四重唱は4乃至5人から成り、普通は全員男性だった。 そして、揃いの服を着て拍子を取るために指をパチンパチンと鳴らし、 当初は無伴奏であった。

 ゴスペル四重唱は1940年代に花咲き、ミシシッピのファイヴ・ブラインド・ボーイズ ( Five Blind Boys ) 、 ソウル・スターラーズ ( Soul Stirrers )、スピリット・オブ・メンフィス ( Spirit of Menphis ) などは1950年代まで人気があった。 彼等の嫌味なほど配慮の行き届いた衣裳や精力的な演技、 リーダーとこれをバックアップする歌手とのメドレーなどを用いたこのゴスペル四重唱は、 教会からも俗世間からも模範を取り入れて一つの娯楽形式を作り出したのだ。  念入りに仕立てたスーツと 「 コンクス 」 ( 薬で真っ直ぐに直した髪の毛 ) とは、 富と美とを表すマ・レイニー流のイメージの教会版と言える。 レイニーの場合と同様、ゴスペル四重唱の成功の秘密は、聴衆に、 このグループの人達は自分たちの悩みを知っているし共有しているのだと思わせてしまう演技を、 無意識のうちにやり続けられる彼等の能力にあった。

 合唱ゴスペル音楽同様、四重唱も殆どはアマチュアの水準のままだった。 歌手たちは、演奏者と聴衆との間の境界を取り払おうとして、 家族や友人たちを感動させ楽しませようと躍起になった。 アフリカ系米国人の音楽における呼び掛けと応答を用いることにより、 さらに歌手と聴衆が結ばれて、会場全体が一つになった。 ゴスペルコーラスやゴスペル四重唱の人たちも、そしてブルースの歌手たちも、 ( ついでながらカントリーミュージックの演奏者たちも ) ただ演奏するだけでなく、 彼等の音楽を通じて信仰告白し説教をしているかのように見えなくてはならなかった。

 悲しい事に、また皮肉なことに、ブルースが人生の悲劇を細かく描写したのに対し、 ゴスペルはこれと同じ悲しみを乗り越えた歓喜で空を舞うものであった。 リズム、音階、 声の出し方の特徴などにおいては密接な相互関係を持つ黒人の世俗音楽と教会音楽とは、 共に20世紀のアフリカ系米国南部文化と現代の人種関係を特徴づけた人種差別とから生まれ育ったものであり、 殆どの白人は北部人も南部人も、第二次大戦後人種間の障壁がくづれ落ちるまでは黒人音楽を無視していた。

 白人至上権主義と厳格な人種隔離があったものの、黒人音楽家と白人音楽家との間でお互いにメンバーを借り合うことは、 差別の激しかった南部ですら差支えなかった。 しかし聴衆のほうは20世紀になってだいぶ経ってからでも大いに区別されていた。  ポピュラー音楽分野での人種的絶対隔離を止めようという動きは、先ず1930年代に北部で始まった。  人種問題に柔軟性が増した一つの例は、「 スウィングの魂から 」 と題して1938年と39年にジョン・ハモンド ( John Hammond ) により行われたカーネギーホールでのコンサートシリーズであった。  これらのコンサートは黒人音楽家−−その多くが南部から来たブルース歌手、ゴスペルソンググループ、ジャズ演奏家など−−をニューヨークの白人音楽家たちに引き会わせることになった。 1950年代中頃までに、まだ南部の生活には差別が残っていたが、ブルースとゴスペル音楽は、 リズムアンドブルースやロックンロールやジャズと共に、米国の非黒人文化の中で地歩を占めていった。  1960年代までには、それまで 「 黒人聴衆向け 」 の巡業で演奏していたミシシッピのB.B.キング ( B.B.King ) のような演奏家が、白人聴衆の前で演奏するようになった。  ミシシッピ生まれの説教師の父譲りのゴスペルの音に満ちた声とスタイルを持つエイリス・フランクリン ( Areth Franklin ) は、 世界的スターとなった。 一方、テンプテイション ( Temptation ) やスピナーズ ( Spinners ) のようなグループは、 ゴスペル4重唱の音と特徴を取り入れた。 エルヴィス・プレスリー ( Elvis Presley ) のような演奏家も 「 尊き主よ、 我が手を取り給え 」 を始めとするドーシーのゴスペルソングを録音したし、あらゆる種類のアメリカポピュラー音楽は、 ゴスペルの楽句区切り法の迫力とドラマに満ちたアフリカ系アメリカ人のリズムを使用した。  1950年代以降は南部黒人音楽が純粋に娯楽として全米化され広まっていった。

 前世紀半ばには黒人と南部だけのものと言ってよかった音楽を、北部的にまた都会的に直したこういう音楽の恩恵を、 ロックからカントリーミュージックに至るまでの今日のアメリカのポピュラー音楽は受けていると言える。  今日のポピュラー音楽は、そのアフリカ的リズムを、ミシシッピからだけではなくジャマイカ経由でも取り込んでいるが、 南部生まれのブルースとゴスペルのスタイルの影響は今なお顕著である。 何百万人もの黒人が南部以外の都市に流入したことにより、 これらの他の土地が今やアフリカ系アメリカ文化の地図において非常に目立つ場所になっている。  ラップ*75 やディスコのような新しい黒人音楽の形式は、録音された今世紀前半のポピュラー音楽に比べると、 南部の恩恵を比較的少ししか受けていない。 同時に人種上の障壁が衰退したので、白人が黒人音楽の演奏家に成ることも一層容易になった。
            
公民権闘争の時代

 米国の白人 ( と英国人*76 ) が南部の黒人音楽を発見し、それを自分たちの為に利用しているのと時を同じくして、 ある他のことが起りつつあった。 アフリカ系米国人たちが、 人種差別が最悪だった時代に説教師や彼等の信者たちの共同生活体を守ってきたあの臆病さと来世主義*77 とを脱ぎ捨てようとしていたのである。  米国の黒人に影響を与えていたことの多くが、第二次大戦中および戦後に変わった。 労働組合の組織化、 ワシントンへの行進の運動、軍務従事と軍での差別廃止、南部からの黒人の流出の増加@4などである。

 有色人種国家が独立して来、またソ連が米国は人種差別をしていると批判するという戦後の世界においては、 米国にとっての歴史的必然と冷戦とが白人至上権主義*83のような偏狭な習慣に水をさした。  分水嶺的な意味を持つ1954年の米国最高裁の決定 ( ブラウン対教育委の係争*78 ) に対しては、米国内のみでなく、 海外の政治的な考えが影響を与えている。 この結果、公立学校における人種差別は崩され、 南部の公的生活における人種差別主義の終結に灯が点った。  南部諸州が黒人投票者の大多数から選挙権を剥奪する手段となっていた白人予備選挙制度*79 と投票税*80 とを禁止するための他の決定も成立した。  しかし、これらの変化も、南部の黒人たち−−彼等の大部分は教会、 とりわけあのゴスペル聖歌隊とゴスペル4重唱という素晴らしい伝統を育んだ教会に行っていた−−が、 人種的抑圧に抵抗して街頭にデモに出るまでは、南部では明確な形をとって来なかった。

 1950−60年代の公民権運動は南部の社会を根底から変え、黒人が黒人であることの在りように対して大きな影響を与えた。  この運動は、一方では南部の黒人に活を入れるとともに、白人至上権主義によって作られた人種的結束を利用したし、 とりわけ、南部キリスト者指導会議 ( Southern Christian Leadership Conference,SCLC ) は 「 黒ん坊 」 というきまり文句の中に内在していたまとまりを、 変化を求める強い力に作り上げることに成功した。 しかし他方では、公民権運動が人種差別主義の政治的、経済的、 社会的構造を取り除くのに成功した事により、厳格に人種にもとずいた黒人の結束がかえって弱まるという面も有ったのである。

 近代的な公民権運動は1955年、 ナンバープレートにディクシーの魂 ( Heart of Dixie )*81 と書いてあるあのアラバマ州のモントゴメリ市で始まった。  バス運転手の黒人女性に対する手荒な取扱い、公共輸送機関におけるジムクロウ*26 用の座席配置の融通の無さ、 黒人のための職の不足などに対する抗議で始まったモントゴメリのバスボイコットは1年続いた。  このバスボイコットにより一つの組織が結成され、これが後にSCLCとなって、 一人の若いアトランタの説教師マーチン・ルーサー・キング ( Martin Luther King,Jr. )*81A を全国的な注目の的に押し上げることになった。

 キングの才能は多様であった。 彼は整然と明瞭に話をすることができたし、教育もあったし、 南部黒人の宗教的文化特有の言葉遣いにも堪能だった。 自分は無力だと思っていた人々を勇気づける彼の能力は実にユニークだった。  組織化と勇気づけによって、キングおよびSCLCは教会に通う南部黒人大衆を街頭や郡の役所に引っ張りだし、 南部の人種差別の現状に抗議させた。 この抗議では−−その運動全体が実際に−−南部黒人教会の音楽を利用した。

 貧しい南部黒人たちを選挙人として登録しようとする試みこそ、 学生非暴力調整委員会 ( Student Nonviolent Coodinating Committee,SNCC ) により指導された組織の連合体の特別の任務であった。  この委員会はSCLCのエラ・ベイカー ( Ella Baker ) の命により、彼女の母校のノースカロライナ州のラリーのショウ ( Shaw ) 大学で開かれた1960年の会議で結成されたものである。  1964年の自由の夏 ( Freedom Summer ) に参加した ( 現在は中年になっている ) 北部、南部の学生達は、 SNCCの 「 運動 」 は、白人至上権主義者たちが犯そうと考えていた殺人的暴力により、無力化されてしまったと考えている。

 SNCCの奉仕活動家にとって、ミシシッピ州のフィラデルフィア*82 の近くで3人の公民権運動家が殺された1964年の事件は、 白人至上権主義者たち*83 が黒人の公民権を先手で妨害するためにはどんな事でもするという顕著な実例であった。  自由の夏は多くの学生達を惹きつけた。 フィラデルフィアの町での被害者のうち、2人は北部の白人だったが、 このために報道機関が国中にこの殺人を伝えることになった。 ただし、白人系の新聞やテレビは、 それ以前の数十年間の投票権を求める運動の中で殴られ殺された何百人もの南部黒人の事は一切無視してきたのであった。

 南部黒人大衆−−教会に行きゴスペル音楽を歌う人々や教会に行かずブルースを歌う人々−−にとって、 SCLCが多年に亘って組織し統率してきた運動は 「 自由の夏 」 よりももっと大切なものであった。  ジョージャ州のアルバニ、アラバマ州のバーミングハム*86Aとセルマ、テネシー州のメンフィスなどの都市で、 SCLCは大衆抗議運動を組織し、伝統に固執するエリートたちから権力をもぎ取ろうとして、 また、黒人が仕事に就く機会を増やそうとして闘った。

 SCLC、SNCCおよびすべての公民権運動は、連邦議会に働き掛け、1960年代中頃の画期的諸立法を通すよう陳情したが、 議員たちにとってもっと直接的でセンセーショナルな刺激になったのは、1963年のバーミングハムでの非暴力闘争であった。  これに更に、同じ年に、公民権運動組織、宗教組織、労働運動組織などの連携で指導された、大規模で平和的で人種の壁を越えた、 仕事と自由を求めるワシントンへの大行進というのがあって、これが上記のキャンペーンを支援する形となった。 1963年までには、 SCLCは、全国テレビに恐ろしい光景を映されていながらその事には、全く無頓着だった白人至上権主義者たちの暴力行為を、逆手にとって利用するという知恵を持つようになっていた。  SCLCにより巧みに操作されたテレビ電波は、くっきりと対照的な映像を報じた。  すなわち、教会に通う非暴力の黒人抗議者達が行進し、祈り、永年にわたって彼等が創り上げた、 強く人の心を打つゴスペル音楽を歌っている。 一方、彼等の敵対者たちは、立ち上がったクリスチャンたちに対して、 ただ彼等の肌の色が違うという理由だけで通常の公民権を与えることを拒む、不合理で残忍な頑固者に映った。  平和愛好的な黒人の主張の正当性と、白人至上権主義者たちの暴力の醜さとが連邦議会に対する圧力となって、 1964年の公民権法 ( Civil Rights Act ) の通過となった。 この国の歴史における公民権立法の中では最も広範囲に及ぶものであった。

 SNCCの奉仕活動家たちは、ミシシッピ州で貴重な活動をした。 すなわち、黒人たちに選挙権の登録をしてあげ、自由学校を設立し、 また、抑圧された人々をそれまでは禁止されていたコミュニティの色々な活動に参加させたりしたのである。  1963年に公民権運動の諸組織が合同して組織した非公認の自由投票においては、 公民権を剥奪されていた8万人ものミシシッピの黒人達が、これまた非公認のミシシッピ自由民主党 ( MFDP ) に票を投じ、 これによってルー・ヘイマー ( Lou Hamer ) の率いる派遣委員団が1964年の民主党の大統領候補指名大会に送り込まれることなった。  MFDPは大会で大統領選挙人団を得る事には成功しなかったが、この自由の投票は、 黒人たちは投票なんかに関心が無いのだと言い張ってきた白人至上権主義者たちの論法が全くのでっちあげであったということを、 一点の疑いもなく証明した。 次の年には、SCLCは、アラバマ州のセルマ(Selma)*83A からモントゴメリまでの、 選挙権を求める行進を組織した。 この行進は警察の暴力を挑発してしまい、これが全国TVで報じられ、この行進が終了するまでに、 セルマでのこの抗議は全国的な支持を獲得した。 そして投票権を求める行進に参加しようと、国中から有名人達が飛行機で駆けつけた。
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訳者注

@1: Eileen Southern著 「 The Music of Black American:A History 」 第二版 ( New York,1983 ) 330 ページに引用されている
@2: Linda Dahl著 「 Stormy Weather : The Music and Lives of a Century of Jazzwoman ( New York,1984 ) 105ページに引用されている
*74 ボウ・ウィーヴィルとは当時綿花畑を時折襲った害虫の事であるが、ここでは象徴的に、 黒人を収奪した白人をも指していると考えられる
@3: Tony Heilbut 著 The Gospel Sound : Good News and Bad Times ( New York,1971 ) 56頁 
@4:1940年から1950年の間に 1,599千人もの南部黒人が南部を去った。 1950年から1960年の間には1,473千人、1960年から1970年の間には 1,380千人であった
*75 楽器演奏をバックに韻をふんだ歌詞を、歌わずに早口にリズムに乗り 「 語る 」 形式の音楽
*76 あのビートルズも黒人音楽の影響を受けた
*77 黒人達は現世が苦しいだけに死後の来世に期待した
*78 ブラウン対カンサス州トペカの教育委員会の裁判で、1954年7月、 最高裁は公立学校における黒人と白人との共学を禁止する南部諸州の法令を違憲とした。 これを受けて、58年、不十分なものとは言え、 公民権法が議会で成立した。  有名な同年9月のアーカンソー州リトルロック市の高校事件では、 政府は積極的な連邦軍隊の派遣により黒人の公民権擁護の姿勢を示した
*79 white primary と言うこの制度は、連邦政府が黒人も大統領選挙に参加させよと言った事への抜け道として、 予備選挙の一番最初のステップを白人だけで行ってしまうこと。 そうすると候補者を選ぶ人も候補者もすべて白人となる。  ここまでは有志の集まりである政治政党の自由であるとする。 そうすると全国民参加の最終一般投票の段階で黒人が参加しても、 黒人が大統領に選ばれる事などないことになる
*80 税金を治めないと参政権を与えないといD:\homepage\collection1.htmlう投票要件としての人頭税。  貧乏人ばかりの黒人は必然的に選挙から締め出される
*81 Dixie とは南部諸州の俗称、Dixieland とも言う。 米国の多くの州では自動車のナンバープレートにその州が誇る言葉を書く。  イリノイ州は Land of Lincoln 、ノースカロライナ州は First in Flight など。 詳しくはこれを参照
*81A 26才でモントゴメリーのバスでの黒人差別撤廃の指導でスタートしたバプチスト派のM.L.キング牧師 ( 1929-1968 ) は、 非暴力、白人との共闘という路線でワシントン大行進を始め多くの公民権運動を指導し、1964年にはノーベル平和賞を受けた。 1968年4月4日テネシー州メンフィスで暗殺された。 毎年1月第3月曜日は、キング牧師の誕生日として米国では祝日とされるが、 各州や各企業の考え方により、必ずしも休日とはならない。 この辺に、まだ微妙なものが残っている米国である
*82 同州中東部の人口1万以下の町
この事件はその後 「 ミシシッピ・バーニング 」 という題名でジョエル・ノーストにより1988年小説化され、 次いで映画化もされた
*83 白人至上権主義者 ( white supremacist ) というのは、白人は本来黒人より優越しており、 彼等を統治すべきであるという信念、理論を持つ人達の事
*83A アラバマ州モントゴメリの西約60kmにある都市。  キング牧師の指導で1965年3月21日、最初に3,200人で出発した行進は25日到着時25,000人にも膨れ上がった


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