南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第三章  「 南部 」 と 「 黒ん坊 *54 」 ( 上 )


* ネル・アーヴィン・ペインター ( Nell Irvin Painter ) *


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人種関係の言い回し・実生活での言い回し*55

 1960年代以前に生まれたアメリカ人にとって 「 南部 」 という言葉そのものが、 人種と言う巨大で中心的な問題の周辺に普通は焦点を合わせてしまい、無知と暴力という概念に直結してしまう。  そういう意味が含まれてしまうのは、この地方の長い人種抑圧の歴史に因るもので、近代になると、 この抑圧は人種差別というシステムに要約された。 人種差別が合法的に行われていた時代には、それが終始永久に続くように思えたが、 実際にはそれは1890年頃から1970年代初頭までであり、我々が今日南部独特だと考えることは、殆どこの時代に決ったのである。  人種差別は白人黒人両者に大きな恐怖、偽善、屈辱をもたらしたので、今日、南部人の殆どは時代が変わったことを喜んでいる。  差別の廃止によって、思想と交際の自由の拡大および身元確認*56 についての柔軟さが新しく生まれた。  南部人たちは、もう、黒人か白人かという相反する二つの範疇に容赦なく自分を分類して見なくてもよくなった。  差別の廃止は、白人が新しい、より率直な友情を黒人との間に築く事を可能にしたし、 一方黒人は地域の歴史の中で彼等の権利を要求しつつある。

 この様なことが差別が廃止された南部の特質だと十分に言えるのなら、この地域は本当に太陽が一杯と言えるだろう。  しかし過去というものは忘れられないし、無しで済ます訳にも行かないから、取り上げなくてはならないことがまだ沢山残っている。  一方の 「 南部 」 と他方の 「 黒ん坊 」 との間の対照を含みながら、因習的な考えと人間とはいつまでも続いている。  この論文では、これらの本質、即ち人種関係の言い回しについて、雑貨屋的に主なことは何でも論じ、 次いで南部の黒人たちの実生活の独創性に触れることにしよう。
        
「 南部 」 と 「 黒ん坊 」 と人種についての言い回し

 人種差別の時代に作られた南部についての論文集の中には、黒人に関するものは一つ----たった一つしか含まれないのが普通だった。  非白人に対して一回だけ配慮した後は、南部社会の種々の様相についての突っ込んだ議論はすべて、南部とは百合のように白いかの様に、  また南部人とは白人の事だと定義されているかの様に、読めるものばかりである。 最近は改善されたものの、 黒人という単一集団の住む南部という思い込みがいつまでも残っていて、南部の文学を語るときに黒人の作家を含めたり、 南部の社会思想史の中に黒人の研究者の業績を含めたりするのは難しいという状態が続いてきた。  この論文集の中で、筆者は南部についての旧い考え方と新しい考え方の両者に対する賛否の立場をはっきりしないでおく事にする。  一つの論文では、筆者は 「 黒ん坊 」 と言う旧いワンパタンな因習的呼び方で片付けられててしまった南部黒人について、 この本で言うべきことはすべて言わねばならないと思う。 と同時に、 南部人口の約3分の1を占めるこの人たちの歴史の複雑さを認めざるを得ない。 筆者は、この中で、 人種差と一言で片付けてしまう非現実的で単純な考えについて、また、南部黒人史の幾つかの側面についても述べてみたい。

 人種差別の時代、南部社会についての論議には 「 南部 」 と 「 黒ん坊 」 という二つの言葉が含まれたが、 この両範疇が重なり会う事は無かった。 「 南部 」 とは白人を意味したし 「 黒ん坊 」 とは黒人の事だった。  これらの二つの単語は常に単数形で、言外に意味を含ませて用いられた。  「 南部 」 という言葉は、かつて先祖が奴隷を ( 沢山 ) 持ち、南軍を心底から支持したエリート白人たちに、 この地方の政治形態や経済や有力な団体などを加えたもの全体を指していた。  人種的特徴として経済的な ( また道徳的な ) 「 貧困 」 が加味されざるを得なかった貧困化した未教育の白人大衆を指すものではなかった。  また、南北戦争で北部を支持した白人や、その後の時代に人種差別を嫌ったりそれに反抗したりした白人も含まれない。

 あたかも経済的な意味において対称的なバランスを取るかのように 「 黒ん坊 」 と言う言葉の方は貧困、田舎、 未教育と言った意味を言外に含んでいる。 これに該当しない黒人については、 「 中流の 」 とか 「 教育のある 」 とかいう、ある種の修飾語を人種を表す言葉の前につける必要があった。  このような暗黙の約束事の下で、 影響力の大きかったジョン・クロウ・ランサム ( John Crowe Ransom ) の1930年の選集の中の最も主要なエッセイである 「 私は自分の立場を貫く:12人の南部人による南部と農業の伝統 」 の中で、南部白人の作家たちが彼等の地域を分析し、 次のように言っている。 「 南部は、ヨーロッパ的な原理に添った文化の上に築かれ、またその文化の純潔をを守ってきたという点で、 米大陸の中ではユニークである。 そしてこのヨーロッパ的原理がこの米国に実現されるべきであるというなら、 南部にとってそれはとても相応しいものなのだと言いたい 」。 「 ヨーロッパ的原理 」 という言葉で、ランサムは、のどかな安定は良いものだと言いたかったのだが、 これは虐げられていない人の観点から意味の有る言い方に過ぎない。  多くの人によって未だに真実だとして読まれているウィルバー・J・キャッシュ ( Wilber J.Cash ) の1941年の古典 「 南部の精神 」 でも、 「 南部 」 を 「 黒ん坊 」 とは対立するものとして述べている。

 このような言葉遣いをすると、階級を人種と同一視するので、南部社会の分析がかなり単純化される。  ただし、キャッシュは、彼の 「 南部 」 という範疇に2階級の白人がいると述べていて、 これが彼の文章の持続的魅力を説明するのに役立っている。  経済的に抑圧された白人というものを定義し、彼等を社会から除き、つまり、彼等を消し去る事によって、 生粋の南部白人たちは、人の心に訴えるような南部社会の様式化された構造を何とかして構築しようとしたのだった。  古き良き南部を描いた一連の百万ドル映画、たとえば 「 バース・オブ・ネイション 」 や 「 風と共に去りぬ 」 などは、 彼等のような人たちと彼等の召使達とだけから構成されている社会を支配した、あのプランテーション支配階級たちを称えるものであった。  だが通俗文化における作り上げられた南部がどれほど魅惑的なものであったとしても、現実はもっと苛酷で複雑なものだった。
           
人種差別と階級的圧制

 18世紀から20世紀の大部分にかけて、教育を受けた南部人の圧倒的多数は白人であったが、 彼等は社会のトップに座って甘い汁を吸い、一方、労働者は奴隷にされるか、 さもなければ人種差別主義者の伝統的やり方と低賃金とによって経済的に足枷をはめられてしまうかであった。  この様な社会においては、貧乏人たちに政治権力、特に官公職を分けてやる事など殆ど不必要とされた。  不必要なものはすべて取り去ってしまうというそのようなシステムは、米国の特質とも言える民主主義の原則に違反するものである。  だが、人種差別こそが、殆どの米国人に南部における民主主義不在を認めさせたばかりか、それを魅力的にすら思わせたのであった。

 このような状況について考えてみた人なら誰もが実感したように、 奴隷にされた労働階級にとっては米国の理想である経済的易動性*57 など不可能になっていたのではあるが、 人種問題は米国における通常の階級的圧制を正当化し覆い隠してしまったのであった。 人種差別はアフリカ系の米国人を政治から、 否、社会からさえ閉め出した。 1857年のドレッド・スコット ( Dred Scott ) に対する判決*58 により、 1830年代から国全体に勢いを得ていた考えが一般化され、黒人は奴隷であろうと解放されていようと、市民たり得ないと決められた。

 ある一つの人種に市民権を与えないということが、最貧困層をうまく黙らせる事にもなっていたことに気付いた米国人は殆どいなかった。  過去において、また今日、殆どすべての黒人は肉体労働で働いており、集団としてはこの国の最も貧しい人々である。  人種の違いがあるのだから経済的政治的不平等は当然だという考えは、かたくなに続いて来た。 南部人として、また米国人として、 我々は未だに気軽に人種上の差を口にする一方では、経済的な階級差の問題では躓いているのである。

 階級差に目を向けず人種差で物事を考えることにより、 南部人たちは労働問題と階級衝突とについての議論を歪めてしまった ( 未だに歪めている )。  問題を雇用者と被雇用者という言葉で捕らえる代わりに、南部人達は人種問題という、靄の中に霞んだような論議に没頭したが、 その中では、理不尽にも、人種の特質の差は到底解消しないだろうとされる事が多かった。  人種問題については殆どどんな事でも語ろうと思えば語れたし、信じようと思えば信じられた。  教育のある白人はすべてスラリとして優雅で、乗馬が巧みで、天性のリーダーであると見なされた。  「 黒ん坊 」 と十把ひとからげに語るとき、南部のエリートたちは南北戦争前なら、 奴隷労働者たちは無給で働くのが幸せなのだと主張することすら出来た。 戦争後は奴隷解放の結果南部の労働者階級の多くが姿を消した。  20世紀初頭には黒人が白人女性をレイプするのは彼等の人種的特性だとされ、 1950年代には大多数の南部人達は黒人は黒人であるがゆえに彼等に通常の市民権を与えたくないと主張した。  人種差別は、他の人種についてそういう事を言ったとしたら馬鹿馬鹿しいと言われるような事なのに、 黒人に向かってはこのように一般化され、しかもそれが信ずべき事であると思われたのである。

 人種差別の時代には、どんな議論の際にでも人種問題を持ち出すと南部の白人たちは頑強な拒絶反応を示した。  と言うのは、彼等は南部労働者階級の大部分に対し行なっていた移住禁止と抑圧について正当化するという、異常な ( しばしば無意識的な ) 精神的体操をしていたからである。 白人至上権主義者たちは南部では広範な聴衆をひきつけ、 聴衆は滅多に彼等の幻想に反論しなかった。 彼等の話の中には性に関することがしばしば含まれていた。  すなわち、黒人の女達に対する白人の男達の性的乱暴は無視する一方で、白人種の純血性保持を主張した。  また、白人と黒人との結婚による選挙権の混乱を恐れたし、黒人の女には婦人の美徳が欠如していると勝手に烙印を押し、 黒人男性による自治や彼等の性欲に対してヒステリックになっていた。 人種差別はまたグロテスクな固定観念を造り上げ、 これが白人を喜ばせ黒人の自尊心を傷付けた----この事は南部に限ったことではなかった。  マミー ( Mammy ) *59、サンボ ( Sambo ) *60 、サファイァ ( Sapphire )、 ジップクーン ( Zip Coon ) *61 或いはその他の言い方が、米国の通俗文化の中で1世紀以上も盛んに行われてきた。

 黒人たちがこの様な格下げを黙って受け入れたりしなかったことは言うまでもない。 彼等は名誉毀損、差別待遇、 リンチ*62 などに対し、その都度反対運動を行った。 たとえば、 1890年代に黒人たちはジャクソンヴィルやニューオリンズや他の都市での市電の新たな差別待遇をボイコットした。  メンフィス・フリー・スピーチ ( Menphis Free Speech ) 紙のアイダ・B・ウェルズ ( Ida B.Wells ) のようなジャーナリストたちは、 白人至上権主義者たちのリンチについての説明に抗議したが、その結果1890年代半ばに彼女の新聞社は破壊されてしまい、 彼女は北部に避難せざるを得なかった。  同様の運命が1906年の人種暴動の余波の中で、アトランタのジャーナリストJ・マックス・バーバー(J.Max Barber)を襲った。

 南部社会について正直に評価しようとすれば必ず 「 南部 」 と 「 黒ん坊 」 を分離したこの体系に抗議することから始めなくてはなるまい。  しかる後に、南部はずっと長いこと、人の上に人を作った*63 多人種社会であったということを認識せねばなるまい。  20世紀半ばの公民権運動の時代に至り、人種差別をこれ以上続けて行くことが恐ろしく高くつくようになるまでの人種問題の歴史と言ったら、 それはもう全くやり切れないと言った類いのものであった。
            
南の黒人の住む旧い国

 1865年の奴隷解放は ( 奴隷であった人達を自由にすることにより ) 人種問題の面で、また、 ( 文化における自主性が大きく拡がったことにより ) 黒人の文化の面で、偉大な分水嶺の役目を果たした。  厳格な人種差別の時代、すなわち19世紀後半と20世紀前半に、この二つのプロセスが進展していった。  人種差別は奴隷解放に対する抑圧的な回答であり、 黒人たちを従属的な状態に固定すると共に、1865年直後にあわや起こりそうになった黒人の移動を禁止するための手段でもあった。  人種差別とは、経済的、社会的、政治的な征服のための包括的なシステムであった。  「 隔離はするが平等である 」 という考え方*63Aは、 抑圧のための露骨なシステムに理論的根拠を与えようと考案された虚構以外の何物でもない。  人種差別により圧倒的多数が貧乏人だった黒人たちは、農業の未熟練作業や家事サービスの分野に割り当てられた。  黒人には法律の下での平等な保護は拒絶されたし、黒人が陪審員になることも出来なかった。  エリート白人の意思に逆らって投票をしようとしたり、期限を過ぎた貸金を払ってもらいたがったりした黒人は、 肉体的安全さえも脅かされた。 黒人の子供達は大部分は田舎に住んでいたが、彼等は給料の安い先生のいる荒れ果てた校舎の学校に、 何ケ月ではなく何週間というような短い学期だけ通わされるのだった。

 学校教育は町よりは田舎で手薄なのが常で、この手薄さは南部の黒人たちとっては殊更に酷いものだった。  1960年頃までは、南部黒人は南部白人よりも更に田舎に住んでいたので、田舎ということと貧困と人種差別とが組み合わさって、 黒人が正規の教育に接する機会は制限されていた。  1940年においては、南部黒人の49%が ( 白人は16% ) 5年未満の教育しか受けていなかった。  これが1960年までには32% ( 白人では10% ) となり、 統計数字の存在する最後の年1975年までには両人種とも5%以下となった。

 人種差別と教育の不足とで、南部黒人たちの職業選択は制限された。 労働力の大きな部分を婦人が占めていたので、 この制限はとくに厳しく影響した。 大恐慌の直前、 11才以上の黒人婦人の39%、黒人男性の80%が賃労働に従事していたのに対し、南部白人女性においては16%、 南部白人男性においては75%であった。 農業、林業、漁業、家事手伝いなどで働く大部分の南部黒人の場合、 両親たちは非常に低い賃金で、しかも子供達から相当離れた場所に仕事を見付けて働かねばならない事が多かった。  このような低賃金のパターンは今日でも続いており、一家で二人以上が働いている家族でもまだ貧しい生活なのである。  1985年になっても、南部のアフリカ系米国人の30%が貧困水準 *64以下の生活をしていた ( 南部白人家族では10%、 南部ヒスパニック家族では23% )。 1985年、全家族のうち、13%が貧困生活をしていた南部は、 米国の中で未だに最も貧しい地域であった。  南部の黒人家族の年収の中央値は15,800ドルであった ( 南部白人家族では27,100ドル、 南部ヒスパニック家族では19,000ドル )。 これに対し、 1985年の全米国人家族の年収の中央値は27,750ドルだった。  黒人たちはまだ、米国中で一番貧しい地方の一番貧しいグループなのである。

 非常に重要な二つの移住が南部黒人の文化を変えた。 その一つは大部分が南部人からなる人たちが、 米国北東部、中西部、そして少数だが西部に向かって移動し始めたときに起こった。  1870年から1910年にかけては、ほぼ50万人もの南部黒人が南部を後にしたけれども、 それでも1910年にはアフリカ系米国人の90%以上がまだ南部諸州に住んでいた。  この人口移動は20世紀に入ると勢いを得て、1970年まで続いた。 1980年になると、 全黒人の53%しか南部に住んでいなくなり、彼等の文化は南部からの離散者の漂着地、たとえばセントルイス、 シカゴ、オークランド、ハーレム、さらにはミネアポリスにまで根付いたのである。

 この広範な人口移動は、これら南部黒人流出者たちが経済的機会を求めて、また、 社会的経済的抑圧から逃れるために、移民のように移っていったという点で、アジア人、ラテンアメリカ人、 ヨーロッパ人などの米国への移民の場合と似ている。  しかし南部黒人が経験したことと上記の移民たちが経験したこととの間には、はっきりした相違が一つ有る。  後者は米国を未来のしあわせを約束する幸福の地だと考えていたし、後にしてきた国境の向こうは悪い旧い国だと見ていた。  しかしアフリカ系米国人たちにとって米国は----少なくともその一部は----彼等が逃げ出さなくてはならないほどの抑圧を行う国だったのだ。  機会を与えてくれるはずの国で酷い目に遭ったので、多くのアフリカ系米国人たちの愛国心は中途半端なものとなり、 それが彼等と旧き国南部との間柄をややこしくしているのだ。

 このような広範囲な地域間移動と時を同じくして、もう一つの南部黒人の移動が起った。  これはこの評論において非常に重要な意味を持つものである。 即ち、田舎に住んでいた黒人が町に移っていったのである。  1890年には、アフリカ系米国人の80%が田舎に住んでいたのに対し、1970年までには南部黒人人口のたった19%しか田舎に住まない ( これに対し南部白人の内28%が田舎に住む ) までになった。 1890年代と人種差別の時代 *65の終期との間の田舎から都市部への移動は、黒人の宗教と音楽に対し大きな影響を与えた。
           
南部黒人音楽の現実の姿

 南部社会について一般的に言えることで、白人と黒人の一方に当てはまり他方には当てはまらないという事など、ほとんど無い。  1890年代にホーリネス ( Holiness ) 教会 ( 或いはホーリ・ローラ ( Holy Roller ) とかペンテコスタル ( Pentecostal ) 教会とも言う) を作ったサンクティファイド ( Sanctified ) 運動も、その例外ではない。 サンクティファイド教会は、 あたかも黒人の教会音楽やブルースを流布させたラジオや蓄音機が肌の色を選ばなかったように、 白人たちの間にも黒人たちの間にも伸びていった。 ( しかし、この評論は南部の黒人の歴史であって南部人全部の歴史ではない。  また20世紀の南部の宗教全体の素晴らしい物語をここで述べているわけにはいかない )   南部黒人による新しい宗教的および非宗教的音楽は、特にラジオと蓄音機が普及した後は、 黒人たちばかりでなく白人たちにもたちまち影響を与えた。  20世紀中葉の黒人音楽の二つの基本型----ブルース*66 とゴスペル*67 ----とは、19世紀に宗教*68 から発生したものである。

 南北戦争前の時代には、奴隷だった黒人たちの大部分は、ご主人さまと一緒に礼拝に行くか、キリスト教徒でないかのどちらかだった。  奴隷解放の後は、自由になった黒人たちは彼等自身の教会を作った。  その多くはメソジスト派かバプチスト派で、アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会とか、 北部メソジスト・エピスコパル教会のような、北部の教会から来た黒人や白人の宣教師の活動の結果生まれたものである。  一方、南部バプチスト評議会*100からは多くの黒人バプチストが分離して行き、母体が危うくなった。  個々の教会は黒人たちにアフリカ系アメリカ人のやり方に沿った礼拝を創り出す事を許した。

 19世紀には黒人の教会では楽器を使用しなかった。  メソジストたちは英国でのメソジスト教会創設者であるジョン・ウェスレイ ( John Wesley ) の兄弟のチャールズ・ウェスレイ ( Charles Wesley ) が作ったり集めたりした歌を基にした賛美歌集で歌った。  本を使うことを好まなかったミッショナリーバプチスト派やプリミチヴバプチスト派 ( ファンダメンタリストを意味する ) の人たちは、 英国と米国の非英国国教徒と連帯した18世紀の英国の先駆者的賛美歌作者アイザック・ワッツ ( Isaac Watts ) の流れを汲む長い韻律*69 の賛美歌を、 説教者が1行歌うごとに後に続いて歌うというやり方を好んだ。  このスタイルの歌い方は、田舎の生活に深く根をおろし、単に 「 ドクター・ワッツ 」 ( Dr.Watts ) と呼ばれた。  普通はゆっくりと静かに始まり、装飾音をつけて速い強い音に向かって盛り上がって行く。  その間参会者は手拍子を叩いたり両手の指をグッと組み合わせたりする。 ドクター・ワッツ唱法は、 アフリカ系アメリカ人式の喉を一杯に開けたり、鼻声を出したり、裏声を出したり、果ては怒鳴り声や呻き声を出したりする、 非常に特徴あるスタイルのものである。 このスタイルが、南部黒人のキリスト教の新しい形式の中に持ち込まれた。

 1890年代から20世紀にかけてのホーリネス教会は、他の教会よりずっと会衆中心で*70 、音楽や踊りを多用した。  ホーリネス教会すなわちサンクティファイド教会では、ピアノ、タンバリン、ドラムに始まり、年々さらに念入りな器楽化を進めていった。  ホーリネス派の礼拝の最も驚くべき点は、そのリズムの強さと会衆たちの魂の奪われ方であり、 これは 「 絶叫 」 とか 「 至福感 」 という言葉で知られている。 1920−30年代にはこの新しいゴスペルソングは、 最も著名な作家兼演奏家のトーマス・A・ドーシー ( Thomas A.Dorsey ) の名をとって 「 ドーシーズ 」 と呼ばれるに至った。  彼については後にまた触れることにしたい。

 教会に根ざしたこの音楽の迫力は、ドクターワッツや黒人霊歌というアフリカ系米国人の宗教的歌唱の旧い伝統が、リズムや、楽器や、 さらには仕事歌や畑での呼び声から発生したブルースに関連した、個人的現実をありのままに声に出して告白するやり方などと組み合わさって生まれたものである。  ( 4重唱を含む ) ゴスペル音楽*71 とブルース*72 とは、アフリカ系米国人の音楽に特徴的なある特性を共通に持っている。  最も顕著なのがリズムの特徴と複雑さである。 ブルースとゴスペル音楽とは、共に、3度、5度、7度、時には6度の音を少し下げる、 即ちシェードさせて変化をつけた特色ある音階を用いる。 これらは 「 ブルー 」 音符*72 とか 「 ベント 」 音色とか言われるものである。  ブルースは12小節が単位で最初の単位は繰り返されるが、これは黒人ゴスペル音楽にもみられる形である。  ここに12小節のブルース形式の例を二つあげる。

  私は一文無しで腹ぺこ、   ぼろをまといおまけに汚い。
  私は一文無しで腹ぺこ、   ぼろをまといおまけに汚い。
  ママもし私が綺麗になったら 一緒に家へ連れてってくれる?

 Jerry Silverman:One Hundred and Ten American Folk Blues ( New York,1958 ),214-15

  お前のベッドをもっと高くしなさい*73  ランプを暗くしなさい。
  お前のベッドをもっと高くしなさい   ランプを暗くしなさい。
  しっかり抱き締めキスしてあげよう   もうここには来てあげられないもの。

 Tilford Brooks:America's Black Musical Heritage ( Englewood Cliffs,N.J.,1984 ) 55

 アフリカ系米国人の音楽は耳から入るだけの自然発生的なものだから、譜面に書かれた形では書きとめられない一回かぎりしか聴けないものである。  ブルースやゴスペル音楽は ( 白人のゴスペル音楽やカントリーミュージック同様 ) 歌い手が即興的かつ真剣に見える演技で聴衆を巻き込もうと努める感情的表現形式である。  黒人の歌手はその音楽の感情的迫力を高めようと、裏声を使い、ある部分は語りにし、また、怒鳴ったり呻いたり叫んだりして、 彼等の歌詞の中身が一層真に迫って感じられるように努めるのであった。 飾り立てたテクニックを使うことにより、 演奏者とその演奏は、だれでも知っている歌をユニークな変種に作り替えた。  このような顕微鏡的なスケールでの精緻化が続くのと平行して、宗教的および世俗的音楽において長期的には楽器の使用が進んだ。  19世紀においては仕事歌も霊歌も伴奏がなかったのに、 20世紀のブルースやゴスペル音楽では楽器の支援をますます大幅に取り込んでいった。 しかしバンドがどんなに精緻を極めたとしても、 人間の声が最も大切な音であることに変わりはなかった。

 ブルースやゴスペル音楽の分野で発明を繰り返した無数の歌手やピッカー ( picker ) *74たちにとって、 南部の黒人の文化が創造の源泉であったことに変わりはない。 これらの音楽家の圧倒的多数は、 人種差別のベールの陰で埋もれたまま生き、死んでいったので、 彼等自身の活躍の場から遠く離れたところで有名になることなどほとんど無かった。  しかし、旅をしたりレコードを作ったりしたプロたちは、広範な名声を得た。  このひとにぎりの素晴らしい演奏家たちは何世代にもわたる霊感に溢れた多くの無名の詩人たちを代表しているに違いない。

 W・C・ハンディ ( W.C.Handy ) とブルース歌手のパイオニアのガートルード・マ・レイニー ( Gertrude "Ma" Rainey ) とは、 二人とも20世紀の最初の数年に初めてブルースに出会ったのだった。 マ・レイニーはジョージャ州コロンバスの生まれで、 最初の大物ブルース歌手となった人であるが、1902年まではブルースを見つけるに至らなかった。  この年、彼女はある若い女性歌手が彼女の男を失ったことについての歌を歌っているのを耳にした。  レイニーはこの痛切な響きのスタイルを取り入れ、1920年代の古典的ブルース歌手としての彼女の地位を不動のものにした。

訳者注

*54  ここでは the Negro という単語が用いられている。   Black と言う語がかつて持っていた軽蔑的なニュアンスは、今は殆ど無くなり、普通に黒人を指す言葉として用いられている。  一方、Negro は、米国では差別語だから普段は使わない。 最近はアフリカ系米国人 ( African American ) という言い方がよいとされるようだ。  ここでは、括弧つきでこの差別的な呼びかたをわざとしているので 「 黒ん坊 」 と訳した。  同じ様にここでは 「 南部 」 も "the South" と括弧付きで書かれている。  これも、この章においては単なる地理的な南部地域の事ではなく、以下に説明されるように、 金持ちの白人支配階級そのものを指すと言葉である。
*55  この章では rhetoric と言う単語が何回か出てくる。 「 歴史的背景のある差別語のような微妙な言い回し・用語・表現法 」 とでも訳すべき意味をこの章では持っている。  訳者個人としては、euphemism という単語の方がここでは適切かもしれないと思う。  いずれにしても長すぎるので辞書には普通 「 修辞学 」 と言う訳が出ているが、ここでは 「 言い回し 」 と訳した
*56  ある人が白人か黒人かを、混血度などにより自分或いは他人が決める事
*57  自分の才能と努力で誰でも下層から上層に上がって行ける状況
*58  スコット ( 1795?-1858 )は黒人奴隷。奴隷制度のない北部にかつて主人と住んだという理由で自由を求める訴訟を起したものの、 連邦最高裁により拒否された。 その理由は、奴隷は市民ではなく、従って連邦裁判所に訴訟を起す権利は無いというものであった
*59  黒人の子守女
*60  チビ黒サンボという物語にもあるように、これも黒人を呼ぶあだ名
*61  これら二つも黒ん坊と言う呼び方の一種
*62  前の章の第5図にも出ているリンチとは一般的な私刑の事でなく、白人 ( KKK ) による主に黒人に対するリンチの事である
*63  これは divided against itself と言うフレーズの意訳である。このフレーズは、 A.Lincoln の有名な言葉 "The nation that is divided against itself cannot survive." から著者が採った表現と思われる
*63A 例えば小学校は白人用と黒人用それぞれが有れば白黒別学でも平等と言えると言う考え
*64 家族数と全家族の年収合計により定義されたあるレベル以下を言う。 1993年には4人家族で家族全員の収入合計が年間13,924ドル未満を貧困と定義している
*65 本章冒頭にあるように、1890年代から1970年代初頭までの時期
*66 ブルース、*67 ゴスペルの二つの音楽については後に詳しく説明される
*68 ここに出てくる宗教という言葉は、すべて南部のプロテスタントキリスト教だけを指す
*69 一小節の中にたくさんの言葉が含まれる事を言っている
*70  他の教会では賛美歌は一人の人により歌われ、他の信者はそれを聴く形式をとるものが多かったのに対し、 この教会では多くの会衆が共に歌った
*71  1920年代から本文中にあるような宗派の米国黒人教会で歌われはじめた福音唱歌。 黒人霊歌とジャズとの結合から生まれ、強烈なジャズリズムをもって作曲される。 1940年代以降、レコード化され、一般にもポピュラーヴォーカルとして広まった
*72  ブルースは4小節3段の12小節形式が最も一般。第1段が訴えの提起、第2段はその繰り返し、第3段で結ばれる。 メロディは3度 ( ミ) 5度 ( ソ ) 7度 ( シ ) の音がナチュラルで用いられるだけでなく、 半音近くもフラットされる事があるのが特徴で、この故意に下げた音程をブルーノート ( 音符 ) と呼び、独特の哀愁感を出す。 ハーモニーは I−IV−I−V−I の順で進行する
*73 ベッドを高くするのは少しでも天国に近くするためで、この歌詞は死にかけている人に死の準備をしている様子と思われる
*74 マンドリンやバンジョーを爪弾く演奏者

             

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