グリンウッドの思い出(3)

熊井 カホル

May. 12, 2001

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4.Sally O'Neill(サリー・オニール)さんとスープキッチンのこと

私の家の住所は、215 Lodge Grounds で、ゴルフ場の中にありました。 この subdivision を一回りすると、 おおよそ1マイル ( 1.6 キロ ) ありました。 米国では、ドアからドアへ車の生活ですから、意識的に歩かないと、 運動不足になってしまいます。 私は着いた翌日から、ここを歩き始めました。 私の家から500 メートル ほどの所に池があります。  あひるが沢山泳いでいました。 雄はきれいな羽をもっていますが、雌はとても地味な羽です。 池の周りを歩く度に、 女が派手な人間界とは反対の現象を、どこか腑におちない気持ちで見ていました。 けれど、或るとき雌が、 池の端の草むらで卵を抱えている姿を見て、ハタと気づきました。 雌は枯草の中に紛れこんでしまうような色でなくては、 外敵にやられてしまうのだなと。 この時以来、 雄の方が美しいという自然界一般の法則を素直に受け入れることが出来るようになりました。この池で、 すさまじい雌の獲得戦を見ることもしばしばでした。

日記をひもとくと、2月14日、ウォーキング中に初めて Sally さんに出会ったとあります。こちらのサリーさんは、 先述のサリーさんとは別人で、メリーランド州出身で 「 私はヤンキー ( 北部人 ) よ 」 と、 そのことに大変プライドをもっている、当時40歳ぐらいのちょっと小太りの女性です。

彼女は、この subdivision に初めてやって来た日本人 ( 私達のこと ) について、すでにいろいろと、情報を仕入れていたようでした。 お互いに自己紹介をしたあと何かと話かけてくれましたが、その時に理解できたことがらは 「 日本では、 猫を2匹飼っていたのでしょう? 」 「 息子さんと娘さんが一人ずついるのでしょう? 」 という2点だけでした。 けれど native の人と話せたことが嬉しくて、夫が帰るのを待ちかねて、報告しました。 翌日も池の周りを歩いていると、 今度は、Sally ( 私どもは先のサリーさんはサリーさん ヤンキーのサリーさんは Sally と、自然と呼びわけていました ) が、 友達を連れて歩いているのに出会いました。 その人の名は、Shery。 看護婦さんでした。 この二人は大変仲の良い友達どうしでした。

Sally が 「 ウォーキングをすると今度ここにやって来た日本人に会えるわよ 」 と、Shery を誘ったのでしょう。  Sally は本当に私の面倒をよくみてくれました。 Sally のことを語らずして私のアメリカ生活はありえなっかったというくらいでした。

Shery の英語はほとんどわかりませんでした。 私達が帰国することになった時、彼女はつくずく 「  Kay ( 私のニックネーム )  は、初めて会ったときには、英語がなんにもわからなかったね 」 と述懐していました。 Shery との思い出・・・・・・ わたしが Sally の家をたずねると、Shery が Sally の3番目のお嬢さんに算数を教えていました。  いきなり彼女が私に「 Kay、三角形の面積はどうやってだすのかしら 」 と尋ねるのです。

三角形の面積のことなど何十年も考えた事など無かったのですが、すらすらと出てきてほっとしました。 Shery が忘れてしまったので、 私にたずねたのだと、少し得意に思っていたのですが、実は、試されたのかもしれません。  今では日本でも大学生の学力低下が問題になっていますが、当時アメリカでは、大学を出ていても、小数、分数の掛け算、 割り算ができない、などということが言われていて、実に驚いていたわけです。 その様な状況のなかで、 日本人はどんなかなと思ったのかもしれません。

サウスカロライナ州では、特別に優秀な高校生は、州知事が特別に作った英才用の学校であるガヴァナズ・スクールに通い、 大学の先生から、高校のカリキュラムを超えたことがらをどんどん教わります。 ガヴァナズ・スクールは全寮制で理数系と、 芸術系の2クラスあり、夫々のクラスは50人ぐらいです。夫がこの学校を見学にゆきました。  そこでは、理数系の生徒の数人が、彼が大学2年で学んだ数学をすらすら解いていたので、びっくりしたそうです。  サウスカロライナに限らず、この国では、能力の有る生徒をどんどん伸ばしてゆく教育システムがあります。  これが、ノーベル賞級の学者を数多く出している鍵なのではないでしょうか。 高校は義務教育ですから、グリーンウッドでは、 高校は全入です。 ですから、生徒たちは、高校に入ってから、能力別に5クラスぐらいに、分けられます。

ここでは、一応、能力に応じた教育がなされるわけです。 しかしながら、当時高校生のドロップアウトは約30%といわれていました。  これは高校全入の弊害なのでしょうか。

当時のサウスカロライナ州全体の文盲率も、30%といわれていました。 文盲は黒人に多いのですが、これは、 彼等の先祖が奴隷として扱われていた頃、全く教育を受けることができなかったという、不幸な過去があったのですから、 止むを得ないことでしょう。このことが、結局、給料の良い仕事に就くのが難しく、貧困層が黒人に偏ってしまう原因になるようです。  こういうわけで、わたしのスープキッチン ( 後述 ) でのお相手はほとんど、黒人の方々でありました。けれども、グリーンウッドにも、 Literacy Council ( 文盲をなくすために、州政府が設置した無料の成人への英語教育の学校です ) がありました。

Sally は珍しく専業主婦で、当時この subdivision で専業主婦だったのは、多分 Sally と私だけだったでしょう。  アメリカでは仕事を持っていない女性は能力の無い人だと見なされるので、後に英語の先生に 「 仕事はなんですか? 」  と尋ねられる度に 「 私は、E2ヴイザでこちらに来ている外国人なので、仕事について収入を得てはいけないのです 」  と説明をしなければなりませんでした。

Sally は勿論マルチ能力の人です。 彼女は、多分家庭の事情で、働かなかったのだと思います。  そんな訳で、昼間、歩いて出会うのは、たいてい Sally でした。 Sally の旦那様は、Frank といい、 イタリア系企業の Pirelli 社でセールスの仕事をしていました。 彼の先祖は、アイルランド出身です。  彼等は、セントパトリックデーには、私どもを O'Neill 家に招いてくれました。 Sallyから 「 緑色の服を着てきてね 」  といわれ、慌てて緑のスカートを買いに走りました。 夫は緑のTシャツを着て O'Neill 家をたずねると、 彼女の家はあれもこれも緑で装われていました。

テーブルクロス、ナプキン等々、クッキーも緑に染められて出てきました。 レストランなどではこの日には、 ビールまで緑になってでてきます。 セントパトリックデイと緑のいわれは聞きそびれてしまいました。 彼女の家には、 何遍も招かれたので、何の時だかは覚えていませんが、一品持ちよりパーティの時でした。  わたしは小えびのフライを持って行きました。 これが大変好評でした。 私は、フライは洋食だと思っていましので、 これなら皆さんに抵抗感無く食べていただけると思ったのです。 しかし、しばらくして、ここの生活になれ、 あちこちで買い物をするようになっても、パン粉を売っている店を見つけることはできませんでした。

 またレストランでフライをたのんでも、から揚げの状態か、スパイシーな粉をまぶして揚げたものが出て来て、 パン粉で揚げたものが出てきたことは、ありませんでした。 私は、北部のことは、何も知りませんので、 このパン粉揚げについての情報は南部に限ることかもしれません。 ついでに一言・・・・・・私の知っている範囲のアメリカ人で、 揚げ物料理 ( デイープフライド ) をした事のある人は、一人きりです。 彼らは、揚げものは大好きですから、 一品持ちよりの時に揚げ物を持ってゆくのは、大変得策です。彼女は大変社交好きでお料理も得意でしたので、なにか、 事ある毎に、招いてくれました。

彼女は 「 何かボランテイアをしたい 」 という私の願いにすぐにこたえてくれました。大変に安い値段で衣料品を売っている店  ( 多分日本の生活保護を受けているような人が買いに来る ) の売り子とか、 病院で入院患者宛に来た手紙を配る仕事などを紹介してくれました。 しかし、私は、まだ英語がおぼつかない状態でしたので、 すでに Sally が、ボランテイアで働いている soup kitchen ( 英語の辞書によると貧者救済無料食堂とあります ) に、 仲間入りさせてもらうことにしました。 5月5日から、毎週水曜日にと決まりました。   最初の日は Sally が9時20分頃に私を pick up して Episcopal 教会まで連れて行ってくれました。  食堂は11時にオープンです。 それまでに、スープ、サンドイッチ、冷たい紅茶、デザートを用意します。

水曜日のメンバーは私を入れて全部で6名です。 スープを作るのはローズです。  彼女は70 歳は過ぎていると思われる品の良いおばあさん?で私達のグループの責任者の立場でした。  すこしばかりきついところもあって、ローズがお休みだとほっとしました。 サンドイッチを作りながら、 おしゃべりのピッチがあがってくると 「 静かに 」 と注意されてしまいましたから。

紅茶は、ミリアム ( 黒人のおばさん:向かって右 ) の仕事です。  Sally 以下4名はサンドイッチつくりとテーブルセッテイングです。  4名の紹介をいたしましょう。 Sally は先に申し上げたようにヤンキー、ここへ来る前までは、セントルイスに住んでいました。  Veraはブラジル人で、だんな様はやはり Pirelli 社勤務です。 もう一人はイタリアのミラノからやって来たイタリア人の Lucy  ( 向かって左 )。 ご主人は Pirelli 本社から来た技術者です。 そして私。

 Giorgio/Lucy Gasparini ご夫妻は私の命の恩人です。 後年、私がミラノで大病を患った時に、既にそこに戻っていて、 言葉では言い尽くせないほどのお世話になりました ( 右下写真:自宅に O'Neill 夫妻と Gasparini 夫妻を招待。  左から Giorgio、Sally、Frank、Lucy、私 )。 こんなわけで、水曜日のメンバーを Sally は  インターナショナルグループだといって、ちょっと自慢気でした。 ほかの日のメンバーはだいたい、 通っている教会毎にグループができていました。

サンドイッチの中身は、大きな缶詰めのビーフを直径60センチぐらいのボールに開け、マスタード、 刻んだピクルスと共にマヨネーズでよくまぜたものです。 おおよそ50人分ぐらい用意しました。  おかわり用にはピーナッツバターサンドイッチを用意します。 純粋なピーナッツバターは常温ではかたいので、 熱いお湯につけてゆるくし、これに蜂蜜とか、ジェロ ( 果物の香りのついたジェリー状のもの )、 缶詰めの果物を細かく刻んだもの、などを混ぜ合わせ、はさみます。

ちよっとおなかのすいた頃、この味見をするのが皆の楽しみでした。 アメリカ人は 「 ヤムヤム 」、 イタリア人は 「 ン、ンーン 」、私は 「 おいしい 」 と言葉がインターナショナルに飛びかいます。  Veraはその年の7月にはブラジルに帰ってしまいました。 Vera の言葉はポルトガル語で、わかりません。  Vera と Lucy はお互いに母国語でしゃべってもわかりあえていたようです。

7年余りのスープキッチンで一度もスープを作ることはなかったのですが、横からのぞいた様子から、 どんな風に作つていたかを書いてみましょう。 スープをお代わりする人がいますので、80人分ほどのスープをつくります。 ミリアム風スープ・・・・・・ローズおばさんは私が仲間入りして、2年後に、健康上の理由でやめ、 その後スープ作りの役目はミリアムになりました。 たまねぎを粗くきざんで、スープ鍋にいれ、水をいれて煮立たせます。  サンドイッチ用に開けたミート缶には、脂肪の部分が固まりになっている所があります。 この脂肪をスープに使います。

トマト缶、人参缶、いんげん缶など、たまねぎ以外の野菜はすべて、缶詰をつかいます。だしを作るためになまの肉あるいは、 ミート缶を使うこともありました。 これをことこと一時間半ちかく煮こみます。玉ねぎ以外の野菜がすべて缶詰なので、 味はいまいちだろうとたかをくくっていましたが、これが、なかなかの味に仕上がっているのです。  どこかのパーテイーのきちんとした残り物・・・・・・ローストチキンなどが大量に運ばれてくることがあります。そんな時には、 ミートの部分はサンドイッチに、骨付きの部分はスープストック用に使いました。

ピッツアは皆の大好物で、ピッツアハットなどから寄贈があると、皆大喜びで、お代わりが忙しく大変でした。  スープ皿、コップは、紙製、スプーンはプラスチック製、どれも使い捨てを使用しました。テーブルセッテイング・・・・・・ これはいつもわたしの仕事でした。 スープキッチンレストランには8人座れるテーブルが8つぐらいありました。  紙ナプキンとナプキンでくるんだスプーン ( むきだしのままのスプーンは使いません ) を用意し、 コップには氷を充分にいれ、アイスティーの準備もできました。 こういうものを50人分ほどならべて用意しておきます。

スープの良い香りが漂い、紅茶のかおりがたちこめると、そろそろ、準備完了です。 11時少し前に皆、輪をつくり手をつないで、 神様にお祈りをささげます。 たいていの場合、ボスがお祈りの言葉を捧げますが、時々ほかの人にまわってくることがあります。 内容は、こんなに豊かに食べ物を与えてくださることへの神への感謝、そして、もしだれかが病気だったり、 だれかの連れ合いが具合が悪かったりすると、早くよくなりますように、などという事がつけ加えられることもあります。

  或るとき 「 今日は日本語でいいから Kay がお祈りの言葉を言ってごらん 」( 私はグリンウッドでは、Kay と呼ばれていました )  といわれて、びっくりしてしまい、むにゃむにゃとそれらしい事をのべてごまかしました。  私以外の日本人がだれもいなくて本当によかった。 文章になっていなかったかもしれなかったのです。  「 私はクリスチャンではないから、こいう形のお祈りはしません 」 と断ればよかったのですね。 咄嗟に気づかなくて、 失敗でした。

さあ、ドアの外ではみんな待ちかねて列をつくっています。 どうやら、私が家で考えてきた心の準備はまちがっていたようです。  こいう所に来る人達はきっと、心に負い目をもっているにちがいないから、 その様な人達の心を傷つけないよう振る舞いましょうと考えてきたのです。 しかし、順繰りにテーブルについて行く人達は、 実に堂々としていて、これは、私達の当然の権利だという態度で負い目などと言うものは、なにも無いようでした。  そんな心の準備などしてきた自分がちょっと恥ずかしくなりました。

             
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グリンウッドの思い出(その4)に続く。
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米国サウスカロライナ州グリンウッドでの7年半の生活の思い出を、以前から少しずつ書きためていました。  最初はプリントにして親しい友人たちだけに読んでいただいていましたが、白黒のゼロックスプリントでは、 美しい写真が思うように伝わらないし、迷ったあげく、夫の勧めにっ乗って、勇気を出して載せてみることにしました。