南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第一章  歴史的に特別な地域 ( 前半 )


* ポール・D・エスコット *


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 南部人といっても、他所の人達とそう変わっているわけではないが、その地域と歴史とが彼等を別の人たちにしてしまった事も確かである。  南部は米国の他の地域とは異なった歴史と経験を持ち続けて来たので、そこで生まれた地域文化もまた異なっているのである。

 誰でも南部の暑い気候や、奴隷制度や、南軍に属していたことは知っているし、 この地方で綿花や農業が歴史的に重要だったことも多分知っていよう。 南部の生活態度に影響を与えたと思われる他の特異性として、 定住の仕方やその社会一般がかたくなに田舎的性格を持ち続けた事も挙げられよう。  また、19世紀から20世紀初頭にかけての大きな移民流入の波が南部をよけて通ったという事も明らかに証明されている。

 南部を特徴づけている個々の要素の多くは、南部特有の物とは言えない。  ( 小さな町や田舎の農業地域社会は米国中どこでも共通の様相を持っている )  一方、南部の中にも違いはあり、どこへ行っても同じと言うわけではない。  とは言え、南部の特殊な体験と性格とが結合して南部を他の米国地域とは違うものにしてしまった事も事実であり、 南部の歴史の特殊な様相を念頭に置く事により、読者はこの地方をより良く理解できるだろう。
              
田舎社会

 南部は常に田舎であった。 今日でさえ田舎の特徴は強く残っている。 土着の南部人は、 その特殊な地域性に深く根を下ろし近所に住む家族や親類と密接につながっている田舎の人である。  このことで南部の色々な社会的関係の性格をよく説明出来る。  例えば南部人の多くは、たとえよそ者や社会的地位の違う人に対してでも、 他人に向って冷たく人間味の無い態度を取ることは苦手である。

 南部のこの田舎的性格は、最初のヨーロッパからの移住者が、ヴァージニアでタバコの栽培者やその労働者として、 チェサピーク湾の海岸線や入江に沿って、彼等の作物に水路運送の便利さを利用しようと展開して行くにつれて形成された。  その時以来、歴史的、経済的な力の殆どは、人口を集中させるよりは分散させるように働いた。  米や他のプランテーション *4 作物から得られた富は農場主たちを大規模経営に向かわせ、 更に1793年以後は、イーライ・ホイットニ ( Eli Whitney ) の綿繰機が綿花ブームを呼んで、 これがメキシコ湾沿いの各州全体にプランテーション経済を展開させた。

 というわけで、南部人は白人も黒人も、自由人であるか束縛された労務者であるか、或いは農場主であるか小作人であるかによらず、 ほとんどが農業に従事していた。 奴隷制度の南部とは言え、殆どの白人は奴隷所有者ではなく、開拓最前線に住みたがる人たちか、 田舎の生活条件に完全に適応したがる人達かであった。 「 ヨーマン農民 」 ( Yeoman Farmers ) *5 と呼ばれた多くの自作農は、 後から入植者が来る度に、開拓した新らしい土地を引き払ってそれを彼等に売っては開拓の先遣隊と共に着実に西に進み続けた。  彼等は一個所に留まって 「 混み合って来る 」 のに耐えられず、「 他人の斧の音を聞くことを嫌った 」。

 一方、奴隷を持たず、古い地域に留まる事をよしとする人々は、両親や兄弟姉妹、親戚などの近所に住み着くことが多かった。  しかし、自分自身の農場を持ち、広々とした牧草地で家畜類を飼えるだけの土地を持ちたいという欲望があるので、 各人の住居はどうしても相互にかなり遠く離れてしまうのだった。

 加えて、19世紀の殆どの期間、更に西に行けば良質の広い土地が沢山手に入ったので、南部人たちは、 使い古した狭い農地にしがみついているよりは西へ移動し続けるのが普通だった。

 南北戦争の直前に南部がどれほど田舎だったかを、我々は忘れがちである。  1860年には、南部の諸都市のうち、由緒ある偉大な港町ニューオリンズだけが人口10万人以上だった。  チャールストンには僅か4万1千人しか住んでいなかった。 リッチモンドが3万8千、モービルが2万9千だった* 6 。  のちにニューヨーク市のセントラルパークの設計者として有名になったフレデリック・ロー・オルムステッド(Frederick Law Olmsted) は、 1850年代に南部を旅行してジョージャ州からアラバマ州に入った時、「 僅かな侘しい村と孤立した綿畑しかない起伏の多い荒れ地 」 ばかりを見たと記している。

 ヴァージニア州の東部においてすら、 彼は 「 何時間も何時間も果てしなく続く覆い被さり包み込むような森を通って馬に乗って行かざるを得ない。  道と言っても、馬車の通行を妨げる倒木を取り除く以外に労力をかつて費やした事など無いだろうというような代物で、 時には何日も何日も旅を続けても、一つの人家から他の人家が目に入る距離にあったためしがなかった 」 と報告している。

 オルムステッドの南部旅行は他の点でも教える所が多い。 この聡明な人が何度も道を教えて貰ったにもかかわらず、 毎回道に迷ったと言う。 南部人が彼に与えた案内なるものがこの困難の原因だった。  彼等は些細なことまで細かく教え過ぎたのである。 小川を通って或る倒木の所に行き、古い小屋の前を通って、 校舎の向かい側にある門をくぐり、大きな岩を乗り越えて、などと言う教え方である。

   そういう案内の仕方は特定の場所についての詳細な知識に基ずくもので、そこの住民にはすっかり身についた事ではあっても、 オルムステッドが把握しきれるものではなかった。 よそ者の彼は、初めて見る風景のすべての様相を見分けることなど出来っこないし、 一方彼と話した南部人たちは自分の手のひらのように彼等の田舎の辺りの様子を知っていたのだ。

 南部人の特徴として、地元の人々すべてについて沢山の知識を持っているという点があげられる。 田舎とか小さな町とかでは、 多くの人が近所の白人や黒人の家族の系譜を覚えているし、また、だれそれはどこの家のお祖母さんと結婚したのだとか、 あの似ていない二人は実は親戚なのだとか説明できる。

 セオドア・ローゼンガーテン ( Theodore Rosengarten ) 著のオール・ゴッズ・デインジャーズ ( All God's Dangers ) *6A という、 1885年に生まれ1960年代まで生きたある黒人の分益小作人* 7 についての大変面白い口述伝記の受賞作品があるが、 これなどは上記の南部人の特性をはっきりと表している。 この物語では新しい人物が一人登場するたびに、 短いが時として複雑な系譜研究が行われる。 こう脇道に逸れられると、 現在この本を読む若い都会の学生などは、白人か黒人かにかかわらず、困ってしまうが、この脇道こそ、 南部人が彼等の地元とそこに住む人々に対して伝統的に持ち続けてきた、個人に関する精通した知識を示すものである。

 今日の南部でも、こういった個人重視主義の習慣が、非常にはっきりと尾を引いている。  例えば、ノースカロライナ州最大の都市シャーロットで最近商工会議所が新しい小企業の経営者向けに一連の講習会を開いた。  その目的は、彼等が新しい顧客を生み出す方法を見付けるのを援助しようというもので、 助言のほとんどは、その地域でどうやって人に会い知己になるかということに関するものだった。

 或る質問に答えてその商工会議所のスポークスマンは問題の核心に切り込んでこう説明した。  「 南部の人たちは自分が知らない人とは商売をしようとしない 」 と。  この言葉は一人の意欲的なビジネスウーマンにとって、或る程度の慰めとなった。 というのは、彼女はそれまで広範に宣伝広告し、 また第一級の信任状を持っていたにもかかわらず、ほとんど顧客が付かなかったからである。

 なぜ宣伝広告もしない ( 自分のビルに社名も書かない ) 地元の競争相手が、捌き切れないほどの注文を取れるのかを、 この個人重視主義の重要さが良く説明してくれたのだ。

 友好的だがお近付きになりにくい地元の南部人に対して非南部人が抱く、名状しがたい感じを説明するには、 社交関係での個人重視主義と、南部地域社会の多くで見られる親密さとが役に立つだろう。  「 受け入れてもらうには長い時間かかるよ 」 と言われたら、その新参者は、密な編み目で出来たその地方の地域社会の一部には未だなれていないという事を示しているだけのことである。  或る人が真にその地域社会の一部となり、単にそこを通過しているだけの人ではないと証明されるのは、多くの場合時間の問題である。

 サウスカロライナ州のグリンヴィル市に店を構えた或る投資顧問は、最初の数年、生計を立てるのに非常に苦労した。  人々は友好的であったが彼に仕事を頼まなかった ( 結局、信頼感とか親近感を持てなければその人を投資顧問に選んだりできないという事であるろうか )。

 しかしやがて、この男の仕事は完全に好転した。  地元の客が一人か二人現れ、彼の指導のお陰で儲かると、彼等は友人をたくさん連れてきて、 ついにはこの若い男をして 「 南部の方々は非常に誠実で熱心に支援してくださる人達だと分かった 」 と言わせるに至った。  彼は地域社会の一員になれたのであった。
              
南部の歴史の重荷

 米国人は一般に歴史というものに重きを置かない。 それどころか、 米国は歴史の課した制約や制限に縛られないというのが国家の信条であった。 旧世界とは異なり、米国は新しいスタート、 無限の成功の機会、新しいより良い社会の創造などを象徴していた。  米国が、新しく作り直そうという精神と、限りない楽観主義とを持つということは、あまねく知れわたって来たことだった。

 ところが、南部ではそうではなかったのである。 南部の歴史家の長老C・ヴァン・ウッドワード ( C.Vann Woodward ) が指摘したように、 南部は、高まる期待を以てというよりは、苦悩、踏みにじられた希望、挫折といった旧世界の人と同様な感覚で、歴史を体験したのであった。  南部人は長年月染み付いた継続的貧困の中に生きてきたのだ。 歴史は、はっきりと不愉快で、 かつ、いつまでも困難が続くという形で、彼等の前に現れたのだった。

 南北戦争は南部黒人たちには自由という貴重なご褒美をもたらしたが、多くの白人にとっては大変な災難だった。  第二次大戦ほか事実上米国の参加した他のすべての戦争の犠牲者を合算した以上の数の米国人の命を奪ったこの争い*7A で、 南軍側は人口が北軍側の半分よりちょっと多いだけなのに、北軍側とほぼ同数の男性を失ったのである。 莫大な資産が破壊され失われたが、 それは奴隷所有者の資産に限ったことではなかった。  奴隷を持たない小農場主も、家畜が死んでしまったため、所有物の多くを失ったのである。

 だが、南部白人の心の在りようにとってもっと重大な事は、この米国最大の戦争での敗者という、 南軍側に着せられた消えることなき汚名であった。 勝った側には正しかったという御墨付きが出るので、北部人の多くは、 南北戦争の結末は、米国北部の方が活性があり進歩的であったし、一方、 南部は遅れていて非民主的社会組織だったためだと心底確信するようになった。  こういう次第で、この戦争の結末は、南部の白人の心の中にその後何世代にもわたり、 南部について実際以上に悪いイメージを抱かせることになった。

 もし読者が南北戦争の話に熱中する南部白人や、この戦争の事を冗談半分にでも 「 the Warrh 」* 8 とか、 「 諸州間の戦争 」 *8A とか、「 北部からの侵略戦争 」 とか表現する南部白人に出会っても、驚いてはいけない。  米国民は南部白人たちが合衆国から脱退し、そして戦争を起して負けたという過ちに対して、 その後何世代にもわたって償いをさせたのだということを思い起こしていただきたい。

 あのリンドン・ジョンソン ( Lyndon Johnson ) 氏* 9 も、他の多くの南部政治家と同様、 悲劇 *10 が彼を大統領に昇格させてくれるまでは、大統領に選ばれるチャンスなど全く有り得ないと思っていたということを思い出して欲しい。  彼の言葉は訛っていたし、彼の知性は疑問視されていたし、彼の心の持ち方はおそらく嘆かわしいものだろう *11 とされていた。  南部以外の米国民は、南部人を劣った非難さるべき人達だと見くだしていたし、南部の人たちもその事を知っていた。

 ジミー・カーター ( Jimmy Carter ) 氏 *12 が大統領に当選した事で、障壁の一つが崩れ落ちたことが証明されたが、 彼が南部出身だったということは、必ずしも彼にとり有利なことではなかった。

 南部についての否定的な決まり文句の多くは、南北戦争後の何十年もの貧困と経済的停滞から生まれたものである。  しばしば南部人は、あの戦争が彼等を引きずり降ろし後退させ、今もなお挽回に努めざるを得ないのだと言って、 南部の貧困は戦争自体のせいだと主張したがるが、 今では我々は白人至上権主義 *13 や人種差別などを維持するコストなどの諸要因がずっと大きな役割を果たしていたことを知っている。

 南北戦争前の南部は、英国の紡績業者が米国南部の綿花を貪欲に欲しがった *13A お陰で、その富を、 偏って分布はしていたものの、急激に増やしていけたので、その事に安住していた。 英国はその当時は世界で最も工業化した国で、 紡績業はその花形だった。 毎年綿花への需要が余り急速に増えるので、南部の人はそれに追い付けない程で、 栽培者の数が増え続けるのにつれて、プランテーション経営者たちの資産は着実に蓄積されていった。

 しかし、南北戦争とほぼ同じ頃、英国の紡績業は繊維製品の主要世界市場にすべて進出し尽くしてしまい、 その後米国の南北戦争後の時代になると、綿花への需要の増えかたはずっと緩やかとなった。  南北戦争後、南部の人々はエジプトやインドの農場主との競争に苦労したが、 世界の綿花生産における支配的な地位を取り戻すことは出来た。

 彼等はかつて無かったほどの多量の綿花を生産し始めたが、 供給が需要を上回ったので、彼等の生産性の勝利も今やただ値下がりをもたらすに過ぎなかった。

 さらに悪いことには、南部の農場主たちは、クロップリーン ( crop-lien ) というシステムのために、 成長を続ける綿花の専業になってしまった。  このやり方と言うのは、ファーニシング商人 ( furnishing merchant ) と言う商人たちが、 農民に必要な食料や生活必需品などをまだ彼等の作物が成長中に前渡しし、 そのかわりに収穫時には買い付けの優先権を得るというものである。

 貸し付けの取り立てを確実にしたいので、商人は、 幾らの金になるか予想の出来る作物である綿花を作るよう、農民たちに要求するのが常だった。  南部の農業は長い不景気に入ったが、ほとんどの南部人は農民だったので、この地方の経済全般も不景気が続いた。  1938年にフランクリン・ルーズヴェルト ( Franklin D.Roosevelt ) 大統領 *230 が、米国の経済の問題点の 「 ナンバーワン 」 は南部だと声明したが、南部経済の転換は第二次大戦まで遂に起こらなかった。

 アトランタの新聞編集者ヘンリー・グレイディ ( Henry Grady ) ほかの人たちが、 1870年代から1880年代にかけて声を大にして叫んだ 「 新しい南部 」 すなわち工業と紡績工場の南部では何が起きていたのだろうか。  「 新しい南部 」 は実際に在ったのである。 19世紀末以降、南部でも米国の他の地方と同程度に工業が急速に成長した。  しかしそのインパクトは次の三つの理由により限定的なものであった。

 すなわち第一に、南部の工業は元が非常に小さいところにその上に造られたので、 成長速度が早かったとは言っても累積のサイズとしては長いこと小さいままだった。

   第二に、黒人の労働者は繊維産業からは全く締め出されていたし、 他の発展中の工業に働く機会にもほとんど恵まれなかった。

 第三に、南部の人口の自然増加の速度が非常に大きかった。  事実、今世紀全体を通して、南部は、成長を続ける米国の他の地方に、沢山の人間を輸出したのだった。  というわけで、いつまでも農業にベッタリ依存し人口を増やし続けるこの人々を、 「 新しい南部 」 の工業が変貌させるには至らなかったのである。

 こういう経済の力が今日の南部をどう形造ったのだろう。 一つには、貧困を種にして、多くの否定的な決まり文句が作られた。  南部の人たちは彼等の制度や施設の質についての批判に対し生まれつき敏感である。  読者は批判する前に、南部の人たちが長いこと貧困と格闘して来た点、まだまだやるべきことが一杯ある点などを思い起こしてほしい。

 南部諸州の多くは、教育や他の公共の事業に使う金の順位でいうと、米国各州の中でビリのほうである。  米国の州を課税対象額の順で並べても、南部諸州はやはりビリの方に来るだろう。  本書の第2章の筆者のジョン・シェルトン・リード ( John Shelton Reed ) もそうだが、 南部人の中には、南部の経済の歴史の重荷をなんとかして軽く背負おうと努めている人もいる。

 リードは十二指腸虫保存協会 *14に入っている。 これはこの絶滅しかかっている生物を北部人の侵攻から守るための奉仕グループである。  しかし実際は南部の貧しさが大変重荷になっている。 また、米国の中で最も貧しい州の一つミシシッピでは、 州全体にわたり幼稚園の制度が始まったのが、何と1983年なのである。 人種差別が制度設立の遅れを助長したことは疑いないとしても、 他の諸州に較べ、ミシシッピがこの制度をもっと早く設立しようとしたって、その負担は容易なことではなかった筈だ。

 最近カリフォルニア州から移ってきたあるノースカロライナ州の新住民が、 2車線しかない州道やハイウエイのみすぼらしい外観について話した。  これらのハイウエイは西部のフリーウエイとは較べものにならないが、 それでも他の南部の州が自慢する以上に舗装距離数は長いのである。

 ノースカロライナ州は比較的貧しい南部の州だが、州民のためこの面で多大の努力をして、 「 良い道の州 」 というタイトルを獲得したのである。 この様な事情が分かれば、 米国の他の地域よりも諸施設が小さく不十分で劣っていると判定されるのを南部人が何故好まないかが、容易に理解できよう。

 南部の経済が歴史的に弱いことは、この地方の好ましい暖かみのある特性の原因にもなっている。  南部の人たちは人間に対して多く時間をかける。 南部人の中では多忙で生産性の高い人たちですら会話を楽しむし、 どうすれば人に優しくなれるかを知っているように見える。

 南部人の多くは、自らが課した目標に向かってひたすら前進を続けるというかわりに、 じっくりとくつろいで人生の人間模様を観察する事を知っている。 どうやって実施するかだけでなく、 どうやって観察し、どうやって学ぶかも知っており、これは人間の知恵の一つの大切なかたちなのかも知れない。

 こういった能力は、経済不振の中でのいろいろな生活面の事情から派生してきたものであろう。  少なくとも彼等はそんな辛い生活を、内面的にもっと有意義なものに変えたのだ。  ウィリアム・フォークナー ( William Faulkner ) の小説ザ・ハムレット ( The Hamlet ) では、 「 話のヤマ 」 の多くは男達が村で只一つの店のポーチに座り、ゆっくりと話すことから成り立っている*15 。

 フォークナーの描く南部では、大したことは起っていない ( 一人ひとりが着実に借金にはまり込み農地を失う度に、 起った変化と言えば大抵悪い変化であった )。 結果として人々は人間ドラマ、 他の人々の行動や付き合い方をじっくり観察することを学んだのである。  彼等は、そう思ってみれば知覚の鋭いアマチュア社会学者である。 彼等はまた良質のストーリーを楽しむことや、 今の忙しい世の中では殆ど失われてしまっている会話の技といったものに喜びを見出だすことも学んだのであった。

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訳者注

*4 plantation とは本書では、米国南部地方に移民した白人が作った、黒人奴隷を主な労働力として綿花、米、タバコ、 蔗糖などを栽培した農場を指す。 白人の中でもプランテーション所有者は少数の富豪に限られ、 他の多くは貧しい自作農や小作人だった。

* 5 ヨーマン農民とは、当時の小地主、自作農を言う

* 6 New Orleans はミシシッピ河口にあるルイジアナ州最大の都市、Charleston はサウスカロライナ州の大西洋岸にある軍港・港湾都市、 Richmond はヴァージニア州の州都、Mobil はアラバマ州南西部の港湾都市

*6A 著者の人生に対し神が苦しみ、危険を多く与えたと言うのがこの題名の意味。  ファンダメタリスト ( キリスト教原理主義者 )*21 の教義では神は単に慈悲深いだけでなく、荒々しく厳しい事もある

* 7 分益小作人 ( sharecropper ) とは、収穫の一部を地代として払う小作農

*7A  戦死者数:南軍25万8千、北軍36万、合計61万8千に対し、独立戦争8千8百、第一次大戦11万5千、 第二次大戦31万8千、朝鮮戦争3万3千

* 8 the Warrh とは、the War ( 戦争 ) の南部訛の発音を字にしたもの

*8A 南部の人はCivil War ( 内戦 ) という代わりに the war between the states ( 諸州間の戦争 ) という事が多い

* 9 第36代米国大統領 ( 1908-1973 ) ジョンソン氏は南部のテキサス州出身

*10 ジョンソン氏はケネディ大統領が暗殺されたので副大統領から大統領になれた

*11 嘆かわしいとは南部的な遅れた非民主的な考え方の事

*12 カーター氏は第39代大統領 ( 1924- ) で南部のジョージャ州出身

*13 白人至上権主義 ( White supremacy ) については、第3章後半でこの後、数回詳しく説明される。*83 参照

*13A 米国は1840年代においてその綿花生産の60%強を輸出し、 綿布で世界市場を制圧していた英国の綿花総消費量の5分の4が米国南部から輸出されていた。

*14 のろまで役立たずの貧しい自分達南部人を、ジョークとして、北部という体に寄生した寄生虫にたとえた団体。  十二指腸虫は昔貧しい南部人たちを苦しめた病気でもあった。

*15 話のヤマは普通華々しいものなのにちっともそうでないので 「 」 が付いている


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